迷える淋しさ。
孤独の少年、その声を聞け。
● 永遠の箱庭 EPISODE 5 ●
「とにかく絶対に誰も入れないように。結界装置は大丈夫?うん、オッケーだね。じゃあ見張りは中に三人、廊下に四人でいこっか」
公爵家の屋敷の一室で、は探索隊たちに的確な指示を出した。
何もない部屋の中央には彫刻の彫られた背の高いテーブルが据えられていて、その上には展開された結界装置、中心にはイノセンスが鎮座していた。
それは黄金の短剣だった。
繊細な意匠が施され、いくつもの宝石が埋まっている。
その美しさはイノセンスと呼ぶに相応しい輝きを放っていた。
魂を正しき道に導くという奇怪伝説を持ったこの短剣は、公爵家の先祖がその武勇を称えられて国王から賜った、由緒正しき家宝だそうだ。
室内に三人を残して、アレンとは廊下に出た。
共に出てきた四人のうちのひとり、探索隊の男性がエクソシストの二人を見つめて言う。
「ここはお任せくださいエクソシスト様。先のような失態は二度と犯しません」
「はい、お願いしますね」
笑顔で返したアレンに、探索隊の男性は力強く頷いた。
「了解です。イノセンスはこの命に代えても!」
「え、ヤダ重い」
あっさりそう言い捨てたのはだった。
肩透かしをくらって、探索隊の男性は軽くのめった。
アレンも驚いた視線を送ったが、彼女はパタパタと手を横に振る。
その顔は何とも嫌そうだ。
「そんな重いもの懸けなくていいよ」
「は……はぁ……、ですが……」
困惑して瞬く探索隊に、はどこか不敵に微笑んだ。
「懸けるのなら、その決意だけで」
探索隊の男性は一瞬目を見張ったが、彼女の強気な表情を見て、すぐに破願した。
それは、その言葉に隠された、優しい想いに気づいたからだった。
「了解しました」
「うん。よろしくね」
アレンも胸の内が暖かくなって何となく口元を緩めたが、が見上げてきたので、慌てて探索隊たちに向き直った。
「それじゃ、ここはお願いします」
そう言って、彼らが頷き返すのを見届けてから、アレンは踵を返した。
その手は当然のようにの腕をガッチリと握っている。
引きずられるようにして歩くハメになったの、不満の声が背後から聞こえてきた。
「ちょっと後輩くん。引っ張らなくても一人で歩けるよ」
「駄目です。手を離すと君は何をしでかすかわかりません。これからは常に僕の傍で、壊れた置物の如く
大人しくしていてください」
「何それ」
は激しくげんなりした声を出した。
「そんなの無理だよ。想像しただけで頭が変になる」
「それ以上?」
「え、何だろうこれ。ケンカ売られてるのかな」
若干低くなったの声にアレンは笑顔を浮かべた。
ここでまたこの暴走娘に暴れられたら後始末が面倒だ。
だから言った。
「違いますよ。僕は君が心配なだけです」
「うさんくさ……!」
英国紳士と名高いアレンの完璧な微笑みを前に、事もあろうか、は顔を真っ青にしてそう叫んだ。
本当にどこまでも不愉快な生物だ。
「何て言うかこんな胡散臭いセリフはじめて聞いたよ、すごいなちょっと感動!」
「胡散臭くなんてありませんよ。そう聞こえるなら、それは君の心が歪んでいる証拠です。はぁ嫌だな、将来の夢が“長生き”とかいう現代社会の象徴みたいな子はこれだから」
アレンはわざとらしくため息をついてみせた。
は眉を吊り上げて何か言い返そうとしたが、アレンは強い口調でそれを遮る。
「とにかく!君は僕の傍で大人しくしてるんです」
「……………わかったよ。また騒ぎを起こしてあんたを巻き込むのは嫌だし」
どうやら不法侵入をした件で、には思うところがあったらしい。
アレンが巻き添えをくって殴られたことが、相当堪えているようだ。
彼女は大変不本意そうではあったが、こくりと頷いた。
その素直な態度にアレンは逆に戸惑ってしまった。
「……わかればいいんですよ」
思わずとりなすような言葉が口を突いて出た。
そんなアレンをは金の瞳で見上げる。
視線は真っ直ぐ、アレンの左頬に注がれていた。
「痛かったよね」
言いながら彼女は手を伸ばした。
白い指先が警備兵に殴られたところに触れる。
避けようともしないでそれを受け入れて、アレンは瞳を細めた。
「平気ですよ。いつまで気にしてるんですか」
「だって腹が立つんだもの。それにせっかく綺麗な顔をしてるのに」
唇を尖らせては呟いた。
それで思い出した。
ラターニャにも似たようなことを言われたことを。
その時も同じように頬に手を伸ばされたのに、彼女の手は避けて、の手は避けることも考えつかなかったから、アレンは自分自身を不思議に思った。
首をかしげたアレンの頬を、は指先で軽く弾く。
優しいその感覚。
「ごめんね」
「……別に君のせいじゃありませんよ」
温もりにため息をついて、アレンは自分の頬に触れるの手に自分の手を重ねた。
「君の暴挙を止められなかった僕にも責任はあります」
「でも先輩は後輩を守らなきゃでしょ」
「後輩は先輩の尻拭いに走り回るものですよ」
アレンはそう言って、の手をぎゅっと握って下ろさせた。
うまく出来るかどうかわからなかったが、わざとではない笑みを浮かべる。
どうかの言う「気持ち悪い」笑顔になりませんように。
「いつまでもくよくよ気にするなんて、らしくないですよ」
その言葉を受けては目を見張ったが、すぐに笑った。
いつもの勇ましい表情に戻り、金の瞳を輝かせる。
アレンはうまく笑顔を見せられたことにホッとしたが、固く拳を握ったにぶち壊された。
「じゃあ今すぐ華麗に怪盗家業をはじめようか!」
「何でそうなるんですか!?」
それは屋敷に侵入するための言い訳じゃなかったのか。
アレンは怒鳴ったが、は盛大にウキウキしていた。
「だってせっかく公爵様のお屋敷に来たんだもの。これで何もしなかったら怪盗の名がすたるってものよ!」
「いつから怪盗になったんですか、君は!」
「とりあえず高価な絵画一枚くらいはちょろまかさないとね」
「ああもう、!!」
アレンはの両肩を掴んで、彼女の顔を覗き込んだ。
真剣な口調で、諭すように言う。
「よく考えてください。そして思い出してください」
「思い出す?」
「そうです。とっても大事なことです」
アレンに促されて、は真面目に考え込んだ。
ややあってから、大声を出す。
「いっけない、忘れてた!」
「そうでしょうそうでしょう。君は忘れてたんです。人間として大切な思慮とか道徳を……」
「私、絵の鑑定できないや!!」
「そんなことか!!」
アレンは呆れたのと腹が立ったのとの両方で、思わずをがくがくと揺さぶった。
「どうしてはそうなんですか!君といると僕は発作的に爆発死しそうです!!」
「それはよかった。もっとおもしろい目にあわせてあげるよ!」
いたずらっぽく笑うの顔が憎らしくて仕方ない。
どうしてそうも不敵に素敵にいられるのだろうか。
アレンはきつい眼差しでを見下ろした。
「もう充分です。君は最高に輝いてます。ちょっと怖いくらい個性的です。こんな過激派見たことありません」
「え。あれ?私、誉められてる?貶されてる?どっち」
「それはもう誉めてますよ。今まで温厚な性格だと言われてきたこの僕が、ここまで激しい突っ込みを入れなければならないほどの逸材ですからね!」
「うわぁい、貶されてる!」
は頬を引きつらせたが、アレンは構わず微笑んだ。
ずいっと顔を寄せて、まるで恋人同士が甘い言葉を囁きあうような距離で、冷ややかに言ってやる。
「いいですか。これ以上の暴走は認めません。今度なにかしでかしたら、問答無用でダンボールに詰めこんで本部に送り返してやりますよ」
「な……何それ!脅してるつもり……」
「つもりじゃありません、キッパリそうです」
「そ、そんなこと言ったって全然平気なんだからね!」
は脅えた瞳で、それでも強気な口調と表情で、アレンを睨んだ。
その魔の手から逃れるために彼女は身をよじったが、当たり前のようにアレンはそれを許さなかった。
「へーえ。そうですか。だったら今すぐ……」
「今すぐ……何よ!?」
「大丈夫です。この近くにあった墓地にはまだ空きがありました」
「殺る気か!?」
「それともティムの餌になってみますか」
「どっちもお断りだー!!」
は全力で叫んで、アレンの体を突っぱねた。
肩で息をしながら宣言する。
「屈しない!そんな脅しには断じて屈しないぞ!私はあくまで勇者として、腹黒魔王に立ち向かっていくんだから!!」
「そうですか。だったらせいぜい泣きわめくことですね」
「ぎゃー!やだー!!」
凄まじい速さで繰り出されたアレンの手に捕まって、は悲鳴をあげた。
その時だった。
「うるさい!廊下で騒ぐな!!」
少年の怒声が、アレンとの動きを止めた。
掴み合ったまま二人が振り向くと、そこにはリオンが仁王立ちになっていた。
アレンは目を見張る。
「君は……」
わずかに油断したその隙に、は跳ねるようにしてアレンから離れて、リオンの背後に身を隠した。
と言ってものほうが身長が高いから、あまり意味はないが。
「客人なら客人らしくしてろよ!そしてお前!何で俺の背中に隠れるんだ!!」
「君がナイスタイミングで登場したからに決まってるじゃない!たすかったよ、私は今まさに、あそこのエセ英国紳士に蹂躙されそうになっていたところ!!」
リオンはの言葉を聞いて、疑いの眼差しをアレンに向けた。
アレンはにっこりと微笑んだ。
「気にしないでください。その人ちょっとかなり頭が弱いんです」
リオンはに視線を戻すと、冷たく突き放した。
「離せよ、被害妄想者」
「あれー?何で私の意見は完膚なきまでに否定されてるのかな!?」
「そんなの決まってるでしょう。人徳の差ってやつです」
はどこまでもにこやかな笑顔のアレンに腹を立てたが、さらにリオンに手を振り払われて言葉を失くした。
その動作があまりにも乱暴だったからだ。
「気安く触るな、庶民」
言い放たれた言葉は高圧的で、さすがは貴族のご子息と感心したくなるようなものだった。
彼はラターニャに公爵家の人間だと認められていないものの、貴族としての性格をしっかり持ち合わせているようだ。
いや、認められていないからこそ立ち振る舞いだけでも、と幼いながらに考えたのかもしれない。
しかしそんなことは、には通じなかった。
「こら。そういう言い方はよくない」
「何が悪い。事実だろ」
あくまで態度を変えないリオンに、は笑顔でアレンに言った。
「どうしよう後輩くん。この子すごく可愛いよ」
「はい?」
「なんて言うか、まるで所かまわずに、他人の迷惑も考えずに、オモチャだのお菓子だの買ってー買ってーって床に転げまわって泣き叫ぶクソガキのようだね!」
「すみません、それって全然可愛いくないですよね?」
矛盾だらけのことを言うに、アレンは口元を引き攣らせた。
「お前……っ、誰がクソガキだ!バカにするな!!」
リオンは顔を真っ赤にして怒ったが、はそんな少年の頭をガシリと掴んで無理に仰向かせた。
笑ったまま、その金の瞳で睨みつける。
「あー可愛いなぁ、生意気真っ盛りのガキんちょめー!」
「ガキじゃない!俺は公爵の息子だ!!」
「だぁからどうしたって言うのよ、このガキ」
はむにーっ、とリオンの頬を掌で押して遊びながら言った。
「その可愛さに免じて許してあげるから、バカな理屈を振りかざすのはやめようね」
「何を……」
「それより重要なことがあるでしょ」
はリオンから手を離すと、その黒い髪をぽんぽんと撫でた。
「貴族でも庶民でも子供は子供よ。せいぜい年上の私を敬うこと!わかった?」
きっぱりそう言いきるに、リオンはわずかに目を見張った。
しかしすぐさま眼差しがきつくなる。
「冗談じゃない!」
「え、何か不満?じゃあ尊んで奉ってくれてもいいよ!」
「誰が庶民なんかを!!」
リオンがそう叫んだ瞬間、の片眉が跳ね上がった。
「こ……っの、お坊ちゃまが!荒野で鍛え抜かれた庶民をなめるなー!!」
リオンと同レベルで怒鳴っては彼に襲いかかったが、伸びてきた手に頭を掴まれて止められた。
同時にリオンの体は引かれて、の攻撃範囲から外される。
深い深いため息が漏れた。
「子供相手に何をやってるんですか」
「止めるな後輩くん!これは庶民の誇りと尊厳を懸けた、聖なる戦いよ!!」
は強くそう訴えたが、アレンは無視してリオンに笑いかけた。
「気を付けてくださいね。この人、荒野育ちどころかブラックホール育ちの異星人ですから」
「おいコラ普通に嘘つくな!」
「こそ嘘をつかないでください。君みたいな変人のどこが庶民ですか。全国一般庶民の皆さんに今すぐ土下座してくださいよ」
「何言ってるの、私はこれ以上ないまでに庶民だよ!豆乳がいつもより一割引なだけですっごく幸せになれるもの!お手軽でしょ!?」
堂々とそう言い放ったに、アレンは憂いの眼差しを向けた。
その後ろからリオンも悲しそうに言う。
「ごめん……。お前って可哀想な奴だったんだな」
「あれ?謝られたっていうのに何この虚無感」
「それなのに俺ってば金持ちであることをひけらかして……。本当にごめん!」
「何この虚無感!!」
とリオンは二人して涙ぐみだしたので、アレンはどうにも慰める役になってしまった。
「泣かないでください二人共。自慢するのはどうかと思いますが、お金持ちなのは悪いことじゃありませんし、
豆乳が安いのはそれこそいいことです。お買い得です。の一日の摂取量を考えるとそれはもう買いに走らなきゃいけません、って僕は何を言ってるんでしょうね?」
我ながら意味がわからなくなってきて、アレンはうつむいた。
何だかこっちまで泣きたい気分だ。
もリオンもしばらくベソベソしていたが、アレンが頭を撫で続けると、しだいに馬鹿らしくなってきたようで泣き止んだ。
金の髪を払って、が言う。
「それで?君は何しに来たの?」
「え?」
尋ねられてリオンは瞬いた。
が重ねて訊く。
「私たちに何か用事があったんじゃないの?」
「ああ……」
忘れてたとばかりに頷いて、それからリオンは猛烈に不愉快そうな顔になった。
いや、不愉快そうというよりは、気まずそうと言うべきだろう。
もじもじしているばかりでなかなか言い出そうとしないので、アレンとは顔を見合わせた。
アレンが笑顔で助け舟を出す。
「どうかしたんですか?」
「そ……その」
「なぁに?」
がリオンの前に屈みこんで、その顔を覗き込んだ。
それが嫌だったのか(子供扱いされたと思ったのだろう)、彼は手に持っていた包みをの顔面に投げつけた。
可愛くない悲鳴をあげた彼女の体と、その包みを同時に受け止めて、アレンは目を見張る。
「これ……」
包みから出てきたのは、少年の服だった。
どう見てもリオンの私物だ。
それと男性用の上着。
「貸せと言ったのはそっちだろう!」
頬を上気させて、憤然とリオンが言った。
どうやら、いまだにアレンの上着を羽織ったままのに着替えを持ってきてくれたらしい。
一緒に入っていた男性用の上着は、アレンに対しての物のようだ。
「女がいつまでもそんな格好でうろつくな!お前も!上着を着てないなんて不恰好すぎる!!」
がこんな格好になったのはリオンのためだし、アレンが上着を着てないのはに貸してやらないといけなかったからだ。
リオンの言い分は理不尽なのだが、アレンは思わず口元を緩めた。
「ありがとうございます」
「わー……君って意外と優しいね」
も微妙ながら感謝の言葉を述べる。
リオンはそれにますます顔をしかめて、踵を返してしまった。
その頬が真っ赤だったから、はにやりと笑って、彼の背に勢いよく抱きついた。
「な……っ、お前!」
「ちょっと待ってよ、リオンちゃん」
間近にあるの顔にリオンは怒鳴った。
「離せよ!抱きつくな!!」
「そんなつれないこと言っても無駄だよ。私は君みたいな無愛想のくせに優しいおバカさんをよく知ってるんだから。はーもう何なの?日本人って皆そうなの?」
「知るか!」
「いいから、ねぇ。お願いがあるんだ」
は唐突に真面目な口調になると、リオンの瞳を見つめて言った。
「君のお父さん……、公爵様に会わせてくれないかな」
「………………」
の言葉を聞いて、リオンは黙り込んだ。
表情は消え、抵抗もなくなる。
その様子には彼から手を離した。
リオンはわずかに視線を落として呟いた。
「父様は誰にも会わないよ」
「……どうして?」
「知るもんか。一ヶ月前に母様が死んでから、俺だって会ってないんだ」
は目線だけで振り返って、アレンを見た。
考えていることは同じだろう。
アレンは静かな口調でリオンに問いかけた。
「君のお母さんが亡くなって、悲しみのあまり伏せってしまわれたんですか?」
そうだとすると、公爵がアクマになってしまった可能性も出てくる。
アレンとは緊張した雰囲気でリオンの返答を待った。
それによっては、屋敷内での警戒態勢を変える必要があるからだ。
しかしリオンは冷たく笑った。
「まさか」
彼は目を伏せたまま、吐き捨てるように言った。
「父様は仕事が忙しいだけだ。母様が死んだって何も感じてない。所詮はただの愛人、暇つぶしの道具だったのさ」
とても子供が言うような内容ではない。
アレンとは目を見張ったが、それでもリオンは続けた。
「珍しい異国人に手を出したらうっかり子供が出来てしまって、仕方なく家に置いてやっていただけ。母様のことも、俺のことも、父様は愛してなんかいないよ」
「どうしてそう思うんですか」
そっとアレンが訊いた。
「君のお父さんがそう言ったんですか?本当に愛してないと?」
「……………………」
「人の心を決め付けるのはよくありませんよ。大切なことを見失ってしまう」
「……お前に何がわかる」
リオンは体ごと振り返って、アレンとを見据えた。
その青い瞳は廊下の影で、暗く強く光っていた。
「この家のことを、何も知らないくせに」
「リオン……」
「今回のことだってそうだ。お前たちはあの家宝を取りに来たんだろう。けれど無駄だよ」
少年は唇を引き上げて、冷笑を浮かべた。
「あの女が……ラターニャが渡すものか。何かと理由をつけて断るに違いない。この家の財産を守るためなら
何だってする女だ」
「………………」
「だから俺が親切に持ち出してやったんだ。川に投げ捨てたと言ったらどんな顔をするか見てみたくて。でも
期待はずれだったな、俺がそんな大それたことをしでかすとは思わなかったのか。それともいつもの家出だと決め付けていたのか」
リオンは少しも楽しくなさそうに喉の奥で笑った。
「でも何度家を出たって連れ戻されるんだ。俺みたいな妾の子は恥ずかしくて外にはやれないって。これ以上、恥をかかせるなって!」
黒い前髪の向こうから、青い瞳が見つめてくる。
冷笑はもう消えていた。
ただそこにあったのは憎悪だった。
「この家が母様を殺したんだ。妾だと軽んじられて、異国人だと蔑まれて。心を弱らせて、病を患わせた。俺はこんな家大嫌いだ。滅べばいい。何もかも無くなってしまえばいい。あんな家宝も、父様も、あの女も!」
「つまり君は自分の生まれが不満なの?」
普通の口調でが尋ねた。
質問の内容にそぐわない言い方だった。
リオンは一瞬瞠目したが、すぐに見つめてくるの瞳を睨みつけた。
「当たり前だろ!今までずっと言われ続けてきたんだ!不義の子だって!妾の子だって!俺は本当は……っ、本当はこんな家なんていらなかった!!公爵の子供になんて産まれてきたくなかった!!」
リオンがどれだけ吐き出してもの表情は変わらなかった。
それがますます彼を苛立たせるのか、リオンは噛み付くような勢いで怒鳴った。
「俺は何ひとつ恥じることのない自分が欲しかったんだよ!!!」
「うん、それは無理だと思うよ」
あっさりとは言い切った。
身も蓋もなかった。
ついでに悪意もなかったから、リオンは呆然と口を開けた。
アレンはというと、いい加減慣れてきていたので小さなため息をついただけだった。
その目の前ではいつもの口調で続ける。
「だって、君みたいに卑屈でぐちぐち文句たれてるヤツはとっても恥ずかしいもの」
「な……っ」
「そうやって現状にすねて、背を向けて、自分の誇りがいたぶられるのをただ眺めていたわけだ」
は吐息をついた。
「君ってバカだなー。もっと自分の頭で考えなよ。どんな心を信じるのか、誰の言葉を否定するのか、そんなの決められるのは自分だけなんだよ」
言いながら彼女はリオンに手を伸ばした。
白い手が、耳にかかる黒髪を撫でる。
「それなのに君を支配するのは拒絶したいばかりの他人の言葉なんだね。ねぇ、君はどこにいったの?」
はその大きな金の瞳で、リオンを見つめた。
「誰かの言葉に決め付けられて、君まで自分を否定する気?」
彼女の声はやはり暖かくも冷たくもなかった。
それでもリオンに触れる掌だけが、どこか優しかった。
その温もりが少年の心を焼く。
「……っ、触るな!!」
リオンは顔を真っ赤にして、乱暴にの手を振り払った。
その青い瞳は怒りと悔しさと困惑がない混ぜになって、ひどく揺れていた。
「お前……っ、お前嫌いだ!何も知らないくせに!!」
今にも泣き出しそうな表情で、リオンは叫んだ。
「俺のこと何も知らないくせに、全部わかったような顔するなよ!!!」
それだけ吐き捨てると、リオンは身を翻して廊下を駆け去った。
その背がどこまでも孤独だったから、アレンは目を伏せた。
リオンのあの顔は、混乱は、に心の奥底を突かれたからだ。
アレンにはわかる。
彼女の金の瞳は本当の心にしか繋がらない、信念と潔さがある。
その眼差しの前に、全ては暴かれてしまう。
だからリオンは言ってしまったのだ。
泣き出しそうな心の底から。
わかったような顔をするな、と。
それは孤独な少年の本心だ。
彼は本当は他人が恋しいのだ。
自分を理解してほしいのだ。
「あーあ……。泣かせちゃった」
は何気ない調子でそう呟いたが、その横顔に少し落ち込んだ色があったから、アレンは彼女の腕を
掴んだ。
「大丈夫ですか?」
「何が?」
「手ですよ。思いっきりぶたれたでしょう」
ぐいっと引っ張って見てみると、案の定の手は真っ赤になっていた。
「平気だよ。それにあの子を怒らせた私が悪いんだもの」
「……」
「いくら本当のことだからって、はっきり言いすぎたかな」
「………………・」
「もー最近の子って図星を突かれるとすぐにキレるんだから!」
「うん……なんて言うか、確かにそうなんだけど、もっとこう………………何でもないです」
アレンはなんとなくリオンの弁解をしようとしたが、が相手ではそんなのは馬鹿みたいな気がして、
結局やめた。
その目の前で、は遠くを見つめて呟いた。
「私より、あの子のほうが痛がってる」
「………………」
「たぶんね」
それだけ言って、は手を伸ばした。
アレンの腕からリオンの寄越した服を受け取る。
「着替えてくる」
「え、ああ。はい」
は何の迷いもなく、近くにあった部屋へと向かった。
この廊下に並ぶのは全て客室だと聞いており、中に誰もいないとわかっていたうえでの行動だった。
アレンはその背を見送っていたが、ふいにが口を開いた。
「気をつけてね」
「え?」
「さっきリオンが言ったことは本当だよ」
扉を開きながら、が言う。
「ラターニャさんは、何が何でもあの家宝を他人に渡したくないみたい」
これにはアレンも同意見だった。
すぐにでもイノセンスを保護して本部に持ち帰ろうとするアレンとに、ラターニャは様々な理由をつけて一晩泊まっていくように仕向けてきたのだ。
もちろん断ったのだが、一向に諦めない様子だったのでこちらが折れるしかなかった。
ただでさえ自分たちはこの家の宝を持ち去ろうとしているのだから、その申し出を無下にし続けるのは難しい。
公爵という身分をも盾に、我を張り通されたのである。
明らかにこちらの弱みに付け込んだやり方だった。
アレンはが怒って大暴れをするのではないとヒヤヒヤしたが、彼女は黒の教団の一員であることをきちんとわきまえているようだった。
無線でコムイに報告を行い、イノセンスを守る探索隊へと的確な指示を出したのだ。
そうして今はアレンに注意を促していた。
「何か仕掛けてくるなら今日のうちだよ。私たちは明日の早朝にはここを出る。それまでが勝負だからね」
「わかってますよ」
アレンは少し不満に思って眉を寄せた。
今更そんなことを言われなくても、全て承知の上だった。
それでもは続ける。
「なんとなく、あんたが危ない気がするんだ」
「……どういうことです?」
「乙女のカンだよ」
目を見張るアレンにはにやりと微笑んだ。
「先輩命令。気をつけてね、後輩くん」
それだけ言い置いて、アレンに何か言い返す暇を与えずに、は扉の向こうに引っ込んでいった。
アレンは咄嗟に後を追おうとしたが、彼女が何をしに部屋に入ったのかを思い出して、動きを止める。
……危なかった。もし勢いで扉を開けていたら、何をされていたかわからない。
ひどい事態にならなくて本当によかった。
アレンは思わず吐息をついた。
そうしてリオンの寄越した上着を羽織る。
広い廊下に一人きり。
アレンはその静けさに目を閉じた。
ああ今ならほんの少し、この屋敷における孤独というものを理解できたかもしれない。
冷たい空気に淋しさを感じながら、アレンは壁にもたれてが着替え終わるのを待った。
それは数分後のことだった。
人目をはばかる様にして、一人のメイドがアレンへと近づいてきた。
日の傾いてきた廊下は薄暗い。
彼女の身に着けている白いエプロンだけが、アレンの視界に鮮明だった。
メイドは一礼すると、口を開いた。
「ラターニャ様がお呼びです」
小声で言われた言葉に、アレンは思わず遠い目をしてしまった。
に忠告された途端これだ。
しかも図ったかのようにアレンが一人きりになったときに。
それでもの“乙女のカン”などというこの世に存在しないものを信じるのは、アレンの信念に関わることなので、命がけで言う。
「少しだけ待ってもらえませんか?がまだ着替えてるんです」
「あちらのお嬢様は呼ばれておりません。貴方様お一人でいらしてください」
「………………」
「ラターニャ様よりそう仰せつかっております」
アレンは瞳を閉じて、眉を寄せた。
くそ、ドンピシャか……!
大変悔しいのでのいる部屋の扉を睨みつけてから、アレンはメイドの後に続いた。
衣擦れの音は止まない。
長袖シャツに腕を通しながら、は呟く。
「ふーん。そうきたか」
白い手が、服の中に入ってしまった長い髪をばさりと出す。
跳ねる光。金髪が舞う。
アレンが案内されたのは、予想通り豪華を極めた部屋だった。
応接間と同じくらい広いので、アレンは掃除が大変だろうなぁと少々ずれたことを考える。
そして布張りのソファーの上にこの部屋の主はいた。
ラターニャはまるでこの部屋の一部のように、優雅な様子でそこに腰掛けていた。
「いらっしゃい。どうぞ、お座りになって」
そう促されて、アレンは特に逆らわずに「失礼します」とだけ言うと、ラターニャの向かいのソファーに座った。
すると彼女は不満そうに、自分の隣を手で示した。
「私が言ったのはこちらでしたのに」
「いえ、こちらで結構です。お気遣いなく」
アレンはにこやかにかわしながら、内心眉をひそめていた。
その原因は室内に立ち込める芳香だった。
何の香りかはわからない。
花のようでもあったが、それにしては甘ったるい。
あまりに強烈なその匂いに、アレンは早くも目眩を感じていた。
頭痛がする。
何だこの香りは。
「あら。ご気分でもお悪いのかしら」
ラターニャがくすくすと笑う。
アレンは目眩を振り払うように、一度強く目を閉じて、開いた。
「大丈夫です。……それで、何の御用ですか?」
アレンがそう尋ねると、ラターニャはテーブルの上のポットを手に取った。
メイドは全員下がらせているので、自らお茶を淹れてくれるようだ。
そして何故自分が、ラターニャの自室で彼女と二人っきりにされているのかを、アレンは正確に悟っていた。
ふわりと広がる紅茶の香りの向こうで、赤い唇が動く。
「少し貴方とお話がしたくて」
「それならも呼んできましょう。僕よりずっとおもしろいことをしでかしてくれますよ」
「残念ね。ここにはティーカップがひとつしかないわ」
「僕は遠慮させてもらいます。一人でごちそうになったと言ったら、後でどれだけ暴れられるか」
「私は貴方とお話がしたいのよ」
そう断言されて、アレンは少し驚いた。
ここまではっきりと言われるとは思っていなかったのだ。
ラターニャは目配せをするようにアレンを見た。
「あの子は駄目よ。私は貴方がいい」
花の模様が描かれた、少しでも力を入れると壊れてしまいそうに繊細なティーカップが、アレンの前に差し出される。
アレンはそれに手を触れようとはしなかったが、ラターニャが無言で促してくるので、仕方なく口を付けた。
妙に甘い味がした。香りもきつい。
何が入っているのだろうといぶかしむアレンに、ラターニャは言う。
「お連れのお嬢さんはとても綺麗で可愛らしいけれど、それは見た目だけね。中身は生意気で油断がなりませんわ。私、ああいう子は嫌いですの」
「………………」
よく平然と、自分の前で言うものだとアレンは思った。
確かにラターニャの言葉はアレンも感じたことのあるものだった。
は中身と釣り合わない綺麗な容姿をしているから、初めて出会う人間が戸惑うのも無理はない。
誰を相手にしても物怖じしない態度から、生意気だと取られてしまうこともあるだろう。
しかし、何故かアレンはラターニャの言葉に反発を覚えた。
腹の底が一瞬ひどく冷たくなって、すぐに熱を孕む。
思わず唇を吊り上げる。
「本気で、がただの生意気な小娘だと?」
「え?」
「あれが見掛け倒しだと決め付けないほうがいいと思います。……でないと」
アレンは口元だけの笑みを浮かべて、ラターニャを強く見据えた。
「ひどい目に合わされますよ」
そうしてにっこりと微笑んでみせた。
ラターニャは意味がわからなかったのか、不思議そうに眉をひそめた。
アレンの奇妙な感情は消えない。
一刻も早くここから出たかった。
毒のように甘い匂いはもうたくさんだ。
早く太陽の香りのする少女に会いたかった。
アレンはカップをソーサーに戻して立ち上がった。
「特に御用はないようですね」
「な……」
「失礼します」
「待って!」
踵を返そうとしたアレンの手を、ラターニャが掴んだ。
その力が予想以上に強かったから、アレンの足は止まる。
一度そうされてしまっては、アレンの性格上、振り払うことは躊躇わられた。
ラターニャは掴んだ手を引っ張って、アレンをもう一度ソファーに座らせた。
「待って。何か怒らせたのならごめんなさい」
怒る?
どうして僕が。
……のことで?
ラターニャも同じソファーに腰掛け、アレンに身を寄せてきた。
「私は貴方と仲良くしたいのよ。貴方はあの子と違って、とても素直で礼儀正しいんですもの」
また、おかしなことを言う。
僕が素直だと言うのなら、さっきの態度は何だ。
いや、おかしいのは自分だ。
自分だってのことを生意気だと、苦手だと、思っているくせに。
どうしてこんなにラターニャの言葉が勘に触るんだ?
「…………扱いにくいより、僕のほうが簡単に丸め込めると?そういうことですか」
押さえた声でそう言ってやると、ラターニャはぐっと黙り込んだ。
図星を突かれて戸惑うその様子に、アレンはため息をついた。
「僕に取り入っても無駄ですよ。黒の教団の決定は絶対です。あのイノセンスはこの家を離れて、然るべき所で保護されなければいけない」
「……そう」
ラターニャは顔を上げて、アレンに寄り添うようにしていた体をさらに押し付けた。
アレンは身を引いたが、彼女はそれを追い、結果としてソファーの背との間に閉じ込められてしまった。
真っ直ぐな赤い髪がアレンの視界を覆う。
鼻を突くのは例の芳香だ。先刻よりも強い。
どうやらラターニャ自身からも、その匂いはしているようだった。
このように密着されては香りで頭が変になりそうだった。
「でも試してみなければわからないのではなくて?黒の教団の決定が絶対だというのなら、それを決めているのは誰?そこにいる人間でしょう?」
「無駄です。僕には何の権限もありませんよ」
「ふふ、そうなの?でも上層部の人間が寄越したのなら、少しは影響力があるはずよ」
「……買い被りですね」
「それでもいいわ。家宝を守り抜く足がかりにはなる」
あまりにきつい香りに、目の前が霞むようだった。
頭の芯がしびれてぼうっとする。
アレンはまだ冷静な心の隅で歯噛みした。
どうやらこの芳香には妙なものが混ざっているらしい。
それはゆるゆるとアレンを侵して、思考を、現実を奪っていく。
ラターニャの手が、アレンの頬を撫でた。
「それに、貴方はとても綺麗だもの。手元に置きたいほど気に入ったわ。さぁ幸せな夢を見せてあげるから……」
優しく顎を掴まれて仰向かされる。
それを理解するのに時間がかかった。
気がついたときには、ラターニャの赤い唇が目の前にあった。
「貴方はどうか、私のために」
さざめくような笑い声。
遠い遠い、風の音のように聞こえる。
赤い紅が、アレンに触れる。
その一瞬前。
ガラスを破砕する音が、アレンの意識を呼び覚ました。
なかなか厄介な感じの公爵家です。
そしてアレンがピンチです。誘惑されてます。(笑)
かなり私的な意見ですが、アレンは年上のおねぇ様たちにモテそうなイメージがありまして。
うん。がんばっていただきたい!
次回はアレンが大爆笑してくれます。
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