弱さを押し隠して、容赦なく自分を殺した。
免罪符なんて燃やし尽くして誰もが私を責めるがいい。
黄金の炎がこの世界を灰に帰す迄。
● 蝶と口づけ EPISODE 12 ●
黒死葬送、剣の儀。
『刃送、破魂刀』
がそう宣言したものは、籠手に宿った黒玉から突出した剣だ。
幅広な上に身の丈が長い。
それが腕と一体化するように、手の甲を覆って伸びている。
本来ならばのような少女が扱えるわけもない、巨大な剣。
しかしその正体は神の結晶が創り出した光の刃だ。
おかげで重さも長さも気にならないのだろう、は本当に体の一部のようにその大剣を扱っていた。
それは形だけで例えるのならば刀剣の一種、カタールだ。
手と平行になった刀身。
拳を突き出すように前方に放てば、それだけで相手を刺し貫くことができるだろう。
けれどは刺すというよりは腕ごと振るって、斬り裂く攻撃を主としていた。
元が刃であり、それを収束させた武器だからだろうか。
は一気に距離を詰めてティキに斬りかかった。
身を低くして迫り、首を狙って手刀を跳ね上げる。
刃は空気を灼いて奔る。
黒い軌跡が残って、その攻撃をこの世に証拠付けていた。
というのも、あまりに素早くて動きがまったく見えなかったのだ。
ティキも驚いたように身を引いたが、シルクハットの鍔は真っ二つだ。
咄嗟にそれを脱いでに投げつける。
「何だ?やけに速いな……」
は彼の独り言に構わなかった。
飛んできたシルクハットごと、今度は右上からティキを斬りつける。
跳び出すその脚力は眼を見張るものがあり、もはや人間業ではない。
「もともとたいしたスピードだったが……」
ティキは言いながらティーズを集めて腕に纏わせる。
それでの鋭い一撃を防いだ。
衝撃が激しかったのか、少しだけ口の端を歪めたようだった。
「なるほど……。イノセンスに侵させ内に取り込むことで、肉体を強化したわけだ。脚力も腕力も桁違いだな、こりゃ」
組み合った途端には刃を弾いて後退する。
空中に高く跳んで、後方回転。
着地と同時にまた獲物を狩る獣のように飛び出してゆく。
しかし、今度はティキも大人しくそれを待ってはいなかった。
腕に纏った食人ゴーレムに命じる。
「ティーズ!」
が切り裂いたシルクハットはいまだに宙を舞っていた。
それを跡形もなく吹き飛ばして、漆黒の蝶の大群が襲い掛かってくる。
一定の距離まで迫れば爆ぜるように拡散し、を取り囲んだ。
毒々しい色彩に少女の姿は完全に覆いつくされた。
けれどそれも一瞬。
内から輝く黒が溢れ出し、蝶の群れを殲滅する。
それこそ手品のように消して見せたのだ。
後から後からやってくるティーズをは最後の一振りで、この世から葬り去った。
黒死葬送、星の儀。
『星葬』
黒い閃光が砕けるようにして散り、あれだけ居た蝶を一匹残らず駆逐した。
空間に飛んだ刃はすぐさま流星のようにの右手へと帰り、手刀へと形を戻す。
ティキは続けてティーズを放ったが、その度に『刃葬』が振りかざされ、そこから単体へと戻った刃がそれの破壊へと向った。
全てはの手の甲に光る黒玉から生み出されており、どれだけ刃を放とうとも、手刀自体が小さくなることはない。
ただ数が集まれば集まるほど、鋭さを増すようだった。
「食人ゴーレムに興味はない」
三度放たれたティーズが集結する前に、はその隙間を縫うようにしてティキに迫った。
彼女が通過した空間に存在した蝶は、すれ違いざまに破壊されたのだろう、はらりと溶けるようにして消える。
彼らを屠った刃はを追い、手刀を振り上げたところでその刀身へと戻った。
「敵はお前一人よ。“快楽のノア”」
「へぇ。オレだけに構ってほしいって?」
剣戟の音が重く響く。
腹の底から震えるようだ。
ティキは笑顔での刃を受けた。
集束させたティーズで防御をし、同じようにしたもう片方の手で攻撃を繰り出す。
狙うのは少女の頭部だ。
はそれを上半身を逸らしてかわし、同時に手刀にかけていた体重を抜いた。
「ん?」
いきなりのことに驚くティキの傍を回転し、軽やかに背後に回り込む。
そのままの勢いを利用して、少女のものとは思えない鋭い一撃を男の後頭部に叩き込んだ。
ティキは反射的に身を低くして避けた。
わずかに手刀がかすめ、綺麗に後ろに流していた頭髪がぱらりとほどける。
大きく跳んで距離を取ると、彼は頬に落ちかかった己の髪をつまんだ。
「おいおい。オレをハゲさせる気か」
いいや、首を取るつもりだったのだ。
相手の攻撃を受けた瞬間、それをかわすと同時に旋回動作で背後に移動し、その遠心力でもって頭を落とそうとしたのである。
そこに一切の躊躇いはなかった。
ティキは乱れた髪を気にしながら言う。
「お嬢さんは本当に容赦がないな。あっちの少年はノアが人間だと知って躊躇してくれたのに。……お前だってオレの赤い血を見たときは動きが鈍ったはずだが?」
その言葉の間にもまたしてもティーズがを襲う。
濁流のように押し寄せる蝶の群れ。
意思を持って散乱する刃の嵐。
「お前は、人間を殺せるって?なぁ“神の使徒”」
皮肉るように問いかけるティキに金の瞳は揺るがない。
「私は“人間”よ。神の使徒なんかじゃない」
愚かにも罪にまみれ、罰を受け続ける“人間”。
それが己自身の姿。
「だから“人間”を殺せる。自分のエゴだけで!」
言葉の最後に力を込めて、は一気にティーズの群れを破壊。
荒れ狂う刃と、共に生まれた爆風が廃教会のもろい壁を破砕する。
倒壊の振動にノアの哄笑が渦を巻く。
「ははっ、最高の言い分だ!そうだ、聖戦だの何だのお綺麗な大儀名分を掲げるなよ。お前たちがしようとしているのは人殺しだ」
の放った刃が世界を刻む。
空間を取り巻くように乱舞する。
花か、雪か、羽のような黒い粒子は美しくも恐ろしい。
まるで自身のようだ。
ティキは自分の胸元に手を置いて、彼女にその生命を示した。
「ノアは人間。それを敵とみなし破壊するのならば、お前は殺人者だ!!」
目を逸らしたくなるような言葉。けれどそれは真実。
はギリッと唇を噛んだが、取り乱すこともなく告げた。
「人殺しを殺しても、人殺し。罪は等しく背負うもの。破壊者が受けるべき咎。正義も悪も本当には存在しない」
噛み締めた口の端から深紅が流れ出す。
血反吐を吐くように、それでもは決して声を詰まらせない。
「人の数だけ信じるものがあって、過ちがある。誰かの正義が、誰かの悪になる。……そんな世界で私に出来ることはただひとつ」
それはきっと、本当は誰もが理解していなければならないことだ。
直視することが苦しくても、顔を背けるな。
否定されることが辛くても、逃げ出すな。
その上でなければ全ての行動は許されない。
己への激しい嫌悪をすら信念の一部として、は言い放った。
「私の敵は“私”が倒す!例えそれがどれほどの罪過でも……!!」
「いいね、実に誠実な意見だ。そう、命を奪うのならば自分勝手にやれ!!」
心の底から愉快気にティキは嗤う。
「世界のため?他人のため?反吐が出るね。殺す言い訳を美化するなよ。仕方がない、なんて言葉は通じないぜ」
「そう。自分ですらひとつしか持てない存在を、他人から奪い取るのよ。どんな理由だろうと相手が納得するものか」
それを言えるのはだけだった。
存在の尊さを知り、失う恐怖を思い知らされて生きてきた、彼女だけが語れる言葉だった。
「破壊の理由に他者を巻き込まない。それに依存することなど許されない。そんなことがあってはいけないのよ」
「ああ、“お前”はそれを知っている」
「だから私は、私のために」
「それでいい」
「私だけのために、この刃を振るう!」
「本当に最高だよ、お嬢さん!」
快楽のノアは少女に、抱擁をし、キスを贈りたいと告げた。
「お前は決して、破壊の理由を誰にも押し付けない。それを途方もない罪だと認識しながら、たった独りで背負おうとする愚かなまでの潔さ。本当は何よりも純粋なくせに綺麗な言葉に逃げないお前が好きだよ」
世界を救いたいのも、仲間を守りたいのも自分のため。
愛も友情も一方的な熱でしかない。
自分自身のエゴであると決め付けた。
そうやって、醜いと信じ込んだそれに穢されてゆくところがたまらない。
「敵がアクマだろうが人間だろうが関係ないさ。存在を壊すのなら同じだ」
破壊に言い訳など許されるはずがなかった。
存在を蹂躙し葬り去るのならば、相手の味わった苦痛を一身に背負うべきだ。
それが、壊す者の責務だろう?
「自分勝手に奪い、守れよ。それが“人間”だ。それがオレ達だ」
そしてそれこそが、この戦争の正体だ。
ティキは刃を放つへと手を差し伸べた。
「オレが初めて出逢った本当の“破壊者”。金の眼の少女。黒葬の戦姫」
お前だけが真実、破壊の意味を知っている。
それ故に生まれる罪を思い知っている。
理解しながら苦しんで、必死に足掻く姿は不様なのに美しい。
は誠実だった。
生と死に対して一切の誤魔化しをしない人間だった。
例えそれがどれほどの罪科でも、目を逸らさず真っ直ぐに向かい合っている。
これこそが“破壊者”の在るべき姿だ。
今まで何度思ったことだろう。
我らに歯向かう愚かなエクソシストどもよ。
破壊を遂行するのならば、それなりの覚悟をしてからにしろ。
お前たちはこの世に唯一無二の存在を、跡形もなく消そうとしているのだ。
悪だから?それだけが救い?勝手な価値観を押し付けるな。
二度と戻らないまでに壊すのならば、綺麗な言葉に逃げずに腹を括れ。
それが己の欲を最優先させた果てなく醜い行動であることを!
言うまでもなく自身をそうだと語ったのは、屈強な戦士でもなく、博学な道士でもなく、たった一人の少女だった。
どこまでも小さな彼女だけだったのだ。
ティキはうっとりと狂気に酔い、に激しく囁いた。
「あぁ、お前のことを誰にも譲りたくない」
歪にゆがんではいるが、これもひとつの愛の形なのかもしれなかった。
白髪の少年が語ったように、ティキは彼女を何者にも渡したくはないと思う。
この手で粉々に砕いて存在すべてを自分のものにしてやりたい。
あの凄まじい視線、金色の瞳が、憎らしくて愛おしくて堪らないのだ。
だから、
「オレだけに壊されろよ……“”」
告白すれば即座に拒絶されたものだから、ティキは声をあげて笑った。
あぁ本当に愉快だ。
(ノアは人間……)
は戦場を駆けながら考える。
殺せるのかと聞かれて、躊躇いもなく頷いた。
その存在を奪い取り自分の願望を優先させる。
浅はかで醜い破壊者の姿だ。
いつかそれらが自分に返ってくることは知っていた。
はいつだって、罰せられる日を待っているのだ。
ただそのときまでは醜悪に身を堕とし、この生命に誓ったことを遂行しよう。
愛すべき優しいものたちが生きるこの世界を誰にも奪われたくないという、そんな身勝手な願い事のために。
私の意思。私だけの罪だ。
世界も仲間も、失ってしまった大切な人々も、これから出逢うかもしれない多くの命も関係ない。
破壊の理由を誰にも渡しはしない。
全てを我が身に纏って持ってゆく。
途方のない罪悪を、この魂と共に……地獄の底まで!
(人間ならば、動きが読めるはず)
はそう結論を出した。
ノアが“人間”ならばアクマより簡単だ。
レベルが上がって思考能力の出てきたものでも、やはりその行動を予測することは困難だった。
魂と命は別物。
生命の宿っていないものには、脈動がない。
つまり動きに拍がないのである。
しかしノアはアクマと違って人間なのだから、それが存在するということになる。
(命あるものには動作に一律の拍子がある。それを見極めれば……!)
事実、ノアの動きは戦士として鍛え抜かれたものではなかった。
超人的な肉体そのものが武器なのだろう、たちのように鍛錬を積む必要がないのだ。
おかげで動作を見極めやすかった。
それはの動体視力が飛び抜けて優れていたからなのだが、本人は知るよしもなくティキの動きを掴み取る。
彼の動作を乱す目的で、拍と拍のわずかな隙に手刀を繰り出した。
「お?」
吃驚した声を右上に聞きながら、刃を翻す。
ふところに飛び込めばには息をしている暇もない。
斜めに振り下ろした手刀を右に薙ぎ、斬り上げ、刃を取って返す。
今度は左に同じ動作を神速で繰り返し、最後に心臓を目がけて絶妙のタイミングで刺突を放った。
漸撃はまるで爆発したかのようだった。
凄まじい速さで黒い刃が乱舞し、衝突し、火花を弾いてティキを追い詰めてゆく。
彼はティーズを放ってそれらを防いだが、食人ゴーレムはのスピードについてゆけない。
切り裂かれた蝶の代わりに彼自身が右腕で受け止める。
瞬間、そこに纏っていた防御壁が粉々に砕け散った。
「お嬢さん、剣術もやるね」
皮肉も冷や汗まじりだ。
ティキはがさらに踏み込んでくると考えて、動きを封じようと手を伸ばしてきた。
しかしはそれよりもずっと早くに後退する。
攻めるべきところで退かれたものだから、ティキは肩透かしをくらったようだった。
それすらも相手の拍子を乱す材料にして、もう一度踊りかかってゆく。
(動きは掴んだ。この人は自分の強さに絶対の自信があるから、動作を隠そうとしない)
勝機が見えた。
こうやって敵の動きをよく見極め、乱拍子を生み出し、攻撃を叩き込めばいい。
どれほどの戦士であろうと、それを避けきれるわけがないのだ。
(グローリア先生の教え通り。“相手をよく見る。隙を作らせる。あとは適当に攻撃”……当時は何てアバウトな説明だろうと思ったけれど)
師は間違っていなかった。
ただ言葉で言うは易いが、実行するには難しいというだけの話だ。
ここまでくるのに8年。
鋭い眼力を駆使し相手の音拍を掴むという戦術は、師匠の指導の下に手に入れた、の努力の結晶だった。
またそれはパートナーと息を合わせるダンスに酷似しており、「踊ろう」というノアは言いえて妙だったわけだ。
がグローリアによって鍛え抜かれたのは剣術も同じで、専門の神田にはわずかに及ばないものの、相手を一瞬で斬り伏せる腕前を持っている。
何といってもその武器は体の動き、つまり尋常ではないスピードと身軽さだ。
不意打ちを狙うに似ているこの戦術においてはさらに有効的だった。
そしてついに黒の刃が、ティキを捕らえる。
「……!?」
彼は本当に驚いたようだった。
戦場で自分の血を見たことがないのかもしれない。
の刃が肩に入り、胸板を斬り裂いたのだ。
パッと赤が散っては咄嗟に判断する。
まだ浅い!
息の根を止めるためにあと何撃か。
の神速の踏み込みは続く。
刃は幾度もティキの皮膚に傷を刻み、防ぐかのように水平にかざされた腕を深く割った。
否、そうして手刀を捕まえられたのだ。
「……っつ」
いけない。
そう思って刃を弾こうにも、深く腕に突き刺さっていて動きが遅れた。
その一秒にも満たない間にの喉にティキの手が迫る。
彼が本気を出せばこんな細い首、一瞬でねじ切られてしまうだろう。
は即座にイノセンスに命じた。
瞬間、手刀が展開。
刃の部分が羽根を広げるように大きくなり、ティキの手を弾く。
唐突に攻撃から防御に本質を転換、盾へと変わりその攻撃を防いだのだ。
そしてはそのまま……ティキの腕に食い込ませたままの手刀を爆散させた。
刀身が光の刃に分裂し、彼の腕を内側から破壊する。
このようにの意志に従って形や大きさを変幻自在に変える刃、それが『刃葬』の真髄だった。
ティキの肉は消し飛び、血が撒き散らされた。
の頬にも大量にかかり、生理的に沸いてきた怖気を意思の力でねじ伏せる。
破壊を遂行すると誓っておきながら今さら臆するなど許されない!
は続けざまに刃を召喚、爆発させて、ティキの体を弾き飛ばした。
息が荒くなる。
それを唇を噛んで堪える。
意識を集中して、爆ぜさせてしまった刀身をもう一度生み出す。
神経への負担で目眩がした。
体内を侵すイノセンスは濃度をまして、文様は額にまで達していた。
「…………へぇ」
床に脚を突き立てて壁との激突から逃れたティキは、右手を持ち上げた。
大量の血が落下してゆく。
肘から下を失って、神経も骨も丸見えだった。
「すごいな。ここまでやられたのは初めてだ」
言いながら左手の指でそこを撫でた。
すると見る見るうちに血管が伸びてきて絡まりあい、骨を形作って皮膚に覆われていった。
瞬く間に失われたはずの腕を再生したティキは、その具合を確かめながら言う。
「一張羅の袖がなくなった。ダサいな」
「………………」
「胸元もズタズタだ」
言いながら今度は斬り裂かれ、中身をこぼす胸を押さえる。
手を離せばシャツから覗く皮膚に一切の傷も消えていた。
撒き散らされた血だけが、先刻の破壊を現実のものだと告げている。
「超人……」
が呟けばティキが笑う。
「そう。オレたちは神に選ばれた人類最古の使徒。“ノアの一族”だ」
不死なのか、と一瞬考えた。
けれど即座に否定する。
事実はどうあれ、今は憶測で心を乱している場合ではなかった。
ゆっくりと息を吸って吐いて、呼吸を整えてゆく。
ティキは袖のなくなった腕をぶらぶら振って見せた。
「だからすぐに再生可能。こんな風に、な」
持ち上げられたのは傷ひとつない、美しい男の腕だ。
が消し飛ばした肉も骨も神経も、完璧に復活していた。
瞳を細めてそれを見やる。
ティキはそんなに微笑みかけた。
「まぁ、でも。お嬢さんも充分に超人だよ。そんな“ノア”と真正面から斬り結べるなんて、本当に普通の人間なのか疑いたくなるな」
その言葉は真実のようだった。
紫の瞳に暗い炎が燃えている。
どうやら完全に本気になってくれたらしい。
しかし今までも別に遊んでいたわけではなさそうだ。
本来ならばは最初の一撃で、ティキの首を掻き切り地面に沈ませていたはずなのである。
彼がシルクハットを身代わりにその死の導きから逃れることができたのは、ひとえにノアの特殊な体ゆえだった。
そのスピードと体術に、エクソシストは当たり前のようについてくる。
ティキはと刃を交えてみてひやりとしたものだ。
少女の……いいや、人間のものとは思えないほどの太刀筋。
“超人”であるノアがほとんど初めて見た剣先の鋭さ。
本能が言う。
“これ”は危険な生物だ、と。
ティキに凍てつく炎の視線で見つめられて、それでもお構いなしにの思考は続いていた。
頬を伝う彼の血が熱を奪い取るようだ。
は乱暴に顔をぬぐってそれを拭き飛ばす。
(どうすれば倒せる?)
それは時間との勝負でもあった。
の体は血を失いすぎているし、イノセンスと神経を繋げた状態は長くはもたない。
刃の食い込んだ腕から籠手を、手刀を伝い、落ちてゆく赤。
いまだには血液を流し続けていた。
いくら強大な力だろうとも、『刃葬』は諸刃の剣。
それは持ち主の魂を削り取ることで、寄生型でも装備型でもない特殊な能力を発揮するのだ。
ダイレクトに接続することで生体電流を直接流し込み、精密かつ迅速にイノセンスを操ることができるようになったが、そのぶん負担は莫大なものになる。
ただでさえのそれは特出した破壊力ゆえにリバウンドを起こしやすいのだから、『刃葬』の長時間使用は死に直結していた。
そして何より一番にアレンの怪我が気にかかる。
一刻も早く病院で手当を受けさせないと危険だ。
絶対に戦闘を長引かせるわけにはいかない。
そう考える感覚の隅で、は禁術の力が動いているのを感じていた。
どんどん強くなっている。
強制的に開放しようとしているを、内側から弾き出そうとしている。
その意思はクロス元帥?それとも……グローリア先生?
どちらにしろ今は従えない。
(守らなくちゃいけないの。今度こそ)
一度、何もかも失った。
また新しく手に入れたものもあったけれど、そこまで導いてくれたかけがえのない存在は自分を庇って死んでしまった。
これ以上なにを。
何を失えと?
ずっとそう思っていたのに、いつからだったんだろう。
(私はたくさんの温もりをこの胸に持っていた。仲間がいる。大切な人がいる。失いたくないものが、まだこんなにもあったのよ)
アクマの巻き戻す世界で、は今まで生きてこられた意味を見せ付けられた。
心の奥に隠された光。
途方もない暖かさ。
絶望と罪にまみれたこの命を、ただ役目のためだけではなく生かしてくれた愛しいものたち。
理解していたはずなのに、何度だって思い知らされる。
(守らなきゃ。守らなきゃ。今度こそ、絶対に)
失くす恐怖。
捨てる絶望。
何もかもを残して歩き出さなければならない苦痛。
“”になって初めて知った感情の数々を、二度と繰り返してたまるものか。
(ねぇ、アレン)
心の中で彼に語りかけた。
(二度と失いたくはないの。過去の“私”の家族も、グローリア先生も、大切な人を何人も死なせてしまった私だけど…………もう、譲らない)
神様にも悪魔にも、弱いだけの私にも譲りはしない。
(あなたが取り戻してくれた……私の生きる光を、守ってみせる)
は視線だけでアレンを振り返った。
黒く光る盾のせいで表情がよく見えない。
けれど防御壁に突いた手が、血に染まった左頬が、震えていた。
は“大丈夫”と微笑んだ。
(あなたを、守ってみせる)
優しい人だ。
どれだけ憎まれ口を叩いても、根本では家族やグローリアと同じなのだろうと思う。
優しくて、切なくて、いつも他人を庇って傷ついてしまう人。
皆そうやって失ってしまったから、彼は、彼だけは守らなければならない。
今度こそ、私が“私”であるために。
(“破壊”の理由はあげられないけれど。あなたも光よ)
思い出す、白い光。
醜いばかりの私の傷に触れてくれた、救いの手。
(あなたは、私の生きる“希望”の光よ)
だからどうか、死なないで。
傷つかないで。いつも幸せだと笑っていて。
それが死刑を宣告された私を生かす、あたたかな力となる。
「私は私のために」
は流れ続ける血を振り払って、手刀を持ち上げた。
ティキの微笑み。
暗紫色の瞳。
真っ直ぐに見据えて、言葉を紡ぐ。
「光を害する悲劇をひとつ残らず砕いてみせる」
それがどれほどのエゴであったとしても、全ての罪悪を背負う覚悟はできている。
は“破壊者”として、世界にそれを宣言した。
「“私”の敵、お前を破壊する!!」
見ていて過去の“私”の父さん母さん姉さんたち、そしてグローリア先生。
必ずこの想いを貫き通してみるから。
あなた達と同じように、溢れるほどの確かな温もり。
あなた達と同じように、優しくて愛おしい人々。
これが今の、“私”の仲間で家族よ。
たくさんいるけれど、今そばに居てくれるのはね。
彼の名前は、ね。
決して届くことのない言葉だから、せめて守ることで証明させてよ。
何があっても天国には行けない私だから。
声が届かない。
伸ばした指先は拒まれる。
ようやく取り戻した温もりが、今もこの腕の中に残っている。
だけど本当に輝く光はあまりにも遠い。
抱きしめたはずの体はすり抜けて、心ごと自分を残していった。
あぁ、どうしてだろう。
は生きる希望、戦う力を仲間から得ているけれど、それを決して破壊の理由にはしないのだ。
そうやって戦場に立つことを許さない。
全て自分のせいにして、ひとつ残らずその身に纏っている。
の遂行する“破壊”はどこまでも神聖で孤独なものだった。
だからこそ確かに想いが通じ合ったはずなのに、彼女はこんな独りきりの戦いを選んでしまったのだ。
「やめてくれ……、もう」
アレンは『守葬』に両手を押し当てて、血を吐くように床へと言葉を落とす。
あんな姿、見ていられない。
こんなところで守られたまま、直視し続けることなどできはしない。
盾を破ろうと指を食い込ませても弾かれるだけだ。
それはまるで自身のようだった。
優しい拒絶。
誤魔化しのない強い意志。
彼女は引きとめようとするアレンの全てを阻んでいた。
その命を守るという、たったそれだけのために。
「やめろ……」
君は途方もなく強くて優しい。
けれどそれを少しだって自分には向けないんだろう。
どうせ死なないと誓ったのだって仲間のためだ。
皆の心を悲しみと絶望で苦しめたくないだけで。
生きているのはグローリアさんとの約束?過去への贖罪?
何だっていいけれど、君がそれを「自分のためだ」というのなら、もっとずっと大切にしてよ。
“彼女”の“”に対する仕打ちはあまりにひどすぎる。
「これ以上は、……っ」
『これ以上は危険だ』
唐突に耳元でそんな声がした。
アレンは緩慢に顔をあげてそれを見上げる。
頭の右上に、黄金のゴーレムが羽ばたいていた。
「ティム……」
『もう封印がもたん』
そこから零れ落ちてくる声は、アレンのよく知ったものだった。
驚いてティムキャンピーに飛びつく。
こんな人でも元帥だ。そして自分の師匠だ。
心身共にズタボロのアレンには、普段の不満も忘れて心強いだけの存在だった。
「クロス師匠……!」
自分でも信じられないほど感動して、縋るようにその名を呼んだ。
禁術がどうのと言っていたから、彼の施したそれをが破ろうとしていることを察知したのだろう。
それゆえの連絡ならば、きっと彼女のためになるはずだ。
『馬鹿弟子。は近くにいるのか』
少し涙ぐんだアレンなど完全に無視してクロスが言った。
通信の状態が悪い。
雑音がひどくてアレンはゴーレムを抱えると、もう一度張り巡らされた防御壁に拳を叩きつけた。
「っつ、……駄目です。彼女の傍には行けません」
『……お前、あいつの術で囲われているのか?』
「はい……。『守葬』の中に閉じ込められています」
『情けない。一目散に逃げろと指示するつもりだったのに』
「え……?」
『動けんとはな』
「待ってください。逃げる、ってどうして……?」
アレンはクロスの言葉に眉を寄せた。
なぜ自分が逃走しなければならないのだろう。
何かよくないものを肌で感じるアレンに、クロスは淡々と告げた。
『あの娘、もうすぐ完全に封印を解いてしまうぞ。俺の術式の中に無理やり入ってきたから弾き出そうとしたのだが』
そこで彼は舌打ちをした。
『あいつの“意志”の力のほうが強い。距離も手伝って、俺の力を阻んでやがる』
「!?師匠の魔術を……?」
『元々素養があったんだよ。きちんと仕込めばいい導師になるぜ』
グローリアの教育方針でそうはならなかったが、と続けた。
『どう見たって戦士の体型じゃないだろう。背は低いし体重は軽い。グローリアはその弱点から克服させようと神速の体術を教え込んだが、どうにも体力面で不安が残る。女だから仕方がないがな』
「だから何だって言うんですか!今はそれどころじゃ……っ」
『うるせぇよ、聞け』
話が見えなくてアレンが焦れれば、容赦なくそう言い返された。
仕方なく黙り込む。
黒い壁の向こうではティキとが何度もぶつかっては弾き合い、互いの刃を血で染めていた。
『どれほど強くともは“女”で“人間”だ。イノセンスに肉体を侵された状態で、さらに俺の術を破ろうとしている。すでに体力も精神も限界だというのに。これ以上、魂に負担をかければ』
「どうすればいいんですか!!」
続きを聞きたくなくてアレンは叫んだ。
クロスは一瞬沈黙し、静かな口調で告げる。
『逃げろ』
「……………………なに?」
『今すぐそこから逃げ出せ。傍にいればの巻き起こす破壊に呑み込まれるぞ』
「何を言ってるんですか?」
『そう指示しようと思っていたがな。も馬鹿じゃない。お前を守りの中に置いていたか』
「ま、待ってください……!」
『何が起こってもお前は無事だろうさ。その代わり』
クロスはもうアレンの声など聞かずに一方的に話していた。
『お前は“逃げられない”。何もできずに、そこで見ているしかない』
「………………っ、何とか止める方法はないんですか!?」
『止める?何故だ』
「なぜって……!」
『とにかくそんな方法は知らん』
「師匠!」
『どうしてもやりたきゃ根性で何とかしろ。…………けれど現実的に不可能だろうな。お前が閉じ込められている守護領域、その盾は術主以外を決して通さない』
「……………………、あなたは今どこに」
『期待するのは勝手だが、俺は間に合わんぞ。距離が遠すぎる』
絶望を再確認させられたのだと悟ると、アレンの手から力が抜けた。
ティムキャンピーは開放されて宙を舞う。
そこから師の声が降ってくる。
『これ以上封印を長引かせてもいいことはない。さっさと終らせるほうが身のためだ。…………あいつが禁術を破るに任せる』
これ以上の負担を避けて、もっと大きなリスクを犯させるというのか。
理屈ではわかっていても納得できない。
そんなのは結局、彼女という存在を苦しめるだけだ。
『アレン』
呼ばれた調子はひどく厳しかった。
『目を逸らすな。“逃げられない”その場所で、心まで逃げ出すな』
「……………………」
『は、お前のために戦っているのだろう』
「そんなこと誰も頼んでいない……っ」
『馬鹿弟子が』
ゴーレム越しに聞こえる声だけで、頬を張り飛ばされたような気持ちになった。
痛くて堪らない。
こんなのは、我慢できない。
『誇り高い戦士の意志を、辛苦の心で否定するな』
戦場に立つ者として、クロスもも同じようだった。
気高いまでの信念、それ故に傷つくことを厭わない。
そんな姿を見せ付けられて戦慄する。
命を捨てることのほうが楽な気がした。
そうすればなりふり構わず、周囲のことも残された者のことも考えずに、ただただ戦えばいい。
けれど彼女は違うのだ。
たくさんの悲劇を絶望を苦痛を背負って、立っている。
多くの温もりを優しさを光を抱いて、駆けている。
何ひとつ捨てることを許さずに、その全てを懸けて戦うのならば、どれほどの意志の強さが必要なのだろう。
破壊が蠢く舞台の上で存在の尊さを知っている者。
命を捨てる覚悟でもっても、それに敵うことはないだろう。
それをどうして怖い苦しいと他人が非難できるというのだろうか。
あぁ、やはりあの燃え盛る金色は決して何者にも止められはしないのだ。
『受け入れられなくても見届けろ。それが、お前がにしてられる唯一のことだ』
クロスの声が残酷に、そして何故だか優しく響いた。
『お前が“そこ”に居る意味だ』
もしそうなのだとしたら僕は。
『…………チッ、もう限界か。禁術が完全に』
通信はそこで途切れた。
爆発する漆黒の光が全ての音を遮ったのだ。
ティムキャンピーが羽ばたいてアレンの肩に舞い降りた。
「これが、君の意志か。………“”」
呟いた瞬間、イノセンスの封印が破壊された。
アレンの頬を血の涙が伝った。
そして世界は粉々に。
輝く光に再生される。
ヒロインVSティキ戦です。
なかなかのギリギリ感。ティキが異様に強いです。
能力もですけど、ノアの肉体ってほとんど最強じゃないですか……?(汗)
不死じゃなくても困ります打開策が見えない見つからない。
次回のヒロインに期待しましょう。(投げた!)
ヒロインといえば、彼女の生死観や戦う理由はハッキリしていて非常に書きやすかったです。
この子は自分のことを神の使途だと思っていないし、自身の生み出す戦闘や破壊を善行だとは考えていません。
むしろ罪咎であると認識しているところがあります。
それによって自分の信念を貫いているので、後悔や迷いはないようですけどね。
次回は引き続きヒロインVSティキです。
禁術を破ったヒロインがどうなるのか。そしてアレンはどうするのか。お楽しみに〜。
引き続き戦闘・流血描写・グロ表現にご注意くださいませ。
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