聖痕に爪を立てて、お前を優しく傷つける。
次はその唇に噛みつこうか。
嫌だと言っても聞かないよ。
さぁ、神の娘よ。
血濡れの愛撫に喘いで果てろ。
● 蝶と口づけ EPISODE 8 ●
心臓の上に刻まれた傷をえぐられて、ついには悲鳴をあげた。
途方もない身体的苦痛と、凄まじい精神的苦痛が、濁流となって一気に押し寄せる。
思考は消え去り、心は砕かれた。
それは誇り高き戦士を強制的にただの少女へと帰する暴行。
絶叫が世界を揺るがした。
その瞬間、の耳上に飾られていた白薔薇が強く眩い光を放つ。
歓喜の満ちた叫びが響いた。
(ノア様!)
アクマの呼び声に、ティキはたまらず笑った。
「堕ちたか!」
喜色の染まった言葉をこぼし、即座にから飛びずさる。
エクソシストの体はようやくノアの手から開放されたが、さらなる拘束が待っていた。
白薔薇から幾本もの蔓が伸びる。
それは意思を持って空を走り、に絡みつき、その体を十字架へと磔にした。
無数の棘が少女の柔らかな肢体へと突き刺さる。
四肢を絡め取り、縛り上げて、身動きを封じる。
そして残酷なまでに美しい花を咲き乱れさせた。
限界まで見開かれていた金色の瞳から、光が消えた。
長い睫毛が震えて瞼が下りてくる。
その意思の終わりを示すかのように、ゆっくりと双眸が閉じられた。
全身から力の抜けたの頬を、激痛ゆえに溢れ出した涙が、静かに滑り落ちていった。
アレンは愕然とそれを見ていた。
あまりに美しい光景だった。
意識を失ったは、まるで人形のようだ。
十字架に荊で縛られ、磔刑に処された美貌の少女。
その半裸体を飾る白い薔薇の群れ。
どこまでも麗しく、そして恐ろしい眺めだった。
「ようやく捕まえた!絶対に逃がすなよ」
ティキが声をあげて笑いながら、アクマに命じる。
白薔薇は沈黙することで肯定を示した。
優美な花弁はさらに輝きを増したようだ。
「これでやっと、オレだけのものだな。お嬢さん……」
歓喜の吐息を吐き出して、ティキは甘く囁く。
手を伸ばしての頬を撫でた。
指先を涙が濡らしたから、それを掬い取ってぺろりと舐めた。
「…………なにをした」
気がつけばアレンはそう呻いていた。
思考など楽々と飛び越して、本能のように叫んでいた。
「に何をした!!」
動けば全身を押さえつけられたけれど、痛みすら他人事のようにして振り払う。
今は他の全てがどうでもいい。
邪魔するアクマも目に入らない。
アレンはただその銀灰色の瞳で快楽のノアを睨みつけて、激しい声音を響かせる。
「答えろ!ティキ・ミック!!」
は明らかに異常な事態に陥っていた。
その意味を知らないアレンには、傷跡をえぐられた肉体的・精神的ショックがどれほどのものだったのかは、想像を絶する。
けれどそれだけでは今の状況が説明できない。
あのが戦場に居ながら悲鳴をあげるだけでも信じられないのに、ああも簡単に“堕とされる”だなんて。
魂を何かに呑まれたように、彼女は視線の先で瞳を閉ざし、ぴくりとも動かない。
四肢を投げ出して拘束されるがままになっている姿を見て、アレンは心の底から戦慄した。
ティキはその問いを受けて、にやりと微笑む。
「リワインドだよ」
「なに……?」
「巻き戻しの能力だ」
優雅な調子で言うと、彼は白薔薇にちょいと触れた。
「お嬢さんへの贈り物を捜していたら、ぴったりのアクマを見つけたんだよ。その能力は“巻き戻し”」
「………………」
「アクマは対象者の精神を侵して、心の闇に付け入る。そこから根を張り、どんどん広げて……、ほら」
「!?」
アレンはハッと目を見開いた。
ティキが指差す白薔薇が、内側からゆっくりと、けれど確実にその色を朱へと変えたからだ。
滲むように色が広がり、ついには素晴らしい赤薔薇へと変化した。
「この赤は血だ。お嬢さんの血液で染まってる」
さらりと恐ろしいことを口にして、ティキは続けた。
「アクマは対象者に寄生して血を吸い出し、薔薇を赤く染める。同時に記憶をも吸い出す」
「記憶を……?」
「血に刻まれた記憶だ。思考も感情も関係ない、ただの純粋な人生の記録。奪い取ることで、それを“巻き戻す”」
「…………、まさか……っ」
「そう。オレはこのアクマを使って、お嬢さんの隠された過去を暴くよ」
言いながらティキは手を伸ばして、の髪を一房持ち上げた。
さらりと指先で遊んで絡める。
褐色の肌に金色がよく映えた。
「頑ななところは可愛いが、少し焦らしすぎたな。千年公はそろそろ痺れを切らすぜ」
無理矢理に意識を奪ったへと、静かに囁く。
「ただ……、あのグローリア・フェンネスの愛弟子、特殊なイノセンスの使い手である黒葬の戦姫を殺してくるよう命じられるのも、時間の問題だ」
やれやれとばかりに吐息をついて、ティキは視線だけで振り返った。
今度はアレンに向かって言う。
「いい加減、決着をつけたいのはオレも同じだ。ただ、秘密を秘密としたままお嬢さんと別れるのは絶対にごめんだからな。…………どうせ殺すのなら、この手で全てを暴いてからにさせてもらう」
「……っ、勝手なことを……!」
「当然だろ。オレはお前たちの敵だぜ?」
怒りに肩を震わせるアレンにティキは嘲笑を浮かべた。
視線をそのままに、赤く染まった薔薇を千切り取る。
そしてその花弁に唇を寄せた。
「アクマはお嬢さんを侵して血と共に過去を暴き出す。心を食い荒らし、命を削り取る。どんどん記憶を巻き戻せば、それだけ薔薇は色を変えるってわけだ。……………少年も少し見てみるか?」
ティキは手にしていた赤薔薇を放り投げた。
それはひらりと宙を舞い、アレンの足元に落ちる。
その靴先に触れる。
瞬間、アレンの脳裏を何かが掠めた。
映像が帯のように連なって、頭の中になだれ込んでいた。
視界が低い。
まるでアレンよりも身長が低いような。
見えたのは自分自身の顔だった。
それとドリー。
店を訪れる大勢の客と、近所に住む子供達。
明るい光の中で過ごした時間。
夜は黒いゴーレムを分解して、月明かりだけを頼りに一生懸命に作業しているのが見えた。
ああ、は教団と連絡を取るために、通信手段であるそれを何とか直そうと努力していたのか。
仕事終わりで体が辛いだろうに、何度も眠気に負けそうになる目をこすっている。
だから、いつも寝不足で、毎日あんなに寝起きが悪くて……?
そこでぶつり、と映像が途切れた。
アレンは目眩を覚える。
今のは、まさか――――――………。
「一番新しいお嬢さんの記憶だ」
アレンの暗い予想を、ティキは事も無げに肯定した。
「やっぱり働く姿もいいな。そういえば、どうして今日に限ってこの格好なんだ?ウェイトレスの服装の方がよかったのに」
ティキが不満そうに言っているが、アレンはあまり聞いていなかった。
それよりも悪寒を感じていた。
あの薔薇は駄目だ。
赤く染めては駄目なのだ。
何故ならそれはの記憶だ。
色が変われば、簡単に暴かれてしまう。
あの男に、その全てを晒してしまうことになる。
の意思などまったく無視して、彼女の誇りや心が踏みにじられる。
アレンは全身が冷たいと感じた。
けれど何故だか胸の奥が熱い。
燃えるような激しさで、何かがぐるりと這い上がってくる。
「ずっとアクマに付け入る隙を探させていたんだがな。なかなか見つからないばかりか、意識まで取り戻した。どれだけ強靭な精神力だよ……。まったく、さすがとしか言いようがない………」
呟くティキの声は、呆れと感心が入り混じっていた。
唇が徐々に弧を描く。
「けれど一度捕らえたからにはもう終わりだ。なぁ、少年」
そこでティキはアレンに向き直った。
にっこりと、一見無邪気な笑顔を浮かべてみせる。
「その記憶を巻き戻して血と共に奪い取る。全ての薔薇が赤く染まったとき、お嬢さんはどうなると思う?」
囁くように問いかけて、ティキはの顎に手をかけた。
指先で仰向かせる。
そして微笑をそのままに、表情を残酷なものへと変えた。
「死ぬよ」
声が、響いて。
アレンの何かを貫いた。
それは鼓膜だったのかもしれない。
思考だったのかもしれない。
それとも、心臓だったのかもしれない。
鼓動がおかしくなる。
ティキの声は続いている。
「お嬢さんは死ぬ。血を垂れ流して、秘密をさらけ出して、オレの手の内で死んでゆく」
毒のように甘い声で囁いて、ティキはの頬に口づけを落とした。
赤い舌が白い肌に踊る。
たった一粒の涙の跡を舐め取ってゆく。
「大丈夫。その美しさに相応しいよう、綺麗に死なせてやるよ」
瞬間、低く凄まじい振動が響いた。
ティキが驚いて視線を投げてみると、白髪の少年が起立しているのが見えた。
ほんの少しだけ時間が止まったようになる。
それからアレンを取り囲んでいたアクマが一気に爆散した。
あまりに一瞬の破壊に、ティキは目を瞬かせた。
「あれ?ついにキレたか?」
アレンはその呟きを無視した。
「」
低音で口にしたのは、ただその名前だけだった。
「何をやってるんだ。そんな男に好き勝手にされて」
十字架に磔にされた彼女に向って言う。
「…………君のせいで、ドリーさんを怒鳴りつけてしまいました。女性相手になんて失態だ」
「…………………」
「挙句のん気に居眠りとは、いいご身分ですね」
「…………………」
「教団に連絡を入れにいくと言っていたのに、どうしてそんなところで油を売っているの」
「…………………」
「もう今日の汽車には間に合わない。仕事を放り出しておいて、このざまだなんて」
「…………………」
「…………許せない」
アレンは瞳をあげて、を睨みつけた。
その視線には様々な感情が入り混じっていた。
怒りも悲しみも親しみも、愛着や執着も全てごちゃ混ぜになって、銀灰色の双眸が揺れていた。
薄っすら涙が滲んでいるように見えるのは光の加減のせいだろうか。
「このまま死ぬだなんて、絶対に許さない。」
震える声で囁いて、アレンは己の左手に触れた。
白く巨大なそれが、ますます歪に蠢く。
強く発動することで形を変えてゆく。
その燃料は怒り……隠しきれない激情だった。
アレンはにっこりと、恐ろしいほどの笑顔を浮かべた。
「ティキ・ミック卿。その馬鹿は返してもらいますね」
ざわりざわりと空気に振動を伝えて膨れ上がる、感情。
感覚を痛いほどに刺激されて、思わずティキは笑みをこぼした。
「へぇ。お嬢さんを取り戻すって?」
「それはあなたの手に負えるような生物じゃありませんよ」
「手を出したことを後悔させる気か」
「いいえ。後悔させるのはの方です」
アレンは一歩を踏み出した。
全身を纏う力の波動が、床を踏み砕く。
細かい破片が舞い上がって宙へと消えた。
「よくも僕に心配をかけさせたな」
こんな気持ちにさせたこと、絶対に許さない。
さぁ、その身をもって償ってもらおうか。
「絶対に引きずり戻して、死ぬほど説教を聞かせてやる!」
そうしてアレンはイノセンスを構えると、飛燕の速度で走り出した。
ただ荊に磔にされた金髪の少女を目指して。
「覚悟しろ、!!」
自分の怒りを思い知らせるために彼女を取り戻そう。
あの十字架から引きずり下ろして、叩き起こして、今までにないくらい悲惨な目に合わせてやる。
そして帰ろう。
帰ろう、。
一緒に、ドリーのところへ。
二人でなければ意味がない。
何故なら彼女は美味しい夕食を作って、自分達が戻るのを待っていてくれているのだから。
泣き出しそうな想いだった。
死んでしまいそうな感情だった。
苦しくて仕方がない。
君のせいなんだから何とかしてよ、。
そのために、僕は。
アレンは強く唇を噛み締めると、阻むように出現したアクマの群れに踊りかかっていった。
世界は黒く染まっていた。
まるで月や星という一切の光を溶かし込んだ夜のようだ。
闇が支配する領域。
ただ漠々たる暗黒が広がっている。
その中心に、は一人、ぽつんと立っていた。
「え……。あれ……?」
意識がぼんやりして、急に明確になる。
自分の置かれた状況がわからなくて頭に手をやった。
「なに……、何が………」
そこでハッとして、即座に身構えた。
そうだ。自分は確かノアに囚われて。
思い出した途端、心臓が不規則になった。
鼓動が正しいリズムを忘れ、吐き気がこみ上げてくる。
無意識のうちに動かした手は己の左胸に置かれていた。
ティキにひどく乱暴にえぐられた傷跡を、庇うようにして押さえる。
けれどそこに確かな布の感触を覚えて、はびくりとした。
視線を投げて目を見張る。
(どういうこと……?)
見下ろした自分の左胸は、常と変わらず団服に覆われていたのだ。
(何ともなっていない……。確かに服を破られて、傷口をえぐられたと思ったのに………)
あの感覚と激痛は、決して夢ではなかったはずだ。
視力を奪われていたからといって間違えるはずがない。
強い違和感を覚えては眉を寄せたが、そこでハッとして、今度は目に手をやった。
「見える……。視力が戻った……?」
呟きながら自分の両眼の前に掌をかざして、ますますおかしなことに気がついた。
(どうして?周りは真っ暗で何も見えないのに、自分の姿だけが見える……)
本当に暗闇にいるのならば、己のことも視認できないはずだ。
けれど視界にはハッキリとこの手が映っていた。それこそ手相まで確認できるほど明瞭に。
は視線を腕や胸、腹、脚などに滑らせてみた。
やはり自分の姿だけ黒の中にぽっかりと浮いたようにして見えている。
何だこれは。
わけがわからない。
もっと厳密に言うと、ここがどこだかわからない。
なぜ自分はこんなところに居るのだろう。
まるでひとり異次元に迷い込んだみたいだ。
(空間移動能力のロードじゃあるまいし……、あのノア相手にそれはないか)
そう考えるが、今までの経験からして彼も簡単には逃がしてくれる相手ではない。
ならば、これはどういうこと?
あまりにわけがわからなくて、はひとつ首を振った。
体が動くのならばどうとでもなる。
ここで考え込むのは得策ではないだろう。
自分がするべきことは敵を警戒しつつ、現状を把握、それを打破することだ。
「とにかくアレンを捜さないと」
この空間にいるとは限らないが、彼もどこかで戦っているはずだった。
一刻も早く合流し、体制を立て直す必要がある。
何よりアレンの身が心配だ。
の記憶が間違いでないのなら、彼は自分を助けようとしていくらか怪我を負わされているはずだ。
音と雰囲気だけで察したのだから、それがどの程度のものかわからない。
そんなことはどうでもよくて、は自分のぶがいなさに心底腹を立てていた。
(私がノアに捕まったりしたから、アレンは………)
ぎりっと唇を噛むと血の味がした。
強く力を込めすぎて、傷つけてしまったらしい。
またこの気持ちだ。
何度も何度も味わって、いい加減にしろと罵ってやりたくなる。
己の弱さに対する憤怒と失望だった。
自分自身を力の限りで張り飛ばしたくて仕方がなかった。
このままでは絶対に許せそうになくて、だからは走り出した。
「アレン!どこ?いないの!?」
大声で呼びかけてみる。
このくだらない存在ができる唯一は………いいや、しなくてはならないのは、彼を探し出して、その助けとなることだ。
は闇ばかりが広がる世界を見渡して、仲間の名前を叫ぶように呼んだ。
「アレン!!」
「どうしたの、」
唐突に返事が返された。
は吃驚してそちらを振り返る。
そして絶句した。
何故ならそこにいたのがアレン……ではなくて、けれどもとてもよく知った人物だったからだ。
「リ、リナリー……?」
は信じられない思いで彼女の名前を呟いた。
視線の先に立っているのは一人の少女だった。
ふたつに結い上げた長い黒髪、白い顔の可愛い微笑み、黒の教団の団服を纏った肢体。
こちらを見つめる優しい黒の瞳は、間違いなく科学班助手兼エクソシストのリナリー・リーだった。
「どうしてこんなところに……」
あまりに予想外の登場に、の頭は混乱を余儀なくされた。
何だコレは夢なのか。だって私はハンガリーの小さな村に居たはずで、リナリーは本部に居るはずで、レムちゃんが壊れているから連絡を入れることができなくて、だからこの子が私の居場所を知っているはずがなくて、だいたいここは真っ暗なよくわからないところで、どこだかさっぱりなのだからつまり。
リナリーが私の目の前に居るはずがない!
怒涛の思考の末にそういう結論に至ったは、冷や汗の滲んだ笑顔を浮かべた。
半眼で黒髪の少女を睨みつける。
「幻覚……?こんな可愛い女の子を出してくるとはノアの奴、イイ趣味してるなぁ……」
「何を言っているの、」
身構えてロザリオに手をかざすに、リナリーはきょとんと目を見張った。
それから両手を腰に当てて怒ったように言う。
「もう、また悪はしゃぎ?イノセンスを発動させてどうするつもりなの」
「…………………」
「毎日毎日そうやって暴れてちゃ駄目よ。は女の子なんだから」
「…………………」
「いい加減、ラビや神田と男の子みたいに遊びまわるのは控えた方がいいわ」
「……二人は友達だもの」
「私は?」
「…………………」
「ねぇ、。私は?」
片手を胸に置いて、小首を傾げるリナリー。
その表情は少し切なげで、は意識がぶれるのを感じる。
あれ……?何だか前にも同じことが………。
「リナリーも友達だよ。大切な」
記憶のままに口が動いた。
リナリーはぱぁっと顔を輝かせて、けれどすぐに不満そうに唇を尖らせる。
「でも、一番じゃないのね」
「順番なんて決められない。みんな大好きだもの」
「ってそればかり。誰とでも仲良しなんだから」
そんなことないよ、リナリー。
私はとても嫌われている。
今ではたくさんの人が好意的に接してくれているけれど、いまだに“”という存在を受け入れられないと非難や攻撃をしてくる人もいる。
それを知ればあなたは泣いてしまうから、ずっとずっと、必死に隠してきたんだよ。
はいつも通りに笑顔を浮かべた。
「だから、リナリーとも仲良し。ね?」
「……私は一番のお友達になりたいのに」
「あなたを大切に想ってる。それだけじゃダメかな」
「…………、もう」
リナリーは膨らませた頬を朱に染めて、を睨みつけた。
そうして身を翻す。
漆黒のスカートが舞った。
「本当にってそればかり」
そのまま彼女は駆け出してしまったから、は咄嗟に手を伸ばした。
「待って、リナリー。アレンは……」
なびく黒髪を追っての脚も自然と動き出した。
何もない空間をリナリーは迷う素振りもなく走り続ける。
歩幅に大した差はないのに、どんなに速度をあげても、は彼女に追いつくことができなかった。
「待って、リナリー!」
「。私はあなたが好きよ」
「リナリー……?」
「いつも笑っているあなたが好き。空元気のときもあるのだろうけれど、それでも笑顔を忘れない、あなたが大好きよ」
「…………………」
「ほんと、ってその辺りいる男の子より格好良くて、どんな女の子よりも可愛いんだから」
リナリーは振り返りもせずに、楽しそうな笑い声をあげた。
はふと視線を前方へと投げる。
そこには見慣れた顔がいくつも並んでいた。
コムイやリーバー、ジョニーたち科学班。
総合管理班はジェリーを筆頭に並んでいる。
相変わらず眠そうなラスティと、頼もしい笑顔の婦長。
大勢でかたまっているのは探索隊だ。
バクやフォーといった支部の面々まで揃っていて、は目を見張った。
「みんな、どうして……」
の愛する“家族”が、そこに揃っていた。
それぞれが声をかけてくる。
ぼんやりした意識で何となく悟る。
これは私の記憶だ。
どの言葉も、過去に聞いたことがあるものばかりだった。
全てが、の心を照らす暖かな思い出の中に存在していた。
「あの夜の約束を覚えている?」
前を走るリナリーが訊いた。
「私は笑っているわ。コムイ兄さんやグローリアさんや、教団のみんなのために」
いつの間にか、彼女の姿は当時のままになっていた。
幾分幼くなった声が続ける。
「一生懸命、笑っているわ。あなたのために」
「リナリー……」
「だからあなたも笑っていてね。それを望んでいる人たちと、あなた自身のために」
「………………」
「そして、私のために」
そこでリナリーは立ち並ぶ仲間たちのもとへと到着した。
足を止めてを振り返る。
黒い髪がさらりと流れた。
「笑っていてね。」
みんなが笑顔でこちらを見ている。
あそこに行きたい。
けれど、どれだけ走っても辿り着かない。
何かが邪魔をして、を拒絶している。
遮られた向こうでリナリーは優しく微笑んだ。
「ずっと、私の大好きなでいてね」
当たり前じゃない。
私はいつだって笑っているよ。
あなたに嫌われるのはイヤだから。
私も、皆の笑顔が大好きだから。
ああ、でも。
そこでは足を止めた。
目の前が再び真っ暗になった。
今まで見ていた光景が一気に掻き消え、暗黒の世界が戻ってくる。
大好きだよ。
あなた達が大好きだよ。
はそう考える一方で、愕然と思う。
ねぇ、………………“あなた達”って、いったい誰だった?
はもはや、何もかもを思い出せなくなっていた。
今まで自分が追いかけていたのは何だったのだろう。
そこに辿り着きたいと必死に走った場所には何があったのだろう。
黒髪の少女もたくさんの笑顔も、すでに忘却の彼方だった。
は真っ白に塗りつぶされた己の記憶を抱いて、呆然とその場に立ち尽くした。
心の真ん中から大切な何かが剥がれ落ちていったのを感じる。
恐怖に駆られては頭を抱えた。
答えを求めるように胸中で叫ぶ。
ねぇ、私を好きだといってくれた貴方は一体どこの誰だった?
返事はどこからも返ってはこない。
世界は闇に沈んでいる。
さらなる黒がを静かに責め立てていた。
そして、暗転。
「オレとお嬢さんって、実は結構長い付き合いなんだよね」
ティキは煙草の煙を吐き出しながら、そう言った。
教会内には爆音が響いている。
幾体ものアクマを相手にしているアレンが聞いているかは定かではないが、暇なので勝手に続ける。
「それこそ少年よりもずっと前からの仲だ」
初めて会ったときのことを思い出して、紫の双眸を細めた。
見下ろす先の優美な横顔。
ティキはの頬をちょっとつつく。
「最初は千年公の命令。何だか素性の知れない、変なエクソシストがいるから調べて来いって言われてさ。正直、面倒だった。興味もなかったし、殺してしまえばそれで終わりだろ?」
そう、それで終らせるつもりだった。
けれど出逢ってしまえば、確実にあの金色の瞳に囚えられた。
「とりあえず適当に苛めて、話を聞き出したら、すぐに消そうと思ってたんだが……。なんかいろいろと強烈で。この顔も眼の色も、一度見たら忘れられなくなった」
ただの少女のはずなのに、意識を捕らえて離してくれなかった。
「どれだけ追い詰めても、弱音ひとつ吐かずに挑みかかってくるんだよな……。“命乞いしろよ”って言っても、“泣くのも叫ぶのも飽きてるからやだ”って言われて。やだってお前……」
その時のことを鮮明に思い出して、ティキは小さく笑った。
確か全身を引き裂いて、ティーズを纏わりつかせて、挙句その胸を片足で踏みつけていた気がする。
胸骨を蹴り砕くつもりで圧迫しても、彼女は決して自分に屈しなかった。
血反吐を吐いて、地面に転がって、ひどく不様な格好なのに、その瞳だけは爛々と星のように光っていた。
ティキを見据える双眸には、何かとても強い感情が燃えていたのだ。
その正体が気になって気になって仕方がなくて、結局今日まできてしまった。
「くだらない虚勢を張って、綺麗事を信じたいだけの人間なら山ほど見てきた。奴らには吐き気がする。どうせ恐怖に駆られれば、何もかもを見捨てて逃げ出すくせに」
けれど、とティキは吐息をついた。
「お嬢さんは違った。そんな生半可なものじゃなかった。何が何でも守ってたんだ。己の全てを懸けて、必死に。けれど自分をないがしろにするわけでもなくて………オレはこれほど“生きる”ことに誠実な人間を見たことがなかったよ」
本当にそれだけのためみたいに、潔い姿で。
は戦場に立ち続けた。
血にまみれても、絶望に囲まれても、ただひたすらに起立し続けていた。
「何がその心を戦いに駆り立てる?そうまでして生命を守る理由は何だ?がむしゃらに生きるわけを教えてくれよ………」
ティキはに囁きかけたが、当然返事はない。
自分がその術を奪ったのだと思い出して苦笑した。
どうしても理解できない領域だった。
彼女の底で燃える信念は並ではない。
どんな人生を送ればここまでのものが出来上がるのか……、知りたいと思うのも無理はなかった。
ティキはから手を離すと、アレンに言った。
「千年公も他のノアも、お嬢さんには興味津々なんだよ。ただでさえあのグローリア・フェンネスの愛弟子で、特殊なイノセンスの使い手だからな。殺したくって仕方がない」
視線の先で白髪のエクソシストはアクマを一気に破壊した。
引き裂かれたボディの隙間で二人の瞳が出合う。
一方はアクマの血で左手を汚しながら。
もう一方は少女の血で指先を染めながら。
「けれど、出逢った全員がその隠蔽された過去を知りたいと言った。それだけ謎と魅力を、このお嬢さんは持っていたからな」
「…………………」
「だから今まで何とか生き延びてこれたってわけだ。けれどそれも、もうお終い。ここで全てを明らかにして、死んでもらうよ」
「させない」
「死体はロードへのお土産だ。しばらくは人形にして遊ぶだろうさ」
「そんなことは、許さない」
「双子に見つかるとぐちゃぐちゃにされそうだからな。うまく隠さないと」
「……っ、は!!」
肩で息をしながらアレンは叫んだ。
ティキはようやく言葉を止めて、横目で彼を見やる。
炎のように燃える瞳が真っ直ぐにこちらを射抜いてくる。
「は、僕が連れて帰る」
とんでもなく強い意思を込めてそう言われた。
ティキはしばらく無表情で少年の顔を眺めて、それから微笑む。
にやりと唇を吊り上げる。
「へぇ」
言うそばから手を伸ばし、の血で赤く染まった薔薇を千切り取った。
美しい花は男の掌で潰され、ぐしゃりと形を変える。
「やってみろよ」
その声を合図にまたアクマが数え切れないほどの群れとなって、教会中に顕現した。
アレンは素早く身構える。
休む暇もなくイノセンスを発動させて、自分を殺そうとする敵を迎え撃つ。
「今度こそあの時の続きだ、少年」
ティキは握りつぶした薔薇に唇を寄せて言った。
「オレもお前もお嬢さんを求めてる。ゲームは成立した。彼女を賭けて勝負だ」
片手を十字架に叩きつける。
そこに磔にされた少女はどちらの手に堕ちるのか。
神に見捨てられた教会で、二人の男は睨み合った。
「今回は負けないぜ。少年………」
そうして褐色の指先から零れ落ちる赤。
薔薇の花弁は鮮血そのもののように、の足元へと降り積もっていった。
意識が定まらない。
視界がぶれてよく見えない。
何だここは。私は一体どこにいる。
ひどく寒い気して、は自分自身を抱きしめた。
抜け落ちた記憶があることすら、にはもうよくわからなくなっていた。
ただ頭のまだ正常な部分が、ここは駄目だと警鐘を鳴らしている。
この場所にいてはいけない。
早く脱出しなくては、恐ろしいことになる。
それは“死”よりも大きな恐怖のようだった。
何故自分の心がそう感じるのかは理解できなかったが、疑う思考力も失っていた。
怖い、と思う。
何かがゆっくりと、それでいて確実にを崩してゆく。
心を削り取り、命が奪われてゆく。
血の気が引いてゆく自分の体を抱いて、は必死に前進していた。
(早く、ここから出ないと)
そう、誰かを捜していた気がする。
その人は無事なのだろうか。
己の状況すらよくわからないのに、仲間を助けなければと心が叫んでいた。
こうも何もないと不安に思わずにはいられないが、は暗闇自体は怖くはなかった。
黒という色が優しいことを知っていた。
むしろ憧れさえ抱いている。
何ものにも染まらない高潔なる漆黒を。
「バカ女」
呼ばれては振り返った。
そして自分の大好きな黒を発見した。
何ひとつ理解の追いつかない状況で、自然と笑みがこぼれる。
「神田……」
最高の戦友が、視線の先に立っていた。
高い位置でひとつに結われた黒髪は輝く夜のようで、暗闇の中でも色が違って見えた。
こちらを見つめる黒い眼は宝石みたいだ。
師の形見であるピアスが黒曜石だからか、は彼の瞳にも親しみを感じていた。
けれども彼の方は、冷ややかな表情である。
突き放すような調子で吐き捨てられた。
「随分と不様な格好だな」
言われては自分の姿を見下ろした。
いつの間にか血臭にまみれていた。
四肢を痛みが貫き、重傷を負っていることを知る。
またいつの日かの記憶だ。
そう認識するけれど、抗うこともできない。
は思い出どおりに神田に微笑みかけた。
「お出迎えありがとう、ユウちゃん」
「ふざけんな。誰がテメェなんか」
今は真っ暗で判断がつかないが、ここはきっと本部の地下水路だ。
大怪我をして帰還したが見たものは、そこの壁に背をあずけた神田の姿だった。
彼がそうして待っていてくれたのは後にも先にも、これ一度きりだ。
確か病院にラビ達が駆けつけたぐらい、本当に生きるか死ぬかの重症を負って。
それでも神田だけは皆に習わなかった。
絶対に病室に顔を出してはくれなかった。
代わりにこうして本部で出迎えてくれたのだ。
神田はしばらくを睨み続けた。
ひどく不愉快そうに、死にかけた戦友を視線の刃で斬りつける。
「誰がテメェなんか……」
もう一度吐き出された声は掠れていた。
神田はふいに瞳を逸らし、踵を返した。
長い黒髪が弧を描いて翻る。
そのまま肩をいからせて歩き出したから、は不安定な足場から飛び降りて、彼の後を追った。
「待って、神田」
「うるせぇ。ついてくんな」
床に足跡をつけるような勢いでそれを蹴立てて、神田はずんずん歩き続ける。
は痛む体を引きずりながら彼に続いた。
「待ってよ」
「話しかけんな。テメェなんか知るか」
「………………」
「勝手に死にかけた馬鹿に、かける言葉なんてねぇよ」
「神田」
「気安く呼ぶな」
「かん……」
「呼ぶな!!」
響く怒声で遮られた。
は一度、唇の動きを止めた。
けれどすぐに言った。
普段の口調で、いつもより強い調子で。
「神田」
前を行く背が殺気立った。
向かい合っていたならば、本当に斬りつけられていたかもしれない。
現に彼の手は愛刀の柄にかけられていた。
握りこんだ指がギリッと鳴る。
「そんなに死にたかったら」
まるで獣のような激しさで、神田はへと言葉を投げつけた。
「今すぐ俺が殺してやるよ……!」
そこでは笑ってしまった。
“殺す”と言われて自然と微笑みが浮かんだ。
何故ならそれが、この不器用な彼の、ひどくわかりにくい優しさだと知っていたからだ。
「私は死にたかったわけじゃないよ」
「だったら何故そんな不様なことになった」
「それは」
「俺との誓いを忘れたとしか思えない」
「…………ユウちゃんは極端だなぁ」
彼の怒りがどこにあるかを正確に悟って、はため息をついた。
神田がどんどん前進するから、仕方なく走ってついてゆく。
「不覚を取ったのよ。それは私の弱さで、確かに責められることだけど。あの誓いを忘れたわけじゃない」
「聞こえねぇな」
「聞こえるまで言ってあげる」
「どうせまた、他人を守ろうとしたんだろう」
「そう。生きる意味を貫いたのよ」
「………………」
「私は、命を守りたかったのよ」
「自分のそれはどうした」
「うん。そこは大いに叱責を受けるべきところだね」
「……なに簡単に認めてんだよ」
「認めなければ前に進めない。例えそれが、目を逸らしたくなるほど醜い自分の弱さでも」
殺してやりたいと感じたのは、神田よりも自身の方が先だった。
こんなんじゃ駄目だと、それこそ死にそうな激情で思う。
命を守ると誓った。
けれどそのために、自分のそれを捨ててはならない。
グローリアの最期を許せないに、そんな道を選ぶことはできない。
そう思いながら同じことを繰り返しそうになった己など、認められるはずもなかった。
「こんな中途半端なことしかできない私なんて、誰かを守ったことにはならないんだ」
「…………………」
「ただその命を、ギリギリで繋ぎとめたにすぎない。…………彼らが死なずにすんで本当によかった。心からそう思うけれど、同時に私は自分が許せなくて。もっと、ちゃんと、………」
ちゃんと、命を守りたかった。
何もこぼさずに、誰も残さずに。
失った温もりを繋ぎ止めたいと願う私は傲慢で、けれどそれでしか戦う術を知らないのだから、自分という存在すべてを懸けて誓った。
「ごめん」
は向けられた神田の背に囁いた。
「心配をかけてごめんなさい。けれど誓いは破らない。…………私は死なない」
胸に拳をあてて言い放った。
「この生命に懸けたものを、貫いてみせる」
神田が足を止めた。
もそれに倣った。
しばらくの沈黙が過ぎ、神田が髪を揺らしてこちらを振り返った。
瞳が合った。
やはりそれはの憧れる、高潔な色をしていた。
「…………本当は」
神田はじっと、光る夜のような双眸でを見つめた。
「帰ってきた途端、殺してやろうと思ってた」
彼が冗談や嘘を言う性格でないことは誰よりも理解していたから、はちょっと冷や汗をかいた。
「ええ?」
「怪我人に手を出すわけにはいかねぇから、本部に戻った時に終らせてやろうと決めていた」
「おおーい、神田さん?」
「一発でしとめられるように鍛錬を追加して」
「ちょ、本気だよ……」
「お前を待っていたのに」
「物騒すぎるって!」
「何なんだよ」
そこで神田は複雑な顔をした。
悔しそうな悲しそうな、それでいて安堵でどうしようもないような表情だった。
吐息のように告げる。
「お前、まだちゃんと、“”じゃねぇか」
その声は空気を揺らして、の耳に響いた。
金の双眸をいっぱいに見開けば正反対の色をした神田の瞳が映る。
胸が震えて感情が溢れてきたから、は駆け出そうとした。
けれど体が動かない。
あの時、確かに私は彼へと抱きついたはずなのに。
彼はそれに怒声をあげて、それでも不器用な手つきで背中を撫でてくれたはずなのに。
どちらも動けないまま記憶は流れてゆく。
「当たり前じゃない」
は泣き出しそうに微笑みながら、神田に言った。
そうすれば彼はバツが悪そうに睫毛を伏せる。
「お前が、そう簡単に駄目になるわけがない。そんなことは知っていた」
「うん」
「ただ……、それでも。もう帰ってこないのなら、俺が何もかも終らせてやろう思っていただけだ」
「終らせはしない。それが、あなたと私の誓いでしょ?」
「…………、ああ」
そこで神田はを見た。
顔をあげて、その瞳で射抜いた。
「お前は生命を裏切らない。…………俺を、裏切らない」
呟きながら、彼は『六幻』から手を離した。
見つめてくる眼差しでわかる。
彼の持つ誰よりも純粋な強さと厳しさ。
ふいに神田は唇を緩めた。
「もし、お前が死ぬのなら俺が」
そうして少しだけ、微笑んだようだった。
「俺が、この手で殺してやるよ。“”」
“”の死がやってくるのなら、それは心が折れ、信念を失ったときだ。
同時にそれは、自分達の決別を意味する。
同じ戦場に立つ限り、そんなことは許されない。
自身が許さない。
自らの手で終焉を選ぶことになるだろう。
最高の戦友である彼は、その心を汲んで、言ってくれたのだ。
痛みよりも苦しみよりも後悔よりも、早く。
殺してくれると、そう約束してくれたのだ。
彼以外の誰に言えただろう。
心身を侵す翳りの全てに、終止符を与えてくれるなど。
そんな、途方もないことを。
はもう堪らなくなった。
“殺す”などと言われて、こんなに嬉しく感じる日が来るとは思ってもみなかった。
胸の中で抱きつきたい衝動が渦巻いている。
神田の腕も強張っている。
そう、確かにこの時、私たちは信頼に強く抱き合っていたのだ。
はそんな記憶を辿りながら微笑む。
「…………やっぱり、神田は最高の戦友だね」
「ハッ。今さらだな」
神田はくだらなそうに言い捨てた。
その唇は、やはりどこまでも笑みに近いものが刻まれていた。
彼はそのまま少し身を引く。
そしていつもの顔で言った。
「つまりその怪我は、テメェの未熟さが原因か」
「う……。ま、まぁ。不本意ながらそういうことかな」
「わかった。今すぐ俺が鍛えなおしてやる」
「……は?」
「二度とそんな不様なことにならねぇように、全力でしごいてやるっつてんだよ」
「か、帰ってきてすぐにソレ……!?」
本当の重症を負って、それこそ生死の淵をさ迷って、やっと動けるようになったばかりだというのに、どうやら神田は容赦をしてくれないようだ。
は顔色を失いつつも、やはり微笑を浮かべてしまった。
「なんて神田らしい」
「ふん。行くぞ」
神田は軽く鼻を鳴らすと、颯爽と身を翻した。
きっと目指すのは鍛錬場だ。
数ヶ月ぶりの帰還だから、手合わせも久しぶりだった。
もしかしたらそれを少なからず喜んでくれているのかも知れない。
だって前を行く足取りがいつもより軽い。
「待ってよ、神田!」
は笑い声をあげながら駆け出した。
足を止めずに神田が振り返る。
「早く来い。バカ女」
彼の表情は、やはり笑顔のように見えた。
そこで、唐突に目の前が真っ暗になった。
は反射的に足を止めた。
耳の奥で先刻の声が響いている。
行かなくちゃ、と思う。
早く来いって言われたんだから。
急がないと、きっとまた不機嫌になって、仏丁面になって、斬りつけられてしまう。
けれど、本当は知っているんだ。
“ごめんね”って謝れば、“バカ女”って言いながら、軽く額を小突いて、それでやっぱり見えないようにコッソリ微笑んでくれるって。
誰にもわからないほど微かに、それでも確かに、笑顔を見せてくれるって。
知ってるよ。
そんなあなたが大好きだから。
ねぇ、私の最高の戦友。
は周囲を見渡した。
どこを向いても延々と闇が続いていた。
捜す姿はどこにもなかった。
だからは愕然として、虚空へと語りかける。
ねぇ………………、“最高の戦友”って、いったい誰のことだった?
必死に名前を思い出そうとした。
厳しい言葉も、ぶっきらぼうな口調も感覚のどこかで覚えている。
なのにその分かりにくい優しさとか、誰にも見せない笑顔とか、親しみを感じた全てが遠かった。
今でも目の前に浮かぶようなのに、はっきりと像を結ばない。
頭の中に広がった悪意の靄が思考を遮った。
行かなくちゃ、行かなくちゃ、だって早く来いって言われたんだから。
でも、どこに?
私はどこに行けばいいの?
問いかける名がわからない。
何も、わからない。
は耳を塞いだ。
そのまま頭を抱え込んで、他の音を拒絶した。
呼ぶ声だけを聞こうと記憶に縋るけれど、それがをさらに追い詰める。
ねぇ、互いの全てを懸けて生命を生き抜くと誓った、あなたは一体どこの誰だった?
忘れてはいけなかったはずだ。
失ってはいけない存在だったはずだ。
それなのに、その全てを裏切って、はその場に立ち尽くしていた。
自分を形造る何かが、確実に崩れていく。
音もなく、余韻もなく、消え失せてゆく。
は救いを求めるように何度も辺りを見渡した。
視界にはやはり闇が続いている。
その黒が、怖かった。
暗闇など恐ろしくないはずなのに、わけもなく怯えた。
黒は優しさを失い、それでもやはり高潔なる色で、を染め上げた。
“恐怖”という名の感情で。
そして、また、暗転。
「何でそんなにがんばるかなぁ……」
ティキは呆れとも感心とも取れない声で呟いた。
煙草の煙と共にため息を吐き出す。
が磔にされている十字架に頬杖をついて、ぼんやりと眼前を眺める。
「しょーねん。あんまり無理すると死ぬぜ?」
半眼で言ってみるが、当の本人はまったく聞いていない様子だった。
もうどのくらいの時間になるだろう。
陽の傾き具合と赤薔薇の数から推測しても、決して短くはないはずだ。
ティキはそれだけの間、自分が放ったアクマに延々と挑み続ける白髪のエクソシストを観察していた。
教会内に響く爆音。
いくつもの破壊が轟き、煙と血が撒き散らされる。
アレンは空中で側転をきめ、そのまま数体のアクマを引き裂いた。
「やるねぇ」
ティキは笑ったが、はっきり言って皮肉だ。
アレンは決して弱くはない。
現に数えきれないほどのアクマがその左手により葬られている。
けれど、どう見ても多勢に無勢、万に一つも彼に勝ち目はなかった。
その証拠に少年の細身の体には無数の傷が刻まれ、衣服を朱に染めていた。
呼吸が荒い。
休む間もなくアクマの群れを相手にしているのだから当然だった。
特に深い脇腹の傷口から鮮血が零れ落ち、床に赤い水溜りを広げてゆく。
「自殺願望でもあるのか?」
最初はおもしろがっていたティキだが、ここまでくると不審感が沸いてきた。
アレンの腹を殴り飛ばし、さらに頭を潰そうとしたアクマを意思の力で止める。
教会内につかの間静寂が戻った。
アレンはその機を逃さずに後転をして距離を取る。
立ち上がろうとして目眩を覚えたのだろう、がくりと片足をついた。
どうやら血を流しすぎたようだ。
苦しそうに咳き込むアレンに、ティキは肩をすくめてみせた。
「なぁ……、お前には興味がないって言ってるだろ。抵抗したって無駄なんだから、もうやめとけって」
「…………、を」
げほっ、と血の塊を吐き出して、アレンは続けた。
「を取り返すまでは、絶対にお断りですね」
赤で汚れた口元を拭い、瞳をあげる。
真正面から敵を睨みつける。
ティキは片眉を跳ね上げた。
「……………このお嬢さんのために死んでやるつもりか?」
「まさか」
アレンは何の躊躇いもなくそう断言した。
何て馬鹿なことを言うのだ、とでも言いたげな顔である。
ティキは今度は眉をひそめた。
アレンの言が本心であるのなら、意味がわからない。
そこまでボロボロになって、血まみれになって、いまだに戦っている理由が理解できない。
そんなノアの思考を見て取ったのか、アレンが口を開いた。
「何で僕が、なんかのために、死んでやらなきゃいけないんですか」
それこそ死んでもごめんだ、と吐き捨てる。
ティキは目を瞬かせた。
「……なんか?お嬢さんのため“なんか”って言ったのか?」
「ええ、言いましたよ」
アレンはハッキリと頷いた。
そして今度はもう少し言葉を乱暴にして告げた。
「如きのために死んでたまるか」
何だか腹が立ってきたから、アレンは口元を拭った拳を、そのまま床に叩きつけた。
「どうせもそう思ってる。僕が死んだら最高の迷惑だって」
「…………、少年達は、もしかして本当に仲が悪いのか?」
「もしかしても何も、最悪の仲ですよ」
「……………………」
黙り込んだティキを尻目に、アレンは視線を滑らせてを見た。
彼女の足元に咲く薔薇は完全に色を赤へと変えていた。
美しい花弁に彩られた彼女を見つめて口を動かす。
喋れば舌の上に血の味が広がった。
「それなのに、もし僕が死んでみてください。本当に大変なことになる」
アレンは一気にまくしたてた。
「まずに問答無用でお墓を暴かれます。そのうえ柩を破壊されて、眠っている僕は胸倉を捕まれます。そこから一方的なスパーリングです。ボッコボコです。タコ殴りにされます。容赦なんかしてくれません。こっちはもう死んでるっていうのにお構いなしで、本気で殺しにかかってきます。まったく、何てひどい人だろう。師匠より鬼畜だ。最悪の人間だよ、」
何だか「いや、さすがにお嬢さんでもそこまでは……」と控えめな反論が聞こえた気がしたが、まるっきり無視した。
「本当に最悪だ。だっては泣いてくれない」
「………………」
「…………、彼女は泣いてくれないんですよ」
冷や汗をかきながらも微妙なフォローを呟いていたティキは、そこで口を閉じた。
何故ならそう言うアレンこそが、泣き出してしまいそうなほど切ない表情をしていたからだ。
荒い口調のまま言葉は続いた。
「絶対に泣かないんですよ。泣かないまま、その傷を一生背負って生きていってくれるんですよ」
僕が死んだって、絶対に。
涙を見せてはくれないんだろう。
後悔と絶望を身に纏って、苦痛に喘ぐ心を抱いて、独りで生きてゆくんだろう。
ねぇ、。
君は。
きみというひとは。
「…………そんな重荷を背負わせてたまるものか」
喉の奥でアレンは唸った。
そのまま呼吸器が破れて死んでしまいそうな声だった。
「これ以上、哀しみを彼女の心に押し付けてたまるものか……!」
僕は全てを知っているわけじゃない。
けれど強く感じることはできたよ。
君が抱いて離さない、哀情の数々を。
過去を排除したことも、グローリアを失ったことも、仲間たちの死も、救えなかった掌の温もりも、どれだけ君を苦しめたんだろう。
どれだけの痛みを負ったんだろう。
同じものはあげない。
僕は君には絶対に、あげないよ。
「…………が泣いてくれないから、僕は死ぬわけにはいかないんです」
涙だけじゃなくて、きっと哀しみも流してくれないから。
一生、僕の死を後悔しながら生きていってしまうから。
それは彼女の笑顔や安らぎを殺す行為だ。
そんなことしてたまるかと、雷のように激しい感情で思った。
「だから」
君がそうして生きてきたように、僕も、僕の全てを懸けて誓おう。
「生きて、と一緒に帰る」
その手を、掴んで。
アレンは誰にともなくそう言った。
ティキに向けて、に向けて、世界に向けて。
そして、十字架に向かって。
それはこの廃退した教会で告げられた最後の誓い。
不敵で不遜な、父たる神への確かなる宣言だった。
アレンVSティキ率いるアクマの群れと、ヒロインの精神戦です。
ティキはヒロインが今日に限って団服だと嘆いていますが、わざとです。わざわざ着替えさせました。
さすがにウェイトレス姿の女の子を掴まえてどうこうしたら、変態にしか見えませんからね!(爆)
どう見てもコスプレでソッチ系のプレイ以下略。^^
ヒロインが抵抗できないままどんどん弱らされていくので、アレンにがんばってもらいたいところです。
次回は鬱全開です。(アレンもヒロインも)
流血描写に加えて、苦手な方はお控えください。
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