崩れてゆく、砂の城のように。
溶けてゆく、雪の華のように。
散ってゆく、それは血色の花弁。


消えた記憶、ほどけた体、腐った眼。
別れに手を振るあなたの顔すらもう見えない。







● 蝶と口づけ  EPISODE 9 ●







「…………理解できないな」


アレンの宣言、その意志の強さが余韻となって残る空間で、ティキは呟いた。
耳につく彼の声を打ち払うように軽く首を振る。
表情はいぶかしげだったが、口元だけが皮肉に笑んでいた。


「死んでやるつもりがないのなら、なおのこと抵抗するなよ。お嬢さんはお前の死を望まない。それはオレにだってわかるし、お前だって納得している。だったら」


ティキは片手を振って、地面を示した。
顎を上げ、床に膝をつくアレンを見下ろす。


「大人しく、そこに這いつくばってろ」
「…………それで、が奪われるのをただ見ていろと?」
「だってお前には関係ないだろ」


心底不思議そうにティキは言った。
アレンを見つめる目は不審そのものだ。
理解し合えるとは思っていなかったが、当たり前すぎる感情を否定されて、アレンは胸に怒りが燃え上がるのを感じる。
けれどそれを吐き出す前に、ティキが口を開いた。


「少年。前にも聞いたが、もう一度だ。お前はこのお嬢さんの、何?」
「なに……、って」
「どういう関係?彼女は、そんな風に苦痛を負ってまで取り戻したい相手?」
「……っ、当たり前だろう!」
「本当に?」


アレンは反射的に怒鳴ったが、ティキは動揺することなく返した。
冷ややかな視線と口調を浴びせられる。
紫の瞳は暗く、奥まで光が届かない。
恐ろしい色だと思った。
けれど負けるような感情ではなかったから、アレンはそれを真正面から睨み返した。


「貴方が何を言いたいのか、まったくわかりません」
「オレも少年がわからないな」
は僕の仲間です。助けたいと思うのは当然だ……!」
「なかま?」


ティキはきょとんと瞬いて、すぐに吹き出した。
瞳を細めて腹を抱え、大声で笑い出す。


「ははっ、なかま!仲間だって!?」
「……っ」
「仲間か……。そうか、仲間ね。はははっ」
「何が可笑しい……!」
「これが可笑しくなくて何だって言うんだよ」


ティキはまだ喉の奥で低く笑いながら、涙の滲んだ眼をアレンに向けた。
その憤慨した顔を見て再び吹き出す。
それこそ身を震わせるほどだ。
アレンは彼の笑いの理由がわからないまでも、馬鹿にされていることはわかっていた。
胃の腑を焼くような感情が湧き上がってくる。
爪が皮膚に食い込むほど強く拳を握り締めた。


「はぁ……。仲間ねぇ…………」


ようやく笑いおさめたティキは緩んだ唇で呟きながら、手を伸ばす。
そしてに触れた。
己が引き裂いた団服に手をかけ、その銀製のボタンを千切り取る。
それは褐色の指の間でにぶく光った。


「少年はエクソシストだ。だったら所属する『黒の教団』とやらは、仲間か?」


何をわかりきったことを聞いているのだろう。
アレンは答えるのもくだらなくて、沈黙を肯定の代わりにした。
そうすればティキはまた笑った。


「それで、お嬢さんも“仲間”?」
「……彼女も『黒の教団』の一員ですよ」
「だけど、そこにいる奴らはお嬢さんを“仲間”だなんて思っているかな?」


今度こそ本当に意味がわからなかった。
眉根を寄せるアレンに、ティキは腕を振るってみせる。
手にしていたのボタンが教会の床を跳ね、アレンの手元まで転がってきた。
差し込む夕焼けを弾いて光る銀色。
それを見て、アレンは目を見張った。
ボタンは裏面を向けていた。
そしてその冷たさを、アレンへと晒していた。


そこには本来あるべきものが、刻まれていなかった。


エクソシストの身につける団服には、その身分を示す役割がある。
漆黒のコート然り、ローズクロス然りだ。
そして銀製のボタンも同じように、裏面に持ち主の名前を刻むことを義務付けられていた。
エクソシストは戦場に生きる者。
仮に敵に殺害され死体が判別できないような状態にされても、それが誰なのかわかるようにと、銀ボタンの裏には必ずフルネームが彫りこまれる。


それなのに。
のものには、それがなかった。
刻まれているはずの名前が、なかったのだ。
彼女の持っていたボタンの裏面はただ美しい銀色を見せている。


何もないそこを、アレンは指先で撫でた。
伸ばした手が震えている。
つるりとした感触が伝わってきて、わななきは全身へと広がった。


「なん、で……」
「偽名だからだろ?」


呆然としたアレンの声に、ティキは軽く答えた。


「お前らがお嬢さんを呼ぶ名前は、ただの記号みたいなものだ。でも、それだけじゃない。同じような境遇の“ブックマン”とやらはちゃんと名前が刻まれてたぜ」
「…………………」
「お嬢さんだけが異例だ。偽名でも彫り込んでやればいいものを……。随分と冷たい“仲間”なんだな」


言葉を返せないアレンに、ティキはくくっと笑う。
その声は緩やかに鼓膜を襲い、ひとつの考えを浮き上がらせる。
あまりにも暗く、あまりにも残酷な予感を。


「何故お嬢さんだけが名前を刻まれないか、わかるか?」


嫌だ。
考えたくない。
アレンは咄嗟にそう思った。
けれどティキの声は容赦なく続いた。


「存在が認められてないからだ」


言いながら、ティキはの団服に残ったボタンをひとつひとつ引き千切っていく。


「オレ達の目の前にいるこの金髪の少女は、存在することを許されていない。だから名前を刻めない。例え偽名でも、形として残せない」
「……………………」
「千年公の調べによると、病院もホテルも、全部『黒の教団』名義で、お嬢さんの名前は抹消されている。今までずっとだ。ひとつ残らず記録上から消されているらしい」
「……………………」
「国家権力を使って、そこまでやってるんだ。ホント大した徹底ぶりだぜ……」
「……………………」
「なぁ、少年」


のボタンを全て千切り取ると、ティキはそれらを手の内で遊ばせた。
銀同士がぶつかり合い美しい音をたてる。
しかしアレンの耳にはノアの声と同じくらい、冷ややかに聞こえた。


「彼女の存在を認めない、それは何だ?」


笑顔の問いかけ。
刃のような言葉。


「『黒の教団』…………、お前の仲間だろう?」


声が、突き刺さる。
アレンの鼓膜を打ち破り、心へと食い込んでゆく。


「お前の仲間は、お嬢さんを認めていないよ。人間としての存在を許していない。彼女がどれだけの制約の元で生きているのかは、想像にかたくないはずだが?」


アレンは耳を塞いでしまいたくなった。
胸はとっくに黒く重たいものに覆われている。
これ以上責められれば、確実に何かが壊れてしまいそうだった。


「生きている……いや、“生かされている”と言うほうが正しいな」


ティキはくだらなさそうな笑みと共にそう言い捨て、指先をほどいた。
そこから零れ落ちてゆく銀色。
の名前が刻まれていない、ただのボタンの群れ。


「少年。それでもお前は、お嬢さんを“仲間”と呼ぶのか?」


床にぶつかって跳ねる音が響く。
銀に光が反射して目が眩みそうだ。
その残酷さに空間は侵されていた。


「なぁ、“エクソシスト”…………」


にやりと笑んだ男の唇。
アレンはあまりの衝動に、のボタンをきつく握り締めた。
その肌に焼け付く冷たさは、一生忘れられそうになかった。




















怖い。
苦しい。
あまりの恐怖に呼吸が乱れた。
けれど助けを呼ぶこともできなかった。
そんなことは、“”に許されてはいなかったのだ。


暗黒一色に染められた空間を、はたった一人で歩いていた。
泣いてしまいそうなほど恐ろしいのに、涙を流すことも悲鳴をあげることも禁じていたから、震えを殺して前進するしかなかった。
一歩を踏み出すたびに何かが消えてゆく。
心から温もりが剥がれ落ち、喪失感に満たされる。
大切なものなど、ここまでくるのに全て失ったと思っていたのに。
私はまだこんなにも抱えていたのか……、考えれば考えるほどその正体もわからなくなっていくのだけど。


もう誰にも会いたくなかった。
顔を合わせてしまえば、その人は次に忘れてしまう人物だ。
幾度もそう思い、幾度もその通りとなった。
今度もまた同じだった。


!」


よろよろと歩いていると、横から声が飛んできた。
呼ばないで、会いたくない、あなたのことを忘れてしまうから。
そう思う一方で、この淋しい場所に現れた親しい気配に振り返らずにはいられない。


「…………ラビ」


ぼやけていた視界が鮮明になり、彼の炎色の髪を映し出した。
向けられた眼差しが懐かしい。
ラビはの姿を見て、息を止めた。
翡翠の隻眼が見開かれ、肩が震える。
足を引きずるように一歩を踏み出したかと思えば、転がるように傍まで駆けてきた。
そして何も言わずにの服に手をかけると、それを一気にめくり上げた。


「ちょ……!」


は慌てた。
当然ながら男であるラビに素肌を見られたから……ではなくて、むしろそんなことを気にする関係ではなかったからだった。
きっと他の誰でも隠し通すことができたのに彼だけは、彼だからこそ、こうやって遠慮もなく暴かれてしまう。
はめくられた上着を引っ張って肌を隠そうとした。
けれど力では敵わない。
ラビはしばらく黙っての体を点検した後、低く唸るように訊いた。


「誰さ」
「え……?」
「誰にやられた」


苦しげに細められた翡翠の瞳。
その視線を辿っては自分の腹を見下ろした。


白い肌が変色している。
暗赤に変わり、見事に腫れ上がっていた。
これは鬱血の徴候だ。
自覚した途端、鈍い痛みが突き上げてくる。
骨が軋んで、もしかしたら内腑までどうにかなっているのかもしれない。
明らかに暴行を加えられた痕だった。


ああ、あの時の記憶か。
はそう悟ったが、己の体はそんなことは関係なく動いていた。
ラビの隙をついて飛び退くように離れると、乱された上着を整える。
口が勝手に言葉を紡いだ。


「こんなところで止めてよ」
「…………
「誰かに見られたらどうするの」
「答えろよ」


ラビの声が怖い。
は嘘をついた。
“誰か”なんてどうでもよかった。
ただ彼だけは、ラビにだけは見られたくなかったのに。


「なぁ。それ、誰にやられた」


ラビがもう一度、囁くように訊いた。
噛み締めた奥歯が嫌な音をたてる。
嫌だ。言いたくない。
は視線を落としたまま、何とか笑ってみせた。


「階段で転んだ」
「嘘つくなよ」


一生懸命ごまかそうとしているのに即座に否定が飛んでくる。
はまだ子供でうまく言い訳ができないし、それを察して黙っていられるほどラビも大人ではなかった。


「ホントだって。階段の角のところ!あそこで思い切りぶつけたの」
「………………」
「そりゃあもう痛かったけどね。こんなの格好悪いから、みんなには内緒にしておいて」
「…………、わかった」
「うん、よろしく」
「わかったから。オレにだけは本当のこと言えよ」
「………………」



必死に笑顔を保とうとするけれど、頬が引きつる。
見つめてくるラビの眼が、その偽りを許してくれないのだ。
ラビは苦しそうに息を吐き出した。


「転んでそんなになるもんか。グローリアも違うだろ。アイツと闘りあったら、もっと全身に怪我してる。そんな……」


一度言葉を詰まらせて、続けた。


「そんな、目立たないところだけ狙うだなんて、どこのゲスの仕業さ」


そう、彼らも馬鹿ではなかった。
いくらが気に食わないといっても、あからさまに危害を加えるようなことはしない。
こうやって隠れたところを攻撃するのだ。
が暴行を加えられたと言わない限り、人目にはつかない箇所だけを。


「オマエも、何で抵抗しなかった」
「………………」
「どうして黙って殴られたりしたんさ……!」



親友の純粋な眼差しがを責めていた。
答えることができなかった。
自分がひどく恥ずかしくて、くだらない存在のように思えた。
そんなことは分かっていたけれど、一層強く感じたのだ。
目の前の彼を怒らせ、悲しませた己自身が。
が硬直したまま答えないから、ラビはふいと顔を逸らした。


「もういい」


踵を返しながら吐き捨てる。


「自分で捜し出す。オマエに近づいた奴、全員ぶん殴ればどれかが当たりだろ」


何の感情もない声だった。
投げられた言葉と向けられた背を見て、は咄嗟に駆け出した。
そして、


「ギャア!!」


ラビの悲鳴があがる。
が彼のお尻に“えいや!”とばかりに蹴りを入れたからだ。
それも綺麗に両足を揃えて放つ、ドロップキックを。
ラビは面白いほど見事にすっ転んで、床に這いつくばった。
体の前面を思い切り打ち付けたのか、衝撃にピクピクしている。
は片手を頭にやりながら笑った。


「あはは、ごっめん。思わず突っ込みを入れてしまった!」
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っつ!何が突っ込みさ!思いっきり殺人キックじゃねぇか!!」
「もう、ホントに私の足ったらおちゃめさん!」


えへっ、とかが言えば、ラビは猛然と立ち上がった。
掴みかからんばかりの勢いで言う。


「何で止めるんさ!!」
「何で止めないと思うの」
「オマエ、自分がどういう扱い受けたかわかってるんか!?」


翡翠の瞳が怒りに光る。


「どうせ暴言だって、さんざん吐かれたんだろ!」
「発言は自由だし、価値観は人それぞれでしょ」
「そんなことで片付くか!!」


ラビは全力で怒鳴り散らした。
鋭く光る片眼に射すくめられて、体が強張るようだ。
それでもは手を伸ばしてラビのマフラーを掴んだ。
今にも誰かに殴りかかっていきそうな彼を、自分のところに引き止める。


「そんなことで片付けてください。そして落ち着け」
「ムリ言うなよ……っ」
「私がそう言ってるの。これは親友の頼み。お願い、聞いてよ」
「その親友が侮辱されたんさ!黙っていられるわけねぇだろ!!」


本気の怒りを瞳に宿し、肩で息をするラビを、は見上げた。
胸にじんわりと温かさが広がって、微笑む。
けれど意思の力で押し留めた。
わざと笑んだように見せかけて、は言う。


「侮辱された?」


ゆっくりと囁いて、首を傾けた。


「身に覚えがないな」


目を見張ったラビが、何か言い返す前に続ける。


「私は今の自分を恥じてはいない」
「………………」
「それこそ、これっぽっちもね」


だからそんな事実はないのだと、瞳で伝えた。
言葉を失ったように見つめてくるラビに、は吐息を漏らした。
切なくて切なくて、もうどうしようもなかった。


「恥じるとすれば、あなたにそんな顔をさせたことだけよ」
……」


こんな奇妙な境遇に陥って、それでも必死に足掻いて生きいこうと決めた。
存在を与えてくれたのは『黒の教団』。
師であるグローリア。
そして親友のラビ。
彼らに誇れる自分になることが、の決意だった。
だから他人に何を言われても、くじけてやる気などない。
また、そのせいで大切な人を傷つけてしまう己でいたくはなかった。
それなのに。
それなのに…………。


(私は、また)


ふいに手を握られた。
触れた指先は震えていた。
顔をあげれば翡翠の瞳が見える。
ラビは双眸を細めてを見つめていた。
そこに宿った光が揺れて、唇がわずかに開かれる。
息を吐き出したあとで言う。


「……………バカ」
「え……?」
「バカヤロ……!」


うめくような声には涙が滲んでいた。
がぽかんと見上げていると、瞳が潤んで雫がこぼれ落ちそうになった。
その直前で目を逸らされる。
握っていた手を振り放して、赤毛の少年は歩き出してしまった。


「ラビ!」
「うっせぇ、馬鹿!!」


驚いて名前を呼べば、怒鳴り返された。
声が裏返っている。
ああ、これは絶対にそうだとは思った。


「な、泣かないでよ!」
「泣いてねぇよ!!」


わめきながら早足で歩いていくから、は仕方なくそれを追った。
きっと顔は見られたくないだろうから適度に距離をあけてついて行く。
前方を行く背は強張っていて、絶えず罵り言葉が聞こえてきていた。


「バカバカバカバカ、最強バカ!」
「うん」
「もうやだ、オマエなんて……!」
「うん」
「オマエなんて、嫌いさ……っ」
「……うん」
「大っ嫌いさ!!」
「私は好きだよ」
「…………………」
「ラビのこと、大好きだよ」


静かに言えば、ラビの肩が震える。
もう泣いているのを隠すのも面倒になったのか、それともそんな余裕がないのか、嗚咽混じりの声が答えた。


「オレは嫌い」
「………………」
「オレは、オレが嫌いなんさ」
「……、どうして?」
「だって……っ、オレがもっと強かったら、それこそちゃんとした“ブックマン”だったら、絶対……!」


ラビは片腕で乱暴に頬を拭った。
そのせいで少しだけ声がこもったけれど、にはハッキリと響いた。




「絶対、オマエを連れて、こんなところから逃げ出してやるのに……!」




それを聞いて思わず叫び出したくなった。
そんなこといいから泣かないでよと、目の前の優しい少年に伝えたかった。
けれど喉が痛くて声が出ない。
自分も泣きそうになっているのだと、は気付けないままでいた。


「こんな、オマエのこと利用して、戦わせるためだけに生かして。それでいて気味が悪いとか、信用できないとか、好き勝手言って。身内も過去もないから、どんな扱いをしてもいいと思ってて。そんなの……っ」


喘ぐように息を吸い込んで、ラビはまくしたてた。


「そんなの許せるかよ……!」


怒鳴った弾みで、涙が頬を落ちてゆくのが見えた。
は自分の胸を押さえた。
心が破れそうなほど、強い想いがそこには渦巻いていた。


「暴言吐かれるのも、暴力振るわれるのも、オレは嫌だ。オマエがそんな扱いを受けるのは嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。どれかひとつだって許せるもんか……!」


嫌だ、と。
許せない、と何度もラビは繰り返した。


「腹を立てて抵抗すれば、奴らの言うことを認めた気になるんだろ。だからオマエはいつも黙って殴られるんだろ。じっと痛みを受け入れるんだろ。それが当然だと思ってるんだろ。ふざけんなよ。ふざけんな!!」


は何も言えなかった。
ただ口を閉ざしてラビの言を聞いていた。
けれど、どうしてだろう。
自分を想う彼の優しい声のほうが、悪意の言葉よりも、振り下ろされた拳よりも、ずっと痛かった。
大の大人に蹴りつけられて、どうにかなってしまった腹部よりも、ずっとずっと痛かった。


「オマエなんて嫌いさ!馬鹿みたいに強くって、どんな目にあっても平気だって笑う、オマエなんて大っ嫌いさ!!」
「………っつ」
「そんで、そんなオマエを助けることもできない弱いオレはもっともっと大っっ嫌いだ!!」
「大好きだよ!!」


痛みが堪らなくなって、はラビに負けないほどの大声で叫んだ。
まだ子供だったけれど、さらに幼子のようにわめいた。


「大っっ好きだ!!」


ラビが足を止めた。
もそうして、呼吸を乱しながら続ける。


「バカバカ、もう、どこの誰が強いって言うのよ!何もかも平気なわけあるもんか、こんなの痛みで今夜は眠れないに決まってる!!」
「…………………」
「だけど平気だって言うよ!一生懸命笑うよ!そうしたら、グローリア先生は拳ひとつで許してくれるし、    はいつも通り可愛い笑顔のままだ!  は“バカ女”って言いながら、さり気なく痛いところ避けて攻撃してくるんだ!   室長だって    班長だって、みんな……っ」


言葉は穴だらけだった。
あのとき確かに呼んだ名前はもう忘却の彼方で、けれどは止められないし、ラビも何も言わない。
消えてしまった人たちのことは、流れてゆく記憶の中で、ひとつも考えることができなかったのだ。
はただ必死に続けた。


「みんな、笑ってくれるから、私も笑ってるよ……!」


だって、それがこんな私でも出来る精一杯のことだから。
唯一の、ことだから。


「ラビは、自分を弱いと言うけれど。あなたほど強い人を私は知らない」


弾む息を何とか整えて、泣きそうに囁いた。


「ねぇ、一番にあなたが居てくれたから、私は逃げ出さずにここにいるんだよ」


貴方が弱いから、私を連れて逃げられないんじゃない。
貴方が強いから、私は逃げずにここに居られるんだ。


「誰よりも最初に、私に笑顔を見せてくれるのは、あなたでしょ?」


いつも、いつだってそうだった。
”に笑みを向けてくれたのは、あなたが初めてだった。
どれだけ罵られても殴られても、もう一度笑えるのは、あなたの笑顔に会いたいからよ。


「泣かないでよ、ラビ。お願いだから」
「…………………」
「…………、笑って」
「ひどいこと、言うよな」


ぼそり、とラビが呟いた。
涙の滲んだ声のまま、小さく唸る。


「傷つけられたオマエ見て、笑えって……?」
「…………、そうだよ。そうすれば私は絶対、元気になる」
「そんなんで……」
「痛みだって飛んでいって、たちまち笑顔よ」
「…………、単純」
「そう。単純で馬鹿で意地っ張りで心配をかけてばっかりの私だけど。例え何を言われても、どんな扱いを受けても」


はそこで一生懸命微笑んだ。
自分の持つ全ての力を使って笑ってみせた。
この力は全て、目の前にいる彼を筆頭とする皆に貰ったものだから、絶対に見せなくてはと思ったのだ。
同じものを欲するのであれば、自らも示さなければいけない。
息を吸って、告げた。




「明日からも、俯かずに、胸を張って生きていけるよ」




あなた達の、笑顔の力で。




ラビはしばらく沈黙した。
肩が揺れて、呼吸を整えようとしているのがわかった。
ずいぶん長い時間をかけて、彼はようやく振り返った。
涙は止まっていなかった。
けれど見つめてくる瞳が光っている。
唇が震えて頬が引き攣る。


「オマエが、そんなんだから……」


言いながら両手を振り上げた。
べしりと勢いよく自分の顔を引っぱたいて、ラビは必死に微笑んだ。
と同じように、懸命な笑顔を見せてくれた。


「そんなこと言うから、オレは今日も、馬鹿みたいに笑っちまうんだろ…………」


揺れる声も笑んでいる。
は硬直していた体が解けて、小さく吹き出してしまった。


「うん……ほんと、ばか面……」
「お互い様さー」
「違うよ、私のは乙女の花の笑顔!」
「オレのは魅惑の微笑みってな!」


いつも通りに言って、顔を見合わせて笑った。
もう一粒、ラビの目から涙が零れ落ちる。
それを笑顔が吹き飛ばした。


「なぁ、
「なに?」
「オマエはもうホント単純で馬鹿で意地っ張りで、オレは心配してばっかりさ」
「うん……」
「それでいいから……、それがオマエならいいから。心配させてくれ」
「…………………」
「そうしたら、オレはきっと、一番にオマエに笑ってやれる」
「ラビ……」
「だってオレ達は」


ラビの言いたいことがわかったから、も微笑んで声を揃えた。


「「大親友なんだから!」」


それはお互いだけに許された呼称。
見つめ合えばまたラビの瞳が潤んできた。


「ああ、もう。オマエなんて……」


オマエなんて、とラビは口の中で繰り返し、それから両腕を広げた。
そうして本当の笑顔で駆け出す。


「大っっ好きさ!!」


も両腕を広げた。
前へと踏み出す。
自分へと抱きついてくる暖かい体を受け止めようと、手を伸ばす。
笑顔が弾けて、そして、




消えた。




視界に黒いカーテンが引かれたみたいだ。
の腕は空を引っかき、無を抱いた。
世界が真っ黒になって、頭が真っ白になって。
灰色に染められたは呆然と思う。
ありがとうありがとう、ありがとう。
本当は怒って欲しくなかった、泣いて欲しくなかった、あなたを苦しみで掻き乱したくなかった。
けれど同時に嬉しくて堪らなかったんだ。
私みたいな存在にも、まだ、そうやって心を寄せてくれたこと。
最高の笑顔を見せてくれたこと。
いつだって泣いてしまいたかったけれど、あなたがいてもそれは同じだった。
どんなに苦痛に溺れても、優しさに触れてしまえば、その暖かさに泣いてしまいたくなった。
好きだよ。
大好きだよ。
例えいつか本当に、あなたが私を嫌いになったとしても、私はあなたを好きでいるだろう。
ねぇ、私の大親友。


は限界まで金色の双眸を見開いていた。
呼吸も忘れて立ちすくむ。
虚空を抱いた腕を見下ろせば、目眩を覚えた。
凄まじい寒気と吐き気に襲われて、目の前が見えなくなった。
ただただ愕然としたまま、縋るように闇へと問いかける。



ねぇ………………“私の大親友”って、いったい誰のことだった?



心の底から愛していた、その笑顔すらもう見えない。
もう触れられない。
何故ならは、それを全て忘れてしまったからだ。
自分の大切な存在が腕をすり抜けていった。
抱きしめたと思ったのに、多くの光を連れて、彼はの前から去っていった。
違う、自分が手放してしまったのだ。
決して失いたくないと思っていたのに、何か見えない力に誘われて、忘却の彼方へと流してしまったのだ。


膝がわなないた。
見えなくなった視線の先では腕がおかしなほどに震えていた。
頭ががんがんする。
腹の底から黒くどろりとした塊が這い上がってきて、の喉を塞いだ。
そうなって初めて全身に響いていた耳障りな音が、自分の呼吸音であったということに気がついた。
あまりの絶望に、は顔を覆ってその場に崩れ落ちた。




ねぇ、私に最高の笑顔をくれた、優しく強い貴方は一体どこの誰だった?




失ってしまった温もり、抱きしめたはずの者へと問いかける。
返事など返ってこないことは知っていた。
それでも何度も繰り返す。
何度も、何度だって。


けれども闇は無慈悲なもの。
世界は暗転、さらなる黒を広げてを呑み込んでいった。




















耳が、潰れればいいのに。
アレンは見開いた瞳で床を見つめたまま、そんなことを考えた。
手で塞ぐとか、鼓膜が破れるとか、そんなんじゃ駄目だ。
潰れればいい。
跡形もなく吹き飛んでしまえ。
一緒に頭も失えば、もう考えることもなく終ることができるのに。


死ぬつもりなんかなくて、を連れて帰るという決意はそのままなのに、アレンはただひたすらに消えてしまいたいと思っていた。
意思というよりは、本能に近い身勝手な防衛策だった。
さびれた教会の中に朗々と響くノアの声を、もう一秒だって聞いていたくなかったのだ。


「次は何だと思う?」


楽しそうなティキの声。
上っ面だけが嫌がる調子になる。
その褐色の指先が、の体に纏わりつき咲き誇った赤薔薇を弄ぶ。


「うわ……、またすごいのが見えた。何だよ、隠蔽した過去よりこっちだってのに悲惨すぎるぜ……」
「…………………」
「聞いてるか、少年?この赤薔薇ではひどい暴行が見えたな。大の大人が集まって、年端もいかない少女を嬲る。ホント、大した『神の使途』たちだな」
「…………………」
「吐きかけられた暴言を繰り返そうか?“気持ち悪い”、“消えろ”、“傍によるな”、“異端者め”、“こんな女が仲間だなんて反吐が出る”…………。おいおい何で黙って殴られてるんだよ、お嬢さん。いったぁ……今の蹴りはマズイだろ」
「…………………」
「あーあ。男に無理やり奪われそうになったのも一度や二度じゃないな……。ははっ、それはさすがに抵抗したか。そりゃあ、なぁ。女として貞操は守るべきだろ。ズタズタに切り裂いてやりたくもなるよな」
「…………………」
「ん?それなのに後悔してるのか?人間にイノセンスを向けたから?乙女の純潔を奪おうとしたクズ共だぜ、そのまま殺してやっても足りないくらいだろ。殺せよ。何でお嬢さんが傷つかなきゃならない」
「…………………」
「ああ、吐き気がする。何だこいつら。お嬢さんのことを人間だとも思ってないな。これが“仲間”とは恐れ入る。なぁ、少年」
「…………………」
「おーい、少年。聞いてるか?」


口元に手を当てて、ティキが呼びかけてきた。
アレンは顔があげられない。
頭がおかしくなりそうなほど、体の真ん中が痛かった。
心が引き裂かれて鮮血が溢れ出す。
ティキはアレンの反応を諦めたのか、軽く肩をすくませた。


「少年は何も知らなかったんだな。このお嬢さんがどういった制約の元で生かされ、どんな扱いを受けてきたのか」


違う。
知らなかったわけじゃない。
ただ何となく聞かされて、それでもが馬鹿みたいに明るく振舞うから、それ以上知ろうともせずに一緒に笑っていただけだ。
まるで、道化のように。
アレンは額に震える拳を押し当てた。
ティキの声がそんなアレンをさらに襲う。


「ま、仕方がないか。本人はそれを隠していたみたいだし。『黒の教団』もお嬢さんの境遇を隠れ蓑にして、彼女への非人道的扱いは口外しなかった。だから少年に罪はないよ」


の血で染まった薔薇を手で散らしながら、ティキはにっこりと微笑んだ。


「だって関係ないもんな」


いっそ優しいその口調が、呼吸を殺してくる。
毒のように染み込んで、細胞をひとつひとつ破壊してゆく。


「今はまだ随分とマシな方だ。過去に遡れば遡るほどひどい。昔は危険の高い任務をこぞってお嬢さんに押し付けてるぜ。身内も過去もない彼女なら、いくらエクソシストといえども、死んだってどうってことはないとさ」
「………………」
「仲間が殉職すれば、こう言われる。“お前が代わりに殺されればよかったのに”。だって誰も悲しまない。こんな、得体の知れない、不気味な子供」
「………………ろ」
「眼鏡の室長がそれを必死に止めさせたんだ。おかげで大元帥達の不興を買った。いらない苦労を背負い込んだってわけだな」
「やめろ……」
「主観的に見ると哀れなお嬢さんだけど、客観的に見ればとんだ疫病神だな。奴らもそう責められたものじゃないか。オレだって、こんな女、身内だったら絶対に我慢できないね」
「もう止めろ!!」


血を吐くような声でアレンは叫んだ。
床に膝をついたまま、顔を俯けたまま。
視界がぼやけて定まらない。
苦しくて苦しくて、ただ叫ぶしかできない。


「それ以上の心を踏み荒らすな……!!」
「……少年。それはオレよりも、お前の“仲間”に言うべき言葉だろ」


だだをこねる子供に言い聞かせるような口調で、ティキは語りかけてくる。
その通りだと思った。
『黒の教団』がに与えた仕打ちは、あまりに残酷だった。
人間に対する扱いではない。
これではまるで、アクマを狩るためだけに生かされた兵器だ。
暗く冷たいその考えが真実であるのだと、アレンにはもうわかっていた。


本当に、それだけのために生かされているのだ。
は、あの金色の少女は。
ただただアクマを屠り、千年伯爵との闘争のためだけに、いまだ鼓動を刻むことを許されている。
そうだとすれば、彼女の心はどうだっていい。
ないがしろにされて、罵られて、傷つけて、殴って蹴って、唾を吐きかけられて。
その身を犯そうと、引き裂こうと、自分達の勝手だと。
所有者である、『黒の教団』の自由であるのだと。
そんな卑劣な主張がアレンの鼓膜をつんざいて、耳なんて潰れてしまえと願わずにいられない。


「う……、っ」


嗚咽が漏れた。
アレンは口元を覆って、必死に顔をあげた。
吐き気を堪えてを視界の中に求める。
どうしてあんなところにいるのだろう。
僕は今、君を抱きしめたくて仕方がないのに。
遠い。何かが邪魔をしている。
遠い。確実に隔てられている。
遠い。指先が、届かない。



ああ、僕と君の絆がふつりと切れて、二人の間に冷たく横たわっているのか。



そう認識した途端、アレンの中で感情が嵐のように荒れ狂った。
今まで考えることすら拒絶していた思考が鮮やかに蘇り、心が叫んで命懸けで命じる。


(そんなことは、許さない)


途絶えてしまったことは認めなければならなかった。
それは心臓が潰れそうな恐怖だったけれど、真正面から向かい合わなければいけない。
でなければ永遠に、彼女を失うことになってしまうからだ。
自分が壊れることよりも、アレンにはそれが耐えられなかった。


僕はエクソシストだ。
『黒の教団』の一員だ。
という存在を認めず、ないがしろにし、悪意と暴力を振りかけた。
その心身を残酷に弄んだ、そんな組織の一部なんだ。
僕もきっと、君を傷つけていた。
ノアの言は嘘で、知らなかったこと自体が罪……途方もない罪悪だ。
無知なままで彼女の隣にいることはもう出来ない。
心地良いだけの絆は千切れて、“本当”だけが生存を許される。
だからこそ、ようやく見えた。


僕だって君と同じなんだ、
僕らの“仲間”は、そう…………。


「可哀想なお嬢さん」


怒涛のように感情が鳴り響く聴覚の隅で、アレンはティキの声を聞いた。


「本当はどこまでも独りぼっちなのに、必死に絆を求めている。あんな非道な扱いをされて、それでもまだ奴らを“仲間”と呼ぶ。信じたいだけじゃ、事実は変わらないぜ?」


眉を下げて本当に哀れみの表情で、ティキはの頬を優しく撫でた。


「強く賢いお嬢さんにしては、ひどく不様なことだな」


「黙れ」


アレンは口をついてそう言っていた。
ほとんど無意識の言葉だった。
けれど音にしてみて心が静まるのを感じる。
感情はいまだに胸の内を荒れ狂っているが、その怒りを力に変える術をアレンはついに見つけ出した。


声に反応して、ティキはアレンを振り返った。
こちらを真っ直ぐに射抜く、銀灰色。
少年の血のこびりついた唇から、燃え盛る意思が放たれた。


「僕の“仲間”を侮辱するな」


自分を見据えるエクソシストに、快楽のノアは静かに目を細めたのだった。




















もう強がりで立っているのも限界だった。
は闇の中、冷たい黒の上に横たわっていた。
息をするのも億劫だったから肢体を放り出す。
屍のように転がっていれば、いつかこの漆黒に溶けて消えてしまえるんじゃないかと思う。


何かを失って、失ったことすら忘れて、そんな激しい空虚感には耐えられない。
思考することすら無駄な気がする。
そもそも何を考えればいいのかわからないから、本当に無意味だ。


(どうして私は……、いまだに存在しているんだろう………)


その理由が心底理解できなかった。
だからこそもう終ったかと思うのに、わずかに視線を動かしてみれば、変わらず鼓動を刻む自分の体が見えて幻滅する。
死にたいと思う。
いや、消えたい。
生きることを誓わせてくれた大切なものたちを全て失ったにとって、生はただひたすら苦痛だった。
在ってはいけない命だ。
誰もが自分を非難し、侮蔑する。
それと等しい仕打ちを与えるくせに、決して死を許してはくれない。
何てひどい話だろう。
歪みを生むだけだと知っているのに、神の使徒だといって生かされ続ける。
くだらないことだ。
イノセンスは選び違えた。
こんな罪人など、何かを救えるはずがない。


は目を閉じた。
もう何も見たくなかった。
このまま緩やかに、消滅することを望んだ。


それなのに、すぐ傍で、また懐かしい声がする。


「殺してやりたい」


響く口調。
遠い昔に失ったもの。
は反射的に目を開いた。
顔を動かせばその後ろ姿が見えた。
輝く銀髪が肩に流れ、背中へと長く落ちかかっている。


(グローリア先生)


は名前を呼びたかったけれど、声が出なかった。
首に手をやって理解する。
そこには包帯が巻かれていて、声帯に怪我を負っているのがわかった。
グローリアは振り返りもせずに、に背を向けてそこに座り込んでいた。


「殺してやりたい。こんなガキ」


彼女は低い声で繰り返す。
鼻腔をくすぐる酒の匂い。
グローリアは酔っているのだとにはわかった。
師には強くもないのに浴びるほど酒を飲むという、困ったクセがあったのだ。


「本当に殺してやろうかと思ったんだ。今度こそ」


最初はグローリアが独り語を言っているのかと思ったけれど、記憶を辿ってみてそうではないと知る。


確かこの時、自分は大怪我を負っていたはずだ。
それらは全てグローリアにやられたもので、顔を腫れあがるまで殴られ、声帯を潰され、肋骨を何本も折られた。
激しい痛みに拘束された手足。
あまりにひどい怪我だったために、高熱を出したはずだ。
グローリアがに重症を負わせるのは修行の一環としていつものことだが、今回ばかりは度を越していた。
本当に殺されるかと思った。
彼女もそのつもりだったと言うのだから、事実としてそうなのだろう。
また珍しいことに彼女は大衆の前で暴力を振るってきた。
怯えた黒髪の少女が泣き叫び、ブックマンJr.が激怒して立ち塞がったけれど、グローリアは意に介さなかった。
途中でが意識を失ったので、どうやってその場がおさまったのかはわからない。
ただ目を覚ましてみれば、ハッキリしない視界で医療班の班長が蒼白な顔をしていたのを覚えている。
あの何事にも動じない彼がそんな風になっていたのだから、自分の状態はそうとう危なかったのだろう。
それから何日も高い熱にうかされて、激痛に苛まれて、夜中にふと目を開けたときのことだ。
暗い部屋、の眠るベッドに、グローリアが腰掛けていた。
彼女はそこでゴーレムを通じ、回線の向こう側にいる人物に語りかけていたのだ。
そんな何年も前の記憶が、今の目の前で繰り広げられている。


「なぁ。でも、わかっているんだ。こんなのは虐待だと。ただの卑劣な暴力だと」


記憶の中のベッドの上で……今は闇の上で、はただグローリアの背中を見つめていた。


「こんな小娘、私が本気でやればすぐに死んでしまう」


だったら止めてやれよ、とゴーレムから返事が漏れてきた。
そこでは記憶通りに悟る。
通信の相手は彼だ。
赤毛の元帥、グローリアの相棒。
クロス・マリアン。


「死んでしまうんだ。簡単に。…………簡単にだ」


酒の匂いがきつい。
グローリアが息を吐くたびに香る、アルコール。
は痛みに朦朧としながら彼女の言葉を聞いていた。


「簡単に殺せるのに、簡単に願うんだ。“死にたい”って。こいつは死を望んでる。それがどれだけ安易に手に入るかも知らずに、だれかれ構わず懇願する」


グローリアはわずかに俯いた。
銀色の髪がランプの光に揺らめいたように、少しだけ色を変えた。


「一番に願われているのは私だよ。真実を知っている人間だから、死を与えてくれるのではと期待している。そんな目でじっと見ている。生きて使命をまっとうすると言いながら、心の底では私に殺されることを望んでいるんだ」


吐き捨てるように、グローリアは続けた。


「贖罪のために消えたいと想う、純粋でくだらない娘だよ」


だから、殺そうとしたのか。
無線から聞こえる雑音交じりの問いかけ。
グローリアはそれを鼻で笑い飛ばした。


「ああ、殺してやろうと思った。だから殴った。拳を浴びせて、骨を蹴り砕いて。ひどい行為だと知りながら、私は自分を抑えなかった」


最低の師匠だな、とクロスが笑う。
責める口調ではない。
それにかえってグローリアには不快だったのか、今度は嫌そうに首を振った。


「…………それでも、息の根は止めてやらなかった。心底腹が立っていたからだ。望まれていると知って、誰が叶えてやるものか。あまりにもそれを求めるから、私はお前をすぐにでも殺せるのだという、事実だけを教えてやった」


声は皮肉気であざ笑うかのようなのに、グローリアはきつく己の身を抱き込んでいた。
視線を落として、まるでうずくまるようだ。
口調と様子の違いに、はゆっくりと目を瞬かせる。
闇にグローリアの乾いた笑い声が響いた。


「ははっ。最高の仕打ちだろう?ひどくたやすいことだけど、殺してなどやらないよ。馬鹿なガキめ、苦しんでいろ」


喉が掠れて聞き取りにくい。
アルコールに焼かれてしまったのだろうか。
案じる間もなくグローリアはを蔑み続けた。


「苦しんで苦しんで、苦しみ抜いて。ひたすらに苦痛を味わっていろ。あぁ、本当に」


揺れる銀髪。
むせ返るような酒の匂い。
吐き出される罵り声。




「“死にたい”と願うお前の心を、殺してやりたいよ。




ハッと目を見開いた。
は限界まで広げた視界で師を見つめる。
グローリアはすでに顔を覆ってしまっていた。


が死を望むたびに、私はこいつを殺そうとするだろう。でもとどめは刺してやらない。絶対にだ」


グローリア、とクロスが呼んだ。
彼女は強く首を振った。


「絶対に、死なせてなどやるものか……!」


痛みを負って、死にそうな思いをしたのは自分なのに。
何故だかには、グローリアのほうが苦しそうに見えた。
クロスがまた彼女の名前を呼ぶ。
答える代わりに細い肩が震えた。


「私だけはこいつに同情しない。可哀想だとは思わない。哀れみから、手を差し伸べたりはしない。…………それをすれば、その生を絶ってやらなければいけなくなるから」


本当に自分を哀れだと思ってくれるのならば、死を与えるのが一番であるということを、グローリアは知っているようだった。
だから彼女の手はいつだって固く握りこまれているのだ。
に向けられるそれは、拳にしかならない。
優しさに掌を差し出せば、その手に刃を押し付けて、殺してくれと要求されることがわかっているから。


「私だけは、に優しくなどしない」


呻くようなグローリアの言葉は真実だった。
彼女は最後まで……本当の最期まで、にそうは接しなかった。
甘えを禁じて弱さを責めて、どこまでも厳しい目でこちらを見下ろしていた。
室長の妹やブックマンの弟子のように、寄り添うことも、手を取り合うことも、許してはくれなかった。
けれどは知っている。
その冷たさ。
今向けられている背中こそが、彼女の精一杯の愛情だったのだと。


「願いを聞き入れてはやらない。与えるのは拒否と痛みだ。それで自分が生きていることを実感しろ。…………そうして、抱え込んだ“生命いのち”の重さに喘ぎ続ければいい」


ひどく乱暴にそう言い捨てて、グローリアは沈黙した。
クロスも何も言わなかった。
ただ二人の気配の後ろで、だけが必死に涙を堪えていた。


しばらくの後、グローリアはゆっくりと顔をあげた。
流れる銀髪が綺麗だ。
何て強くて美しい人なのだろうと思う。


「確かにお前の言う通り、ひどい師匠だ。いや……人間として最低だな。私は」


今さら気付いたのかと、何でもない口調でクロスが返した。
グローリアは苦く笑って肩をすくめる。


「改めて自覚しただけだ。そんなこと、とっくに知っていたさ」


けれど、それはお前にしかできないことだ。
ゴーレムから聞こえてきた声は、やはり何でもない口調で。
グローリアはそちらから顔を逸らしてしまった。


「私以外がしたら、許さない」


こんな、酷いこと。


続いた言葉はとても小さかったけれど、クロスには届いたようだ。
一拍の後、クスクス笑いが聞こえてくる。
それにグローリアは気分を害したらしく、体を強張らせた。


「わ、笑ったな……!クロス、お前……っ、笑ったな!!」


口調を荒げた途端に、さらに笑い声は大きくなった。
それを聞きながら、は涙が睫毛を濡らすのを感じていた。


「不愉快だ!切るぞ!!」


怒鳴り散らしてグローリアはゴーレムに手をかけたが、直前でクロスが言った。
今夜くらいは、と一緒に寝てやったらどうだ?
どうせ毎晩こっそり傍にいるんだろう、とからかうような調子で、その実深い声音が告げる。
グローリアはますます体を強張らせた。


「半殺しにした弟子と一緒に眠れ、だと……?」


一晩くらい素直になれよ。と返事。
俺とならいつも一緒に寝ているくせに、と続けられたものだから、グローリアはもう何も言わずに通信を叩き切った。
クロスの声が消えて、空間が沈黙する。
グローリアの背中はしばらく殺気立っていたが、徐々にそれもおさまってゆく。
指先で通信ゴーレムをちょいと撫でた。


「…………馬鹿クロス。くだらないことを言うから、愚痴を聞かせた礼が言えなかったじゃないか…………」


片手で銀髪を掻き乱しながら、グローリアはを振り返った。
は慌てて目を閉じた。
眠っているフリをしなくてはならないと思った。
今の会話は自分が聞いてはいけないものだったはずだ。
だからどきどきする胸を押さえて、必死に演技をする。
すると、ふいに頬を撫でられた。
細くしなやかな指先が輪郭をなぞり、髪をかきあげる。
グローリアがこちらに身を乗り出す気配を感じた。
そして、耳に吐息。


「子供をこんな目にあわせただなんて、母さんに知られたら怒られる。なぁ、


お酒の匂いが嗅覚を刺激する。
けれど嫌じゃない。
離れないで欲しいとさえ思った。


「私の母はね、そりゃあ怖い女なんだよ。お前みたいな馬鹿ガキ、きっと拳ひとつで黙らせる」


そんなの貴方だって一緒だろう。
そう考える胸の中が熱くてたまらない。


「けれど叱られたその日は、必ず同じベッドで眠ってくれたんだ。私を痛めつけた同じ手で、抱きしめてくれた」


上掛けを持ち上げられる。
隣に滑り込んでくる暖かい存在。
また涙が溢れそうになったから、は寝返りをうつフリをして、枕に顔を埋めた。


「私も母さんみたいに、上手くやれればいいんだがな…………」


呟くグローリアの手が、包帯の巻かれた頭を撫でてくれた。
そして腕が体にまわされて、そっと抱きしめられる。
酒の匂いに負けないくらい、いい香りがした。
大人の女性だけの持つもの。
母性が放つものだろうか。
そうだとすれば私はいつ、そんな風になれるんだろう。
まだまだ子供で、身勝手な願いを振りかざして、大切な人を傷つけることしか出来ない私は。


は目を閉じたまま指先を伸ばした。
そしてグローリアの手に触れた。
いつも固く握られて、拳でしか自分にくれないそれは、ひどく暖かい。
知っていたはずなのに、その体温に本当に殺されてしまいそうになった。





グローリアが呼んだ。
抱きしめてくれる腕と、繋いだ手。


「お前は嫌なガキだな。生かすために弟子にしたのに、殺したくて堪らなくさせる」


そこで唐突に痛いくらいに引き寄せられた。
こんなことをして、グローリアは自分が目を覚まさないとでも思っているのだろうか。
豊かな胸に顔を押し付けられて苦しい。
思わず体を強張らせたの頭に、静かな声が降ってきた。


「クロスと同じだ。憎らしくて憎らしくて……………それでも、愛おしいだなんて」


嫌なガキ、ともう一度吐き捨てられる。





名前を呼ばれるたびに、呼吸が出来なくなった。
腕が痛み、同時に命を感じた。
愛憎が入り混じった声が激しく囁く。





本当の名前など忘れてしまいたかった。
グローリアが与え、呼んでくれるこの音が、自分の魂に刻まれたものだったらよかったのに。
そうすればきっと、彼女を殺意の炎で焼くことはなかっただろう。
どちらも切り捨てることの出来ない私を、何故この人が抱きしめてくれているのかが、不思議で仕方がなかった。
燃える指先がとグローリアを爛れさせ、痛みを伴いながらひとつにしてゆく。


。お前は、私の…………」


続く言葉をは知っていた。
グローリアの口癖。
私を呼ぶ、冷たい言葉。
けれど彼女との関係を示す、唯一の。




それは、何だった?




唐突に開放されて、は反射的に目を見開いた。
痛いくらいに自分を抱きしめていた手は、決して離してくれなかった腕は、すでに消失していた。
眼前に横たわるのは冷え切った黒だけ。
銀色。
それを捜す。
光を求めて視線を動かすけれど、そんなものは存在していなかった。
この闇ばかりの空間で輝くものなどもうどこにもなかった。



ねぇ、…………………さっきまで私を抱きしめてくれていた、“貴方”はいったい誰だったの?



知らない、と心が返事をした。
わからない、と感覚が囁いた。
そんな者などいなかった気さえする。
それほどまでには空洞となっていた。
体はがらんどうとなり、もはや人形と大差ない。
あの輝く銀色の存在を失ってしまえば、自分など本当に空っぽだったのだ。
優しい笑顔も、最高の戦友も、たったひとりの親友も消えてしまった今、の全ては彼女だった。
だからこそ、それさえ失くせばもう何も考えられない。
悲しいとさえ思えなかった。
心は潰れ、感情が凍る。


それでもいまだ拒絶する部分が必死に手を伸ばさせる。
消えてしまった何かを取り戻そうと、指先が闇を引っかいた。
届かない。
触れられない。
すり抜けてしまった大切なものたちは、二度とには戻らない。
声の出ない喉が震えて、意識がぶれた。
霞んでゆく視界で伸ばした爪の先から消えてゆくけれど、見開いていた目すら意思とは関係なく閉ざされて。
真っ暗になった。
真実の闇が、そこにはあった。




ねぇ、私に存在を与えてくれた、銀色の貴方は一体どこの誰だった?




そう考えることもひどく困難で、どうしようもない。
胸の真ん中に空けられた埋めようのない穴。
そこからの最後の光が去ってしまったから、何もかもが絶望に沈んで、もう存在していることすらできなかった。
横たわった肢体がゆっくりとほどけ出す。
粒子のように流れて溶けてゆく。


世界はもはや暗転しない。
あとはただ跡形もなく消滅するのを待つのみ。




閉じられた瞼から、たった一粒、涙が闇へと滑り落ちていった。




それはにとって、これ以上ないまでに不様な最期だった。




















「不様なものか」


失った光を瞳に取り戻して、アレンは告げた。
双眸に熱を宿らせる。
胸の中で感情が燃え上がる。
見つけ出した答えが心を焼き、力となって己を構成してゆく。
廃墟と化した教会の中で、アレンはこちらを見下ろしてくる敵を真っ直ぐに射抜いた。


「信じたいんじゃない。それが事実だ」


疑いようのない真実だ。


「彼女は僕らを“仲間”だと思っている」
「……ハッ。あれだけのことをされたっていうのにか?どれだけ優しい女だよ」


嘲笑を浮かべたティキにアレンは首を振って見せた。


は優しくない。そんな出来た人間じゃない。違う、そうじゃないんだ」


彼女自身が言っていたことだ。
自分は大人ではない。
神話に出てくる聖女のように、全てを受け入れられるような人間にはなれないと。


「蔑まれた記憶は、今でもを縛ってる。心に暗く陰を落としている。“仲間”だと一括りにしていても、そういうことじゃなくて」


そんな綺麗な話なんかじゃなくて。


は、ずっと戦ってきたんだ」


必死に。がむしゃらに。
なりふり構わず、それこそ不様なまでに。


「諦めずに、自分の境遇と戦ってきた。投げられる悪意に耳を塞がずに、振り下ろされる拳に目を閉ざさずに。ただただ前だけを見て、ここまで歩き続けてきた」


そんなのは全て聞いた話で、けれどを見ていれば自然と本当なのだと感じた。
自ら涙を禁じて、弱さを責めて、ただひたすらに彼女は生きてきた。


「馬鹿みたいな笑顔も、茶化すような言動も、彼女の戦いだった……。そうすることで負けないように……、失くしてしまった過去と“仲間”と呼ぶべき人々に」


最初はの持つ“負けず嫌い”からだったのかもしれない。
アレンは何となくそう思っていた。
こんな奇妙な境遇に陥って、それでも生きていかなければならないと知った幼い少女には、虚勢を張ることが存在できる唯一の方法だったのだろう。
平気だと言って、気にしないフリをして。
泣き出しそうな感情を押し殺して、そこに居た。
そうでなくてはきっと立っていられなかった。
そんないじらしさを思えば、アレンの胸はどうしようもなく熱くなった。


「そうして信頼を得る努力をした。…………辛い道のりだったって、僕は知ってる。人間は自分と違う者を受け入れない。拒絶し、排除しようとする」
「少年も、そういう経験があるわけか」


途中で面倒くさそうにティキが口を挟んだから、アレンは思わずイノセンスを押さえた。
アレン自身もそういった差別にあってきた人間だった。
この醜い左手のせいで、どれほど大切なものを失い、傷つけられただろう。
こんなところで分かち合えるものを自分に見つけて、アレンは薄く微笑した。
それでも彼女は、僕よりもずっとずっと、強かった。


「……は諦めなかった。そうして作り上げた絆と関係が、今の彼女を支えている。光で、温もりで、生きる意味だ」


今ではたくさんの人々がを好きでいる。
リナリーはちょっといきすぎなくらいだ。
ラビだってベタベタベタベタと腹が立つ。
神田は控えめに見えて、その実以外を認めようとしない。
他のエクソシストたちも彼女を頼り、信頼していた。
コムイさんやリーバーさんたち科学班なんて、大戦力であるがいなくなったら絶対に困る。
ジェリーさんとはお茶のみ仲間、コックさんとは噛み合わない料理の話。
ラスティさんたち医療班だって、文句を言いつつ盛大にを構っている。
さすがの手腕で口説き落とした女の子達。
そもそもの魅力で彼女に気のある男だって山ほどいる。
皆みんな、が好きだって。
そう言うのは、彼女が一生懸命に努力して、彼らとの間を遮る己の境遇を飛び越えたからだ。


「彼らはの“仲間”だ」


アレンは自信に溢れる声で断言した。


「本当は教団なんて関係ない。が必死に戦って勝ち得た絆、それで結ばれた人々が“仲間”なんだ」


そこに組織という括りは必要なかった。


「彼らがいるのが『黒の教団』だから、はそれを“仲間”と呼ぶ。そこが自分の居場所…………帰りたい場所だと思っている。ただ、それだけだ」


自分を蔑み、ないがしろにした人々を、は忘れられないだろう。
心に闇を落とし、汚してゆくだろう。
けれどそれに染まりはしない。
そんなことよりも大切で失いたくないものを、彼女はその胸に抱いているのだから。


は、戻らなくちゃいけない。教団にじゃなくて……、そこに居る、彼女が大好きな人々のところに」


アレンは床に手をついて立ち上がった。
全身に痛みが突き抜け、足がふらつく。
目眩を無視して踏ん張って、顔をあげた。


ようやく答えを見つけた。
遠回りをしてしか君を真っ直ぐに見つめられない僕だけど、どうしても言いたいことがあるんだ。
ねぇ、



「僕たちは“仲間”だ」



アレンは血にまみれながら、苦痛に侵されながら、必死に言った。
は目を閉じたままぴくりともしない。
答えてはくれない。
だから早く叩き起こして、頷いてもらわないと。
だって僕がそう思うのは、君がくれた感情のせいなんだよ。


アレンは視線を滑らせてティキを睨みつけた。


に触るな」


声で打つように、の頬に触れる褐色の指先に向って言った。


「僕の“仲間”は返してもらう」
「……………、“仲間”ねぇ」
「僕だって括りはどうでもいい。僕は彼女をそう思っている。それに……」
「それに?」
も僕を“仲間”だと言った。そう呼んでくれた」


そう、彼女は言っていたじゃないか。
“本当の仲間”だと。
上っ面の言葉だけじゃなくて、信頼という絆で結ばれた“仲間”がいるのだと。
組織など関係なく、たったひとつの固体として、そう思い合っているんだって。


『私達は本当の仲間よ』


笑んだ声が鼓膜に響いて、やっぱり耳が潰れなくて良かったとアレンは思った。
彼女の声が何度も再生される。


『アレン』


もう一度、僕の名前を呼んで。
その唇で綴って。
金色の瞳で見つめてよ。
それから。
それから…………。





アレンは震える声で、それでも心の限りに囁いた。


「待ってて。すぐに助けるから」


“仲間”がいるから、君は強いんだろう。
彼らのおかげで生命の大切さを知り、守りたいと願ったんだろう。
どんなことがあったって平気だって笑うのは、皆に心配をかけたくないからだ。
暴言に泣かないのだって、暴力に屈しないのだって、そんな己を恥じることなく胸を張って“仲間”たちと向かい合っていたいから。
とても強くて、ひどく弱い。
心の底で怯えながら、嫌われないかと震えながら、一生懸命に微笑んで。


そんな君だから僕は。


「助ける?まだそんなこと言ってるのか?」


呆れ返った声が飛んできて、アレンの思考を遮った。
ティキは無理だと片手を振るけれど、その指先がまたに触れるから、アレンは目元を強く拭った。
本当は立っているのも辛いけれど、弱音を吐く気はさらさらない。


は渡さない。僕のです」


お前のものではないと、視線でティキを斬りつける。


「彼女を傷つけることは許さない」
「……、オレより先に教団の奴らにそう言ったらどうだ?」
「誰だろうと許さない、という意味です」
「………………」
「僕はの仲間だから、彼女を害すものは全て敵。ノアも教団も同じだ」
「……ふぅん。それって組織の一員として、問題発言だと思うがな」
「どうだっていいことです。ただ、目の前の敵を倒すだけ」
「…………つまり、今はオレ?」
「ええ。とりあえず」


アレンは左腕を強く発動しながら、一歩を踏み出した。
見下すような笑みを口元に浮かべて、いまだにに触れ続ける男を、銀灰色の瞳で見据える。
アレンは激しい戦意を燃やして告げた。


の前から消えてもらいましょうか」


二度と、触れさせはしない。
傷つけさせはしない。
は僕が守る。
所属も義理も関係なく、ただ“アレン”というひとりの人間として。
僕の“仲間”を救済しよう。





アレンはその唇で呟いた。
床を強く蹴る。
ティキを守るように立ちふさがるアクマの群れへと左手を振り下ろす。





ただ、彼女の名前を呪文のように。
返事がもらえるまで、ひたすらに求め続けた。


さぁ途切れた絆を取り戻そう。
僕は、君を取り戻そう。
そして抱きしめるよ。
たくさんの悪意を投げつけられて、それでも俯かずに気高く生きてきた君を。
この胸で受け止める。
もう独りでがんばらないで、って一生懸命囁くから、命を懸けて笑うから、そんなところで闇に囚われていないでどうかどうか、どうかお願い。




僕の腕の中で泣いてよ。




……ッ」










鬱展開、読破ありがとうございました。
かなりソフトにしたつもりですが……。い、如何でしょう?(汗)
ヒロインの過去はいろいろとアレなんで、書くのに気を遣います。
まぁ、簡単に言えば人権無視して好き勝手されていたということですね。
そんな彼女をアレンは本当に“仲間”だと思っているので、これから教団とも一悶着起こしそうな予感。
とにかく今はヒロインが死にそうなんで(マジで)がんばれ!

次回はエグイです。(そこでまで露骨ではありませんが)
流血が大丈夫でも、ドスッ、グチャ、デロデロ〜、な感じ(わかりにくい!)が駄目な方はご注意ください。