砕け散った心の欠片、拾い集めて繋げよう。
けれど本当は少し怖かったんだ。
きっとそこに僕は居ないから。
ねぇ、君の鼓動で激しく刻み込んでよ。
● 蝶と口づけ EPISODE 10 ●
「が、っ……ぁっ……、は、…………っつ」
咄嗟に口を覆ったけれど、あまり意味はなかった。
指の間から大量に吹き出して、掌も頬も床さえも真っ赤に染める。
ひどく鮮やかな色彩と酸臭に目眩がした。
堪え切れずに崩れ落ちれば腹の底から塊がせりあがってきて、また鮮血を吐き散らかす。
「ぅ、ぐ……っ」
苦しくて息が続かない。
吐いても呻いても楽にならない。
涙か血だかで視界はぼやけ、このまま目を閉じてしまいたくなる。
その前に横から蹴りが飛んできたから、無理に左手を持ち上げて迎撃した。
破壊の反動で弾き飛ばされる。
もう受身もまともに取れなくて、アレンは床を何度も跳ねながら転がっていった。
「…………っつ」
駄目だ。
倒れるな。
必死にそう思うのに体が言うことを聞いてくれない。
どれだけ時間が経ったのだろう、アレンはすでにその感覚を失っていた。
ただひたすらに自分とを阻むアクマに挑み続けた。
数え切れないほどの敵を破壊し、同じだけ…………いやそれ以上の傷を負わされる。
脆弱な人間の体は悲鳴をあげ、不様に赤を撒き散らす。
先刻腹を攻撃されて以来、吐血が止まらない。
肋骨が砕ける音は聞こえたけれど、もしかしたら内腑まで損傷しているのかもしれない。
深紅に染まった吐息を見て不味いなと思う。
このまま肺に血が溜まれば、確実に息の根が止まる。
その時、床に倒れ伏したアレンに声が投げかけられた。
「おーい。死んだか?」
軽い調子で聞いてくるティキは、微動だにしていなかった。
アレンが此処へ来た時とまったく同じ場所…………十字架の横に立っている。
彼は呆れた目で遠くのアレンを見下ろし、それからを振り向いた。
表情は一変して、どこまでも愉快気になる。
「こっちはもうすぐだ。あと一歩でお嬢さんの過去がわかる」
「…………、い」
「ああ、楽しみだな。こんなにも待ち遠しいだなんて」
「ゆるさ、な……っ」
「誰もお前の許可なんて求めていないさ。血の流しすぎでおかしくなったか?」
「お前……っ、それ以上を踏みにじるな!許さないぞ……!!」
叫ぶ勢いを借りて身を起こそうとする。
けれど右腕の神経はとっくに千切れて使いものにならなくなっていた。
体重を支えきれずに肩から倒れこむ。
血溜りが跳ねて、アレンの白髪までも赤く染めた。
「くそ……っ、何で……!」
どうして思い通りに動かない。
自分の体が憎くて仕方がない。
いっそ切り離してやれば楽になるのだろうかと、本気で考えた。
「少年。お前はもう無理だよ。戦うどころか立つことも出来ない」
「…………!」
「そんな目で睨まれてもな」
鋭い視線を向ければ、ティキは軽く肩をすくめてみせた。
「今からそんなんだと、耐えられないぜ?……オレがこの後お嬢さんに何をするか、なんて」
「……っ」
「説明してやろうか?」
起き上がろうと必死にもがくアレンに、ティキは優雅に微笑んだ。
その笑みのまま片手を横に伸ばす。
指先での髪を掴むと、乱暴に引いて仰向けさせた。
「見せるほうが早いな」
ちらりと笑んだ視線をアレンに送って、ティキはに身を寄せた。
もう片方の手で左胸に触れる。
膨らんだ乳房を撫でて、その下に刻まれた傷をなぞった。
そして赤い血を溢すそこに、爪を立てて。
ゆっくりと指を突き入れる。
それはまるで、恋人に与える優しい愛撫のような仕草だった。
ただそれでは絶対に有り得ない、蠢く皮膚と吹き出す鮮血に、アレンは呼吸を忘れて総毛立った。
「やめ……っ」
「嫌だね。なぁ、少年。このまま手を突き入れれば、オレの能力を使わなくても心臓に触れられるかな?」
「やめろ!」
「触れてみたいな……お嬢さんの心臓。オレだけのものにしたい」
ぐちゃり、と濡れた音がした。
掻き乱された赤がの白い肌を汚してゆく。
ティキは金の光に酔ったように、熱い吐息をついた。
「あぁ、本当に……。握りつぶしてやりたいな」
そうして衝動のように指先に力を入れるものだから、アレンはとても耐え切れなくて声を張り上げた。
「やめろッツ!!!」
喉が潰れそうに痛んでまた血を吐いたけれど、一切目に入らなかった。
アレンは感覚のない右腕を懸命に動かす。
左手は激情に反応して、見る見るうちに造形を変えた。
頭の中が自分の叫び声で満たされる。
やめろやめろやめろ、もうやめてくれ。
これ以上は我慢できない。
何とか床に腕を突き立てて、身を起こした。
全身が激痛に震えてどうしようもなくて、それでもの心臓がえぐられる様を見ていられるはずもなかった。
あのノアはの過去を暴きたいのだから、こんなのは格好だけで、まだ殺すはずはないとわかっていたのだけれど。
(もう誰も、を傷つけるな……!)
彼女を損なうと思うと、恐ろしくて苦しくて、心が壊れそうになる。
呼吸なんて出来るはずもない。
怖い。
もう子供でもないのに泣き出してしまいそうだった。
こんなのマナに見られたら笑われる。
男の子が泣くなって、頭を優しく叩かれる。
だったら何て言うかな。
きっと何にも見ないフリをして、馬鹿な話を始めるだろう。
少しでも僕の心が楽になるようにって、隣で明るく笑い続けるんだ。
…………そんな君は、絶対に、泣かないのだけど。
今は涙どころか、の全てに触れることが出来なかった。
こんなにも抱きしめたいと願っているのに、どれだけ手を伸ばしてみても届かない。
涙で、視界が、霞む。
そこに突然、金色の球体が飛び込んできた。
「うわっ」
快楽のノアが驚いた声をあげる。
「ティム……!」
アレンはノアの顔面に突撃し、の胸から手を引かせたゴーレムの名前を呼んだ。
思わず後ずさったティキに、ティムキャンピーは体当たりを繰り返す。
小さい体ながら猛スピードでけしかけてくるため、衝撃はそれなりだったようだ。
ティキは痛む鼻を押さえながら、ゴーレムの尻尾を捕まえた。
「何だ、コレ」
宙ぶらりんにされても、ティムキャンピーは戦意を失わなかった。
鋭い歯をむき出しにしてティキを威嚇する。
そしてその手から逃れると、を守るように彼女の前で大きく翼を広げて見せた。
ティキはそれを見て微笑を浮かべた。
「ヒーロー気取りか?それにしては随分と小さい……」
「どれだけ小さくても、の仲間だ」
ティキの声をアレンは遮った。
みっともなく乱れていた心に凪がくる。
少しだけ微笑む力を取り戻す。
だってノアの言う通り、あんな小さなティムが戦っているのに、自分が立ち上がらなくてどうするんだ。
アレンは今度こそ起立しようと、脚を床に突き立てた。
「だから、絶対に守る」
なぁティム、と囁けば当たり前だとばかりにゴーレムは空中で一回転をきめた。
ティキは面白くなさそうに口元を歪める。
「…………仲間だの、助けるだの、守るだの……いい加減に聞き飽きたな」
そうして立ち上がったアレンに、呆れの吐息をついてみせた。
「何も知らないくせに、どの口が言うんだか」
「………………」
「少年はお嬢さんの本名を知っている?歳は?出身は?家族は何人?どれかひとつでも知っていたら教えてくれよ」
「………………」
アレンは黙っていた。
どれも答えることができなかったから、沈黙するしかなかった。
ティキはますます呆れたように首を振る。
「何ひとつ自分を語らない人間を、どうして信用できる?敵なら暴いてやりたいと夢中になるが、味方なら気味が悪いだけだろう」
言いながらティキは無造作にティムキャンピーを捕まえた。
抵抗も無視して拳で握りこむ。
ジタバタ暴れる金色の羽根が、夕焼けの光を弾いて輝いた。
「正体が知れない存在だ。どれだけ笑顔を向けられても、本質が見えない。相手が手の内を明かさないから、こちらも心を許せない。違うか?」
ぎゅっと手に力を込める。
ティムキャンピーの抵抗がさらに激しくなった。
ティキは意に介さず、指先についたの血を舐め取った。
「ホント……このお嬢さんには感心したよ。少年は一体どうやって騙されたんだ?」
「騙された……?」
「顔か?すっげぇ美人だもんな。可愛いから、庇ってやりたくなった?王子さまでもなったつもりか?それとも熱心に口説かれたとか」
アレンにはティキが言いたいことがサッパリ掴めなかった。
顔がどうのとか可愛いからとか、そんな風にを括ったことはない。
造作は綺麗だと思うけれど、だからといって彼女を見る目が変わるわけではなかった。
口説かれたというのはもっての他だ。
は美形の神田やラビと、友達として平気で付き合うような女の子なのだ。
自分など眼中外だろう。
そもそもクロスを初恋だの何だの言っているが、彼女が本気で恋をしているところなど想像できない。
とにかく“に騙される”とは、どういう意味なのかわからない。
アレンは低く訊いた。
「……何が言いたい」
「こんな女、“仲間”と呼ぶ価値はないだろうってことだ」
あっさりとティキは答えた。
アレンはやっぱり意味がわからなかった。
ただ言葉の意味は理解できたから、全身を強張らせる。
「何だと……?」
「だってそうだろ。彼女は本当のことを言わない。沈黙で身を守り、嘘で誤魔化す。そんな人間が“仲間”?冗談だろ」
呼吸を殺したアレンに、ティキは首を傾けた。
「オレは間違ったことを言ってないぜ」
当たり前の口調で続ける。
「教団の奴らだって、そう思っている。さっき見た記憶で同じことを言われていた。“こんな得体の知れない女、仲間なものか。信用できない”ってな」
「…………っ」
「どれだけ可愛い姿をしていても、この女は異端者だ。本名も名乗れない、異質な存在。本来は排除されるべき者。…………そんなのが“仲間”、ねぇ。オレだったら気持ち悪くて耐えられないけどな」
見下すような暗紫色の瞳。
「そんな人間を“仲間”だと呼べるとは……少年は随分と純情なんだな」
ティキはアレンに微笑みかけた。
それは完璧に相手を嘲笑うものだった。
「やっぱり騙されているとしか思えない。なぁ、少年。お嬢さんはお前を“仲間”だと呼んだそうだが、その言葉が本心だったって、証明できるか?」
アレンは目を見開いた。
その双眸を、ティキの視線が貫く。
「本当のことを何ひとつ言わない女の言葉なんて、簡単に信じるなよ。優しくして欲しい、守って欲しい…………だから嘘をついたのかもしれないだろう」
「…………………」
「あれだけないがしろにされて生きてきたんだ。自分を飼い殺しにする『教団』を、逆手に取ったのかもしれないぜ?この綺麗な顔と、可愛らしい声を武器にしてお前に縋った」
「…………………」
「浅ましい女だったら、どうする?」
「…………、が?」
そこで思わずアレンは笑ってしまった。
怒りも何もかも通り越して、ティキと同じような嘲笑を浮かべてしまった。
ああ、いけない。
品行方正な僕がなんて表情を。
そう考えるけれど、口元から笑みは去ってくれなかった。
「が僕に縋った?嘘をついたって……優しくして欲しいから?守って欲しいから?…………が?」
自分の声で繰り返してみると、ますます笑えてきた。
アレンは耐え切れなくなって声をあげて笑い出した。
「ははっ、あはははははははは!何ですか、それ。最高の冗談だ」
ティキは自分を揺さぶろうとしているだけだということはわかっていたけれど、アレンは構わず続けた。
「随分とくだらないことを言う。貴方は僕よりも付き合いが長いと言っていたけれど、彼女のことを何も見ていなかったんですね」
「……・へぇ。そう思う根拠を聞かせてもらおうか」
「簡単な話です。それは“”だからだ」
すいっと細められた男の瞳を、アレンは笑顔で睨み付けた。
「その馬鹿がそんな姑息なことを考え付くものか。いつだって全力で、真っ直ぐにぶつかってくる。見返りを求めて行動できるほど、頭がよくない。考える前に動き出してる」
「…………………」
「相手を傷つけないように、重荷にならないほうに必死になるのは当たり前で。さんざん駆けずり回った後は、意地を張って誤魔化そうとする。誰が見てもわかるのに、顔を真っ赤にしてそれを隠すんだ」
「ふぅん……、このお嬢さんがねぇ………」
「それに、“守って欲しい”だって?有り得ない。はそんなことを考えない。彼女ほど守らせてくれない人間を、僕は知らない」
本当に、知らなかった。
たまにの持ついじらしさがどうしようもなくて、ひどく甘やかしたくなる時がある。
けれど彼女はそれを許してくれない。
反対にみっともないほど甘えてしまいそうになって、全力で踏みとどまる。
はきっと受け入れてくれるけれど、そんな自分を認められるはずもなかった。
一方的すぎて、恥ずかしかった。
悔しくて、も僕を求めてくれたらいいのにと馬鹿みたいなことを真剣に考えた。
「僕が純情だって?馬鹿げている」
アレンは目眩と戦いながら吐き捨てた。
今やの半裸身を飾る赤薔薇は、胸の辺りにまで達していた。
立ち眩むほどに美しい光景に反吐が出そうだった。
「僕は優しくない」
リナリーのように。
が過去に戻れるまで待ってあげられるほど、優しくはない。
「何も確かじゃない」
ラビのように。
遠い未来、生涯ずっと傍にいられるような、確証はない。
「強くなんていられない」
神田のように。
今在る彼女だけを見つめていられるほど、強くはない。
「僕は醜い」
本当は認めたくなんかなかったけれど、今や浅ましいほど彼女を求めているのが真実だった。
触れるなとノアに言い、傷つけるなと教団に思った。
そのくせ自分がそうしたいと願っている。
を抱きしめて、あの傷跡をなぞりたい。
僕だけにさらけ出せばいい。
あんな過去の涙だけじゃ足りない。
本当の君が、見たいんだ。
助けたいとか守りたいとか、綺麗な言葉だけではすでに心に追いつけなくなっていた。
そんなのではここまでひどい痛みの中で立っていられるわけもない。
ノアに責められるたび、その闇を知るたびに、もっと深い気持ちに気付かされる。
鮮明になってゆく。
必死に目を逸らそうとしてきたけれど、抗うこともできないくらい強烈な想い。
ごめんね。
僕は、もう。
ただ、君を暴くのは僕でなければ嫌だと思っているだけなんだよ。
ノアにも教団にも、リナリーにもラビにも神田にも、誰にも譲りたくない。
そんなことを、考えてる。
「僕は、気持ちひとつで傍にいられるほど、綺麗なんかじゃない……!」
愛とか友情とか興味とか憎悪とか、そんな単純な感情だけで君を望んでいるわけじゃなくて。
こんなのは最低だと思う。
守りたいと言いながら、傷つけるなと威嚇しながら、自分でそれをしてやりたいと願っている。
だって悔しくて悔しくて仕方がなかった。
リナリーとかわした笑顔も、ラビとの抱擁も、神田との誓いも。
教団の残酷な仕打ち、ノアの暴力だって羨ましかった。
は僕の嘘の笑顔を見抜いて、造り物の感情を破壊した人物だ。
こんな風に気持ちをかき乱されて、支配されたのは初めてだった。
同じようにしてやりたかった。
の全てを、自分のものにしたかった。
だって、僕だけだなんて、悔しいじゃないか。
この感情を世界がどう呼ぶのかなんて、どうでもいい。
それでも優しくできない僕は、何の確証もない僕は、強くいられない僕は。
どこまでも浅ましく、醜い僕は。
「こんな僕だから、自分勝手に物を言うよ」
あの金髪の少女は“仲間”。
僕の“家族”。
だから守りたい、助けたい、傷つけたい、暴きたい、抱きしめたい。
矛盾した気持ち、けれど同じ強さの願望。
ひたすらに、君を奪い去ろうとする世界を許すものかと思うよ。
「は、誰にも、渡さない」
それが何よりもアレンの心に巣食った感情だった。
懸命に認めまいとしたけれど、無駄だった。
が関わると全く自分が取り繕えない。
良い意味でも悪い意味でも、素直にさせられる。
抵抗など無意味で、本当にどうしようもない。
ねぇ、君のせいなんだから責任を取って。
「」
囁いた声は、世界に響いた。
ティキは反射的に捕まえていたゴーレムを離した。
金色のそれも、何だか呆然と空中を漂っている。
ぞくり、とする。
見下ろすと、袖から覗く肌が粟立っていた。
それほどまでにアレンの発した音は熱かった。
激しく、陰鬱で、どこまでも真っ直ぐ光を求めている。
やはり、純粋だと思った。
ティキは“死”や“恐怖”や“絶望”以外に、ここまで強い感情を目の当たりにしたことがなかった。
これが人間の抱く心なのだろうか。
下手をすると相手ごと破壊しそうなものだ。
思い出すのはの瞳だった。
こちらを見上げる彼女の双眸に宿った光。
陰を抱いて燃え上がる透明な炎。
己の身すら灼き滅ぼしそうな、鮮烈な意思の塊だ。
「…………、本当にお嬢さんには感心するよ」
ここまでの感情を自ら抱き、他人にも与えたのだから。
ティキは強く拳を握って、ざわめく自分を押さえ込んだ。
ただひたすらを見つめ続けるアレンに言う。
「聞けば聞くほど、よからぬ感情を抱くな」
そうして微笑を浮かべると、軽く床を蹴った。
「!?」
次の瞬間、アレンは跪かされていた。
ノアの動きは目に入っていたのに、まったく抵抗できなかった。
再び床に膝を落とす。
無理矢理に仰向けさせられる。
瞬きの間に距離を詰め、眼前に出現したノアの冷たい笑顔。
の血で濡れた彼の手が、アレンの首を乱暴に掴んだ。
「……ぅ、ぐっ」
「オレのほうが付き合いが長いのに、お前のほうがお嬢さんを語れるって?そんなのは……」
絡みついた指先が万力を発揮する。
アレンは自分の首の神経が嫌な音を立てるのを聞いた。
ティキは激しい力でアレンの喉を締め上げた。
「妬けるな」
そっと顔を寄せられる。
快楽のノアは金髪の少女にしたのと同じように、アレンに低く甘く囁いた。
「それはオレの台詞だよ、少年。彼女は、誰にも、渡さないぜ」
白髪のエクソシストは、その闇色の宣言を自らの血溜りの中で聞いたのだった。
唐突に引き起こされた。
眠りから目覚めるように、意識までも引き戻される。
思い出の全てを失ったにとって、もはや残るものは何もない。
だからこのまま消えてしまえると思っていたのに、誰かに強く腕を掴まれ、強制的に立たされる。
は驚きに目を開いた。
けれど自分を捕まえる人物の顔は見えなかった。
黒く長い衣服で全身を覆い、闇と同化している。
不気味な容貌に寒気を覚える。
その裾に刻まれた紋章で正体を知り、さらに肌が粟立った。
(中央庁の……っ)
痛いくらいに手首を捕まれ、引きずるようにして歩かされる。
転びそうになっても気遣う素振りは一切なかった。
物を運ぶかのような手つきだ。
はこれがいつの記憶か思い至って、呼吸を忘れた。
何か恐ろしいものがそこにはあった。
頭上から圧し掛かり、全てを覆い隠してしまうような恐怖だ。
それでも正体が掴めない。
このときはまだそれを知らなかったのだから、思い出はそのまま流れてゆくしかない。
前を行く人物はふいに足を止め、腕を振るっての体を投げ出した。
突き飛ばされるような形で床に落ちる。
手足を強く打ち付けて、はうずくまった。
「……っつ」
「連れてきました」
「ご苦労」
痛みに呻く少女の頭上で言葉が交わされる。
いつの間に出現したのか、幾人もが自分を取り囲む気配。
男性が多かったけれど女性も居るようだった。
は身を丸めたまま、怯えた目でそれを見上げた。
「へぇ。この子が……」
「例の少女です」
「可愛い顔して、まァ」
「しかし、もうまっとうには生きていけまい」
「いいや。生かすわけにはいかないのだ」
浴びせられる言葉は、まるでここにがいないかのように続いた。
そこから急激に声は温度を失い、呼び名すら変化する。
「“これ”の処遇は頭を悩まされた」
「私は今でも殺すべきだと思っている」
「しかしエクソシストだ」
「死なせてしまえば世界の損害」
「けれど、生かしておくのも問題がある」
「間違っても野放しには出来ない」
「監視を。絶対に目を離すな」
「自由は許されないぞ。化け物め」
闇に朗々と響くそれは、やはりを頭から飲み込むほどの恐怖だった。
自分がどんどん小さくなってゆくような錯覚に陥る。
それとも彼らが大きくなっているのか……、どちらにしろはただじっと息を殺しているしかなかった。
自分は明らかに弱者で、発言も意思も何もかもを許されていなかったのだ。
「法に逆らっている……。教皇はどうお考えか」
「本来ならば異端の徒として葬るところだ」
「お言葉は頂戴した。“これ”をエクソシストとして存在することを許可すると」
「つまり、それ以外は認めないのだな」
「どうやらマイナス面だけではないようだ」
「そうだ、そうだ。いいものを得たと考えよう」
時間が経つにつれ巨大化してゆく影は、声に歓喜を含ませた。
顔を見合わせ頷きあう。
を見る目が、確実に人間に対するそれではなくなった。
「“これ”ならどう扱おうと問題にはならない」
「他のエクソシストでは批判が起こるが」
「まったく、人間の尊厳とは面倒だ」
「だから“これ”を使おう」
「“これ”で実験しよう」
「普通ではない“これ”で、普通ではできない実験を」
やろう、やろう、と子供のように邪気なく言い重ねる。
一人が手を伸ばしての胸倉を掴んだ。
乱暴な手つきに怯えて抗えば、ひどく無造作に頬を張り飛ばされた。
一瞬、何をされたかわからなかった。
反射的に苦鳴を漏らせば、返す手の甲がもう一度襲ってくる。
「驚いた。お前に拒否する権利があるとでも?」
「何という思い上がりだ」
「早くしろ。こっちだ」
痛みに硬直したは、もう悲鳴すらあげられなかった。
恐ろしくて恐ろしくて、声が出なかった。
それでも息が乱れればうるさいと顔面を殴られ、体が震えればちゃんと歩けと背を打たれた。
そうしてまた投げるように固い台の上に落とされる。
「始めよう」
弾むような声は、科学者のものだったと思う。
「エクソシストの体はどこまでの衝撃に耐えられる?」
「痛みではどうだ?水圧は?いろいろと試したい」
「どんな状況でも戦えるのなら、こんなに素晴らしい兵器はないぞ」
「精神面も気になるところだ」
「錯乱状態でも発動は出来るのか?」
「薬を飲ませろ。体を麻痺させ、呼吸を困難にするんだ」
「幻覚作用のあるものもいい」
「ああ、こんなことまともな人間相手にはできやしない」
「今まで我慢してきたかいがあった」
口々に言葉を吐き、ひとつの手がに触れた。
顎に指をかけられ持ち上げられる。
暗くて見えはしないのに、目の前の人物が微笑んだことがわかった。
「お前はエクソシストだが“人間”ではない。全ての尊厳と権利を失った、異端者だ」
化け物め、魔女め、と罵られ続けて、それでもこれほどまでに怖気を感じたのは初めてだった。
は瞳を見開いて、全身を震わせた。
自分の体を抱きしめる。
そうしてようやく気がついた。
細く小さい手足と、平らに近い胸。
この時まだは、本当に幼かったのだ。
そんな幼女を、教団の人間は容赦なく引き裂いた。
「さぁ、思う存分その体を提供してもらおうか」
言うが早いか、あらゆる方向から手が伸びてきた。
を捕らえ、押さえつけ、闇のように肢体に絡みつく。
小さな子供の抵抗などないにも等しく、見る間に衣類を引き剥がされた。
家畜のように転がされ、鎖で繋がれる。
少しでも抵抗すれば拳を浴びせられ、苦痛と絶望に体は完全に拘束された。
(怖い怖い怖い怖い怖い……!)
心の中で叫び続けた。
唇を噛み締めて、あまりに惨い現実に瞼を閉ざす。
叩きつけられた寝台に爪を立てて、必死に救いの手を求めた。
(助けて……)
私はずっと、此処に囚われていたわけじゃない。
この暗い部屋から連れ出してくれたのは誰だったのだろう。
教皇にも中央庁にも教団にも逆らって、私を掴んでくれたのは一体。
もう記憶はないのには懸命にそれを捜した。
銀色だ。
銀色の光が助けてくれた。
そう何かが囁くのに、輝くものなどどこにも見えない。
は真実の闇に包まれて、もはや幼子らしく庇護者に縋ることしかできなかった。
(たすけて、姉さんたち)
右手を繋いでくれた、強い姉。
左手を引いてくれた、賢い姉。
(たすけてたすけて、母さん)
そっと抱きしめてくれた、優しい母。
(たすけてたすけてたすけて、父さん)
いつも微笑んでくれた、穏やかな父。
けれど愛していた世界は遥か彼方で、隔絶された冷たさには苛まれる。
光は、あまりにも、遠い。
(どうして、誰も応えてくれないの……)
「だってあなたに家族なんていないでしょう?」
突然に返事を投げつけられた。
幼い女の子の声だった。
自分だって小さなものだけど、もっと年下のようだった。
は好き勝手に弄ばれて感覚の虚ろになった体を動かし、仰向けになった。
見上げた先に白い顔がある。
造作はよく見えなかったが、頭の横に立ってこちらを見下ろしている。
(だれ……?)
この暗黒に満ちた場所に、こんな小さな子がいるはずがなかった。
いいや、居ていいはずがない。
無理矢理に飲まされた薬のせいでまだ幻覚を見ているのかと思う。
けれど彼女はまた口をきいた。
「誰も助けてくれないよ」
「…………」
「誰もあなたを助けない。大切な笑顔も、最高の戦友も、たったひとりの親友も、銀色の光さえ失ったあなたなんて、何の価値もないもの」
「………………」
「そうやって、実験に使ってくれるだけ良かったと思いなさい。誰かの役に立てているのだから」
「………………………」
「ねぇ、それにみっともなく家族を呼ばないで。あなたにそんなものはいないじゃない」
言っている内容は残酷なのに、口調からはそう思えなかった。
彼女は子供らしい無邪気さで、ただ真実を教えてくれているだけだった。
「“”に家族なんていないじゃない」
ああ、そういえばそうだったと思う。
“”は“私”が独りで生み出したものだから、血の繋がった家族など居るはずがなかった。
どうしてそんな勘違いをしていたのだろう。
わからない。
それよりも強く思うことがあって、は顔を歪めた。
見下ろしてくるこの少女に激しい嫌悪感を抱いてしまったのだ。
ひどいことを言われたからではなく、ただ純粋に存在そのものを拒絶する。
「あなたは私が嫌いなのね」
醜い感情は、少女にすぐさま見抜かれた。
見上げる先で長い髪が揺れる。
どうやら首を振ったようだ。
「でもお生憎さま。私のほうがあなたを嫌いよ」
そう告げる声には、と同じくらいの嫌悪が含まれていた。
「嫌い嫌い嫌い。あなたなんて大嫌いよ、」
負の感情が降ってくる。
何も隠さない幼さで、真っ直ぐにぶつけられる。
ふいにそれは実体を伴って、の頬に落ちてきた。
ぬるり……とする。
液体だ。
涙かと思ったけれど、匂いでそうではないと知る。
「なんて大嫌い」
それは、血だった。
真っ赤な真っ赤な、命の雫だった。
「だって、あなたは私を殺したんだもの」
は金色の双眸を見開いた。
見下ろすそれも同じだった。
まったく同一の瞳が、を見つめていた。
ああ、やっと顔が見えた。
無遠慮に頭の横に立って、こちらを見下ろしている小さな女の子。
頭から眼球から唇から、鮮血をこぼすその姿。
「あなたが“私”を殺したのよ、“”」
の顔が、を見下ろしていた。
いいや、それは“”になる前の自分だった。
“”になるために殺した、過去の“私”。
まだ人間としての尊厳と権利を有していた頃の。
血がこぼれてに落ちかかる。
髪を顔を視界を真っ赤に染めてゆく。
この手で殺した存在の命に溺れてゆく。
やはて血液は酸素を孕み、黒く変色していった。
最後に見えた幼い頃の自分の顔は、泣き出しそうに歪んでいた。
「ひとごろし……!」
私は殺されたくなかった。
死にたくなかった。
消えてしまいたくなかった。
存在して、いたかったのに。
そんな小さな“私”の哀願が、今の“”を貫いた。
あぁ、何て暗黒に染まった世界。
一方的に断ち切ったいくつもの絆が、澱んだ黒の底から“”を見ている。
じっと暗い目で見つめている。
逃れられない。
(私のよ)
今はもう見えなくなった、過去の自分言う。
(姉さん、母さん、父さん。みんなを呼べるのは、あなたじゃない。私よ)
その名を口にできるのは“”ではなく、“私”なのだと、純粋な感情で責められた。
自ら捨て去っておきながら、浅ましく助けを求めたを、彼女は許さない。
決して、許してはくれないのだ。
(返して)
(……て)
(“私”を返してよ)
(やめて)
(あなたが殺した“私”を返してよ!!)
(もうやめて!!)
頭がおかしくなりそうだ。
脳が掻き乱され、心が引き裂かれる。
銀色の光を失って、感覚など凍ったと思っていたのに、肉体としてのそれは生きているようだった。
言葉と同時に科学者達がそれを弄ぶから、目を逸らすことも出来ない。
これ以上ないまでに追い詰められる。
腕に突き刺さる針の痛み、むせ返る薬の味、拘束された手足。
苦痛ばかりがに与えられる。
実験を喜ぶ大人たちの哄笑と、血を流しながら糾弾する過去の自分の声が五月蝿い。
素晴らしいぞバケモノめ。殺したのよあなたが。もっと薬を。私をゴミのように切り捨てた。ギリギリまで数値を上げるんだ。思い出と共に放り投げた。無茶なものか続けろ。あなたが。これを。殺した!責め立てろ!殺したのよ!!許すものか!!
五月蝿い五月蝿い五月蝿い、うるさい!!
鼓膜など突き抜けて脳に直接響いてくる。
逃げることも息をすることも、認められない。
泣くことなどもっての他だった。
あ ぁ 、あ ぁ 、どこまでも真っ暗に。
金色の光は今、死んだ。
ねぇ………………“”って、いったい誰のことだった?
そこで瞳を開いた。
唐突に呼吸が楽になり、あれだけ不自由だった体が動く。
わけがわからなくて瞬く。
足元を見下ろせば、ひとりの少女が転がっているのが見えた。
金色の髪だ。
短くてざんばらで。
白い顔は殴られた跡で腫れ上がっている。
布は掛けられていたけれど、その下は全裸だろう。
ひどい暴行を受けたのか、血を垂れ流し、四肢を投げ出していた。
目に光はない。
生きてはいるけれど、薬か何かで正気ではないようだった。
この人の名前を知っていた気がする。
ついさっきまで呼んでいたような。
けれど今は思い出せなくて、彼女の頭の横に立ったまま、ぽつりと呟く。
「ねぇ……あなた、誰?」
答えはなかった。
人間としての尊厳も権利も剥奪されて、人形のように闇に転がった少女は返事をしない。
声を聞けないとわかると凄まじい喪失感が襲ってきて、全身の力が抜けた。
膝をついて俯けば、長い金髪に顔を覆われる。
それは眼前に横たわる少女と、全く同じ色をしていた。
「あなたは一体、誰だったの……?」
私によく似たあなた。
同じ顔をしたあなた。
お揃いの瞳を持つ、あなた。
嫌悪感と執着心がごちゃ混ぜになって胸が苦しい。
嫌い嫌い嫌い、大嫌い。
でも大切だった。
殺してやりたいほど蔑んで、それでも多くの愛に満たされていたから、生き抜かなければと思った。
優しい笑顔、最高の戦友、たったひとりの親友、銀色の光。
たくさんの力で支えられて、今まで必死に戦ってきたのに。
もう、“彼女”は、応えない。
金色の光は消滅し、二度と世界には戻らない。
「あなたは……」
いいや、そうじゃない。
そうじゃなくて……。
愕然と呟く。
「“私”は一体、どこの誰だった?」
そうして“”は完全に闇へと溶けて、消えた。
暗黒は増すばかり。
霞む視界の端で、またひとつ薔薇が赤く染まる。
それはちょうどの左胸の辺りだったから、アレンは心臓が皮膚を突き破って転がり出てきたのかと思った。
くだらない考えだというのはわかっている。
けれど彼女は真っ直ぐに死に向かっていて、それを引き止める術をいまだ見つけられない自分では、そんな馬鹿な妄想も仕方がなかった。
「おいおい、少年」
すぐ近くで声がする。
同時に首を絞める手に力がこもり、無理に持ち上げられる。
視界からが消えて褐色の肌で一杯になった。
「お嬢さんばかり見つめすぎだ。お前、今の状況がわかってる?」
「…………っ、う」
「自分がくびり殺されそうだってこと」
「は……っ、あぁ……!」
「ちゃんと理解したほうがいいぜ?」
掴んでくるノアの手に抵抗するけれど、力が足りない。
どうしても振り払えない。
発動した左手を持ち上げようとすれば、ティキに容赦なく踏みつけられた。
「う、ぐ……っ」
「イノセンスはなしだ。嫌いなんだよ、それ」
戦場に居るとは思えないようなことを言って、ティキは片手を振ってみせる。
その指先が赤く染まっていたから、アレンは苦しみにもがきながらも瞳に怒気を宿らせた。
「ん?ああ……」
それに気がついてティキが笑う。
「お嬢さんの血。傷口をえぐったから手にべっとりだ」
「……っつ」
「本当は汚れるの嫌なんだけど。お嬢さんに触れる時は手袋もいらない。彼女の肌も血も気持ちが良いからな」
「おま、え……!」
「そのまま忘れて少年にまで触ってしまった。どうしようかな……お嬢さんのと混ぜたくないな。綺麗に殺せば大丈夫か……」
「そ、んなこと、……っ!」
「動くなよ。お前のがつくだろ」
アレンの唇の端から鮮血が零れ落ちて、ティキの掌を染める。
彼はそれが気に食わなかったらしい。
掴む手にますます力を込められ、首の骨が悲鳴をあげる。呼吸が塞がれる。
声が出ない。
苦痛に顔を歪めるアレンを、ティキはひょいと覗き込んだ。
「なぁ、でもオレは少年を気に入ってるんだぜ?お嬢さんには劣るものの、殺してやりたいと思っている」
「…………か、はっ」
「ただ素手で男に触れる気はないってことだ」
そっちの気はないと、どうでもいいことを言ってくる。
アレンは首を絞めるティキの手の甲を引っかいた。
強く爪を立てれば、眼前の彼の瞳が憎々しげに笑む。
「かわいくねぇなー……」
「…………ぅ、く」
「はぁ……。もういいだろ?勝負はついた。お前の負け。お嬢さんはオレのだ」
「!!」
言葉の最後でアレンの表情が変わった。
触れる指先が強まり、ティキの手首が軋んだ音を奏でる。
爪が食い込んで皮膚を突き破った。
もはやそれを染める鮮血はのものなのか、アレンのものなのか、ティキ自身のものなのか。
ティキはアレンの激情にちょっとだけ感心して、目を瞬かせた。
「へぇ。まだがんばる?そこまでお嬢さんが大切?本当に口だけじゃなかったんだな」
「、は…………!」
「誰にも渡さないって?聞いたよ。気持ちもわかるぜ。オレも同じことを考えてる」
「ちが……う、おまえとは……っ」
「同じだ。彼女の全てを奪いたい。跪かせて、喘がせて、この手で殺してやりたい」
ティキは熱く囁きながら、微笑んだ。
恍惚とした表情をアレンは睨みつける。
「お前とは違う……!」
「そうか?お前はお嬢さんの光だけではなく、闇の部分にも惹かれているようだから、オレと同じかと思ったんだけどな」
「………………」
「その心を暴いてやりたい……。あんな悲惨な境遇を知っても引かないのは、そういうことだろ?」
「僕、は………」
「否定しなくていいよ、少年」
優しくティキは言って、もう片方の手でアレンの頭をぽんっとした。
「あのお嬢さんは魅力的すぎる。ロードの能力が通じないほどの、強靭な精神力の持ち主だ」
「!?ロードの……」
「ああ。夢の世界に取り込んで心を攻撃する、あれが効かなかった。途中までは面白いほどにハマってくれてたんだけどな……。それこそロードが退屈するほどに」
そんな状況ではないながらも、アレンは驚きを隠せない。
ロードの能力は恐ろしく強力で、並の精神では太刀打ちできない。
あれを打ち破ったとなると、ティキの言も納得できた。
「あれだよ、グローリア。グローリア・フェンネス。あの女はお嬢さんの心の闇のくせに、夢世界に出した途端、自分を取り戻された。殺そうと襲ってくるグローリアをお嬢さんは容赦なく切り裂いたんだ。師弟の間に特別な感情がなかったわけでもないのにな」
「……、は」
「ん?」
「彼女は、グローリアさんに固く誓ったことがあるんだ。だからこそ、師に殺されてやるわけにはいかない……。何が何でも生き抜かなくてはと」
「それで、反対にグローリアを殺した?幻影でも同じことだ。それから涙ひとつ見せずにロードに挑みかかったんだぜ」
「………………」
「純粋すぎる強さだな。ひどく恐ろしい。本当に人間かよ?」
笑みをこぼすティキの唇。
アレンはそれを見上げる。
「オレはそんなお嬢さんが好きだよ。あの綺麗な顔を歪ませて、泣かせてみたい。あまりにも凛と立っているから、突き崩したい。血に溺れさせて、真っ赤に汚してやりたい。オレだけに弱さをさらけ出せばいい」
思うことは、同じだった。
否定しようにもアレンの独りよがりな考えは、ティキの暗い欲望と一致する。
どちらもある意味、真っ直ぐな気持ちでを暴き支配したいと考えている。
けれど。
けれど、違う。
「あなたは気付いていないだけだ」
アレンは首を絞められたまま、ティキに告げる。
「にも弱さはある。強さで押し殺した弱さが……。必死に隠そうとしているけれど、他の誰も真似ができないほどに見せてはくれないけれど。感じ取ることは出来る」
例えば強く握りこまれた拳。
震えを殺した指先で、何にも触れられないように独りで立っている。
見開いた目で悲劇を見つめ、絶望を胸に抱きしめた。
涙は流さない。
悲しみを流さないために、は決して泣かない。
本当に強いのならば、そんなことをする理由もない。
けれど彼女は必死にそれを遂行する。
それ自体が激しい戦いだった。
「弱いからこそ、強くあろうと足掻いている」
苦痛も絶望も悲劇も誰とも分かち合おうとはせずに、全部ぜんぶその体に刻み込んで。
孤独に歩き出す背中を、仲間たちは何度見たのだろう。
僕は何度見ただろう。
もう、嫌だ。
強くあろうとする彼女は、すごいと思う。
そう努力できることが、もはや“強さ”なのだから。
けれどもう見たくないと思った。
弱くてもいい。
誰にも縋らず、孤独に震えているのは止めて、傍に来てよ。
傍に、いさせてよ。
「あなたとは違う。…………僕は“”を殺したいわけじゃない」
彼女という人間を突き崩したいわけじゃなくて。
ただ、心を共に。
気持ちを、弱ささえも分け与えて欲しい。
僕のを受け取って欲しい。
同じものを感じていたい。
「一緒に生きていきたいだけだ」
もう、独りには、したくないんだ。
(強さも優しさも惜しくはないのかと思うほどくれるのに、君は弱さだけは与えてはくれない。苦痛や絶望だけは、誰とも共有しようとはしない。そんなのは……)
アレンは泣き出しそうに思う。
瞳に映るのはノアの男だけど、意識が捕らえるのは金髪の少女だけだった。
(そんなのは……)
駄目だ、と思う。
涙さえ許さずに独りで立ち続ける姿は、あまりにも眩しくて目が痛い。
笑顔を向けてくれるくせに、途方もない温もりで触れてくれるくせに、負の感情だけは見せてくれない。
感じ取れるのに、触れられない。
彼女はそれを認めてくれない。
(そんなのは、淋しい)
信頼してくれているのは知っている。
頼ってくれることは嬉しい。
けれど本当に寄りかかってはくれないが許せない。
それがどれだけ自分勝手な感情だとしても、僕は。
「いいや、殺したいのかもしれない」
囁くアレンの意識は、完全にに奪われたままだった。
「あの馬鹿みたいな強さを、僕は壊してやりたいんだ」
瞳は暗く光り、熱を灯し、純白となってティキを貫いた。
恐ろしいほどの破壊衝動だった。
言葉に潜む感情は、やはり途方もない。
ティキは思わずアレンを掴む手を震わせた。
悪寒のようなものが背筋を駆け抜け、息を忘れる。
目の前の少年は穏やかな容貌を裏切って、凄まじい激情をその内に秘めているようだった。
ティキは意図に反して揺さぶられた自分が許せずに、それを鼻で笑い飛ばした。
「どうにも……気に入らないな」
首を掴む手で指先を伸ばし、アレンの顎を持ち上げる。
「少年のことは嫌いじゃないが、お嬢さんのこととなると話は別なようだ」
「…………………」
「その眼。それが気に食わない。彼女ばかりを見つめるな」
「…………………」
「あれは、お前のものじゃない」
「……、あなたのものでもないはずだ」
「これから手に入れる。オレのだ」
そう言えばますますアレンの眼光が鋭くなった。
そう、これだ。
ティキを見据える双眸。
のそれと似て非なる炎を宿したもの。
体の奥底から不愉快さがこみ上げてきて、ティキは微笑んだ。
「……ちょうどいい。その眼を試してやる」
もう片方の手でアレンの額に触れる。
本来持つ残酷性を顕わにしたティキに周囲のアクマが集う。
捕らえた敵をどう処刑するのかと、好奇の目で覗き込んでくる。
巻き起こる哄笑。
期待に応えるようにティキは言う。
「話に聞いたときから気になっていたんだ。少年の左眼。呪われた瞳。前にロードに潰されたんだって?」
囁きながら褐色の指先でアレンのそれを指差した。
「でも、今ここにある。再生したんだな」
「………………」
「面白い。とても興味深いよ、少年」
「………………」
「見てみたいものだな……」
「!?」
そこでアレンは怖気を感じた。
全身が粟立ち、逃れなければと感覚が叫ぶ。
けれどその気配を見せれば、首をねじ切られそうな強さでティキに掴まれた。
「この呪われた瞳が、闇から還ってくる様を」
額のペンタクルを辿って降りてくる指先。
肌を滑る感覚。
眉毛と睫毛を撫でて、瞼に触れた。
「忌々しい眼だ。お嬢さんを見つめ、オレを斬りつける。本当に葬れないものか……」
ティキはいっそ恐ろしいまでの笑顔を浮かべた。
「確かめさせてもらおうか」
そして、一気に指先が突き入れられた。
あまりの衝撃にアレンの視界は真っ赤に染まった。
皮膚を突き破り、入り込んだ手が眼球を抉り出そうと爪を立てる。
下瞼にも親指がわけ入って、完全にそれを掴もうとしていた。
襲い来る激痛にアレンの口は絶叫を吐き出していた。
「あああぁぁぁぁあああああああぁぁッ!!!」
「あれ?上手く抉り出せないな」
ティキはのん気な口調で言うが、アレンを捕らえる手は決して緩まない。
開放を許さず、苦鳴を放つ少年の眼を掴もうとますます指を突き入れる。
「動くなよ、少年」
そんなことを聞けるはずもなく、アレンは死に物狂いで左手を振り上げた。
凄まじい痛みが信じられないほどの力を発揮し、ティキの手を打ち払う。
けれど彼も黙って引かずに、離れる瞬間にアレンの眼球を握り潰した。
「ぐ……っ、あ、あぁ……!」
アレンは鮮血を流す左眼を押さえて転がった。
あまりの苦痛に膝を立ててうずくまり、額を床に押し付ける。
意思とは関係なく涙の溢れる右眼で見たものは、おびただしい血が落下して世界を真っ赤に染めていくさまだった。
「は、……は、っ、ぅ…………うう」
息が上手く吸えなくて喘ぐように肩を震わせる。
ロードの時とは違う痛みだった。
人体に指を突き入れられ、眼球を引っかかれる不快感。
思い出せば吐き気が込み上げてきて、アレンは耐え切れずに咳き込んだ。
胃の中のものが血に混じって吐しゃされる。
わななく指先で確認してみれば、アレンの左眼は完全に破壊されていた。
「何だ。すぐに再生するわけじゃないのか」
期待はずれだという口調で、その実満足そうに言ってくる。
ティキはよほどこの眼が腹立たしかったらしい。
彼は本来、敵ながら自分のことを気に入っており、残酷なことは好まないノアのはずだった。(もちろん他のノアに比べれば、だが)
それなのにこんな仕打ちをするとは、アレンがティキの怒りを買ったとしか思えない。
(本当に……人気者だね。)
あまりに余裕がないから、反対に頭が冷静になってきた。
心の中で笑ってを罵倒する。
彼女が悪いわけではないけれど、ティキにここまでの執着を抱かせた責任くらいは取ってほしいものだ。
(いい加減……)
限界だった。
もうアレンの体は戦闘にも苦痛にも耐えられない。
左眼を失えば世界は翳って使命など見えない。
見下ろしてくるティキと、魂が視認できなくなったアクマの群れ。
こんなに暗い視界ではますます光を求めずにはいられなかった。
何よりも鮮やかで美しい、金色の光を。
(いい加減、起きてよ)
死体のように血溜りの中に沈んで、思う。
(眠りたいのは僕だ。それなのに君ばかり……)
だんだんと腹が立ってきて、ぶん殴ってやりたいような衝動に襲われた。
女の子に乱暴なことはしない主義だが、が相手なのでどうでもいい。本当にどうでもいい。
どれだけ悲惨な目にあわせても割り合わない気がする。
泣かせよう。
絶対に、泣かせよう。
そして痛いくらいに抱きしめて、ますます涙を流させてやる。
考えればたまらなくなった。
このまま自分が倒れれば、彼女も終ってしまうのだ。
馬鹿みたいな笑顔も、茶化すような言動も、響く声を吐く唇も、何もかも。
あの金色に輝く双眸が死んでしまう。
自分に涙も弱さも見せてくれることなく、消えてしまう。
嫌だ、と思った。
こちらばかり掻き乱されて、弱いところばかり見せて、暖かな力をもらって。
それでいてに何も返すことなく終ってゆくことなど……。
許せない。
(君ばかりだなんて、許せない)
「ようやく大人しくなったな」
頭の上でティキが笑った。
彼は本当に自分を無駄に傷つけたいわけではないようで、その言葉には優しさに似た響きが含まれていた。
床に転がったアレンの体を軽く蹴って仰向かせる。
四肢に力はなく、されるがままになったその姿に、ティキは囁いた。
「安心しろよ。お嬢さんが終ったら、きちんと殺してやるからな。少年」
そう言うノアとは対照的に、アクマ達は今すぐに死を与えたいと騒ぎ立てる。
覗き込んでくるのはティキの暗紫色の瞳。
殺意に満ちた無機質な視線の群れはアクマのものだ。
けれどアレンの眼はそんなものを捕らえない。
ティキは間違いを犯したのだと、アレンは思った。
ひとつはに執着したこと。
“仲間”であり、強い感情で望む彼女を、自分が手放すわけがない。
もうひとつは、左眼だけを潰したことだ。
アクマを視る呪われた瞳を破壊しても、全ての光は失われない。
むしろ損失した輝きを取り戻そうと足掻く心は増すばかりだ。
僕を無力にしたければ、何も言わずにの心臓を破壊し、この両目を捻り潰せばよかったのに。
そうやって、全ての輝きを奪い去られていたら負けていた。
抵抗することもできずに殺されていた。
けれど、僕はまだ戦える。
この眼に光が映る限り。
「そう、終らさなくちゃいけない」
アレンは血で染まった唇で、小さく呟いた。
「を賭けた、この勝負を」
震える口元は、少しだけ微笑を刻んだ。
反対に見下ろすティキの笑みが消える。
「少年、お前……」
「終らせましょう、ティキ・ミック」
ノアの視線の先で蠢く、イノセンスが宿った左腕。
それは一層強い戦意を放って世界を引き裂いた。
「譲りはしない、僕の勝ちだ!!」
そうして放たれる無数の十字架、白い破壊の光。
死体のように転がっていたエクソシストの、最後の力を振り絞った攻撃。
完全に虚を突かれたアクマ達が一斉に破壊される。
咄嗟に飛びずさりティーズの群れで防御したノアは、アレンが必死に起き上がったのを見た。
もう動ける体力も精神力も残っていないはずなのに、わななく脚で、それでも起立して走り出す。
向う先は祭壇だった。
血にまみれた体を引きずり、他には目もくれずに一直線に駆けて行く。
金色の光を目指して。
そうしてアレンは、へと手を伸ばした。
指先が、触れる。
暗闇の中に、ぽつんと座り込んでいた。
わけがわからなくて身を縮ませる。
此処はどこだろう?
どうして私はこんなところに居るんだろう?
長い金髪を持つ少女は孤独に震えていた。
名前を失った“”は、もはや過去に戻るしかない。
闇に記憶を剥がされ、時を巻き戻された愚かなマトリョーシカ。
虚ろな感覚は徐々に鮮明になってゆく。
暗くて怖い。
独りは恐ろしい。
幼さのまま泣きそうになりながら、少女は細い声で呼んでみる。
「ね、姉さん……」
そう、姉がいたはずだ。
聡明な姉と、頼もしい姉。
いつも私にたくさんのことを教えてくれた。
「母さん……」
そう、母もいたはずだ。
温かさで包んでくれる、優しい女性。
いつだって私の憧れだった。
「父さん」
そう父は居たはずだ。
私が名前を呼ぶと、決まって穏やかに微笑んでくれた人。
大好きな家族。
「姉さんたち、ここは何?母さん、どこに行ってしまったの?父さん、ねぇ応えてよ」
彼らの面影を思い出せばいてもたってもいられなくて、少女は立ち上がった。
立ち上がろうとした。
けれど何故だろう、膝が伸びない、脚が動かない。
私は家族を捜しに行きたいのに。
どうしてどうして、どうして?
子供らしく問いかければ、世界は優しく答えてくれた。
最も残酷な方法で。
唐突に、闇が晴れた。
視界に光が戻り、安堵する。
明るいところで生きてきた少女にとって、闇は自分を害すものでしかなかった。
姉たちがよく言っていたものだ。
暗闇には悪魔が潜んでいて、迷い込んだら心臓をえぐり取られてしまうよ。
そんな話を信じるほど子供じゃないと怒れば、顔を見合わせて微笑んで、頭を撫でてくれた。
彼女たちはただ、幼い自分が危険な目に遭わぬよう古いおとぎ話をしてくれたである。
実際にまだ暗がりに恐怖を覚える年頃だった。
夜は姉たちとおしゃべりをして、母に絵本を読んでもらう。
そして父と眠るのだ。
深い闇夜が怖くないように。
(でも、もう大丈夫。明るくなったもの)
光が嬉しくて少女は微笑んだ。
その小さな唇から、鮮血が吹き出す。
「が……、は……っ。…………?」
血を吐き散らかした後で、ようやくその色を視認した。
意味がわからなくて目を瞬かせる。
何だろうコレ。
真っ赤だ。
床も両手もお洋服もまっかっか。
どうしよう、汚したら姉さんたちに怒られる。母さんが困ったように笑う。父さんに静かに諭される。
少女はそれを回避しようと、服についた血をこすった。
まったく取れない。
それどころかますます口からそれが溢れてきて止まらない。
(なに?何なの、これ……)
必死になって拭うけれど赤は存在を広げて、いまや世界さえ染めていた。
それに気がついて顔をあげる。
金色の瞳が捕えたのは、燃え盛る炎だった。
(火……?火事?燃えている……)
火炎はごうごうとやかましいほどに音をたて、少女の周りを取り囲んでいた。
今の今まで無視できていたことが不思議だ。
黒が消えたかと思えば、今度は何もかもが赤となっていた。
赤い赤い、あかい世界。
炎は踊り少女に襲い掛かる。
金色の髪に引火し、それを爛れ切れさせる。
長かったそれは見る間に短髪となった。
煙と熱気が視界を塞ぐけれど、何故だか少女は熱さを感じなかった。
むしろ寒いくらいだ。
氷のような冷たさが全身を覆い、口からこぼれる血は止まる気配がない。
炎も消えない。
世界はさらに深い真紅へと進んでゆく。
(姉さん、母さん、父さん……)
家族を呼ぶ声も、すでに出なくなっていた。
視界が回る。
血の流しすぎで目眩がしているのだが、少女はそんな自分の状況など理解できないのだからどうしようもない。
(どうして燃えているの?どうして血が出ているの?どうして誰もいないの?)
わからないことをわからないと素直に聞けば、やはり世界は応えてくれるのだった。
どこまでも慈悲深く、冷酷なる答えを。
ふいに体が強張った。
痺れるような感覚が背筋を駆け抜ける。
それはあまりにひどい激痛ゆえだったが、少女は考える間もなく自分の肢体を見下ろしていた。
その胸は、一本の腕に完全に刺し貫かれていた。
人体を破壊し、貫通した暖かな手。
優しい指先が内腑を撫でる。
まるで慈しむように、愛おしむように触れられる。
少女はまた口から血を吐いた。
それとは比べものにならない量の鮮血が服に滲み、滝の如く床に流れ落ちてゆく。
こんなになってはもうどんなに言いつくろっても、家族に叱られてしまうだろう。
(たくさん汚しちゃった……。もう消えない)
消えるはずがない。
そう、この記憶も。
少女はようやくこの世界の残酷性に気がついて瞳を見開いた。
途端に感覚が蘇り、激痛と高熱が一気に押し寄せてくる。
辺りは一面炎と血で埋め尽くされていたけれど、それより鮮やかな惨劇に意識は奪われてしまった。
「 」
誰かが呼んだ。
懐かしい声が聞こえた。
それは、“私”の名前だった。
産まれたときに授けられた、魂に刻まれた音。
呼吸が乱れた。
息が上手く吸えない。
吐けば全て血となって、少女を苛む。
貫かれた胸が痛い痛い痛い痛い痛い、いたくてたまらない。
「愛しているよ」
その優しい囁き声は、目の前からだった。
少女の小さな体を刺し貫いている、腕の主だった。
その人物は心の底から愛おしそうに、この胸を突き破っているのだ。
「あいしている」
突き立てられた腕が蠢く。
確実に少女を求める。
その存在ごと貪り食おうとしている。
全ては言葉通り……ただただ愛のために。
「だから、殺させて?」
それはこの世で最高の告白だった。
純粋で穢れを知らない、甘い言葉。
赤く残酷な世界はそれを余すことなく伝えてくれる。
そして少女は心の中で絶叫した。
燃え盛る惨劇を前に声を張り上げ続けた。
(神様神さまかみさま、かみさま……っ!)
姉たちが祈り、母が崇め、父が祝福を願った、天におわします御方。
私が信じた世界の主よ。
助けてください助けてください、どうかお救いください。
けれど誰も応えてはくれなかった。
どれだけ叫んでも返事はない。
神など何処にも見えない此処にはいない。
居たのは、悪魔。
そう、私の世界にいつだって神様は不在だった。
胸を貫くあの日の記憶、だから少女は立ち上がれない。
心臓を掴むあの人の手、それで少女は愛に満たされた。
あぁ、姉さんが言っていたことは本当だったのね。
“闇に堕ちれば、悪魔に心臓をえぐり出されてしまうよ…………”
金の瞳が迫る。
誰か誰か、誰でもいい、意識を閉じてお眠りと言って。
だってこんな惨劇など真っ直ぐ見つめられるはずがない。
代わりに悪魔が囁いた。
さぁ、永遠におやすみなさい。
絶望の炎は、消えない。
拘束を振り払っていったアレンを、アクマとティーズの大群が追撃しようとする。
ティキはそれより早く床を蹴ろうとして、ふいに動きを止めた。
意志の力で周囲を囲む僕たちをも制止する。
「追うな」
口に出して命じた。
アクマは何故だとざわめき、ティーズも不満気にひらひらと舞う。
ティキはアレンに弾き飛ばされ、痛みと震えを訴える右手を強く押さえた。
「どうする気なのか、見てみたい」
あまりにも純粋な目で見つめられたものだから、その光を消してやろうと眼球を握りつぶしてやったのに、彼はまだ諦めていないようだ。
あんな体では立つことも困難だろうに、攻撃をしかけてきた。
そしてこの手から逃れて真っ直ぐに走ったのだ。
もう一刻の猶予もない、“仲間”を救うために。
そんな背中を見てしまえば、追いかける気も削がれてしまうというものだった。
「……お手並み拝見だ。せいぜい足掻けよ」
そこまで強く、己の全てを懸けて求めるというのならば、見せてもらおう。
わずかな期待と好奇に瞳を光らせて、ティキは皮肉に笑った。
何故なら自分はその結末を知っているからだ。
「そして思い知ればいい。どうやったって、お嬢さんはお前には戻らないんだよ……少年」
残酷な囁きは、アレンの耳には届かなかった。
目眩が激しくてもう何も見えない。他に何も考えられない。
ノアもアクマも振り返らずに、ただひたすらに腕を伸ばす。
血まみれの右手と、発動しているのかわからないような左手。
両の掌で触れる。
ついに彼女の頬を囚えた。
「……」
安堵に息を吐くけれど、捕まえたその体は冷え切っていて、アレンの胸まで凍えさせる。
体温がない。
伝わってくる感触はよく知ったものなのに、いつもの温もりが感じられない。
死体のように冷たくなったの頬を、震える指先で撫でた。
「」
怖くて恐ろしくて、彼女を引きとめようと手が乱暴になる。
荒々しく仰向けさせると、意図せずに赤薔薇に触れてしまった。
途端に流れ込んでくる映像の群れ。
視界が赤く染められて、アレンは立ち眩んだ。
(何だ……?この赤は……炎?)
見えたのは断片だった。
アレンの意識も朦朧としているものだから、脳に入り込んでくるの記憶も途切れ途切れになる。
ただ燃え盛る火炎に囲まれて、幼い少女が座り込んでいるのが見えた。
その胸が、一本の腕に、刺し貫かれている。
あまりの衝撃にアレンは自分を取り戻した。
瞬きをすると、目の前にいるのは今のだ。
暴かれた記憶の中で、体を突き破られていたのは過去の彼女。
アレンは思わずの胸の傷に触れた。
これだ。
これが、あの時の傷なのだ。
左胸、限りなく心臓の近いそこに刻まれた破壊の跡。
露出した赤と汚れた白が痛々しくて、溢れる鮮血を止めるように掌を押し付けた。
アレンのイノセンスもすでに白から赤へと戻りつつあり、同じ色をした二人は、やはり同じ血に染まってゆく。
「、大丈夫だよ」
吐息がかかりそうな距離で見つめて、アレンは必死に微笑んだ。
「傷ならラスティさんが治してくれる。しばらく入院すればいいだけだ。婦長たちを困らせないように、大人しくしているんだよ」
「…………………」
「病室から逃げ出すようなら、コムイさんに君を無力化させる兵器を開発してもらうからね。きっと、科学班のみんなも協力してくれる」
「…………………」
「お見舞いは制限しない。探索隊の女の子とか、総合管理班の友達とか、会えたほうが元気になるだろう?」
「…………………」
「支部からはたくさん健康食品が届くと思うから、全部ぜんぶ届けてあげるよ」
頬を撫でて、首筋に右手を伸ばす。
頚動脈をさぐる。
刻む振動は、弱く細く頼りなくて、アレンは声を震わせた。
「リナリーが付きっきりで看病してくれるはずだ」
「…………………」
「ラビは君が退屈しないように、馬鹿な話をし続ける」
「…………………」
「神田は君が眠ったときだけ、こっそり顔を見に来るんじゃないかな」
「…………………」
「ねぇ、。みんなが待ってる」
みんなが君の帰りを待っている。
僕は、君を待っている。
「だから………」
アレンはもうたまらなくなって、の肩を強く掴んだ。
そのまま乱暴に揺さぶる。
彼女の華奢な体は蔦に拘束されながら、アレンの手のままに動いた。
「返事をしてよ」
「………………」
「どうして応えてくれないんだ」
「………………」
「……ッ」
アレンは激情に震えていた。
微笑むこともできなくなって、を掴む指先が食い込む。
揺らせば金髪が乱れて、生気のない白い顔に落ちかかった。
「応えてよ」
「………………」
「応えろ!」
「………………」
返す声はない。
は沈黙したまま、意識を奪われたまま、死に向かって進み続ける。
今度は首筋で薔薇が色を変えたから、アレンは力任せに彼女を取り戻そうとした。
柔らかな肢体に絡みつく荊を掴んで無理に引き千切る。
そうすればそれは意思を持ったように蠢き、今度はアレンごと拘束してきた。
無数の棘が凶器となって皮膚を突き破る。
それはだけを捕らえていたときよりも確実に鋭さを増していた。
どうやらアクマは自分を排除しようとしているらしい。
肩や腹や脚が鋭い棘に引き裂かれて、血が流れ出す。
二人の足元は散った花びらとアレンの鮮血で真っ赤に染まっていった。
まるでの意識が囚われている、あの世界のように。
「」
荊から守るように抱きしめて、アレンは呼ぶ。
彼女の名前を呼び続ける。
「」
あれだけ望んでいた通りにしているのに、腕の中の体は冷たくて死体のようだ。
こんなの魂の抜け殻でしかない。
体を抱いて心を捜した。
触れたいと、それだけを本能のように思う。
少女の身を苛むのはアクマ、少年の脳を焼くのは激情。
失われてゆく体温を感じながらアレンは自分の血が逆流する音を聞いた。
「」
鼓動がうるさい。
全身が脈動するみたいだ。
の胸の傷に触れた左手が、得体の知れない熱に疼く。
燃え上がるような何かがアレンの中で爆ぜようとしていた。
僕は幼い君を知らない。
本当の名前なんてわからない。
それでも、“君”が応えることを願ってる。
こんなにも。
「……ッ」
痛みと苦しみがアレンを突き破り、存在から血を迸らせる。
それでも決して手を離さなかった。
白髪の少年は金髪の少女を強く抱きこんで、叫んだ。
愛情とも友情とも興味とも憎悪とも一致せず、名前すら知らない、ただただ激しい感情。
その限りで絶叫する。
「返事をしろ!ッ!!」
誰かに、呼ばれた気がした。
けれどそれは幻聴だ。
こんな絶望だけが広がる世界で、今さら自分を求める人間などいるわけがなかった。
目の前の彼以外は。
「 」
彼は少女を呼ぶ。
その胸を貫いて、血に濡れた愛を囁き続ける。
そんなものはとっくに捨てた名前だというのに、とっくに忘れた感情だというのに、何度も何度も繰り返される。
“愛している”なんておぞましい。
純粋なそれで育まれてきた気がするのに、全ての温もりが遠いから、もう何もかも信じられない。
『 』
だからそんな彼の声に混じって違う声が聞こえても、自分の都合のいい夢のようにしか思えなかった。
幻聴ではないのなら、耳鳴りだろうか。
今さらそんなものがこんなに狂った空間に届くわけがないのだから。
世界は揺れていて、少女も突き破られた心臓から崩れだしてしまいそうだった。
熱くて冷たい傷口が燃える。
そこに、誰かの手が触れた。
「…………?」
少女は口から血を吐きながら、絶望に身を震わせながらも、己の胸を見下ろした。
視界が捕らえたのは、やはり体に突き立てられた彼の腕だけ。
けれどそれとは別に、何かの存在を感じる。
あたたかい、人の体温のようなものを。
それが手だと思ったのは間違いではないようだった。
(なに……?)
激痛に泣きむせびながら問いかければ、また声がした。
『 』
呼んでいる。
誰かが私を呼んでいる。
目の前の彼とは違う声で、違う名で、この存在を求めている。
気のせいだといまだに疑いながら、少女は辺りを見渡した。
見えるのは炎ばかりで人の気配はない。
煉獄に繋がれたのは彼と自分の二人だけだったのだ。
(それでも感じる)
浅ましいと思うけれど、あまりにも優しい温もりに手を伸ばさずにはいられない。
何も信じられないくせに、苦痛の炎に焼かれながら淡く虚しい期待をしている。
どこからか響いてくる声と、胸の傷にそっと触れた掌。
誰かの存在を遠くに……本当に遠くにだが、感じる。
「だれ……?」
小さく問いかける。
こんな音量では届かないだろう。
少女は胸を貫かれたまま、必死に喘いで息を吸い込んだ。
煙に器官が焼かれて死んでしまいそうになったけれど、諦めるわけにはいかなかった。
何故なら降ってくる呼び声が、もっともっと必死になって自分のことを求めているように感じたからだ。
「だれ?」
震える唇で言う。
まだだ。
まだ、音量が足りない。
そうしている内に傷口に置かれた手は、血をおさえるように強くなった。
あれだけ寒かった体なのに、冷気は遠のき、何かに包まれているようだ。
呼ぶ声は心の限りで、自分の名を叫んでいる。
痛みと苦しみ……それを癒そうとする誰かの掌は強い。
だからこそ、もう疑うことも忘れてその存在を信じずにはいられなかった。
「誰なの!?」
少女は声を張り上げた。
そうすれば目の前の彼が、邪魔をするように突き立てた腕をぐるりとまわす。
痛みに貫かれて終ってしまいそうになる。
少女は死に物狂いで手を伸ばして、傷口の辺りを押さえた。
ここに添えられた温もり。
実際には何にも触れないけれど、確かに感じる体温。
誰かの手に、自分のそれを重ねる。
「あなたは誰……!?」
強く強く求め合う。
呼ぶ声は聞こえるのに、言葉が聞き取れない。
私の名前がわからない。
目の前の彼が発する方に掻き消されて、心にまで届かない。
だから少女は彼にも炎にも激痛にも、この惨い世界にも負けないように、残りの力を掻き集めて叫んだ。
「私を呼ぶ、あなたは誰なの!?」
声を使えば血を吐き、胸の傷はえぐられる。
襲いくる凄まじい苦痛に誰かの温もりと手を取り合って耐える。
少女は全身を震わせて、泣き叫びながら、自分を呼ぶ声を何度も望んだ。
そうしていれば存在していられた。
そうでなくては、もう本当に終ってしまいそうだった。
たったひとつの体温が少女の全てを繋ぎとめていた。
「……!?」
ふいに、白い光が瞬いた。
この赤ばかりの世界で、それは鮮やかに輝き出す。
触れていた掌が、ついに見えた。
小さく光り、そこから輪郭を創り出す。
輝くのは十字架だった。
それが埋め込まれた、左手。
優しい純白の光が少女を照らして、ますます涙が溢れてきた。
この世界から赤を祓い、自分を救おうと、必死にこの傷に触れている。
光に満ちたそれを少女は懸命に繋いだ。
隔絶されたこの世界を打ち破らんとする誰かに向って、最後の精気を振り絞って叫ぶ。
「おねがい、教えて……っ」
呼んで。
もっと強く。
私も同じだけの、いいえそれ以上の力で答えるから、どうかどうかどうかお願い。
「“私”の名前……!」
目の前の彼が囁く、甘く残酷な名前ではなく、私を求めるあなたが呼ぶ名前を。
この心に、頂戴。
「ねぇ、“私”は……」
あなたが救おうと必死になってくれている、“私”は。
「“私”は一体どこの誰だった!?」
少女は途方もない力で絶叫した。
喉を潰して、魂を懸けて、全身全霊で叫んだ。
それは惨劇を突き破り、世界に響き渡ったのだった。
「……!!」
ふいに温もりを感じて、アレンは顔をあげた。
の頭を引き寄せて、襲い来る荊から庇うように抱きこんでいた彼女の体がわなないた。
吐息をついたのだ。
吐き出された息はアレンの頬に触れ、暖かな余韻を残していった。
「……!?」
突き刺さる棘を無視して、少しだけ体を離す。
覗き込めば、やはり白い顔。
生気のない肌の色だった。
気のせいだったのかと表情を歪めて、けれど同時にの頬が震えたから硬直する。
動いた。
閉じられた瞳を縁取る長い睫毛が、微かに揺れた。
息も忘れて見つめていると、今度は唇が。
「…………、で」
言葉を吐き出した。
意識もないまま、それでも彼女の声が言う。
「よ、……んで」
「……っ、なに……?」
「……ま、え……」
アレンは呼吸を止めてに身を寄せた。
耳を近付けて、一言だってその声をこぼすものかと思う。
「わた、し……の」
「……………」
「なまえ…………」
「“私の名前”……?」
「よ……ん、で…………」
懇願の言葉が、の唇から転がり出てきた。
「呼んで……っ」
意識を奪われたまま、精神を侵されたまま、それでも彼女は失われていない。
まだ、ここにいる。
消えまいと、必死に足掻いている。
アレンは凄まじい感情の波に襲われて、瞬きも呼吸も何もかも忘れてしまった。
傷を押さえるそれはそのままに、手を伸ばしての顔を包み込む。
口づけをしてしまいそうな距離で懸命に見つめた。
言われなくても呼ぶよ。
ずっと君を呼ぶ。
僕は、君を、求めている。
さぁどうか、その瞳を開いて。
精神の場所は隔てられていた。
それでも二人は図らずも同じことをした。
アレンは全ての力を使って、己の魂を懸けて、その名前を叫んだ。
「ッ!!!」
次の瞬間、アレンの目の前で、光は鮮やかに蘇った。
金色に満ちる。
アイタタタな展開ですみません……。(平伏)
さすがに眼球潰しはグロイですよね!年齢制限かからないように奮闘したのですが……。
話のほうはティキよく喋るな、と。(笑)それに応えるアレンもよくよく喋る。(笑笑)
最後ヒロインが目を覚ましたみたいな感じですが、なぜ覚醒したのか次回でどうぞ〜。
ちなみにアレンの愛による奇跡とかではないです。残念ながら!^^
次回はヒロイン復活で、物語も最終段階に入ってきます。
引き続き戦闘・流血描写にご注意を〜。
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