本当のことは何ひとつ言えない私だから。
せめて偽りなく君たちと向かい合っていたいんだ。


臆病なんていらない。






● 永遠の箱庭  EPISODE 2 ●







どさりと雪の塊が足元に落ちてきた。
アレンは目の前の掲示板を仰ぎ見る。
雪はその上に積もっていたもので、寒さのあまり霜を張り付かせた硝子の向こうには、この街……ロンドンの地図が掲示されていた。
大きな街だ。
大きすぎて、地図を見てもさっぱりわからない。
現在位置はどうやらこの赤い点のところらしいが、ここからどう行けばいいのだろう。
いや、わかる人にはこれでわかるのだろうが、方向オンチに地図を読み解けというのは無理な話だった。
アレンは無駄な努力をしてしまったことを正確に悟り、ため息をつく。


早くも問題発生。
目的地がどこにあるのかわからない。つまり迷子。
それはもう幸先不安、なんてレベルの話ではなかった。
不安はと一緒に任務に行くことになった時点で溢れんばかりにあったのだが、今や滝のごとく轟音をあげて急降下中。
ひたすらどん底を目指している。


雪の厚く積もる大通りを歩きながらアレンは再びため息をついた。
白く凍ってすぐに霧散したその向こうに、金髪が見える。
こちらに背を向けて、雪を端へと追いやった石造りの階段に腰かけて、彼女は大きな地図を広げていた。
それを掴む白い手は寒さで真っ赤になっている。
小さな体は小刻みに震え、背中に落ちたボア付きのフードの向こうに垣間見えた首筋が、ひどく寒々しい。
アレンは足を止めずにそれを眺めて、ぼんやりと考えた。


(寒そう……)


アレンも寒いことは寒いのだが、我慢できないほどではない。
歩きながら自分の荷物の中からマフラーを引っ張り出してくる。
の背後で足を止めて、後ろから彼女の首にそれを巻いてやろうとしたところでアレンはしまったと思った。



マフラーを貸してあげる言い訳を考えていなかった。












地図を睨みつけていた視界に、突然マフラーが飛び込んできては驚いた。
それは後ろから冷える首筋を覆う。
はその温かさに一瞬口元を緩めたが、次の瞬間には悲鳴をあげていた。


首にまわされたマフラーが、の喉をぎゅうぎゅうと締め上げてきたからだ。


それには絞殺以外の目的などないように、背後から物凄い強さで引っ張られている。
は少女らしからぬ声で叫び、激しく抵抗した。
こんなところで死ぬなんて冗談じゃない。
しかもこんなマヌケっぽい死に方だなんて自分の散り際にふさわしくない。


負けるな私!ガンバレ私!良い子が見てるぞ、立ち向かうんだ!
だって私はみんなの乙女!!


「ふんぬぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ!!!!」


はヒーロー戦隊もの的な展開を目指して、“根性”とかいうやつを全開にした。
友情パワーで奇跡を起こそうと試みる。(ひとりで)
その素晴らしい抵抗に観念したのだろう、唐突に締め上げてくる力が緩くなった。
はその瞬間を逃さずに、階段を跳び下りて背後の人物から距離を取る。
首に巻きついているマフラーをむしり取り盛大に咳き込んでいると、頭上から優しい声が降ってきた。


「ああ大丈夫ですか?苦しいんですね、じゃあ息を止めてみましょうか数分で楽になりますよ」
「死んじゃう!!」


コイツはどこまで自分を亡き者にしたいんだろう。
は何とか呼吸を整え、殺人未遂犯を見上げた。


「いきなり何するのよっ」
「それより目的地はわかりましたか?」


が取り落とした地図を普通に眺めながらそう言ったのは白髪の少年で、名前はアレン、の言うところの腹黒魔王だった。


「目的地の前に天国に行っちゃいそうだったんだけど!?」
「大丈夫です。君なら天国に行っても門前払いで帰って来れますよ」


僕はそう信じてましたから、と笑顔で自分の犯罪を正当化しようとするアレンに、は腕を振り上げて怒鳴った。


「そんなに私が嫌いかー!」
「好かれる覚えでもあるんですか」
「そりゃあないけどね」


はアレンにずかずか近づいて、その手から地図を奪い取った。
これは方向オンチの彼には無用の長物だ。


「迷子キャラのあんたのかわりにがんばってるんだから、悪質なイヤガラセしないでよね!」


はぷんすか怒りながら言って、再び階段に腰かけ地図の解読に戻る。
アレンが隣に座ってきたが、特に気にしない。
さっさと迷子という現状を打破しなければ。


「うむむむむ……」


はそうやって変化するわけでもないのに、地図の向きをくるくる変えてみる。
終いには裏返して透かしてみたり。
あまりに夢中でそうしていたので、アレンがこっそりの首にマフラーを巻きなおしていることには気が付かなかった。


「だーっ、もうわっかんない!」


1分も経たない内にはキレた。
再び両手を振り上げて叫ぶ。


「何コレ何この地図こんなに細かく描いちゃって親切のつもり!?見えないよわかんないよ逆効果だよ、親切のつもりが不親切だよバカー!!」


ひとしきり文句は言ったが、役立たずな地図を破り捨てたい衝動はアレンの呆れたような声に止められた。


「投げるの早すぎませんか。タイムリミットのある銀色の宇宙ヒーローだって3分はがんばりますよ」
「乙女の時間は花より短いのよ!」


わけのわからないことをビシリと言い返して、は立ち上がった。
これはもう見るより動けだ。
そのうち目的地にも着くだろう。
とりあえず歩き出したに、仕方なくアレンも続く。


お洒落な店が軒を連ねる大通りは雪化粧で真っ白だった。
寒さのわりに人通りは多く、いくつもの幸せそうな顔とすれ違う。
は思わず遠い目になってしまった。


世の中はこんなに平穏なのに、どうして私はこんなに不幸なんだろう。
この寒空の下で迷子だなんて。
しかも一緒にいるのが途方もなく相性の悪いヤツだなんて。
あーもうこれは景気づけに雪合戦でもしたいな。
そう言えば、去年の雪合戦大会ではラビと引き分けだったんだよね。
今年こそ決着をつけるため、雪玉にはこの熱い意思のかわりに、文字通りの石を詰め込んでやろう。
私の愛を受け取るがいい!


そんな物騒な反則技を考えて笑顔になっていたに、アレンが声をかけた。


、地図を見たまま歩くと危ないですよ」


は思考から現実に帰還して、地図を持ち直した。
少し意外に思って訊く。


「なに?心配してくれるの?」
「当たり前じゃないですか」
「え……」
「君にぶつかられたら通行人のみなさんが死んじゃいます」
「そっちか!」


はアレンをちらりと睨みつけると、憤然とした調子で歩き続けた。
地図と顔を突き合わせたままで器用に人を避け、危なげもなく足を進めていく。
どうだ!とばかりにアレンの反応を窺うと、彼は今度はこう言った。


「本当に君に行き先を任せて大丈夫なんですか?」


何がどうあっても私に文句をつけたいんだなコイツは。
不安そう、といよりは不満そうな口調のアレンに、は強い調子で答える。


「壮絶に方向オンチな後輩くんよりは大丈夫だよ、自信ある。私を信じて正解!」
「……すみません突っ込みたいところは色々あるんですけど、とりあえず“後輩くん”って誰のことですか」
「あんたのことだよ」


は足を止めずに振り返った。
そこにいたアレンの表情はひどく歪んでいた。


「え……っ、そんなに喜ばなくても」
「これのどこが喜んでるんですか、そんな不器用な感情表現してません!猛烈に嫌がってるんですよ僕は!!」


力いっぱい訴えられて、は小さな子をなだめる大人の顔で微笑んだ。


「仕方ないなぁ。じゃあ私のことは先輩って呼ばせてあげるね」
「何でそうなるんですか!ちょっと、……」
「呼び捨てにしないの。せ・ん・ぱ・い!」
「こんな暴君のような先輩がいてたまりますか」
「だって私はその道8年のエクソシストで、あんたは最近入団した新人じゃない。問答無用で先輩後輩だよ」
「だからって……」


アレンはまだ何か言おうとしたが、は顔を前に戻した。
不満最高潮の声が追いかけてくる。


「いい加減 僕の名前を覚えてくださいよ。アレンです。アレン・ウォーカー」
「はいはい後輩くん。さぁ、ちゃきちゃき歩いてこう」


軽く流した瞬間、背後でどす黒いオーラが爆発した。
反応する間もなく、首に巻かれていたマフラーが後ろから思い切り引っ張られる。
またもや喉を締め上げられては悲鳴を上げた。


「ぎゃー!ちょ、待っ、苦し……っ」
「君の脳みそはたった三文字の名前も覚えられないんですか」
「や、それより苦しいから!離して……!」
「本当に可哀想な生物ですね。哀れすぎてホラ、手に無駄な力が……」
「ってギリギリ締めあげくるなー!!」


は抵抗したが、アレンの力は強くてかなわない。
彼の哀れみを大量に含んだ表情がとってもムカつく。
は苦しみに震える手でアレンの肩を叩いた。


「ちょ……ホラやめて、やめろって通行人の皆さんも見てるから!可愛いお嬢さんがお母さんに“コラ!見ちゃいけません!”って言われてるから!!」


必死にそう言うとアレンは周りを見渡して、人通りが自分たちを避けて流れていることに気がついて、ようやく力を緩めた。
は呼吸が戻ってくるのと同時に息をついたが、油断はできない。
アレンがまだマフラーの端を握っているからだ。


「もういいよコレ!返すっ」


は涙目でマフラーを取ろうとしたが、アレンはその手を振り払った。
乱れたマフラーをテキパキと巻きなおす。


「駄目です。ちゃんと巻いててください」
「そんなに私の首に凶器を付けておきたいの……!?」
「何言ってるんですか、これはアレですよ。犬の首輪みたいなものです」


そう言うアレンの視線はなんだか泳いでいて、心なしか目元も赤い気がする。
明らかに嘘だな、と思っては半眼になった。


「そうだね、私のマフラーでも掴んでないと後輩は迷子になるもんね……って嘘ですゴメンなさい力強くマフラーを握らないで!!」


怯えたようにそう叫ぶにアレンはふんっと鼻から息を吐くとさっさと歩きだした。
マフラーの端は当然のように握られたままなので、も首が苦しくならないようについていくしかない。
これじゃあ本当に犬の首輪だ。


「あの、後輩くん。私の前歩くのやめてくれないかな」
「君は僕を後輩と呼ぶのをやめてください」
「それは無理。……じゃなくて、あんた迷子のプロなんだからさ。ここは私に任せて、どーんと大船に乗ったつもりでいてよ!」
「わかりました。小船に乗ったつもりでいます」
「なにを聞いてたんだ!?」
「頼りになりませんからね。先輩は」


強烈な嫌味をこめてそう呼んで、アレンはの後ろに下がった。
一応自分が方向オンチであることを自覚しているらしい。
に行き先を任せて、しかし言葉通り小船に乗ったつもりなのだろう、マフラーからは手を離そうとしない。
はその態度に強く歯噛みした。


…………くっそぅ、一体何なんだこの恐ろしい性格は。
美少年なのに。見た目英国紳士なのに。
ああもう、いじりにくいったらない!
神田とかラビのいじりやすさを見習ってほしいものだね!!


「あんなの僕が見習えるわけないでしょう」


唐突にそう言われて、はアレンを振り返った。


「ちょっと!勝手に人の心を読まないでよっ」
「勝手も何も、さっきから君が考えていることは全て口からだだ漏れでしたよ」
「うそ!?」


冷ややかに注がれるアレンの視線を、は吹けもしない口笛で受け流す。
どうにも雰囲気が悪い。
迷子の現状と合わせて、思わずため息が漏れた。


「こうなったらこの地方の名物を食い荒らしに行くしかないのかな……」
「何をどう考えたらそんなトチ狂った結論に達するんですか」
「だって後輩の機嫌が悪すぎなんだもの。食べ物で懐柔できたらいいなーって」
「……別に機嫌なんて悪くありませんよ」


アレンは不覚をとったような表情で、顔を逸らした。
はそれをねめつける。


「じゃあどうしてそう私への態度がひどいわけ?」
「……………………」
「愛を疑ってしまうよ」
「そんなこの世に存在しないものを疑われても」


つい先刻まで目線を泳がせていたくせに即座にそう切り返されて、は盛大に顔をしかめた。


「……ホント言うようになったよね」
「ええ、僕も大分この本音丸出しというのに慣れてきたってことですよ」
「早すぎだよー、もうちょっと遠慮とか容赦とかしてよー!」
「君と僕の仲じゃないですか。そんなものは無用です、命取りです」


爽やかな笑顔で断言するアレンに、はもう諦めて前に向きなおった。
さっさと任務を終わらせないと精神的に持ちそうにない。
再び地図とのにらめっこを始めて、歩き出す。
アレンは大人しくそれについてきたが、5歩ほど歩いたところで口を開いた。



「先輩だってば。なに?」
「少し聞いてもいいですか」
「重要機密じゃなければね」




「本当の名前はなんていうんですか?」




は咄嗟に足を止めた。
アレンもそれに従う。
無意識に手に力が入って、地図が皺になる。
背後からアレンの声がする。


「ごめんなさい。コムイさんから聞きました」


は何か言おうと口を開いて、それからゆっくりと閉じた。


あぁどうりでいつもより彼の態度がひどかったわけだ。
本当のことを何も語ろうとしなかった私に、怒りを感じているんだ。
その感情が無意識に言動の端々に出てしまったのだろう。


それでも真正面から問いかけられたのは本当に久しぶりで、は思わず微笑んだ。
アレンを振り返る。
彼は自分から言い出したくせに、何だか傷ついたみたいに目を伏せていたからはその手を掴んだ。


「後ろを歩くのはやめて、隣にきてよ」
「え……?」
「知らないの?背後と腹黒には気をつけろってこの世の法則で決まってるんだよ!」
「……つまり後ろからマフラーを引っ張られるのが怖いんですね」
「そうとも言う」


はにこやかに頷いて、アレンの手を引いた。
並んで歩き出しながら、口を開く。
その時冷たい風が吹いてきたから、何となく暖かいアレンの手は離さなかった。


「本当の名前は言えない。わかってて訊いたんでしょ?」
「……それは」


アレンは、が自分の手を離そうとしないので少し戸惑ったような表情になっていた。


「コムイさんから聞いた話……何だか信じられなくて」
「全部本当だよ。“”っていうのは偽名」


アレンはかすかに息を呑んで、そっと問いかけた。


「本名は?」
「言えない」
「出身は?」
「言えない」
「家族は?」
「言えない」
「…………」


「私個人に関する全ての情報は、誰にも教えられない」


アレンは隣を歩くを見た。


「……どうして?」
「それが言えたら何も隠したりしないよ」


はあははと笑って瞳を細めた。
ああ本当に暖かいなぁと思って、アレンの手を握る。
どうして私の手はいつもこんなに冷たいんだろう。
自分のことを何も言えないこの体には血が通っていないとでも言うのだろうか。
馬鹿な考えだとは首を振った。


「ちょっと、ね。昔いろいろあって。ブックマンのじーさんに素性の全てを隠すように言われてるんだ」
「ブックマン……?じゃあ君は裏歴史となにか関係があるんですか?」


勘のいいアレンの言葉に、は肩をすくめてみせた。
それだけで『言えない』と意思表示をして言葉を続ける。


「私の生い立ちや本当の名前を知ってるのは、じーさんとコムイ室長、それに死んだグローリア先生だけ」


アレンはそれを聞いて目を見張った。


「神田やリナリーも知らないんですか!?」
「おいおい、何を聞いてたんだ後輩くん。ブックマンのじーさんに厳命されてるんだよ?友達だからって例外にはならないよ」
「そんな……」
「ちなみにラビも知らないよ。時が来て、ブックマンを継いだら知ることなるだろうけどね」


本当の名前も、誕生日も、過去の思い出も、全部全部隠して、誰にも言えないで。
そうやって生きてきたのだとは告げる。
アレンがじっと見つめてくるから、は微笑んだ。
彼がそんな思いつめたような顔をする必要は全然ないのだと伝えるために。
その笑顔の意図を酌んでくれたのだろう、アレンは呆れたフリをしてくれた。


「そんな壮絶な事実を笑顔で語っていいんですか?」
「私がいいんだからいいんでしょ。同情されるより笑い飛ばされたほうがマシだもの」
「……鼻で?」
「それはちょっと不愉快だな!」
「わかりました。盛大に鼻で笑い飛ばしてあげます」
「このっ」


はふざけてアレンを殴ろうとした。
その弾みで繋いでいた手がほどけたが、の手はもう冷たくなかった。
緩んだ口元をマフラーで隠す。
あたたかい。


「後輩のくせに生意気だ」
「だから後輩じゃありませんてば」
「だって年下でしょ?」
「君よりは……」


アレンは言いかけて、それから妙に神妙な顔でに訊いた。


「君って、歳はいくつなんですか?」


はいたずらっぽく笑って、唇の前で人差し指を立ててみせた。



「秘密、秘密!謎めいたところがあるのは乙女のお約束でしょ」



アレンは一瞬虚をつかれたような表情をしたが、すぐに行動に出た。
つまり、力の限りでのマフラーを引っ張ったのだ。


その勢いでの体は後ろ向きに倒れこむ。
少女の悲鳴と、積もった雪が舞い上がるのは同時。




そうして結局、二人の口論は止むことがなかった。








やっとアレンが核心に触れてくれました。(ほんの少しだけですが)
ヒロインは己の素性を全て隠さなければいけない、という特殊な境遇です。
それが原因で、彼女はいろいろと悲しい目にもあっています。
そこのところもだんだん見えてくるように、書き進めていきたいです。
ところで22話目にして、いまだにヒロインがアレンの名前を覚えてないのはどういうことだろう!(笑)
次回はようやくヒロインのイノセンスがお目見えです。