目覚めのキスはいらない。
あなたの声が響いて消えない。
そしてその身を害した敵を、許さない。


さぁ、残酷なる終焉を私の刃で彩りましょう。







● 蝶と口づけ  EPISODE 11 ●







同じだけの強さで、答えが返ってきた。
声が聞こえた。
私を呼ぶ、魂の叫びが。


「“”……?」


呆然と呟く。
金髪の少女は目を見開いて、繰り返す。


「“”…………」


そう、それだ。
それが“私”の名前。
疑うこともなく納得する。
一度思い出してしまえば後はひどく簡単だった。
何がそこまでわからなかったのか、今となってはそれこそわからない。
感覚が覚えている。心に刻まれている。
闇に覆われていたそれが鮮やかに浮かび上がってきた。
そして呼ぶ声の主を、“”は知っていた。


「アレン!!!」


いかずちのようにその名が閃いて、は彼を呼んだ。
この声、この気配、この温もり。
私がこの世界に堕ちて最初に想った相手。
それに気がつけば、怒涛のように記憶が蘇ってきた。
白い光が世界に亀裂を走らせる。
空間が揺らいで一部が崩壊した。


そうしてアンレが呼び、繋ぎとめた“”を形造っていたものが、嵐の激しさで帰還する。
胸の傷に添えられた彼の左手が、失われた絆を一気に引き戻した。


たくさんの笑顔を愛している。
優しい少女を泣かせはしない。
高潔なる黒と戦場を駆けよう。
親友の君とは心を繋いで眠ろうか。
あぁ、あぁ、銀色の貴女。




大好き大好き大すき、だいすき、愛していたすべて!




は頭を抱えて天を仰いだ。
音にならない声で絶叫した。
彼らへの想いが感覚を突き抜けて、己の不様さに全身が震える。
思いつく限りでその名前を呼んだ。
本部の仲間を、支部の友人を、任務先で知り合った人々を。


ごめんね、今の私はきっと泣かせる。
あなたの笑顔が大好きなのに。


「リナリー」


ごめんね、今なら殺されても文句は言えない。
あなたとの誓いを破ってしまうところだった。


「神田」


ごめんね、こんなの大嫌いと言われてしまう。
あなたは私の唯一無二の大親友。


「ラビ」


ごめんなさいごめんなさいごめんなさい、ごめんなさい。
失えるはずもない、大切な人。
心の底から愛している。
あなたは私を生かし、存在を与え、導いてくれた銀色の光。


「グローリア先生……っ」


”に温もりと笑顔をくれた全てが心を満たし、同時に暗い記憶も流れ込んできた。
異端者だと蔑み信用できないと罵った教団の人間。
この肉体を好き勝手に弄び、薬漬けにして拷問を加えた科学者たち。
感情を引き裂き、心身を犯した中央庁。
いまでも震え上がるほどの恐怖と絶望がある。
けれど負けてたまるものか、と思った。
それに打ち勝つ力は、すでにの元へと戻った。
慟哭に似た感情で記憶を抱きしめる。
もう二度と離すものか。絶対に手放しはしない。


「皆、みんな、みんな……!」


泣きむせぶかのように、その存在を求めた。
そして最後に彼の名前を呼んだ。


「アレン……ッ」


は震えながら自分の体を見下ろした。
今度こそハッキリと見えた。
貫かれた胸、その大きな傷口に触れているのは、アレンの左手。
十字架を宿した優しい掌だった。


「アレン……!」


は重ねていた自分の手で、もっと強く彼と繋いだ。
アレンが呼んでくれたから全てを思い出せた。
闇を照らす白い光。


「アレン!!」


喘ぐように名前を呼び返した。
彼は今でも自分を求めている。
戻らなくてはと思う。
そのためにはこの絶望の世界を破壊する必要があった。


ふいに、黒い光が瞬いた。
アレンのそれに気がついたときと同じだ。
は目を見張った。
胸に置かれたアレンの左手、そのすぐ横に、ひどく見慣れたものを発見したからだ。


「イノセンス……!」


それは黒玉をはめ込んだ美しいロザリオ……のイノセンスだった。
今の今まで見えなくなっていたそれは、アレンの左手が放つ白い光に触発されて輝きを取り戻したようである。
黒い光はアレンのイノセンスに触れて力を増してゆく。
鼓動のようにふたつの存在が響きあっている。
は信じられないものを見ていた。
呆然と呟く。


「イノセンスが……、共鳴してる………!?」


アレンの白い光に同調して、の黒い光が大きくなってゆく。
やがて同じだけの強さになると、黒白は重なり合い、円状に広がっていった。
波動が空気を打つ。
どくん、どくん、と空間が揺れる。
あまりに凄まじい力に、世界のほうが耐え切れずに震え出していた。


「あなた達が……」


は光に目を眩ませながらも、ふたつのイノセンスに尋ねた。


「あなた達が、私とアレンを繋いでくれたの……?」


イノセンスは応えない。
ただただ互いに求めるように、ひとつになってゆくだけだ。
光は混ざることもなく、それでも離れずに寄り添っている。


(この能力ちからは何……?)


状況が理解できないながらも、はある推測を立てていた。


「アレンのイノセンスが空間を突き破ったの?アクマが創ったこの世界を破壊しようと……」


イノセンスはアクマを破壊する能力。
ならばそう考えられなくもない。
途方もなく実現が難しそうだが、理論上は不可能というわけではないだろう。
は自分のロザリオに触れながら続けた。


「それに私のイノセンスが応えた……?アレンのイノセンスをここまで導いたっていうの?」


渦巻く黒白の光。
どちらも同じだけの力で輝いている。


「アレンが私を、私がアレンを呼んだから?イノセンスが持ち主の意思に従い、異なる世界を繋いだ……?」


言っているうちに、そんな馬鹿な……と頭の冷静な部分が笑った。
けれど実際のは笑えない。
何故ならその、“有り得ない”ことが今、目の前で起こっているからだ。


「そんなことが……だって、前例もないのに………」


口で言ってみるけれど、そうでなければアレンの左手がここに……が囚われているこの世界に存在するはずがなかった。
神の物質であるイノセンスだけがアクマの創り出した空間を突き破って、この胸の上にある。
そしてアレンの力が外側からそうしたように、のイノセンスは内側から世界を貫き、それを導いた。
今ふたつの力が重なり合い、世界を染めようとしているのがその証拠だった。


(イノセンスが“共鳴”した……?適合者だけを認め、個々で絶大な力を発揮する『神の結晶』が?イノセンス同士で同調シンクロするだなんて……!)


有り得ない。
そればかりが頭の中をまわる。
そう考えるのは理論派の自分で、本来の感覚派の自分はすでに納得している。
頭では不可能だと思うけれど、心では事実だと認めているのだ。
は血まみれの姿のまま力を抜くようにして微笑んだ。


「…………っ、ありがとう……」


両手でアレンと己のイノセンスを抱きしめる。
重なり合った能力。
それは心がひとつになった証だった。
呼ぶ声でわかった。
アレンが私を求め、私はそれに応えた。
同じだけの…………、本当に等しい強さで。
だからこそふたつのイノセンスは同調したのだ。
本来、適合者としかシンクロしないそれは、波長を合わせることで爆発的な力を発揮する。
そして異なる世界はひとつに貫かれた。


「これでようやく、私は戦える」


この世界が一端でも崩れれば、記憶は戻り、私は戦う力を取り戻す。
私は“私”を取り戻す。
エクソシストとしての、“”を。


「イノセンス……」


は目を閉じて、己のそれ……黒玉を宿したロザリオに語りかけた。


「思い出したの。私は“”になる前……ううん、“”になってからも、あなたに選ばれたことを悔やんでいた。戦士として“生かされる”運命を、呪っていた」


これさえなければ、どれほど穏やかに生きられただろう。
いいや、どれほど穏やかに…………死ぬことができただろう。
はずっと死を望んでいた。
出来るならば“”にならずに、死んでしまいたかった。


「けれど、わかったよ。私は過去が大切だった。愛していた。大好きな家族がいて、それは絶対に……絶対に失いたくないものだった」


思い出せば胸が張り裂けそうに痛む。
それでもは微笑を消さなかった。
唇を震わせながら、笑顔のままでいた。


「同じように、私は今が大切。愛している。大好きな仲間がいて、友達がいて、忘れたくない人たちがいる」


アレンが取り戻してくれた、たくさんの絆を抱きしめて、は囁く。


「それは過去を失くしたからこそ手に入れたものよ。どちらがより重いかなんて、私には選べない。両方とも大切で、失いたくないもの。………………守るには、強さがいる」


ぎゅっとイノセンスを握り、両の眼を開いた。
そこには鮮烈な意思が宿っていた。
黄金に輝く。


能力ちからがいる。……あなたの」


はいまだに血を吐きながら、必死に告げた。


「ずっと昔に誓ったことを、今もう一度言わせて。私はもう、この運命を嘆かない。自分の人生を呪わない。そうやって、今ある大切なものたちを否定したりしたくはないから」


何故ならそれらは、の光で温もりで、生きる意味だ。


「そして二度と失わないように、守るよ。“私”の全てを懸けて戦う。絶望にも苦痛にも屈しない。絶対に諦めない……!」


この宣言自体が激しい闘争だった。
今この時、は絶望に味わい、苦痛に苛まれている。
だからこそ誓いは強さを増すのだ。
それは何者にも覆されない、真実の言葉として、世界へと刻まれる。


「だから、どうか。能力ちからを貸して。“私”と一緒に駆け抜けて。この生命いのち、尽きるまで」


は強い決意に瞳を光らせた。


「全ての悲劇を破壊するまで……!」


告げた言葉、響く声が放たれた瞬間、イノセンスは凄まじい波動を放出した。
完全に輝きを取り戻し、の元へとおさまる。
伝わってくる鼓動が、“早く”と急かしていた。
イノセンスは応えてくれたのだ。
何年も前に誓ったことを、この巻き戻された世界で伝えられたことを、は嬉しく思う。
ありがとう、と心の底から囁いた。


「うん、行こう」


そして駆り立てる力に頷く。


「みんなが待ってる!」


もはや幼い姿は失われ、“”に戻っていた。
焼け千切れた髪は長く伸び、血まみれの肢体は団服を纏う。
胸に輝くはローズクロス。
アレンの呼ぶ声は消えない。
それに応えて顔をあげる。
立ち上がろうとして、胸に突き刺さった腕に邪魔をされた。
いまだに突き立てられたそれを、は睥睨する。


「     」


彼が呼ぶけれど、傷が疼くけれど、泣いてしまいそうになるけれど、もう負けない。


「あなたは過去よ」


震える声を押し殺して言った。


「過去から呼んでも応えない。私はもう、あの頃の私じゃない」


迫ってくる彼の顔。
逃がさないと絡みつく腕。
指が頬を撫でるけれど、は首を振って打ち払った。


「“私”は死んだ。私が殺した。求めても無駄よ。私に与えることが出来るのは、刃だけ」


言いながらはイノセンスを発動した。
怖い、恐ろしいと叫ぶ幼い自分がいるけれど、アレンの手を握れば力が衝動のように湧いてくる。
目の前の彼の声は二度と聞かない。
それより強く、応えたい声が……アレンが呼んでくれているのだから。


はイノセンスから放った光刃で、自分の胸を突き破る腕を跡形もなく破壊した。


「消えろ亡霊、私の弱さ。私は“私”を超えて行く!」


もう何ものにも負けはしない。
金髪の少女は、絶望の空間に己の名前を響かせた。




「“私”はエクソシストの“”よ!!」




そうしては血が吹き出すのも構わずに、召喚した光刃を鷲掴む。
それを一気に己の胸に突き立てた。
自分自身の“弱さ”を貫いた。
同じようにアレンの左手がそこを貫通。
あの男に刻まれ、快楽のノアにえぐられた傷跡を、二人の力で突き破る。
そこにこそアクマが潜んでいる。
哀れな化け物が抗えない過去の傷跡に棲みついて、の生命の光を塞いでしまっていたのだ。


独りでは無理だった。
ノアに暴かれて不様に悲鳴をあげるだけだった。
この胸の傷を突き破るだなんて出来るわけもない。
あのまま巻き戻されて愚かなこの身は闇に溶けていっただろう。
けれど堕ちたこの場所で一度失った尊い存在。
仲間、友人、愛おしい家族たち。
それらを取り戻せば、追体験のように心がまた一層強くなる。
闇を知れば光はより眩しく輝く。
独りの力では無理だった。
けれど、孤独ではないと一緒に破壊を遂行する左手が言う。


ふたりだったからこそ、 は今、自分の弱さを壊すことが出来たのだ。


「ぅ、……ぐ、っつ」


あまりの激痛には口から血を吐いた。
胸の傷口からも深紅の血が飛び散って混ざる。
まるで赤い薔薇のように空中に咲き誇る。
そうやって全力で闇の覆いを打ち破れば、同じだけの衝撃を受けるのは当然だった。
魂が絶叫する。
それにも負けない声では叫んだ。
赤い花弁を散らして、ただただ仲間の名を。




「アレンッ!!!」




彼と同じだけの強さで呼び返す。
その瞬間、同調した能力が、過去の傷跡を完全に破壊した。


黒白は眩い光を放って世界を襲い掛かる。
剣となり槍となり刃となり、凄まじい威力で突き刺さる。
地が崩れ、空が割れた。
荒れ狂う閃光。
破砕されて欠片になった空間は、まるで鏡のように黒白の光を反射し、さらなる破壊を遂行する。
飛び散る粒子。反動に揺さぶられる。
はその激しい波に呑まれまいと顔をあげた。
世界が砕け散れば、目の前に居たのは“彼”ではなかった。


本当の意味で私に応えてくれたのは、神様でも悪魔でもなかった。
優しい手を持つ、一人の少年だった。


破砕。
そして金色の双眸で見つめる。




口づけをしてしまいそうな距離に、“アレン”が、居た。




















アレンの左手とのロザリオが同時にその能力を発揮した。
凄まじい波動と光を放って爆発する。
それは剣となり刃となって薔薇に突き立ち、二人を捕らえる荊を一瞬にして消し飛ばした。


激しい閃光に目が眩む。
けれどアレンは瞼を閉じなかった。
そんなことなど忘れていた。
意識にすらのぼらない。


ただただ全ての力を使って眼前の金色の双眸を見つめる。


感覚を呑まれてしまいそうだ。
恐ろしいほどに惹きつけられて、他のものは全て消滅したようだ。
荊の拘束から抜け出し磔刑から救われた彼女も、アレンを見つめていた。
その美しい瞳に自分が映っていて、色が揺れて、大きく震える。
の全身がわなないた。


「アレン」


色を失った唇が、呼んだ。
痺れのようなものがアレンを襲い、本当に泣いてしまいそうになった。
声が懐かしい。
その金色の瞳が見たかった。


「アレン」


苦しそうに、喘ぐように、顔を歪めてが繰り返す。


「アレン……!」


そうして彼女の指先がアレンの左眼に触れた。
ティキに握りつぶされてからとなった眼窩。
血で真っ赤に染まったそこに、優しい温もりを感じる。


「ごめ……っ、ごめん……」


は全身を震わせて、掠れた声で叫んだ。


「ごめんなさい……っ」


途方もない罪悪と後悔が伝わってきて、アレンは思わず微笑んでしまった。
が自分自身を責めていることがわかったからだ。
痛くて辛くて死んでしまいそうだけど、アレンは笑顔を浮かべる。
この怪我は君のせいなんかじゃないよ。
そう伝えるために。





頬を片手で撫でれば、細い肩が跳ねる。
こつんと額を合わせて囁いた。


「目を覚ますのが遅いよ。最高の寝坊だ」


アレンは笑顔を深めたけれど、は小さな子供のような泣き出す寸前の顔で震えるばかりだ。
呼吸が速い。
こんなに辛そうなのを見るのは、ほとんど初めてかもしれない。


「君を起こすのは僕の役目だから、必死に呼んでいたのに。毎朝、そうしていたように……、っつ」


優しく言うけれど、アレンだって限界だった。
衝動に耐え切れなくなって乱暴に抱きしめる。
の体は泣きむせぶようにわなないていた。
そんな動きすら出来ないほど強く強く、腕の中に閉じ込める。
全身の傷が痛んだけれどどうだってよかった。
鼓動が乱れ、吐息に嗚咽が混じった。
の首筋に顔を埋めれば確かな脈を感じて、そこに自分の肌を押し付けた。
もっと感じていたかった。
失うかと思ったあの凄まじい恐怖が、今になってアレンを震えさせる。
膝から崩れてしまいそうになるけれど、を離したくないから起立していられるだけだった。


「目を開けてくれるのを、ずっと待ってた……!」


は息を詰まらせて、言葉もなくアレンを抱き返した。
血の気などとっくに失っているというのに体が熱くてたまらない。
胸の中で今まで知らなかった感情が暴れまわっている。
爆発しそうだ。
頭が変になる。
狂おしい。
もがくように存在を求めて抱擁を交わす。
壊れそうなほどに抱きしめた。


「呼ぶ声が聞こえた」


乱れた呼吸の合間にアレンの耳元で囁かれる。


「あなたの呼ぶ声が、世界に響いてた」
「………っつ」
「返事が遅くなってごめんね……」
「馬鹿」
「うん」
「許さない。こんなに心配させて」
「うん……」
「こんな、ひどい、気持ちにさせて……っ」
「ごめんなさい……」


どちらも泣き出してしまいそうだった。
気配でそれを知っていた。
だから必死に抱き合って、ひとつになろうとした。


「ごめんなさい、アレン」


の指先が、アレンの血まみれの体に触れる。
その感覚に寒気にも似た痺れが走る。
は涙を堪えて必死に告げた。


「ありがとう」


次の瞬間、は手を伸ばして、それを捕まえた。


「!?」


驚愕の気配がアレンの背後にある。
それは薔薇の蔓、アクマの触手だった。
アレンとのイノセンスに消し飛ばされながらも、いまだ蠢く悪意の荊。
その存在は大破しており、残骸だけが低く呻く。


「わ、私の世界を砕くだなんて、有り得ない。お前の弱さは手に入れた。もう一度……、もう一度堕とせば……!」
「無駄よ」


は一切感情の宿らない、鋭利な声で言い捨てた。
それはアレンに向けたものとは激しい温度差のある音だった。


「私は“私”を取り戻した。お前の能力は二度と通じない。…………堕されるのはそちらよ」


言葉と共に、の胸元から光が溢れ出す。
黒い光。
それ自体が輝く漆黒。
美しいロザリオが大気を震わせる。


「よくも人の心を踏み荒らしたな」


そこでの声に感情が滲んだ。
それは途方もない怒りだった。
噛み締めた奥歯がギリッと鳴る。


「よくも……」


激しい怒気をは吐き出した。


「よくも、私の仲間を傷つけたな……っ」


アレンを抱く手に力が入り、アクマの悲鳴が響いた。
の全身から立ちのぼる波動。
黒の斬光が閃く。


「許さない」


それは、破壊の宣言。


「絶対に、許さない……!」


刹那にして、アレンの意識は奪われた。
あまりに強い黒光が目の前で爆発し、世界を強襲する。
それは教会全体を包み込んで、アクマの叫びも存在も、何もかもを掻き消した。


ただ抱きしめてくるの体を、同じだけの力で捕まえる。
二人は眩い光の中に沈んでいった。




















どれくらいの時間が経ったのかはわからない。
一瞬だったようで、随分と長かった気もする。
眠り過ぎたあとの感覚に似ていると、アレンは思った。
朦朧としていて目の前がはっきりしない。
体はだるく思い通りに動かないけれど、両腕だけはしっかりとを抱きしめていた。
眩んだ視界に金色が映っているから死ぬほど安堵して、また目を閉じそうになる。
そんな己を叱咤しながら瞬きをすれば、睫毛が床をこすった。
どうやら自分はそこに倒れこんでいるらしい。
あれだけの能力がすぐ目の前で放出されたのだから、それも当たり前だった。
怪我のせいも大きいだろう。
身を起こしていることなど不可能で、今になってようやく平衡感覚が戻ってくる。
右の眼球だけを動かして見ると、の白い頬。
散った金髪、そして………………鮮やかな赤。


「……!?」


アレンはそこで一気に覚醒して飛び起きた。
体が悲鳴をあげて激痛が走ったけれど構わない。
の体の下、正しく言えばアレンの方までを侵して、鮮血が広がっていた。
量が半端じゃない。
何だこれは。
アレンが愕然と見つめる先で、血溜りに浮いた赤い薔薇が、溶けるよう崩れていった。


(赤薔薇が、血に戻って……っ)


アクマが破壊され、奪われた記憶が戻ったのならば、優美な花は形を失う。
そうして、そこに含まれていた血液だけが残される。
だからこそ今、アレンの目の前に鮮血がぶちまけられているのだ。
そう理解しても、まさかここまで大量に奪われていたとは思っていなかったから、顔を蒼白にして叫ぶ。


!」


アレンは腕をほどいてを覗き込んだ。
返事をするように金の双眸が瞬く。
彼女は気を失っていなかったけれど、やはり意識の混濁が見られた。
抱きしめていたから起き上がれなかったようで、少し身を離せばすぐに床に手をつく。
その白い掌の下で、赤がびしゃりと跳ねた。


「動かないで、君は血を流しすぎてる……っ」


アレンはの肩を掴まえて、その動作を止めようとした。
けれど彼女は無理に身を起こす。


「へいき。……アレンの方がひどい怪我よ」
「駄目だ。いいからじっとして」


アレンは拒むの腕を掴まえて、強引に引き寄せた。
そのまま抱き上げようと動く。


「すぐに病院へ……!」


「行かせると思うか?」


声はアレンの頭の上から降ってきた。
途端に総毛立つ。
肌が粟立ち、感覚がひどくざわめいた。
鼓動がどくんと脈打って、を抱く力が強くなる。
アレンはゆっくり、ゆっくりと、背後を振り返った。


「なぁ、少年」


冷ややかにこちらを見下ろす暗紫色の双眸。
影色の服を纏った男性が、唇に笑みもなくそこに起立していた。


「よくお嬢さんを取り戻したな。驚いたよ」


ティキの口調は弾むようだったけれど、表情がそれを裏切っている。
頭上から押さえ込むような殺気。
覆いかぶさるような威圧感。
アクマはもういない。
の光に、教会内に存在していた全ては破壊されたようだ。
建物自体も屋根や壁が吹き飛んでいる。
覗く空はもう薄暗く、星がいくつか輝いていた。
けれどそれが何だというのだろう。
眼前に闇のように立ったこの男がいる限り、自分達は戦いから逃れられないのだ。


「驚きすぎて、どうしようか困っている」
「………………」


アレンの鼓動は速まるばかりだった。
どうすればいい。
自分の体はもう戦闘に耐えられない。そんなことが出来る状態ではない。
今すぐを病院に連れて行きたいのに、動けない。
射抜くようなティキの瞳が拘束してくる。
アレンは震える両腕でを抱きこんだ。
無駄な抵抗だとわかっていても、彼女を敵の目に晒したくなかったのだ。
それが勘に触ったのか、ティキが瞳を静かに細める。


「本当に、どうしようか。せっかく上手くいっていたっていうのに」
「…………………」
「お前のせいで台無しだよ、少年」
「…………………」
「とりあえず」


そこでティキの唇が少しだけ持ち上げられる。
それは笑みと呼ぶには酷薄すぎて、アレンは凄まじい怖気を感じた。


「彼女を離せ」


空気を切ったノアの脚が腹部を目がけて襲ってくる。
無造作に見えて霞むような速さの蹴りに、アレンは激痛を覚悟した。
目を見開いて唇を噛む。
その視界に、金髪が舞った。


「「!?」」


驚愕したのはアレンもティキも同じだった。
何故ならが抱きしめられた状態から無理に反転して、アレンとティキの間に己の体を割り込ませたからだ。
ティキの蹴りはの背に深く食い込み、激しい勢いでその身を弾き飛ばした。
少女の唇から押し殺した苦鳴があがる。
体が弓なりにしなって大きな打撃音が響いた。
アレンは彼女に庇われて痛みこそ感じなかったものの、衝撃だけは同じように受けて、呼吸を忘れる。
二人は一緒くたになって転がってゆく。
崩れ落ちた瓦礫の山にぶち当たって、ようやく止まったときも、はその小さな体で必死にアレンを庇いこんでいた。


「な、……に……して……!」


馬鹿じゃないのかと思う。
アレンの体が怪我で上手く動かないのをいいことに、は最低の仕打ちをした。
こんなの自分が受けた方が痛くなかった。
こんなのは、堪らない。
怒りとか苦しみとかどうしようもない感情が這い上がってきて、アレンはの肩を掴んだ。
そのまま引き剥がそうとするけれど、耳元で鋭く叫ばれる。


「動かないで!」


は激痛と目眩に全身で息をしていた。
それでも懸命に動いてアレンを拘束する。
寝返りをうつように勢いをつけて、床へと押し倒される。
アレンが拒絶してもがけば強く強く抱きこまれた。
これでは動けない。
暴れたりすればを少なからず傷つけることになる。
どうしようもなくてアレンは叫んだ。


!」
「駄目よ」
「どいて、こんなのは……!」
「駄目」
「嫌だ、どいてくれ!」


激突した衝撃で崩れた柱の破片が降ってくる。
それがアレンを抱きしめるの体を痛めつけてゆくから、アレンはもう容赦なく叫んだ。


「どけ!!」
「駄目だって言ってるでしょうが!!」


同じだけの激しさで怒鳴り返されてついでに、拳を顔の横に叩きつけられた。
耳元で一気にまくしたてられる。


「ちょっと今いっぱいいっぱいなのよ、黙っててよ!痛いし、寒いし、目の前ぐるぐる回ってるし、アレンは暴れるし、何か血まみれだし、全部ぜんぶ私のせいだし、あぁもう最低だ!本当に最低最悪だ!!」


こんなにたくさん血を流して、あんなにひどく胸の傷をえぐられて、それで何でこんなに元気なんだろうとアレンはちょっと考えた。
でもすぐに結論を出す。
どうせまた意地を張って必死に耐えているだけだ。
だって触れたところから全て、喘ぐように震えている。


「だからどけよ!」
「だから駄目よ!」
「いい加減にしろ!!」
「そんなの出来たら、あんたの仲間じゃない!!」


叫ぶと同時には血を吐いた。
アレンはそれと告げられた言葉に声を失う。
ぜいぜいと耳障りな呼吸音を出すは、背を蹴りつけられたせいで骨が肺に刺さっているのではないかと思う。


「ここで苦痛に負けて、恐怖に屈して、守るための手を緩めたら…………それはあなたの仲間じゃない」
「……………………」
「それは、私じゃない」


アレンが沈黙すれば、はそっと身を起こした。
両手はいまだにしがみついているけれど、少しだけ体を離す。
血まみれのアレンを、同じく血まみれのが床へと組み敷いていた。


「それは、あなたが取り戻してくれた“”じゃないよ。アレン」


金色の瞳が覗き込んでくる。
わななく指先が伸びてきて、頬に触れた。
失われた左眼を撫でれば、は唇を歪めて、嗚咽のような吐息を漏らした。
「ごめんなさい」と掠れた声がもう一度囁いた。
それだけでアレンの胸は切なさに貫かれる。


「動かないで。じっとしていて。もう傷つかないで」
「…………
「もう、傷つけさせない」
「………………」
「守るから」


本当に光みたいな双眸が、泣きだしそうに微笑んだ。
アレンはそれを見て左頬を何かが流れるのを感じた。
それは気のせいだったのかもしれない。
血だったのかもしれない。
涙だったのかもしれなかった。
の微笑みが眩しくて、心が破れそうなほどに苦しい。


「私が、守るよ。アレン」


そっと囁いたは、目を見開いたアレンを優しく抱きしめた。


「“私の大切な仲間”」


光に、包まれたみたいだった。
あまりに暖かくてアレンは動けない。
逆らえない。
こんなぬくもりなんて知らなかった。
こんな風に抱きしめられたことなどなかった。
強く満たされると同時に激しい渇きを覚える。
もっと、と求めるように手を伸ばそうとするけれど、何故だか体は動かない。
その間には微笑みだけを残して立ち上がった。
震えを殺して歩き出す。
向けられた背に、アレンはハッとして後を追おうとした。
けれど立ち上がれない。
先刻もアレンを引き止めたのはこれだった。
振り返ってみると、崩れた柱と床の間に足が挟まっていた。
痛みはないけれど固く拘束されていて抜け出せない。
イノセンスを無理にでも発動して砕こうかと思ったときには、アレンの横たわる場所一帯が黒い光の盾に包まれていた。
宝石を模した防御壁に思わず手を打ち付ける。
奇妙な弾力があって弾き返された。
これはの創り出した護り、『守葬しゅそう』だ。
光を展開して作り出す盾とは違って、技となれば以外は出入り不可能。
アレンは彼女の作り出した守護領域に、完全に閉じ込められてしまったのだった。


「そんな……っ」


これでは床に這いつくばったまま、敵に立ち向かうを見ていることしか出来ない。
本当に最低最悪の仕打ちだと思う。
アレンは自分を守る盾に力の限りで拳を叩きつけた。


ッ!!」


その名の主は、ただ金髪をなびかせて前へと進む。
仲間の声に振り返りはしない。
守るために、繋ぎとめてくれた尊いそれすら耳を塞ごう。


そうしては、己の敵と真正面から対峙したのだった。




















「吐き気がする」


喘鳴を繰り返すの唇が、そんな言葉を言い捨てた。
ティキは暗紫色の瞳を細める。
フラフラとおぼつかない足取りで歩いてくる少女は、確かに限界を超えているようだった。
そもそもアクマに精神を侵され尽くしていたのだ。
間一髪のところで救われたようだが、それでも心身ともに重症だろう。
心の闇を余すことなく暴かれ、全身の血液を奪われ続けていたのだから。


「無理するなよ、お嬢さん」


ティキは優しい口調で、冷ややかに言い放った。
アレンとに距離ができたことで幾分溜飲は下がったが、やはり腹立たしいものは腹立たしい。
暗い笑みを浮かべてを睨みつける。


「わざわざ用意したアクマだったんだぜ。ロードの攻撃が通じないのならば、今のお前では何ひとつ暴けない。だからああやって巻き戻すことで、お前を弱くしてやったのに」
「…………………」
「脆弱でちっぽけなお前なら、何もかもさらけ出せるだろ?意地も自尊心も失って楽になれた」
「…………………」
「それだっていうのにな……。あっちの少年といい、お前といい、どうしてそこまでして足掻くんだよ。くだらない抵抗だ」
「本当にくだらない」


虚ろな瞳で近づいてくるが、唐突に強くそう言った。
ティキは反射的に黙り込む。
声は続く。


「くだらない。くだらなすぎて吐き気がする。こんな自分」
「…………………」
「過去も現在も一緒よ。私が囚えられているものは、同じ。何ひとつ変わらない……」


だからこそ、吐き気が止まらない。
そう思いながらは血反吐を吐いた。


「この怪我も、アレンの傷も、仲間たちへの罪悪感も、全部。すべてが私の弱さ。私の愚かさが招いた結果よ」


喋る内も呼吸音が耳障りだ。
喘息が混じっていて、口元を覆った指の間から血が吹き出す。
ぞっとするような咳を何度か繰り返した後、は手の甲で乱暴に唇を拭った。


「だから、許さない。こんな醜さを投げ出しはしない。…………全力で、贖う」


そんなことで償える罪ではないけれど。
どれだけ苦しくても、辛くても、決して膝をつかないでいよう。
敵の前に起立し続けよう。
私の心を荒らし、踏みにじったこと。
そして何より、アレンを害し途方もない痛みを刻み付けたことを、許さない。


「殺すわ」


が言い放った瞬間、ティキは全身が粟立つのを感じた。
目を見開いて眼前の少女を見つめる。
は足を止めて、真っ直ぐに起立していた。
燃え盛る金の双眸がこちらを見つめている。
射抜いてくる。
これだ。
ティキは歓喜にも似た感覚に心を震わせながら思う。
この瞳、眼差し。
出逢ったあの日から今日まで、ひとときも忘れることのできなかった、凄まじい視線。
口調も表情も静かで無と言っていいほどなのに、両の眼だけが違う。
確実に違う。
こんな眼をする人間が他にいるものか。
獣のように激しく、女神のように気高い。
息の根を止める刃としての金色。
それは敵である自分と同時に、自身にも向けられているようだった。


「私は“私”を殺す。弱さを葬って、強さを手に入れる」


欠片も躊躇わずに己の脆弱さを責め、その心を殺す姿は圧巻だった。
どうすればここまで自分という存在に無慈悲でいられるのだろう。
今、彼女は引きとめる全ての手を振り切って、孤独の内に立っていた。


「そしてあなたを壊す。その心臓に、破壊の刃を突き立てる」


は一度右腕を振った。
そうしてそこを流れていた血を散らす。
床に赤い花がいくつも咲いた。


「決着をつけしょう、快楽のノア」
「…………いい顔だ。ゾクゾクするね」


ティキは思わず心からの笑みをこぼしたが、の様子を見て肩をすくめた。


「けれど、その体で戦うつもりか?度胸は認めるが、お嬢さんには万に一つも勝ち目はないぜ」
「いいえ、負けは存在しない」


心配するフリをするティキに、は静かに目を伏せた。
わななく左手が持ち上がり、胸元のロザリオを掴む。
鎖を引き千切る音が響いた。
イノセンスを使うことはわかっていたから、ティキは唇の端を持ち上げて眺めているだけだ。
の右腕が真っ直ぐに掲げられる。


「イノセンス第2開放」


追悼ついとう無式むしき


鈴のように澄んだ音が空気を震わせた。
掲げられたロザリオが落とされ、袖に触れた瞬間に形状を変える。
光の粒子、銀色の螺旋がの肘下を纏う。
それは繊細な装飾が施された籠手となり、腕に装着された。
は手の甲に輝く黒玉にそっと口づけた。


「それで、どうする?」


ティキが笑んだまま皮肉気に訊く。
その程度ではやはり勝ち目はないと、言外に告げる。
を眺める瞳は期待に満ちていた。
冷ややかながらも燃え上がる視線で、どう抵抗するつもりなのかを楽しみに見ている。


は図らずもそれに答えるように、イノセンスを宿した腕を体の真横へと移動させた。
掲げられた黒玉が眩い光を放ち、刃を召喚する。
花びらのようであり、羽根のようでもあるそれは、一気に舞い上がった。


「イノセンス」


は語りかける。
瞳を伏せたまま、ただ己の能力へと。


「今なら、私に応えてくれる?」


静かに尋ねれば光刃はすぐさま収束し、形を成した。
それは鋭利な杖のようであり、槍のようであり、ただただ蠢く光の棒のようにも見えた。
歪ながらもひどく美しい。
幾本ものそれが平行に伸ばされたの腕、その上空に具現化した。


「そう……。だったら」


イノセンスからの肯定を受けて、は目を閉じた。
血がこびりついた唇が囁く。


「おいで」


主の招きに従って、教会の空に浮いた刃の群れは一層強い光を放つ。
その輝きで世界を支配する。
そして下降。


幾本もの凶器が、の腕へと一気に突き立てられた。


「「!?」」


あまりの事態に驚愕が重なる。
盾の中で息を殺していたアレンも、興味深げに観察していたティキも、限界まで目を見張った。


凄まじい鋭さを誇る光の刃、その集合体が、重力よりも早くを強襲したのだ。


籠手に覆われていようと防げるわけもない。
少女の華奢な腕は完全に貫かれて、肌も神経も突き破り、その向こうに煌めく先端を晒していた。
それを伝って零れ落ちてゆく大量の赤。
出血がひどい。
貫通の衝撃によろめき、踏ん張るの足元は深紅の海となっていた。


「何だ?自虐か?」


あまりに意味がわからなかったのだろう、ティキが瞬きを繰り返しながら呟いた。
アレンはというと声も出なかった。
ただでさえ血を流しすぎているのだ。
これ以上は命が危ない。
それなのに……!


「イノセンス!」


アレンの辛苦もティキの不審も遮って、が叫んだ。
呼び声は熱く激しく、応えはすぐさま現象となる。
の腕を無遠慮に貫通していた光の杖は、粒子を舞わせながら溶けるように滑るように、再び形を変えた。
同時にの体内も侵しているようで、破れた袖の隙間から白い肌が染まっていくのが見える。
皮膚の下を這い回る黒。
半身に植物の蔦のような文様が浮き上がってくる。
それはの右頬まで広がってゆく。
内側よりも外側の変化は顕著だ。
目に見える分部では、籠手の装飾に宿ってひとつの造形を現していった。


黒玉から出現した、巨大な刃。
手の甲を覆って伸びたそれは、光で構成されたつるぎだった。


それ自体が輝き、閃光を放つ長剣。
が腕を下ろせば、確実に床を斬り裂くほどの長さだ。
刀ではない。
かといってただの剣でもない。
籠手から伸びた手刀しゅとうなのだが、完全に常識の域を超えている。


「何だ……?」


大気を打つ波動に揺さぶられて、ティキが呟く。
は双眸を開いた。
その右頬は瞳をまたいで、額にまで奇妙な文様が浮かんでいる。
それは荊か蔦のようで、光る黒が絡みつくようにして、を侵しているのだ。


「お嬢さん、それは何の冗談だ?」


ティキは冷や汗のにじむ顔で微笑んだ。
は表情もなく言う。


「禁術よ」
「確かに禁じていた方がよさそうな雰囲気だな……、それは」
「8年前、グローリア先生とクロス元帥が封印を施してくれた能力」
「…………二人がかりかよ。しかも、よりにもよってそいつら」
「幼い私では、この術に耐えられなかったから」


笑みの中に苦々さを混ぜるティキに、は続ける。


「いくら適合者といえども武器化しなければイノセンスは扱えない。けれど私のイノセンスは、一切の加工を受け付けなかった」


そこで盾に手をついたアレンはハッと息を呑んだ。
不思議に思ったことがなかったわけではない。


何故、のイノセンスは武器化されていないのか?


彼女のそれはロザリオの形を取っている。
ただの祈りの道具であり、確実に武器ではないのだ。
十字架ではどう足掻いても戦えない。
しかしその黒玉から光の刃を放つのだから、形のない武器であるのだと結論付けていた。


(違うのか……?イノセンスが加工を許さなかったって……)


アレンが見つめる先のの背。


「原石が強力すぎたと聞かされた。人間の技術ではどうにもできないほどに」
「……それで?お嬢さんは同調シンクロすることで、武器化しろとイノセンス自身に命じたってことか?」
「その通りよ。私が死に物狂いで願い、イノセンスはようやく武器の形を取った。それが、これ」


はわずかに右手を持ち上げた。
籠手から伸びた、光り輝く黒い手刀。


「けれど戦うことはできなかった。イノセンスを武器へと転換するだけで、私の精神は限界だったのよ」
「…………そもそも、それができること自体がビックリ人間だけどな」


ティキはわざとおどけたように言ってみせたが、内容としては本気だ。
イノセンスを自らの意志だけで武器化するなどと、並の人間には絶対に不可能である。
は左手で右手の黒玉を押さえた。


「意識を保てず、立つことも叶わなかった……。制御を失えば、イノセンスは無差別に破壊を行う。私にはとても抑えられない。…………だからグローリア先生とクロス元帥が術で封じてくれた。そうしてこれを使うことを禁じたのよ」
「奴らはお嬢さんの性格をよくわかっているな。無理にでも封じなければ、お前は自滅していたぜ?他人を守るために、な」


ティキに真実を突かれて、少しだけの瞳が揺れる。
命を救うためにどんな無茶でもしでかしてしまう彼女を、グローリアとクロスは守ろうとしたのだ。
同時にその能力で周囲の者たちを傷つけたりしないように。


「…………グローリア先生が死んだあと、術が緩んだのを感じた。けれど破ることはできなかった。まだ、私にはそれだけの力がなかったから」
「そして今、ようやくそれに至ったってわけか」


ティキは苦笑と共に吐き捨てたが、は首を振った。


「いいえ。今もクロス元帥の封印は完全に解けていない。だから強制的に繋いだ」
「繋いだ……?」
「イノセンスと私の神経を接続したのよ」


そう言うの右腕からはいまだに血が流れ続けている。
あれだ。
先刻のあの槍の群れ。
を襲撃した光の凶器。
イノセンスで作り出したその刃を腕に突き立てることによって、彼女はイノセンス自身と己の神経を直接に繋げたのだ。
けれど、それは……!
暗い予感はアレンを震わせ、ティキを微笑ませた。


「随分と無茶をする……。イノセンスと自分の神経を繋いだ?装備型のお嬢さんが寄生型のように……部分的にとはいえ、一体化したって?」
「…………………」
「恐ろしい発想だ。それを平気で実行するとはな。信じられない……」


ティキはを狂気のように見つめ、口元を片手で覆った。
それでも笑みは隠しきれていない。


「どうやらお嬢さんは、侵されるのが好きらしい。さっきまではアクマに精神を。今はイノセンスに肉体を」


だからこその右半身は黒い文様で覆われているのだ。
あれはイノセンス。
その能力が人体を侵食している証。
ティキは唇を押さえていた掌を上に向けて離す。
指先がを差した。


「けれどそれは、自殺行為だ」


やっぱりと思って、アレンは強く唇を噛んだ。


「イノセンスと無理に繋がれば魂の負担となる。心が削られ、生命いのちを奪われるぞ」
「あなたが気にすることではないはずよ」
「オレはお嬢さんを心配しているんだよ。そんな無茶をすれば長くは持たない」


そしてティキの声がアレンを深く斬りつける。


「死ぬぜ?」


それは否定することなどできない真実だった。
イノセンスとは『神の結晶』、人智を超えた物質だ。
そんなものと神経をダイレクトに接続すればどうなるのか……。
結果は目に見えていた。
例え爆発的な能力を得られたとしても、人間の脆い精神と肉体が耐えられない。
アレンやクロウリーのように内側からならまだしも、外側から繋がったのでは反動が桁違いだ。
確実に心身を侵し、破滅に向うことになるだろう。


!!」


アレンは制止の意味を込めて彼女の名前を叫んだ。
向けられたその細い背は、わずかに微笑んだようだった。


「死なないよ」


囁く声があまりに優しくて、泣き出してしまいそうになる。


「死んだりしない。大丈夫」


アレンは震えた吐息を漏らしたが、続いた言葉の調子にそれを呑み込んだ。


「けれど守るために全てを懸ける。私の、すべてを」


は右手を振り下ろした。
長すぎる手刀は床を難なく斬り裂き、そこに突き立った。
黒い墓標のようだ。
の強い意志が、光を放って建っていた。


「私は異端者。罪を犯し、罰を背負った咎人。生も死も許されない存在だから、ただひたすらにこの世界を戦い抜く」


言葉は供物。
そして天と地に捧げられる。
それらを繋ぐ場所に、は独り、起立していた。


「全てが終るその時まで」


終焉はいつやってくるのだろう。
私はどこで終われるのだろう。
答えに辿り着くまで、闘争の手を緩めるな。


それだけが、世界が求める“私”の価値だ。


アレンの耳にの言葉が響く。
彼女はその口で、“死なない”と優しく告げた唇で、ひたすらに自分を責めていた。
アレンは愕然と悟る。
は死なない。
己の命を投げ出したりはしない。
けれどそれ以外の全てなら、平気で捨て去ってしまう気なのだ。
自分の精神も肉体も限界まで放り出して、それに苦痛と絶望を刻みつけようとしている。
あぁ、君は守るために全ての温もりを振り切って微笑んでいるのか。
は今、アレンを救うために、その優しい掌さえ置き去りにして立っていた。


ありがとうありがとうありがとう、そしてごめんなさい。
私のために呼んでくれたあなたの声を忘れない。
私のせいで負ってしまったあなたの痛みを許さない。
私が、必ず、守るから。
ねぇ、私の大切な仲間。


アレン。


音にならない声が心に響く。
アレンの左眼からは何度も血が落ちていった。
それは赤い涙だった。
言葉もなく、動くこともできずに、アレンは泣いていた。
やはりとの間を阻むのは、ノアの執着でもなく、アクマの能力でもなく、彼女自身だった。
最後にアレンを拒絶したのは本人でしかなかった。
彼女は痛みや苦しみをたった独りで背負おうとしている。
アレンを救うために引き止める手を拒み続ける。
繋ぎとめようとすればするほど、笑顔で呼吸を殺してゆく。
光や温もりは確かに分かち合えたのに、今では何もかもを苦しめるだけだ。


(今、君を傷つけているのは僕だ)


この存在のせいで、はひどい無茶を犯している。
壮絶な戦いへと身を投じようとしている。
もう何度目だろう、抱きしめたいと思った。
けれど遠ざかってゆく彼女に届くものをアレンは見つけられない。


(こんなにも強く願っているのに……。君は……、何よりもそれを遂行する君だけが、守らせてはくれないのか)


光の壁に突き立てた指が嫌な音をたてた。
あまりに力を入れすぎたから、爪がはがれてしまったらしい。
滲む朱での背に線を引く。
決して振り返りはしない、その存在に自分の跡を残したいと思う。


行くな、と心の中で叫んだ。


返答のように、の手刀が光を放つ。


「イノセンス……私の全てをあなたに捧げよう。さぁ、この魂を喰らって破滅を紡げ」


巨大な刃が黒い稲妻を纏う。
粒子が激しく舞い、ぶつかり合っては弾けて消える。
はそれを一気に振り上げた。
床の破片を散らし、それすらも消し飛ばして、墓標が向けられる。
その下に敵の亡骸を宿すために。
は刃の先でティキを示した。


「快楽のノア、“ティキ・ミック”に……永劫の別れを告げるために」


燃え盛る金色の炎は誰にも止められない。
凶器を向けられてティキは今までに見たことがないくらい、無邪気に微笑んだ。
片手を持ち上げ、へと差し出す。


「いいぜ。来いよ、“”」


ようやく互いの名前を呼び合った二人は、それが合図であることを知っていた。
世界で一番穏やかで、狂気に満ちた鬨の声。
ティキは心の底から愛おしそうに、指先でを招いた。


「踊ろうぜ」


そうして黄金の意志は放たれた。
世界に仇なす敵を狩るために。




アレンの視界が燃え上がる。










はい、そんなわけでヒロイン復活です。
アレンとヒロインが互いに呼び合ってイノセンス同士を共鳴させたわけです。
世界までも超えられたのは、彼らの想い強さに能力が応えたからでしょう。
あと今回ヒロインがノアを倒すために禁術に手を出しました。
これは腕に纏った籠手、そこの黒玉から手の甲を覆って巨大な刀身を伸ばしたものです。
表現としては手刀としていますが純粋な刀剣類ではなく、神田の刀やアレンの破魔の剣とはまったく違う形態です。
持ち手も鍔もありませんしね。
これについてはもうちょっと詳しく書ければと思っております。

次回はヒロインVSティキです。ヒロイン死にそうなんで、どこまでがんばれるか不安です。(苦笑)
相変わらずの戦闘・流血描写に加えて、ちょっとグロイところもあるかもしれません。
ご注意くださいませ〜。