期待と落胆、銀の星。
メランコリーに瞳は煌めいて。






● 追憶ユールタイド 1 ●









名前を呼ばれたと思ったら、途端に抱きしめられた。
背後からだ。首の後ろから腕がまわってきて交差し、両の掌がそれぞれの肩を覆う。
頬を白髪が撫でる。
振り返れない。力が強い。





もう一度、今度は耳元で囁かれた。
少し掠れた声だ。まるで鼓膜に引っかかるような。


「もう」


痛い。そんなに抱きしめないで。
動けなくなってしまう。


「もう無理だ」


アレンは情熱的と呼べる荒々しさでを掻き抱いた。
吐息の熱が耳朶を撫でる。
まるで舌で舐めあげられたみたいに、はぞくりと身を震わせた。


「もう、我慢できない……!」


そんなのは私もよ。
切なく甘く、求める言葉にたまらなくなる。
アレンはの肩口に顔を埋めると、切羽詰まった調子で言い放った。




「お腹が空いて死ぬ……!!」




「ほんと素晴らしい腹の高鳴りですこと」


半眼でアレンの台詞を切って捨てながら、は自分の両耳を塞いだ。
先刻からうるさくて敵わない。
ぐぅぐぅと食事を要求しているアレンの腹の虫にため息をつく。


「だから、ジェリー料理長のご飯を食べててって言ったのに」


呆れた視線で見やっても、アレンはの首に抱きついたままで、相変わらず死にそうに呻く。


「やだ。だって君が料理をしているのに」
「それはそうだけど」
「作り終わるまで待ってる」
「その前に餓死するんじゃないの」
「だから早く。早く早く早く!はーやーくー!!」
「駄々っ子か、あんたは」


は小さな子供に叱りつける口調で言ったけれど、結局アレンを背負った状態で手を動かし続ける。
途中邪魔だったので二回ほど肘鉄を喰らわせてしまった。
ちなみに不可抗力だ。調理中だというのにくっついてくるアレンが悪い。
それでもおんぶオバケと化した彼はめげることなく、の背中に圧し掛かったままだった。


事の経緯を説明しよう。
つまり、アレンは任務帰りで腹ペコの状態だ。
そんなときにが厨房にいたからいけない。
殺人的に下手な料理の中の、奇跡的に上手くなったメニューを、ちょっとした理由から再練習していたのである。
それを発見したアレンはまず不機嫌になった。
自分がいない間に、の手料理を、他人に食べられてはかなわないというわけだ。
そして次に駄々をこね始めた。
曰く「君が作った物は、僕が全部食べるから、早くしろ」。
早く食べさせろ、と言うのである。


「今作っているのは手のかかるメニューだから、そんなに急かしてもすぐには無理よ」


はくどいくらいにそう繰り返したけれど、アレンはまったく聞く耳持たずだから、ボウルの中の卵を掻き混ぜながら嘆息した。


「わかった。とりあえず、早く食べられるもの作ってあげる」
「というか、君は何を作っているの?」
「クリスマスパーティーに出す予定のメニューよ」


あっさりそう返したら沈黙された。


「アレンのおかげでせっかく料理が作れるようになったからね。今年の聖夜にはさんが腕を振るっちゃうよ」


はアレンが喜んでくれると思ってそう決めていたし、今もそうだと確信して言ったのだけれど、彼は無言で腕に力を込めてきた。
だから痛い。
そして調理がしにくい。
弾みで手元が狂ってしまう。


「あ、う……。破けちゃった……。アレン、オムライスの卵失敗しちゃったけどいいよね?この私の芸術テクでケチャップカモフラージを施してあげるから!」
「…………………………」
「アレン?……って何で急に力んでるの!?」
「…………………………」
「そんな神経が浮き出るくらい頑張らないでちょっとマジで痛い痛い痛い!!」


アレンが腕をぎゅうぎゅう締め上げてくるから、は涙ながらの大声で訴えた。
それでも彼は相変わらず聞く耳持たずだ。
もはやの体を折らんばかりの勢いで抱きしめてくる。
あまりの激痛にフライパンをコンロの上から落としてしまった。


「あああああ!腹黒魔王を無力化する幻のアイテム、食料様が!!」
「そのまえに君を再起不能にします。二度と馬鹿な口がきけないように!!」


慌てて食べ物を保護しようとしたら、今度こそ破壊音が出るくらい力を込められた。
背骨がバキィと盛大に鳴る。
は悲鳴をあげてその場にへたりこんだ。
震える右手を伸ばして何とかフライパンを掴む。


「アレン……ほんと無理……ほんと痛いから離して……」
「やだ」
「離せって言ってるでしょうが!!」


ついにキレたは思い切りフライパンを振り抜いた。
先刻まで熱せられていたそれは、じゅうじゅうと嫌な音をたてながらアレンの顔面を強襲。
間一髪で避けられたけれど、はそのまま半円を描かせて、焼き卵を宙に飛ばす。
左手で掲げた皿、そこに盛られたバターライスの上に見事着地させてみせた。


「はい、ふわとろ卵のバターオムライスのできあがり」
「それならケチャップじゃなくてデミグラスソースがいい」
「追加注文は別料金が発生します」
「え、お金取るの」
「代金はいいから、離れて。隙あらば襲い掛かろうとしないで」


言っている間もじりじりしてくるアレンに、はフライパンで威嚇しつつ距離を取る。
だってまた抱きしめ殺されそうになったらたまらない。
小鍋を出してきてコンロの火にかけた。


「もう、何で邪魔するの。私はクリスマスの準備で忙しいんだから、アレンは美味しく楽しくお腹を満たしてなさい」
「…………………………」
「試作品も食べさせてあげるから。ね?」
「………………………………、あのさぁ」


ぷんぷんしながら小鍋に油を注いでいると、また後ろから抱きつかれた。
おかげで勢いよくオリーブオイルがこぼれてしまう。


「あああ、某朝番組の某イケメンが登場する某料理コーナーみたいな量を入れてしまった……いくらなんでもオリーブオイル多すぎ……」
「今年もクリスマスは教団に居るの?」


ズ・キッチン”……とか馬鹿なことを考えていたは、そこで数回目を瞬かせた。
首をひねって頭の横を見上げる。
そこにいたアレンは何だか拗ねたような顔をしていた。


「……、クリスマスって任務が入ってたっけ?」


自分のスケジュール管理ミスかと思って訊けば首を振られた。
は視線を前に戻して、鍋に牛スジ肉を放り込む。赤身でもいいけれど、こちらのほうが出来上がりでパサつかない。


「じゃあ、普通に教団に居るでしょうよ」
「……本当に?」
「他にどこに居ればいいの」
「例えば街に出かけるとか」
「何をしに?」


反射で返すと深々とため息をつかれた。
は火の加減を見ながら玉ねぎ、にんじん、セロリを投入。
野菜を炒めながら眉をしかめる。


「ごめん、アレン。話が見えない」
「だから」


アレンはの首にまわしていた腕を外すと、数歩後ろにさがったようだった。
それでも近い距離ではっきり言われる。


「二人でどこかに行かない?」


は木べらで小鍋の中を掻きまわしていたけれど、そこで思わず手を止めてしまった。
眉根を寄せたまま考え込む。
嘘だ。頭が真っ白で思考ができない。
とりあえず焦がすと味が悪くなるから作業を続けなくては。
床にしゃがみ込んで下棚の扉を開くと、その中に頭を突っ込む。
小麦粉とバターを取り出してきたところで、ようやく先刻の言葉の意味を理解して、慌てて背後を振り返った。


「そ、それって……あいたっ!!」


勢いよく立ち上がろうとしたら、棚の天井に思い切り脳天をぶつけた。
ぐぁんぐぁんと目の前が揺れる。
アレンの呆れた顔が涙で滲む。


「い……っ、いったぁ……っ」
「はぁ……何やってるの」
「い、いや、ワザとだよ?ちょっとうっかりドジっ子属性を演じてみただけだよ!?」
「言い訳まで馬鹿ですね君は」
「遠慮しないでアレン!どんどん私に萌えちゃって!!」
「遠慮しないで!どんどん君をもいじゃいます!!」
「頭を撫でるふりして首を取ろうとしないで!!」


痛む箇所に優しく掌を当ててくれたかと思ったら、アレンは冷ややかな笑顔を浮かべて万力を発揮してきた。
ぎりぎりと頭蓋骨を圧迫し、さらには変な方向に力を加えてくる。
これはアレだ。首をねじ切る気だ。


「おいコラちょっと!恋人をデートに誘った直後に殺そうとしないで!!」


ひどい痛みに耐えかねてそう叫ぶと、嘘みたいにあっさり解放された。
それがあまりにも唐突だったから、反動では後ろにひっくり返る。
棚の奥にあった酒瓶でしたたか頭を打ってしまった。


「い、いたた……。ああ、でも、トマトジュースと赤ワインゲットー……」


は自分の頭の下に転がった酒瓶を手に、棚の中から這い出してくると、よろよろと立ち上がった。
鍋に小麦粉とバターを入れて、戦利品の瓶を二本逆さまにする。
あとはハーブを追加するだけだ。


「デートに誘われたとわかっていて、そういう態度を取るってことは」


ズキズキする後頭部にアレンの声が突き刺さってくる。


「僕の申し出を受ける気はないってこと?」


本当に痛い。
は頭を押さえながら振り返った。
痛覚とか文句とか訴えたいことはいろいろあったけれど、アレンが形容しがたい顔をしていたので言葉に詰まる。
何となくエプロンの裾をいじりながら呟いた。


「べつに……わざわざ出かけなくったって」


なんて言えばいいんだろう。
うまい台詞が見つからない。


「教団でだって二人にはなれるし」


何だか言い訳を口にしているみたいだ。
アレンが反論してこないから、余計に叱られているような気分になった。


「今年はパーティーに出ないなんて……みんなにも悪いじゃない」
「“みんな”?」


その部分だけ繰り返された。
声が平坦だったから、は肩を揺らして、バッと顔をあげる。
腕を組んだアレンが長いため息をついた。


「わかった。いいよ」
「アレン」
「君がいないとパーティーも盛り上がりませんしね」


アレンはさばさばと首を振ったけれど、次に目が合ったとき、そこには諦めの色が滲んでいた。
自分が言い出したことなのに、自分のせいでしかないのに、はその事実に傷ついた。
自分勝手な痛みを感じた。


「ご……」


咄嗟に言いかけて、言ってしまっていいのかわからなくて、結局アレンの優しい瞳に促されて口にしてしまう。


「ごめん」
「いいって言ってるのに」


そうやって微笑んでくれるから、私はいつまでたってもうまくできない。
なだめるように許されて、悪い癖をなおせない。


「それに」


アレンは俯く金髪に手を置くと、笑んだ口元で囁いた。


「お詫びなら、こっちのほうがいいな」
「え」


と、疑問の声を漏らしたときには唇が塞がれていた。
吸い付くような感覚。熱が直に伝わってくる。
ちょっと油断した隙に、アレンとの距離が近くなって、近くなりすぎいて、実質ゼロだからは驚きを隠せない。
見開いた金色の瞳の中で、長い睫毛の影が揺れる。
銀の双眸はどこ?見えるのは閉じた瞼の白さだけだ。


「……っつ」


すぐに息が苦しくなって、離れようとすれば引き止められた。
右腕が腰に絡む。左手で後頭部を押さえられる。
痛みが走ったから指先を震わせれば、アレンは少しだけ目を開けて笑った。
やめて。そこは先刻打ったところなの。
視線で訴えたけれどまるっきり無視されて、そのまま瘤をぐりぐりと撫でられた。


「い……っ」


小さくあげた悲鳴はアレンに呑み込まれた。
唇にも噛みつかれる。わざと痛くされている。
アレンというのは優しいことを言ったときほど、優しくないキスをしてくるのだ。
特に今は喧嘩にもならないやり取りをして、アレンのほうが譲ってくれたから、代わりというように好き勝手をしてくる。
何よ、本当は気に喰わないんじゃない。
拗ねるのならもっと可愛く拗ねてみせてよ。
はせめてもの反抗に、侵入して来るアレンに歯をたてた。


「……っ」


アレンは驚いたように引いたけれど、それもほんの一瞬だった。
さらに強くの頭を掻き抱くと、今度こそ深い口づけをしてくる。
おいコラちょっと。
これは公共の場でするキスじゃない。
現に自分の唇からこぼれる吐息は、他人様には聞かせられるものじゃなくなってきている。


「んっ……、は……ぁ」


苦しくて酸素を求める。喘ぐように欲している。
眩暈がして後ろの台に手をつけば熱を感じた。
ハッとしては目を開ける。
ちょうどそのとき、調子に乗ったアレンがスカートの中に手を突っ込んできたので、容赦なく脚を振り上げた。


「お鍋!!」


手首を煽ったのはコンロの火だ。
アレンの脇腹に膝を埋めて撃沈させたは、唇に残るキスの感覚を振り切って、急いで小鍋を返り見る。
そして悲鳴をあげた。


「ぎゃー!焦げてる焦げてる、むしろ燃えてる!!」


慌てふためいて火を叩き消し、鍋を流しに放り込む。
勢いよく流水を浴びせれば、高熱になったそれからぶわっと煙があがった。
黒煙と白煙が混じりあって視界が塞がれる。
目や鼻が刺激されて、盛大に咳き込んだ。


「し、失敗しちゃった……」


一度マスターした料理だけあって、はショックを隠せない。
そもそもこれはアレンのために作っていたものだ。
それを、こんな。
丸焦げにしてしまうなんて。


「あーあ、僕のデミグラスソース」


追い打ちのようにアレンがしょんぼりと呟いたから、はつい涙声で叫んでしまった。


「誰のせいよ!!」


もう!
もうもうもうもうもう、もう!!
あんなに強く抱きしめないで。
何度もキスしないで。
クリスマスに二人きりでいたいだなんて言わないで。
……そんな、簡単に、納得した振りなんかしないで。
はこれが勝手な言い分だと理解していたけれど、どうにも抑えがきかなくて、失敗した料理の激臭に半泣きになりながら怒鳴った。


「アレンの馬鹿!!」


自己嫌悪に泣きそうになりながら厨房を飛び出してゆく。
だって掃除しないと。そのための用具を取りにいかないと。
誰にともなく弁解をして、教団の廊下を駆け抜ける。


箒と雑巾とバケツを持って厨房に戻ってくると、アレンは何も気にしていない顔でオムライスを食べていた。
それに何だかムッとして、半分食されたそれの上に、ケチャップで“アレンのばか”と書いてやった。
ついでに隅っこに小さく“ごめんね”と書き足したけれど、彼は無言のままぺろりと平らげてしまう。
それから皿を突き出して言った。


「おかわり」


この人は本当に本当に、あらゆる意味で懲りてないなと思って、は青筋を浮かべてフライパンを振り下した。
もちろんアレンの持つ皿の上に。


どさどさと大量に盛られたおかわりに、アレンは幸せそうに微笑んだ。