駆け引きと睦言。
赤い唇。


そんな誘惑、彼女を前にすれば跡形もなく吹き飛んでしまった。






● 永遠の箱庭  EPISODE 6 ●







激しい音をたてて窓ガラスが破壊された。
アレンは清冽な風に吹き飛ばされるようにして我に返った。
そして悲鳴をあげるラターニャの顔の横に掌を差し出す。


次の瞬間、そこには丸い野球ボールがおさまっていた。


窓をぶち破り室内へと凄まじいスピードで飛び込んできたそれを、アレンは視線もやらずに片手で受け止めてみせたのだ。
アレンは驚きのあまり硬直しているラターニャを脇に押しやると、ソファーから立ち上がった。
そして床に散らばるガラスの破片を踏みつけて、窓辺に立った。
ただの枠だけとなった窓から顔を出す。


見下ろした先には案の定、金髪の少女がいた。


ホームラン!」


は手にしているバッドをびしりとアレンに向けて、そう言い放った。
着ているものは白い長袖シャツに、抑えた赤味のチョッキ。
膝下丈の茶色のチェックのズボンと黒いブーツ。
シンプルだが仕立てのいい、少年の服だった。
リオンの私物であるそれらに身を包んだ彼女は、やけに溌剌として見えた。
後頭部で結われた長い金髪が元気に揺れている。

は屋敷の中庭で、右手に野球バッドを持ち、左手を腰に当てて、アレンを見上げていた。


「やっほー後輩くん!あんたも一緒に野球しない?」
……」


アレンは盛大に顔をしかめてに訊いた。


「とりあえず説明してください。何がどうなって野球なんですか?」
「だって着替え終わってみたら後輩くんがいないんだもの。探すついでにウロウロしてたら可愛い女の子が
歩いていたので」
「………歩いていたので?」
「『ヘーイそこの彼女!一緒に愛のボールを受け止めあわないかーい!?』ってナンパした」


なんとも満足そうな顔で笑うの周囲には、なるほど数え切れないほどのメイド達が集っていた。
その他には庭師や家庭教師、コックらしき男達やら、年配の執事までいる。


「最初はキャッチボールだったんだけど、なんだか人が集まっちゃったから野球に変更したの。さっきのは9回裏でエースが放ったさよなら逆転ホームラン!」


アレンはこみ上げてくる感情に、思わず完璧な笑顔を浮かべた。


「すごいですよ。僕は今、君の馬鹿っぷりに猛烈に感動しています。ナイス馬鹿!」


まさか公爵家に訪れた客人(しかも聖職者)で、屋敷の使用人達を大勢巻き込んで野球をやらかしたのは、
がはじめてだろう。絶対に。
その馬鹿を極めた破天荒っぷりにアレンはどうしてくれようかと本気で考えた。


「どうしてこんなことに……」
「言ったでしょ?先輩は後輩を守るものだって」


はあっさりとそう告げた。
それは会話になっていない言葉のようで、それでもアレンにだけはわかるものだったから、目を見張る。
はアレンの銀灰色の瞳を見つめて微笑んだ。


「それともお邪魔だったかな?」

「まさか」


咄嗟にそう言うと、はさらに笑顔を深めた。



「だったら早く降りてきて。ボールがないとはじめられないじゃない」



なるほど、そういうことか。

アレンはの奇行の本当の意味を理解して、口元を緩めた。
笑みが浮かんでくるのを止められない。
アレンはを見据えて不敵に言った。


「そうですか。そっちがそのつもりなら」
「なに」
「後輩はせいぜい先輩の尻拭いをさせてもらいますよ」


それを聞いては少し驚いた顔をしたが、アレンの意思を汲んで、すぐに強気な声を張った。


「よーし、頼んだ。窓ガラス割っちゃってごめんなさいって謝っといてね」
「はいはい」
「弁償もよろしく!」
「それは教団の経費でね」


またコムイさんに愚痴られるなぁとか呑気に考えながら、アレンは踵を返して窓辺から離れた。
そのまま一直線に扉へと向かう。
何故ならがこの部屋からアレンが出てくるのを待っているからだ。


「な……、待ちなさい!」


ようやく我に返ったラターニャが呼び止めたが、アレンは普通に振り返った。
当初の予定通りに頭を下げる。


「すみません、うちの馬鹿がご迷惑をおかけしました。窓ガラスの弁償は黒の教団がきちんとしますのでご心配なく」
「そうじゃなくて……、ああもう何なのよあの子は!」
「ただの生意気な小娘だと、おっしゃってませんでしたか?」


笑顔でそう返して、アレンは扉に手をかけた。
ラターニャはその背に向かって叫んだ。


「待って、さっきの話は……!」
「ああ、そのことですが」


アレンは視線だけでラターニャを返り見て、口元に笑みを浮かべた。



「残念ながら、僕は美人には慣れてるんですよ」



だから貴女の、自分を武器にした罠にはかからない。
ラターニャの美しさは、女らしさは、アレンには通用しない。


もっと強烈な馬鹿を知っているから。


言葉を失うラターニャに、アレンはもう一度閃くようにして微笑んだ。


「失礼します」


アレンは礼儀正しく一礼すると、優雅に扉から出て行った。




















階段を下りて中庭に行くと、がぶんぶんと素振りをしながら出迎えてくれた。
雪のどけられた地面(わざわざ雪かきをしたのだろうか)には白線が引いてある。
結構まじめに野球をしているようだ。


「やっと来たね」


は素振りをやめて、バッドを肩に担いだ。
それからアレンを見つめておもむろに言った。


「あ、口紅ついてる」
「下手な嘘はやめてください」


間髪入れずにアレンは切り返した。
内心どきりとしたが、大丈夫なはずだ。たぶん。絶対。


「ちぇ、つまんない反応。もっとあたふたドギマギしてくれたらおもしろいのに」
「それはご希望に添えなくてすみませんね。……本当についてたらどうするんですか?」


何となく気になってそう訊いてみると、は固まった。
目を見張ってアレンを凝視している。
しばらくした後、は気難しい博士のような顔で言った。


「お赤飯炊いてあげる」
「いりませんよ!!」
「何でよ、おいしいよ!?」
「そういう問題じゃない!!!」


何だか無性に腹が立って、アレンはに向かってボールを投げつけた。
は慌てて受け止めたが、ようやく戻ってきたそれに手放しで喜んだ。


「あぁお帰りボール!みんなー!これで再開できるよー!!」


周りの使用人たちに大きく手を振って言うその様子は、自分がここに来たことより嬉しそうに見えたので、アレンは本気で憤慨した。


僕よりボールのほうが大事だっていうのか、この人は。


もちろんそうではないことはわかっているのだが、どうにも相手だと突っかかりたくなってしまうのがアレンだった。
腕を組んで彼女を睨みつける。


「いい機会です」
「え?」
「野球で決着をつけましょう、
「決着?」


きょとんとするに、アレンは大業に頷いた。


「そうです。今までことごとく気の合わなかった僕たちですが、毎回ケンカをするのも馬鹿らしいでしょう。ここで一発、どちらが正しいのか決めようじゃありませんか」
「ははーん。そういうこと」


アレンの言い出したことを正確に理解して、は顔を輝かせた。
どうにも彼女は勝負事が好きらしい。
そして極度の負けず嫌いでもある。

しかしそれはアレンも同じだった。


「僕は負けませんよ。やるからには勝たせてもらいます」
「よく言ったね。でもこのさんに勝てると思ったら大違い!」


は不遜なまでに堂々と胸を張った。


「完膚なきまでに叩きのめしてあげる!」
「やれるものなら!」


二人は不敵な笑みを口元に、火花を散らして睨み合った。
周囲の使用人たちはそれを好奇の視線で見ているから、止める者は誰もいない。
はアレンにバッドを渡し、自分はメイドからグローブを受け取った。


「それはそうと」


唐突にが口を開いた。
しかしアレンも普通に続ける。


「ええ、そうですね」
「コソコソ隠れてないで出ておいで」
「残念だけど、バレてますよ」


二人して言って、そちらへと視線をやる。


「「リオン」」


名前を呼んでやると、少年は驚いたようにさらに身を引っ込めてしまった。
中庭を見渡せる、渡り廊下の柱の影だ。


「だーからバレてるってば」


はずかずか近づいていって、逃げようとしたリオンの首根っこを遠慮なく捕まえた。
彼は悲鳴をあげたがは無視した。
そのまま引きずって中庭へと連れ出す。


「バカ!離せよ、この変態!人さらい!!」
「うるさいなぁ、隠れるのが下手な君が悪いんだよ!見つかりたくなかったらもっとがんばって!!」
「妙な応援すんな!!」


怒鳴って暴れるリオンを、は人の集っているその中心に押しやった。
べしゃりと地面に座り込んだ少年を普通に見下ろす。


「私たちが野球をはじめたころから見てたでしょ。一緒にやりたいのならそう言えばいいのに」
「な……っ、誰が!」
「君がだよ」
「人の家の庭でいきなり馬鹿なことはじめたから、思わず見てただけだ!」
「あ、そ。じゃあ一緒にやろっか」
「話を聞け!!」


どうにもこの二人だと精神年齢が近すぎて話にならないので、アレンはするりと割り込んだ。


「とりあえず立ちましょうね」


柔らかく言って、リオンを助け起こしてやる。


「リオンは野球のルールを知ってますか?」
「え……、まぁ」
「じゃあ問題はありませんね。一緒にやりましょう」
「何でだよ!!」


アレンとしても、何やらリオンを放っておくことが出来なかった。
先刻のとのいざこざもあるが、根本的にこの少年は危ういところがあるような気がしてならないのだ。
恐らくそれはも同じだろう。
そう感じたからこそ、彼女はこういう行動に出ているのだと、アレンには考えなくてもわかった。


「ハイ、じゃあこれグローブね」
「だから!誰がやるって言ったんだよ!!」
「ポジションはどこがいい?言っておくけどエースの座は譲らないから」
「あぁもう俺は本当にお前が嫌いだ!!」
「その憎しみを糧にかかって来い、少年!」
「通じねー!!」


びしりと腕を広げて言うに、リオンは全力で怒鳴った。
手にしていたグローブを投げ返す。
その様子に、メイド長らしき女性がおずおずと口を開いた。


「あ、あの……様」
「様はいらないよ。何ですか、マーサさん」


促されてマーサは皺だらけの手を胸の前で組み合わせた。


「私どもは使用人です。さすがにリオン様とご一緒にというのは……」


そこで彼女は口ごもったが、周りの使用人たちも同じ事を言いたいらしく、その場は妙な雰囲気に包まれた。
アレンとは顔を見合わせる。
その目の前で、リオンがはんっと笑った。


「ホラ見ろ。お前たちよりコイツらのほうがよっぽど身分をわきまえている!」


リオンは使用人たちを見渡しながら吐き捨てた。


「仕える主人の息子とは恐れ多くてご一緒できないとさ。例えそれが恥ずべき妾の子でもな!」


リオンの口調は乱暴だったが、それは使用人たちが暗として言ったことを的確に捉えていたようだ。
マーサはぐっと縮こまり、その他の者も気まずそうに目配せを交わし合った。
リオンは苛立った瞳で踵を返した。


「付き合ってられるか!」
「付き合ってもらうとも!」


その腕を掴んだのはだった。
彼女はひどく真面目な表情でリオンを見据えていた。


「身分が違うからご一緒できない……?そんなの甘い!」
「……は?」
「甘いよ、甘すぎるよ!この甘党が!重症糖尿病が!!」
「いや、意味わからない……。何なのお前」


戸惑うリオンなど無視で、はがっと彼の肩を抱いた。


「いい?野球というのは神聖なるスポーツなんだよ。一度グラウンドに上がればみんな一つの目標に向かって突き進む同志であり、敵なんだよ。そこに身分なんてあるものか!」
「え……いや、はぁ」
「フェアプレー精神を無視するとはなんて甘っちょろいヤツなんだ!そんなことだと補欠にするぞ、万年玉拾いにするぞ!!」
「いや、そもそもやる気ないし……」
「やる気がない!?そんなの問題外だ、よーし!私が勝負の厳しさをその体に叩き込んであげるっ」
「あれ?それで何?結局俺やらされるの?」
「後輩くんカモン!みんなも位置について!」
「おい!やっぱりやらされるのかよ!?」


何だかんだでの勢いに負けて、リオンを含む全員がそのまま野球に参加することとなった。
彼女の言い分はめちゃくちゃで、真っ直ぐ筋が通った馬鹿なものだったから、結局誰も言い返せなかったのである。
アレンはその様子に笑いをこらえていたが、数分もすればため息をこらえる羽目に陥っていた。


カキーン!


またもや素晴らしいホームランが打ち放たれる。


「……………
「何かな後輩くん。さぁどんどん来ーい!」
「うん……、そうしたいのはやまやまなんだけど、一言だけ言わせてください」


アレンはグローブを脱いで地面に叩きつけた。


、野球のルール知らないでしょう!?」
「やだな、知ってるよ」
「嘘をつくな!!」
「知ってるってば。相手が倒れ伏すまで力の限りぶん投げて、力の限り打ち返す!これぞ野球!!」
「その通り!その通りですけどなんか違う!!」


先刻からは一切の手加減なしで、アレンの投げる球をただひたすら打ち返し続けているのだ。
それらは当然の如く全てホームランだから、全然ゲームにならない。


「さっきまではどうやって試合してたんですか……」


呆れてアレンが訊くと、は明るく笑った。


「ごめーん、後輩が相手だとついつい本気になっちゃった!他の人には普通にしてたんだよ」
「あっそうですか。じゃあもういいです。攻守交替です」


アレンはもう面倒くさくなってきたので、に合わせてその場のノリでルールを決めた。
攻守交替。
アレンはバッドを手にバッターボックスに立った。
ピッチャーはやはりと言うか、何と言うか、その人。
彼女はグローブにボールを打ちつけながら、にやりと微笑んだ。


「ふふん。後輩くんに私の球が打ち返せるかな?」


アレンはそれを受けて、同じような笑顔を浮かべた。


「当然」
「…………………言ったな」


はすっと目を細めると、意識を集中。
完璧なフォームで腕を大きく振りかぶった。


「食らえ!消える魔球!!」


意味のない、カッコイイと思い込んでいるだけの言葉と共に、超高速の球が放たれる。
しかし、アレンもに劣らず身体能力は高い。
加えての球は性格がそのまま出ているのか、見事なストレートだった。


(もらった!)


アレンは全力でバッドを振り抜いた。
隅のほうで黒い光の瞬きを感じながら、球の飛んでいくほうに目を走らせる。
だが、そこには夕暮れの空が広がっているだけだった。
白いボールはどこにもない。
アレンは視界を一回転させて、それからを見た。
彼女は思わずやっちまったぜ、という感じの微妙な笑顔を浮かべていた。
アレンはバッドで思い切り地面をぶん殴った。


「本当に消してどうするんですか!!!」


つまりは、アレンに打たれると悟って、咄嗟にボールを消してしまったのだ。
そのイノセンスから放たれる黒い光の刃で。
跡形も残さず、千々に。


「いやー、あの……、これぞまさに消える魔球!みたいな」
「何が、みたいな、ですか。もういいです。もう無理です。君とは勝負になりません」
「ちょっと。仮にも夢に溢れる少年が、そんな簡単に諦めていいと思ってるの?」
「諦めざるを得ない理由を高速で考えてください」
「いいからがんばってよ!努力と根性、そしてツライ練習に共に耐えてきた仲間との友情パワーでなんとかしてみせてよ!!」
「本当に無茶苦茶なこと言いますよね、は!!」

「なぁ、俺もう帰っていい……?」


くすくす笑う使用人たちに混じって、リオンが切なげに呟いた。
ウンザリとした顔で、木の棒を使い地面へと得点を書き込んでいる。


「なんだかすごく辛いんだけど。お前らの何かの限界に挑戦しまくった勝負を見てると、辛すぎて死にそうなんだけど」
「勝負とはかくしてツライものだよ。それを乗り越えてこそ、より高みへと行けるのだ!」
「行きたくねぇよ。むしろ帰りたいよ。帰らせてくれよ」
「却下。ハイ次。打ちまーす!」
「本気でルール無視だなお前!!」


リオンは木の棒を地面に突き立ててへし折った。
当然アレンも盛大に眉を吊り上げる。
それでもは周りの使用人たちの声援を受けて、バッターボックスに入った。
ここまで期待されて打たないだなんてことは的に有り得ないのだが、アレンの我慢もそろそろ限界である。
どうにかしてやろうと思って、アレンは近くにいたメイドたちに近づいていった。
そして英国紳士と謳われる、柔らかな笑みを満面に浮かべた。


「すみません。僕のお願い、聞いてもらえませんか?」


その笑顔にメイドたちが頬を真っ赤にしたことは、言うまでもない。


そんなこんなで。


「この……っ、卑怯者ー!!」


が強く地面を踏み鳴らして怒鳴った。
その視線の先には、グラウンドに立った可愛らしいメイドの姿。
アレンはその後ろから腕に手を回して、懇切丁寧にボールの投げ方をレクチャーしている。
顔を染めているメイドの様子などには少しも気づかないで、アレンはを見てにっこりと微笑んだ。


「誰が卑怯者ですか、この俺様ルール強行者が。僕は君と違ってルールを破ってはいませんよ」
「ルールって言うか、破っちゃいけないものに反逆してるよ!」
「女性がピッチャーをしてはいけないとでも?」
「だってそれだと本気で打ち返せないじゃない!」
「ええ、まぁそれが狙いですから。ざまぁみろですね、あはははは!」
「何なのこの人!無駄に腹黒い後輩なんて、絶滅してしまえー!!」


盛大に悔しがるが心の底から愉快で、アレンはとびっきりの笑顔になった。
そしてメイドに、の消してしまったボールの代わりにすぐさま用意された新しいそれを手渡す。


「あの人凶暴ですけど、貴方に危害を加えるようなことは絶対しませんから。安心して投げてくださいね」
「は、はい……!」
「がんばって」


優しくそう告げて、アレンは自分の守備位置へと戻っていった。
メイドはぽーっとそれを見送って、それからへと向き直る。


「よ、よろしくお願いします……!」
「……っ、くそぅ!可愛いなぁ、よろしくねっ」


おずおずと頭を下げる可憐なメイドの姿に、は怒っているのか笑っているのか、よくわからない表情になった。
アレンは思わずグローブで口元を隠す。


「笑うな、そこ!」
「嫌だなぁ、笑ってなんかいませんよ……ププッ」
「笑ってるじゃない!そんなことなら盛大に笑えー!!」
「そうですか、じゃあ遠慮なく。あははははははははは!!」


お腹を抱えて笑うアレンに、は怒りのあまり涙ぐんだ。
それがまたアレンのツボにくるのか、彼はとうとう地面に座り込んだ。


「ふっ、ふふふふふふ……!これで僕の勝ちは決定ですね!!」


よっぽどに勝てるのが嬉しいらしく、アレンは見たこともないような無邪気さで笑い続ける。
ぶるぶる震えているその姿を睨みつけて、はバッドをかまえた。


「ふん、だ!腹黒魔王なんかに誰が負けるもんか!!」


目線で促されて、メイドは恐る恐るといった風にボールを投げた。
当然それはたいしたスピードも出ず、の打ち返せない球ではなかったのだが。
バッドを思い切り振り抜こうとしたところで、メイドがびくりと身を縮こませた。
自分のほうにボールが返ってくるのだと思ったのだろう、瞳に驚きの色が浮かぶ。


それを目の当たりにしたは、思わず空振りをしてしまった。


「あー!何て威力なの!?はまってる、はまってるよ後輩くんの罠に!!」


そのまま打ち返せば無駄にメイドを怖がらせることになってしまうから、はもうどうしようもなくて頭をかかえた。
が今にも泣き出しそうな顔で見つめてくるから、メイドは戸惑ってアレンを振り返る。
そんな彼女にアレンはぐっと親指を立ててみせた。


「いい感じですよ。そのままばんばん行きましょう!」
「うわぁん!」


は泣き叫びながら第二球目も空振った。
これで残すところ、あと一球。
ルールなんてものはあるようでまったくないから、次にが打てれば彼女の勝ち、打てなければアレンの勝ちだ。
その場の雰囲気でそう決まっていた。


「なぁもうこれ野球じゃねぇよ。ルール無視しすぎだよ」
「リオン。あの未確認生物と付き合っていくには、諦めと開き直りが肝心ですよ」


嫌そうにぼやくリオンに、アレンは悟りきった顔でそう告げた。
口調は穏やかだが、なんだか雰囲気が怖い。
リオンはアレンの完璧な笑顔を斜めに見上げた後、ぼそりと呟く。


「ある意味、アイツよりお前のほうが厄介だよな……」
「リオン。その発言は非常に不愉快なので今すぐ訂正してください」
「………………」
「訂正してください」
「………………ごめんなさい」
「いいえ」


にこりと首を傾けるアレンに、リオンはこの世で本当に恐ろしいものが何なのか、少しわかりかけた気がした。


そしてついに。
アレンとの運命をのせた最後の一球が、メイドの手から放たれた。
それはへろへろと情けない軌跡を描いて、に向かって飛んでいく。
彼女は苦しそうな表情で、ぐっと息を詰めた。


(勝った!)


勝利を感じてアレンは拳を固く握った。
手放しで喜ぼうと腕を振り上げる。


その瞬間。
の花色の唇が笑みを刻んだ。


カンッ!


「なっ!?」


アレンは目を見張った。
はバッドに軽くボールを当てると、そのまま全力でホームベースに向けて駆け出したのだ。
まさかこんな土壇場でルールを守ってくるとは思っていなかったから、アレンは強く歯噛みした。
ボールはころころとグラウンドを転がっていく。


「リオン!」


アレンは叫んだ。
はもう一塁を踏んでいる。
ボールの一番近くにいたリオンは、アレンの声に咄嗟に動いていた。
グローブで素早く球を拾う。
その間には二塁を通過。


「こっちです!!」


三塁に立って声を張るアレンに、リオンは腕を振りかぶった。
しかしアレンの背後を駆け抜ける金髪に、思わず手元が狂った。
後は本塁に戻るだけのが高らかに言う。


「はっはっはっはっはー!正義は必ず勝つ!ざまぁみろ後輩めー……ぎゃあっ」


唐突にが悲鳴をあげた。
リオンの投げた球が、めちゃくちゃに投球したからだろうか、見事にの頭にぶち当たったのだ。
スコーン!といい音が響き、は痛みのあまりその場にうずくまった。


「いいいいいいいいいい痛ったー!!」
「え、あ!ごめん!大丈夫か!?」


リオンは自分のしてしまったことに驚いて、思わずに駆け寄ろうとした。
しかしそれよりも早く、ボールをのせたグローブが彼女の頭をぽんっと叩く。


「アウト」


見上げるとそこにはアレンが立っていた。
は痛いのか何なのかわからない涙をぼろぼろ流して訴える。


「あああああああああああアウトってそんな容赦ない……!」
「君相手に使用する容赦なんて、この世にはありませんよ」


柔らかくそう言って、アレンはの傍に膝をついた。
そして妙に憂いを帯びた表情でその金の頭を撫でてやった。


「あぁ本当に可哀想に。大丈夫ですか?」
「口が笑ってる!ものすっごい笑ってるよ!!」
「お望みなら抱きしめてあげますよ、それくらい今の僕は寛大です」
「そんなに私に勝ったことがうれしいの!?」
「何言ってるんですか当たり前でしょう!しかも君が可哀想な目にあってくれたので猛烈に喜ばしい気分です!!」
「黒い!ここに激しく黒い生物がいるよ!!」
「もう本当にありがとう!!」


アレンは真剣に嬉しかったので、問答無用でを抱きしめた。
彼女は奇声をあげて盛大に抵抗したが、アレンは遠慮なく無視した。
を無理に立ち上がらせて、抱きしめたまま背を叩く。


「はちゃめちゃで腹が立つですけど、可哀想な目にあっている君のことが僕は大好きみたいです!」
「そんな好かれ方したくないよ!」
「あぁやっと勝てた!今までだって別に負けてませんでしたけど!やっと!!」
「いいから離せー!」


全力でもがくをアレンは唐突に解放した。
あまりに唐突だったのでは地面に尻餅をついたが、アレンはその時すでにリオンの手を握っていた。
ぶんぶんと激しく上下に振る。


「ありがとうリオン!ここまで僕が圧勝できたのは君のおかげです!!」
「え、いや、はぁ」
「ナイスプレーです!君なら全国も夢じゃありませんよ!!」
「それは……、どうも」
「何お礼なんて言ってんのコラー!」


ゆるく頷くリオンに、が拳を振り上げて怒鳴った。
しかし額に赤くくっきりとボールの跡が残っているので、その姿は何とも情けない。
リオンは涙目になっていると、とびっきりの笑顔を浮かべたアレンを交互に眺めて、そして、


「……っ、はは!」


こらえきれなくなったかのように吹き出した。


「あははっ、本当に何なんだお前ら!馬鹿すぎる!」


一度タガが外れてしまえば、今までのことが全て思い出されたのか、リオンの笑い声は止まらない。
その様子に使用人たちは唖然としていたが、当のアレンとは同時に声をあげた。


「やめてよ、そんな!」
「変な言いがかりをつけないでください!」
「どこをどう見たらそういう結論になるのかなぁ!」
「心底不思議ですね!」
「とにかく何が言いたいのかというと!」
「それは、つまり!」


「「馬鹿はこの人だけってこと!!」」


その息のぴったり合った反論に、リオンはますます声をあげて笑った。

は腹立ちのあまり彼に飛びかかり、アレンはそれを止めようとして、結局三人はもみくちゃになる。
そんな賑やかな様子に他の使用人たちも集まってくる。


最終的には全員が輪になって、大きな声で騒いでいた。
ぎゃーぎゃー言いながらボールを投げて、笑いながら打ち返す。
空振りをしたって、飛ばしすぎたって、何もかもが楽しかった。
アレンは笑っていた。
も笑っていた。


そしてリオンも。


今まで誰も見たこともないような素直さで、声をあげて笑っていた。




















そんなリオンを屋敷の中から見下ろす影があった。
暗い室内。
広くはあったが、応接間やラターニャの自室に比べれば何もないと言っていいほど、殺風景な部屋だった。
あるのは大きな彫刻の机。
そして硝子のランプ。
壁には絵画がかけられていた。
その人物は窓辺に立っていた。
背の高い男だ。
撫で付けた赤い髪は、ところどころ白が混じっている。
仕立てのいい黒い服を身につけ、繊細な縁取りの眼鏡をかけていた。
男はその奥にある青い瞳で、ただ中庭を見下ろす。
窓ガラス越しに見える、リオンの笑顔。
それから男は視線を転じた。
その先には白髪の少年と金髪の少女がいた。
二人を見据える無機質な瞳。
ガラス玉のような、青い双眸。


「エクソシスト……」


呟きは部屋を支配する闇に密やかに溶けて、消えていった。




















リオンはひどく明るい気分で廊下を歩いていた。
こんなに笑ったのは何年ぶりだろう。
一ヶ月前に母を亡くしてからは、微笑んだ記憶すらなかったというのに。
口元が緩んで仕方がない。


あの後、夕食の準備をはじめる時間になり、使用人たちがそれぞれの仕事に戻るまで、中庭での奇妙な騒ぎは続いていた。


最初は無理矢理巻き込まれて、不本意ながらそこにいたリオンだったが、途中から釣られるようにして笑っていた。
例の客人たちがやらかす、あまりにも常識を逸した行動。
それらには驚くばかり、愉快なばかりだった。
加えて彼らはとても楽しそうに笑うから、いつの間にかこちらまで笑顔になってしまう。


リオンはそうして今も微笑を浮かべていたが、進路方向から人の話す声が聞こえてきたので、思わず口元を隠して足を止めた。
声は廊下の先、曲がった角の向こうからだ。


「それにしても驚いたな」
「ええ。楽しいお客人たちですね」
「聖職者だっていうからもっと辛気くさいのを想像していたのだけど」
「まさかあんなに若くて綺麗な方々とはねぇ」


くすくすと楽しげな笑い声が響いている。
どうやら使用人たちが廊下で足を止めて、談笑をしているようだ。
話題は当然のように、例の客人たちのこと。
リオンはそれを聞いてさらに唇を緩めた。
あっちでもこっちでも話題にされてやがる。
だがその笑みも、次に聞こえてきた声に固まった。


「しかし、もっと驚いたのはリオン様だよな」
「私、リオン様があんなに楽しそうになさっているのを初めて見ましたわ」
「俺もだよ」
「いつもは仏帳面ばかりですものね」


リオンは顔をしかめた。
何とも居心地の悪い話題になったものだ。
ずっとアイツらの話をしていてくれたら面白かったのに。
リオンは苦々しく思って、それでも頬を赤くした。
使用人たちの声から好意が感じ取れたからだ。


「でも、リオン様って笑った顔はとても可愛くて」
「そうそう!話してみると、意外と感じも良かったし」
「今度はもう少し、お話してみたいものだなぁ」
「お菓子を持ってお部屋を訪ねてみましょうか」
「ラターニャ様の居ぬ間にこっそりね」


そう言って使用人たちは一斉に笑った。
リオンはその時には、背を向けて駆け出していた。
顔が熱くて仕方ない。
おかしな話だ。
普段の自分なら、使用人たちにあんなことを言われたら、本気で憤慨しているところだ。
なのにどうして。
初めてこの屋敷で居場所が出来たみたいに、嬉しいのだろう。
妾の子、不義の子と蔑まれて。
それでも、もしかしたら。
他人と関わる方法はあるのかもしれない。
この屋敷で、自分は暮らしていけるのかもしれない。
これからも。



リオンには疑念があった。
昔から正妻の子ではない、とラターニャにきつく当たられ、存在を嫌悪されてきた。
それでもまだ、その時には母がいた。
優しく抱きしめられて、愛されていると感じることができた。
母がいるから、自分はこの家にいるのだと。
この屋敷にいられるのだと。
そう思っていた。
しかし、母は死んだ。
リオンがこの家にいる意味は、この屋敷にいられる理由は無くなったのだ。
父と血が繋がっているからといって、それが何になるのだろう。
血縁などどこまでも脆い絆だ。
蔑みや疎みに耐える続ける希望は、もうなかった。
リオンはどこまでも孤独になったのだ。
皆の冷たい視線が、哀れむ態度がそう告げていた。
いつ追い出されるのか不安だった。
いつ突き放されるのか怖かった。
『お前なんかいらない』と、言われるのが恐ろしかった。
だったら自分から出て行ってやる。
何もかもに反発して、嫌われても仕方ないようにしてやる。
今までよりも、もっともっと。
だってそれを望んだのは自分だ。
だから本当にその時が来たときに、傷つかなくてもすむように。
全部全部憎んで、母の愛した父すら拒絶して、自分を捨てるこんな家なんてなくなってしまえと。
そう思っていた。
そう思おうとしていたのだ。

でも、もしかしたら、いいのかもしれない。
ここにいてもいいのかもしれない。
正妻の子ではないと、嫡子ではないと、永遠に言われ続けるだろう。
それでも、ただ自分という存在を認めてくれる人間は、母の他にもいるのかもしれない。
だって記憶の中で声が言うんだ。


『どんな心を信じるのか、誰の言葉を否定するのか、そんなの決められるのは自分だけなんだよ』


だったら俺が決めてもいい?
望む言葉と、信じたい心。
追い出されたくない。
突き放されたくない。


父様、どうか『お前なんかいらない』って言わないで。


けれど父は自分を愛してはいないかもしれない。


『人の心を決め付けるのはよくありませんよ。大切のことを見失ってしまう』


だったら俺は見失いたくない。
本当のことが知りたい。
決め付けて、ふてくされるのはもうやめだ。


『君まで自分を否定する気?』


誰もみんな、俺を決め付けるな。
俺はもう自分を否定したくないんだ。
そのために俺も、俺を縛るのはやめるよ。
だから。



リオンは大きく息をついた。
目の前の扉を見上げる。
それは、父の執務室に通じる扉だった。
樫で出来たそれは、大きく威圧感に溢れている。
この部屋を訪れるのは一ヶ月ぶりだった。
それこそ母が死んだとき以来だ。
それでもリオンはそこにいた。
確かめたいと思った。
自分の居場所を。
信じてみたいと思った。
自分の愛を。

リオンは震える息を呑み込んだ。
心の中の、明るい笑顔と優しい声が背中を押す。
素直になることを思い出させてくれた今日の記憶を胸に、リオンは扉に手を伸ばした。


その時だった。


「いい加減にしてください、お兄様!!」


甲高い怒声が、部屋の中から響いてきた。
リオンはびくりと肩を震わせた。
細く開いた扉の隙間から、そっと室内を窺う。
そこには執務机に腰掛けた父と、床に立ったラターニャが向かい合っていた。


「どうしてあんな横暴を認めているのです!いくらローマ教皇直属の軍事機関だからといって、我が家の家宝を奪っていく権利などありませんわ!」
「………………」
「だいたいあのような子供が使者だなんて!美しいかと思えば礼儀がないし、従順かと思えば生意気で!!本当に……っ」


ラターニャは何かを思い出すように顔をしかめて、唇に指を添えた。
その赤い紅はひどく歪んでいた。
父――――――フロイド・ベルネスはそんな妹の姿を、どこか疲れた瞳で眺めている。


「ラターニャ……」
「とにかく許せません!あんな者たちに大切な『破魔の短剣』を渡すだなんて、私は絶対に許せませんわ!」
「馬鹿なことを言うものではないよ、ラターニャ。確かに、私は今までこの件をお前に任せていたが」


公爵である父は他の仕事に追われていて、あの家宝が『イノセンス』とかいうものだと判明したあと、それに
関する全てをラターニャに一任していたのだ。
もとよりこの家の財政を取り仕切る彼女だ。
それは当然の流れだった。


「しかし、こちらの要望に応えてあれを引き取りにきたのなら、もう『黒の教団』の決定を覆すことは出来ない」
「どうして……っ」
「彼らも本気だということだ。お前が子供だといったあの二人は、神の使徒と呼ばれるエクソシストだよ。“アクマ”という化け物を破壊するためだけに存在する、異能者だ。そんな彼らがここに来たということは、それだけあの短剣が危険なものだということだろう」


フロイドは疲労のこもった吐息をついて、片手で顔を覆った。


「『黒の教団』は何があっても任務を遂行する気なのだ。どう足掻いても、お前の手元には残らない」
「そんな……っ」
「諦めなさい……」


静かに呟くフロイドの声に、ラターニャは沈黙した。
その肩は微かに震えていて、扉の隙間から覗くリオンにまで、その怒りは伝わってきた。
しかしそれは、家宝を手放すことだけに対するものではなかったようだ。


「お兄様はいつもそうよ……!」


呻るようにしてラターニャが言った。


「いつもそう……、そうやって何もかも曖昧にして、態度に示さないで、流されるだけ!そんなことでよく公爵が務まりますわね!!」
「ラターニャ」


フロイドが呼んだが、ラターニャはその長く赤い髪を振った。
燃える青い瞳が、兄を睨みつける。


「リオンのことにしてもそうです!いつまであんな下賤の血を引く者を手元においておくつもりですか!?身元もはっきりしない異国人を連れ込んで、妾にして、子供までおつくりになって!この家はお兄様ひとりのものじゃありませんのよ!!」
「やめなさい、ラターニャ……」
「いいえ、やめません!私に家宝を諦めろというのなら、お兄様もリオンをお諦めになってください!」


今まで何もかも思い通りに生きてきた彼女は、自らの欲求の通らなかったとき、驚くほど強情になる。
それはリオンも、兄であるフロイドも承知のことだった。


「私にわがままを言うなとおっしゃるのなら、お兄様もいい加減、わがままはおやめになって!」
「……前々から言っていたね。そう、リオンを手放せと」
「ええ。そして今すぐそれを承諾してください」
「………………」
「お兄様!」


甲高い声でラターニャが叫んだ。
リオンは扉の前で硬直していた。
どうしても動くことができなかった。
そんなリオンの目の前で、フロイドは重く長いため息をついた。
両手で顔を覆って、机に肘をつく。
そうした後、彼はラターニャを見つめた。


「……わかった。お前の言う通りにしよう」


何かが。
リオンの中で崩れた。
一瞬にして、砕け散った。
ただ音となった父の声が、リオンを殺した。


「いつかは手放そうと思っていた子だ。早いほうがいいのかもしれない」
「そうです。ようやくお分かりになりましたか」


いかにもせいせいしたという調子でラターニャは笑った。
少し気も晴れたのだろう、赤い唇が三日月のようだった。
フロイドはどこか虚ろな瞳で虚空を見つめた。
リオンは逃げ出したかった。
それでも足が動かなかった。


「そう……。どうせ」


フロイドの唇が動く。
嫌だ。
やめろ。


聞きたくない!




「愛してなどいないのだから」




それを耳が捉えた瞬間、リオンは弾かれるようにして扉から離れていた。
全身が震えて仕方がない。
他に何も思いつかなかった。
リオンはめちゃくちゃに駆け出した。
まるで昼間と同じように。
アクマから逃げるように。
息が出来なかった。
苦しい。
それは全力で走っているせいだろうか。
胸の鼓動が恐ろしかった。
早すぎて気持ち悪かった。

まだ動いていることが、不気味だった。

自分の心はさっき殺されたというのに。
どうしてどうしてどうして、俺はまだ生きている?


わからない!


リオンはきつく目を閉じた。
その途端、何かと衝突した。
弾き飛ばされて、リオンは廊下に倒れこんだ。


「すみません、大丈夫ですか!?」


聞き覚えのある声にハッと顔をあげると、そこにはアレンが立っていた。
彼は慌てたようにリオンに近づいて、その掌を差し出した。


「ごめんね、少し余所見をしていたから」


そんなはずはない。
もしそうだとしても、前を見ずに突っ込んでいったのはリオンの方だ。
それなのにどうしてこの人は優しく笑って、手を差し伸べるのだろう。


「リオン?」


呆然と見上げていると、アレンは不思議そうに瞬いた。
リオンはその顔を見つめて呟いた。
ほとんど無意識のことだった。


「…………あいつは?」
「え?」
「あいつは一緒じゃないのか」


アレンは少し目を見張ったが、すぐに頷いた。


ならお風呂を貸してもらってますよ。メイドさんたちにお世話されて、嬉しいのか嫌なのか微妙な顔をしてました」
「………………そう」


呆れるアレンの顔に少し笑みのようなものを見つけて、リオンは視線を落とした。
先刻までは明るく暖かかったそれを見ても、今は心が冷たくて、何も感じることが出来なかった。


「よかった」
「……リオン?」


リオンは差し出されたアレンの手を取らずに、壁にすがって立ち上がった。
体はもう震えてはいなかった。
ただ麻痺をしたように、自分のものではないようだった。


「よかった。今はあいつに会いたくなかった」
「え……?」
「あいつの眼は怖いから」


考えもせずにそう言うと、アレンが瞳を見開いた。
リオンは遠くを眺めて、思いを馳せる。
記憶の中のの双眸。


「あの金の瞳が俺は怖い」


それからゆらりと顔を動かして、アレンを見上げた。
彼は驚いた顔をしていたけれど、それでもその雰囲気はやはり穏やかなものだったから、リオンは笑った。
暗くゆるい笑みだった。



「あいつの眼は、お前の優しさといっしょだよ」



今度こそ、アレンは驚きに息を呑んだようだった。
だけどリオンは構わなかった。
そんなことはどうでもよかった。
心はもう死んでいたから、何もかもがどうでもよかった。


ただの金の瞳と、アレンの優しさが怖かった。


リオンはもう何も言わずに、何も視界に入れずに、アレンの傍をすり抜けた。
宙に浮いているような感覚だった。
踏みしめた床も感じない。
何も、感じない。


リオンは暗い廊下を歩き去った。


残されたアレンはただ呟く。


「リオン……?」


闇に消えていく少年の背は、孤独ではなかった。
そこには確かに寄り添うものがあった。



それは暗く冷たい、黒だった。








いきなり野球大会の話です。
野球ファンの方に真剣に怒られそうなぐらい豪快にルール無視ですみません。(汗)
私自身があまりスポーツに詳しくなくて……!申し訳ないことです。
そして前半とうって変わって、後半のこの暗さ!
重いテーマは書きごたえがあるぶん、ないがしろには出来ないので大変です。がんばります。
次回は最後のあたりからちょっと痛い表現が入ってきます。ご注意くださいませ。