本当はわかっていた。
ただ信じたかっただけなんだ。
もう一度だけ、愛して欲しかっただけなんだ。
● 永遠の箱庭 EPISODE 7 ●
満月の夜だった。
薄い闇色の雲がそれを遮り、風が流れてはまた光が零れ出す。
照明を全て消した室内で、月光だけを頼りにアレンは上着に腕を通していた。
静かな空間に衣擦れの音だけが響く。
時刻はもう遅い。
屋敷全体が眠りについたような静寂の中で、アレンは胸元にリボンタイを結ぶと、ベッドの上に夜着を置いた。
きちんと畳まれたそれのかわりに、団服であるコートを手に取る。
ばさりと羽織って扉に向かう。
ティムキャンピーがついて来て、フードの中にその体を潜り込ませた。
アレンはそれに少し微笑んで、部屋を後にした。
さすが公爵家と言うべきだろうか、貸し与えられた部屋は広すぎて、どうにも寒々しい雰囲気があった。
加えてアレンには心に引っかかることがあったので、いよいよ眠れるはずがなく、こうして起きだしたしだいである。
けれど、どうしたものだろう。
真夜中に他人様の家を歩き回るわけにもいかない。
イノセンスを寝ずに見張ってい探索隊の手伝いでもしよう、と思ってアレンはそちらに足を向けた。
しかし、ふと歩みを止める。
後ろを振り返る。
気配はない。
でも何故だろう、アレンにはわかった。
アレンは早足で近づくと、廊下の角に手をかけて、そこから顔を突き出した。
「うわっ」
突然現れたアレンに、そこに身を潜めていた人物が悲鳴をあげた。
壁に張り付いてしゃがみこんでいたらしく、驚いた拍子に尻餅をついている。
アレンは半眼でそれを見下ろした。
「何やってるんですか」
「こ、後輩くんこそ何やってるの!びっくりするじゃない!」
ばくばくしている胸を押さえてが言った。
ちょっと本気で驚いたらしい。
なるほど不意打ちには弱いのか、などと重要な情報を心のメモに書きつけながら、アレンは訊いた。
「それで、はこんな夜中に、そんなところで、何を怪しいことをしてるんです?」
言いながらよくよく見てみると、はアレンと同じように団服を纏っていた。
しかもその上にコートを着込んで、マフラーまで巻いている。
確かに夜の廊下は冷えるが、眠れないからちょっと散歩でもしようかな、といった様子にはどうにも見えなかった。
は驚いた拍子に床に落としてしまったものを、慌てたように拾い上げていた。
「べ、別に?何でもないよ。てゆーか怪しい言うな」
「いや、怪しいでしょう。怪しすぎます。夜の廊下に座り込んで、パンとコーヒーを片手にしてる人物なんて」
アレンはの傍にしゃがみ込んで、彼女が拾い上げた食べかけのパンを奪い取った。
それから顔をしかめた。
「しかもアンパン……」
「な、何よ。おいしいんだよ!?」
「それはそうでしょうけど、何でアンパン……。ここはイギリスですよ?」
「食べたいなーって言ったら、コック長のラウリーさんが本で調べて作ってくれたの」
「……………………それは、また。さすが老若男女殺しですね」
「ありがとうラウリーさん!きっと貴方の優しさは反抗期の娘、エリザちゃんにも通じるよ!!」
「ああ、本当にそうなればいいですね。僕は今、君と言葉が通じることを切に祈ってますが」
アレンは呆れた表情でそう言って、アンパンをに差し出した。
はそれをぱくりと食べて、微笑む。
その顔があまりにも幸せそうだったので、アレンもアンパンを頬張った。
うん、確かにおいしい。
「はい、コーヒー」
「ああ、ありがとう」
普通にカップを差し出されたのでアレンは普通に受け取ってしまったが、よく考えるとおかしな状況だ。
夜の廊下で座り込んで、お茶会みたいなことをしているだなんて。
しかもここは他人様の家だったりする。
アレンはもう一口アンパンをかじった。
「魔法瓶にコーヒーですか。ますます徹底してますね」
「でしょ?」
は自信たっぷりに胸を張った。
「やっぱり張り込みにはアンパンとコーヒー!これがないとね」
「へぇ、張り込み。一晩中?」
「もちろん」
「何を?」
「そんなの後輩くんに決まって……」
そこまで言って、はようやく自分の失敗に気がついたようだった。
慌てて口を塞ぐがもう遅い。
アレンはコーヒーを一口飲んで、それから言った。
「ふーん。僕を見張ってたんですか」
「ち、違……っ」
「今さら誤魔化そうとしたって無駄ですよ。さぁ、口を割りましょうね」
アレンは満面の笑みを浮かべてに迫った。
は逃げようとしたが、赤い左手がそれを許さなかった。
ガッシリと腕を掴まれて、はアレンを睨みつけた。
「……っ、誘導尋問とはなんて卑怯な!」
「引っかかるのは君くらいですよ。それよりどうして僕を見張ってたんです」
「……………………」
「あぁ、何だか急に断末魔の悲鳴が聞きたくなりま」「スミマセンごめんなさい言います言います言えばいいんだろこの腹黒め言わせてくださいぃーーーーーーーーー!!!」
どす黒い笑顔で脅しにかかったアレンに、それこそは断末魔の悲鳴のように叫んだ。
涙目でとにかく目の前の魔王から逃れるために言う。
「つまり、そのですね!またラターニャさんが何か仕掛けてくるんじゃないかと思いましてっ」
「……………ラターニャさん?」
「だって夜とか危ないじゃない、戸締りしたって向こうは合鍵もってるわけだし、こういうことの相場は真夜中だって決まってるんだよ、だってラビがそう言ってた!!」
アレンの手を引き剥がそうと腕をぶんぶん振り回しながら、はヤケになったように続ける。
「だってあんたって私以外には優しいじゃない、危険だよとてつもなく危険だよ、ここは先輩の出番でしょ、任せろどんなにムカつく後輩でも守ってあげる!!」
「………………………」
「うわぁ何か怖いよこの沈黙が怖いよ、ごめんなさい許してください、正直に白状したんで離してください!!」
は必死にそう頼んだが、アレンは応じなかった。
それどころか、ますます力を込めて捕まえられる。
どうあがいても逃げられないと悟ったは、そろそろ十字をきろうか、それともお経を唱えるべきか、迷い始めていた。
「あぁこういう時って困るよね、無宗教!でもなるべくお花畑な方向に進みた……」
「それは、つまり」
何だか吃驚したような口調で、アレンが言った。
「それはつまり、僕を心配してくれたってことですか?」
「………………………………」
は数回瞬いて、それからアレンを見上げた。
腕を掴まれているから顔が近い。
銀の瞳と金の瞳が、廊下の暗がりの中で真っ直ぐに出合った。
「……心配?」
「そう」
「誰が?」
「君が」
「誰を?」
「僕を」
「……………………………………………………まっさかぁ!」
は奇妙なくらい明るい声でそう言った。
しかしその表情は激しく引き攣った笑顔である。
加えて頬は微かに赤くなっていた。
暗い廊下で、窓からの月明かりの下で、確かな赤みを帯びていた。
「ちがう、ちがう!なんでそうなるかな私は先輩として後輩を守る義務があってね、そう義務だよ!これはやらなければならない使命なんだっ」
「…………パンとコーヒー片手に、寒い廊下で、一晩中見張ることが?」
「うん!使命だから仕方なく!ホントに仕方なくね!!」
そんな使命あるものか。
仕方ないとかいう理由だけで、誰がどうでもいい人間を徹夜してまで守ろうというのだ。
は何だか体を固くして、落ち着かない様子で口走った。
「私があんたを心配してる?ないない、絶対ない!どうして私がそんな奇想天外な感情を抱かないといけないんだ、ただちょっと気になっただけで、大丈夫かなって思っただけで、そんなまさか」
「だからそれを心配してるって……」
「言わない!!!」
アレンが言う前に全力で否定される。
は不覚をとったみたいに赤くなっていて、それがただ照れているのだということに気づいて、アレンは思わず笑ってしまった。
何だかとても愉快な気分だった。
「なに笑ってんの、むかつく!」
は憤然と言って、勢いよくアレンの手を振り払った。
そのまま素早くパンとコーヒーを片付けて、立ち上がる。
大股で歩き出したに、アレンは笑みを含んだ声で訊いた。
「どこに行くんです?」
「ここにいる理由がわからなくなったので帰る!」
「僕の心配でしょう?」
「そんなのありえないから帰るの!ついてこないでよっ」
普通に立ち上がって追いかけてくるアレンにはそう訴えたが、それは即座に却下された。
「別について行ってるわけじゃありませんよ。僕は眠れないから探索隊の皆さんのお手伝いに向かうところなんです」
「じゃあ部屋には戻らない気?」
「ええ」
本当は最初からそうするつもりだったのだが、アレンは言った。
「そのほうが安心でしょう?」
「……何の話よ」
「別に」
「むかつく!何かすごくむかつくな!」
「勝手にむかついててください。それよりどう行けばいいんでしたっけ?」
「あっち!」
アレンが首を傾げて訊くと、は廊下の先を指差した。
けれどアレンはそれを無視した。
「わかりません。連れて行ってください」
「…………」
「さもないと君の大事な後輩が迷子になりますよ」
「…………………なれば?」
「そうですか。そうしたら、うっかり誰かの部屋に迷い込むかもしれないですね」
「……………………………………込めば?」
「もしかしたら、妙なところに連れ込まれるなんてこともあるかもしれません」
「……っ、ねぇ、そろそろ本気で殴ってもいいかな!?」
「何でですか。いいからさっさと案内してください」
アレンはを見つめてにっこりした。
は今度こそ頬を真っ赤にして、その笑顔を睨みつけた。
「私、なんだか今すごーくあんたのこと叩き潰したくなったよ」
「だったら僕はお返しに、そのデタラメな頭を鈍器のような物でかち割ってあげますよ」
いつも通りの会話を交わしながら、アレンは微笑む。
どうせまた、馬鹿なことを考えついて自分を見張っていたと思っていたのに。
そんな本当の理由を知ってしまえば、口元が緩んでしまうではないか。
そう思って笑顔を崩さないアレンに、はくるりと背を向けた。
「もういい、とっとと行くよ!」
「はいはい」
アレンはくすくす笑ってその後に続く。
居心地が悪いのか、はぶっきらぼうな口調になっていた。
「それにしてもよく気づいたね、私があそこにいるって。ちょっと不覚だな。気配消してたのに」
「ものすごく不本意ですが、君のドキツイ気配なら嫌でも読めちゃうんですよ僕は」
「そっかぁ、後輩くんはすごいねぇ!」
は歩きながら怒って肩をいからせた。
そこでアレンは気がついた。
動くたびに妙な形になるそれに。
「」
アレンは名前を呼んで、振り返った彼女の腕を捕まえた。
そのまま手首を掴んで壁に押し付ける。
は目を見開いた。
暗い廊下で、壁との間に体を押し込まれた体勢で、眼前の少年を見上げる。
アレンは覆いかぶさるようにして至近距離に立っていた。
「急に何?」
「…………………」
アレンは答えずを見下ろしている。
はためしに手首をひねってみたが、掴んでくるアレンの手はびくともしなかった。
まさかとは思うけれど、少々引き腰になって瞬く。
「ちょっと……、離して」
アレンはまたそれには答えずに、片手を伸ばした。
その向かう先は、の胸だった。
今度こそ本気で驚いて、は叫ぶ。
「ば……っ、どこ触るつもりだ!そこ胸だよ胸!バスト!!」
さすがにそこはマズイだろう!とは焦ったが、しかしアレンはきょとんと目を見張った。
「胸?ああ、そうか。ここ胸でしたっけ」
「あれー?私の性別、全否定!?」
が本気で怒って暴れ始めたので、アレンはようやく手を引っ込めた。
どうやらこの人にも少しは女の子だという自覚があるようだ。
いくら気になったからって、急に手を伸ばすのはまずかったらしい。
「すみません、ちょっと変だったから」
「悪かったなぁ!これでもラビにナイス乳の認定を受けてるのに、もー」
「そうじゃなくて」
アレンは普通にのそれを見下ろして、言った。
「なんだか胸が異様に膨らんでませんか?」
「……………………」
その瞬間、が冷や汗を浮かべた。
何だか気がつかないでほしかったことに気づかれてしまったよ、といった雰囲気だ。
アレンは思わず半眼になった。
「どういうことです」
「いやぁ、そのー……。こ、こんなのよくあることなんだよ!?」
「そうだとしたら驚くべき身体変化ですね」
「女の二次性徴はすごいんだから!」
「こんな歪な成長があってたまりますか」
アレンは断言して、再びの胸に手を伸ばした。
盛大な悲鳴をあげられたが放っておく。
抵抗を片手で封じて、もう片方の手で彼女の胸元を掴んだ。
そのままぐいっと服を引っ張る。
すると、のコートの裾から何かが大量に落ちてきた。
確認してみるとそれは、色とりどりの宝石やアクセサリー、彫刻の類だった。
どれも美しく、一目で高価であることがわかる。
それらをすべて胸元に押し込んで隠していた馬鹿を、アレンは冷ややかに見つめた。
「これは何ですか」
「……………」
「答えてください」
「……………な、なんだろねぇ。何で私の胸元に押し込まれていたのやら」
「君が押し込んだんでしょう!」
アレンがずばり言ってやると、は開き直ったかのように笑った。
「ふふん、怪盗にかかればこれくらいちょろいもんよ!」
「馬鹿だ!本当に馬鹿だ!ちょっとでも君を見直した僕は大馬鹿者だ!!」
アレンは盛大に嘆いてのコートをめくりあげた。
奇声をあげられたが聞かずにバサバサしてやる。
するとさらに時計だの、絵皿だの、小さな絵画まで転がり出てきた。
ポケットには当然の如く金貨が詰め込まれている。
人の心配をしていたかと思ったら、やっぱりこんな馬鹿をしでかしていやがった。
「何やってるんですか、は!これは立派な犯罪行為ですよ!!」
「い、いいじゃない、ちょっとぐらい!みんなへのお土産にするんだから!ついでに巨乳になってみたかったんだから!!」
「ふざけないでください、この最強馬鹿!謝れ!!今すぐ僕が愉快になるくらい、猛烈な勢いで謝罪してください!!」
「わかったよ、後輩くんにも分け前あげるからさ。だからこのことは二人の秘密ね、ハイ指きりげんまん!」
「勝手に僕を共犯者にするなー!!」
アレンは全力で怒鳴って、絡み付けてくるの小指を容赦なく振り払った。
怒りで顔を真っ赤にして、肩で息をする。
が「落ち着け!」とか言って背をさすってくれるが、ちっとも嬉しくない。
誰のせいだと思っているんだ一体。
アレンは長いため息をついた。
「……いいから後でちゃんと返しに行ってくださいよ」
「ええー?それは怪盗のタブーで……」
「……そんなにお尋ね者になりたいのなら、今すぐモザイクなしじゃ人前に出られない姿にしてあげますが」
「スミマセン返しに行きます、それはもうルンルンで行きます、スキップしながら行ってきますー!!!」
心の底からそうしてやろうかと思いつめてアレンが言うと、は涙目で謝った。
弾かれたように暗黒オーラの傍から飛び退く。
アレンの手が届かないところまで離れると、彼女はうめいた。
「何なの、もう。ちょっとした冗談じゃない!本気でドロボウなんてすると思う!?」
「君ならやりかねません。それに存在自体が冗談みたいなくせに、これ以上ややこしいことをしないでください」
「何だとー!?」
「今度僕の心に妙な衝撃を喰らわせたら、ただじゃすませませんよ」
アレンは左手をわらわらさせながら、超低音でそう告げた。
据わった目で睨みつけてやると、が眉を寄せる。
何故だかそれは、少し辛そうにも見えた。
「あんたってホントに私のこと嫌いだよね」
「…………はい?」
いきなりそう言われたので、アレンは目を見張った。
はもう口を開かずに、再び背を向けて歩き出した。
アレンは妙に焦ってそれを追う。
何を焦っているのかは、よくわからなかった。
「、待ってください。今の……」
「大丈夫、私もあんたのこと好きじゃないから」
「…………何ですか、それ」
「悪いけど、嫌われてる相手に好意を示せるほど大人じゃないの」
「それは知ってますけど」
「その上、平気なフリも出来ないそのまんまの人間なんだ。ごめんね」
「待って、だから僕は……」
「そういえば、後輩くんってちょっとリオンと似てるよね」
またもや唐突に言われて、アレンは瞠目した。
頼むから少しは前フリが欲しい。
は時々、脈絡がなさすぎて困る。
それに言っていることの意味がわからない。
リオンと自分が似ている?
それには、誰に訊いても似ていないと言われる自信が、アレンにはあった。
眉をひそめたアレンには独り言のように呟いた。
「二人とも、本当の自分をさらけ出すのが苦手なんだよね」
アレンは思わず足を止めた。
その様子に気がついて、は振り返った。
薄い闇の中で、金の瞳が光る。
その輝きは真っ直ぐアレンを見つめていた。
「あの子は反発、あんたは笑顔」
「…………」
「それでどこにも心をあずけようとはしないんだ」
アレンはリオンの言葉を思い出していた。
怖い、と感じていた。
の瞳。
あまりにも真っ直ぐだから、この人の前でなら嘘をつけないじゃないかと思う。
これと自分の優しさが同じだって?
こんなにも強く、純粋なものと?
は吐息のような笑みを浮かべた。
「まぁ、こんな言葉じゃ片付かないだろうけどね」
窓からの月光を浴びて、彼女はいつもよりも金に輝いているようだった。
「そこには理由も過程もあって、それが悪かったとか良かったとか、本人にしかわからないことだし」
「……………」
「こころの問題だから」
「…………………僕のことは」
がまた前を向いて歩き出したから、アレンはようやく口を開いた。
「僕のことは置いておいて……、リオンのことは気になりますよね」
「思いっきりひねくれちゃってるからねー」
「それもあるんですけど」
アレンはに続いて廊下の角を曲がりながら言った。
「さっき会ったとき、なんだか様子がおかしかった……」
しかしそれは最後まで声にならなかった。
先を歩いていたの体が一瞬にして緊張した。
そしてアレンが目の前の異常を確認するのと、彼女がそこに駆け出すのは同時だった。
「ちょっと!何が……っ」
視線の先にはイノセンスが安置されている部屋。
その扉の前。
そこで見張りをしていたはずの探索隊達が、全員床に倒れ伏していた。
駆け寄ったが彼らの傍に膝をつく。
そして助け起こそうと手をかけたが、少女一人の力では無理だった。
同じように駆け寄ったアレンが、すぐさま手を貸す。
「大丈夫ですか!?」
「しっかりして!何があったの!?」
一人の探索隊を揺さぶったが、何の反応もなかった。
慌てて手首を探る。
脈はあった。息も正常だ。
アレンとはホッと息をついた後、困惑の視線を交し合った。
「これは……、アクマの仕業じゃありませんよね」
「間違いなく違うと思うよ。やつらはこんな回りくどいことをしない」
もしアクマの仕業ならば、探索隊たちは容赦なく殺されていただろう。
は男性に顔を近づけて、すぐさま離れた。
手で鼻を覆う。
「薬の匂いがする。これは……眠り薬?」
アレンは立ち上がって、イノセンスが安置されている部屋の扉に手を伸ばした。
当然ながら鍵がかかっている。
中にいるはずの探索隊たちに開けるように訴えたが、返事はなかった。
アレンはノブに手をかけたまま、焦りに強く扉板を殴る。
「くそっ」
「どいて!」
強く言われてアレンは咄嗟にそれに従った。
脇に避けた瞬間、視界の中で金髪が踊る。
のしなやかな足が見事に扉を蹴り破いた。
板と金具が弾け飛んで激しい音が響いたが、今は緊急事態である。
本来ならば「また人様の家の物を破壊して!」と怒る場面だが、そんなのは後回しだ。
の着地と同時にアレンは室内へと駆け込んだ。
そして袖口で口元を覆った。
部屋の中に妙なガスが充満していたからだ。
「これは……」
「吸わないで。たぶん催眠ガスだよ。外の探索隊の人たちもこれにやられたんだ」
同じように口元を覆ったが、苦し気に言う。
廊下のほうは広くどこまでも続いているためすぐに霧散したのだろうが、密室とあってはそうはいかない。
こもったままそこに立ちこめる煙に、感覚が刺激される。
その不快さにアレンが眉をひそめた時、足元で呻き声がした。
ハッとして見下ろしてみると、そこには一人の探索隊が倒れていた。
彼は必死に意識を失うまいともがいていた。
「エ……、エクソシスト様……」
「大丈夫ですか!?一体何が……」
助け起こすアレンの腕を掴んで、探索隊の男性は顔を歪めた。
「も……、申し訳ありません……。イノセンスが……」
「持ち出したのは一体だれ?」
が静かな口調で訊いた。
彼女は机に手を置いて、その上をそっと撫でた。
そこに安置されていたはずのイノセンスが、消えている。
解除された結界装置だけが、護るべきものを失って、ただ寂し気に存在していた。
「と、突然、室内に妙なガスが噴きこんできて……。アクマの襲撃かとパニックになった新人がイノセンスを持って逃げようと解除コードを……、申し訳ございません……っ」
「………後悔は後で一緒によ。それより教えて」
は男性の傍に身を寄せて、ガスのせいで喋りづらくなっている彼の口元に顔を近づけて、尋ねた。
ひどく真剣な表情だった。
「こんなバカをしでかしたのは一体だれ?ラターニャさん?」
「い、いいえ……」
探索隊の男性は朦朧とした瞳で、それでも必死に言った。
「リオン様です……」
「「!?」」
その名を聞いた瞬間、アレンとは驚愕に息を呑んだ。
探索隊の男性は力尽きたようにガクリと意識を失った。
は弾かれたかのように立ち上がる。
そして室内にひとつだけある窓に駆け寄った。
案の定、それは施錠されていなかった。
扉の鍵は内側からかけられていたのだから、他に出入りできるところはそこしかなかった。
「雪の上に子供の足跡が残ってる……」
窓から庭園を見下ろして呟くの声を聞きながら、アレンは探索隊の男性をそっと床に横たわらせた。
「じゃあ、本当にリオンが……?」
「あのバカガキ……!」
は低く呟くと、力任せに窓をぶち開けた。
枠に手をかけて一気に飛び降りる。
間髪入れずに、アレンもそれを追った。
夜の庭園はひどく冷え込んでいた。
凍える空気に、月まで氷のような蒼さだ。
覆い茂る木々が闇をさらに深い黒へと染めている。
アレンとは森の中を人間離れした速度で疾走していた。
辿るのは雪の上に残された、小さな足跡。
「ああもう!走りにくいっ」
苛立った声でが怒鳴った。
積もった雪に足を取られて、思うように駆けられないのだ。
加えて公爵家の庭園は広大すぎた。
「どうしてこうも無駄に広いんだ!維持費もかかるし、意味もないし、不経済極まりないのに!!」
「文句を言ってもはじまりませんよ」
「わかってるけど……!」
うめくの表情は焦りに染まっている。
リオンの行動に戸惑いが隠せないのだ。
確かに彼はイノセンスを持ち出して、どうにかしようとした前科がある。
しかし夕方の様子から見て、もうそんな馬鹿なことはしないと思っていたのに。
アレンはをなだめたものの、自分も強く唇を噛んだ。
「どうしてこんな……。そもそもどこから催眠ガスなんて」
「こういう屋敷には専属のお医者さんがいるから、薬には事欠かないんだよ」
駆けながら、が苦々しく言う。
「それにリオンのお母さんは最近に亡くなっている。どんな病気だったのかは知らないけれど、薬の使い方を
直に見る機会があったのかもしれない」
推測の域をでないけどね、と付け足すにアレンは目を伏せた。
胸の内がひどく揺れていた。
嫌な予感がする。
も感じているであろう焦燥の他に、アレンには不安があった。
それは心を塞ぐ、一種の恐怖。
「急ぎましょう、」
「え?」
「リオンが心配です。あの子は今、何をするかわからない」
顔を歪めて呟くアレンに、は真剣な瞳を向けた。
「……どういうこと?」
「様子がおかしかったんです。最後に会ったとき」
言いながら思い出す。
リオンの纏う、闇にも似た気配。
暗い光を宿した瞳。
重くよどんだ、その表情。
おぼつかない足取りで去っていった少年を、無理にでも引き止めればよかったんだ。
僕が。
アレンはきつく拳を握った。
「何だか嫌な予感がするんだ。早くリオンを見つけてやらないと……!」
「……わかった」
は静かに頷いた。
アレンは彼女もそうするのだろうと思って走るスピードをあげたが、やはり雪が邪魔して思うようにならない。
そしてはそのままの速度で言った。
「私が捕まえてくる。悪いけど、先に行くね」
「はい?」
何を言い出したのかと目を見張ったアレンの眼前で、は雪が弾け散るほどの踏切をつけて、跳躍した。
地上から高く浮き上がったその靴裏で、黒い光が瞬く。
それは闇の中でも見通せるほどの強さで輝き、そして爆発を引き起こした。
「な……っ」
言葉を失ったアレンの視線の先に、もうの姿はなかった。
イノセンスの能力を使って爆砕した大気。
その激しい流れに乗って、は目にも止まらぬ速さで駆け出したのだ。
いや、正確には跳んでいるのだ。
彼女が足場にする地面や木の幹が、ことごとく穿たれていく。
その激しくえぐられた後だけが、がそこを通過したのだという証だった。
後ろ姿さえも視界には捕えられず、着地から次の跳躍までに引き起こされる爆発音だけが響いていった。
一瞬にして遠ざかったその破壊音とあまりの衝撃へこんだ地面、倒れていく木々を見て、アレンは思わず呟いた。
「なんてはた迷惑な……!」
立派な庭園も台無しである。
めちゃくちゃに荒らされた目の前の光景にアレンが知らずにため息をついた、その時だった。
「!?」
即座に反応したのは左眼だった。
針で貫かれたような鋭い衝撃が走り、咄嗟にイノセンスを発動する。
次の瞬間、アレンは闇の中から飛び出してきた数体の影に取り囲まれていた。
「アクマ……!?」
行く手どころか全方向を阻まれて、アレンは歯噛みした。
このタイミングで襲い掛かってくるなんて、ただの偶然か、それとも意図があってのことか。
どちらにしろエクソシスト二人は遠く引き離された。
戦力の分散に加え、予想よりもアクマの数が多い。
完全にこちらの不利だ。
…………なんてことは、なら絶対に認めない。
だからアレンも不敵に瞳を光らせた。
焦りと不安を押し殺して、発動した左手を振りかざす。
「早く追わないとがうるさいですからね」
アレンはわざと強気にそう呟いて、アクマたちに踊りかかった。
蒼い月の下で、白い髪が舞う。
リオンがいるのは暗く冷たい空間だった。
広大なベルネス公爵家の敷地の奥。
そこに建てられた、壮麗な霊廟。
純白の大理石を多く使って創られたその内部で、少年は荒い息を繰り返していた。
採光用の硝子絵から差し込む月明かりが、それを照らし出す。
壁に沿って建てられた神々の像の無機質な瞳が見下ろす先。
掲げられた十字架の下で、リオンは震えていた。
息を吸うたびに、寒さが肺を痛めつけていく。
まるで黒い闇に温もりを吸い取られているようだった。
怖い。
苦しい。
こんなものいらない。
両手で握りしめた黄金の短剣が月光を弾いて、冷たくその存在を主張した。
リオンは強く奥歯をかみ締めた。
いらない。
いらない。
こんなものいらない。
何にもいらない。
ぜんぶぜんぶ。
こんな家も、こんな宝も、こんな絶望も。
こんな俺も。
いらないんだ!
不規則な呼吸が静かな空間に響いていた。
心臓の音がうるさい。
激しく鳴っていて気持ち悪い。
うるさいうるさいうるさいうるさい。
いらないのに、こんなものいらないのに。
いらないいらないいらないいらない。
怖い怖い怖い怖い。
苦しい苦しい苦しい苦しい。
『愛してなどいないのだから』
「……っ」
記憶の中で再生される父の声が、リオンを貫いた。
胸が痛かった。
引き千切れてしまいそうなほどに。
心が痛いのに体が無傷なんて変だった。
だからリオンは短剣を抜いた。
震えが止まった。
父の声だけがわんわん頭蓋骨の中で響いている。
それが全身を麻痺させて、全世界を支配する。
リオンは闇を宿した虚ろな瞳で、金の刃を見下ろした。
この『破魔の短剣』には、魂を正しき道へと導くという奇怪伝説がある。
それなら連れて行ってくれるだろうか。
母のもとへと。
いや無理だろう、とリオンはぼんやり考えた。
だって自分は間違った子供だ。
誰にも愛されない、背徳の子だ。
だったらもう、どうでもよかった。
ただ心と体の痛みを同じにしたかった。
そうしなくてはいけない。
そうでなければおかしい。
歪みは正さなければいけないんだ。
だからリオンは無造作に短剣を振りあげて、一気に自分の胸元へと突き下ろした。
鮮血が飛び散る。
不思議と痛みは感じなかった。
ただ肌を濡らす血の感覚だけがあった。
ああ、これじゃあ何の意味もない。
心と体の距離はちっとも埋まらなくて、リオンは落胆に瞳を開いた。
そして瞠目した。
すぐそばに立った金髪の少女。
いつの間にかそこに出現していた彼女が、リオンの持つ短剣を素手で握って止めていた。
刃が白い掌に食い込んで、真っ赤に染まっている。
流血が短剣を伝って、零れ落ちた。
リオンは悲鳴をあげて、咄嗟に柄から手を離した。
見下ろしてみると、自分の胸元はの血が飛び散っていた。
リオンはじりじりと後退しながら、眼前の少女を見つめる。
「………っ、な、なんで」
「実用品じゃないくせに、けっこうマジな刃物だね」
は普段と変わらない口調で言って、握りこんでいた拳を開いた。
歯を食いしばって、肉に食い込んでしまった刃をはずす。
また血があふれ出して、床に赤い染みをいくつもつくった。
「あーあ。イノセンスが汚れちゃった」
痛みよりもそのことには顔をしかめているようだった。
大丈夫かなぁへブラスカちゃんに怒られないかなぁ、と呟きながら、自分のコートの裾で短剣についた血をぬぐう。
その行動にリオンは盛大に困惑した。
「なに……、なんでお前、そんな」
「なにって。咄嗟にとめようとしたら勢い余っただけ。失敗したなー」
「なにが、何を平然と……っ」
「本当に失敗したよ」
はリオンの取り落としていた鞘を拾い上げると、それに短剣をおさめた。
「だって君は、私を傷つけたかったわけじゃないでしょ?」
「…………………」
「このくらい大丈夫。だからそんな顔しなくていいよ」
は微笑んで、右手を持ち上げて見せた。
それでも出血は止まるどころか勢いを増していたので、彼女は慌てたようにポケットに左手を突っ込む。
取り出してきたハンカチで、器用に傷口を隠した。
「ね?」
は手を閉じたり開いたりして平気だとアピールしたが、リオンは蒼白になったままそれを見つめた。
「だ……大丈夫なわけないだろ……っ、そんな、そんなに血が出てて……!」
「でもさっき君がしようとしたことは、これよりも痛いことだよ」
ふいにが真剣な目になったので、リオンは息が止まるかと思った。
空気が喉につっかえて、うまく呼吸ができない。苦しい。
失っていた感覚が唐突に戻ってきた。
「ねぇ」
は真正面からリオンを見据えて訊いた。
「体の傷で誤魔化したいほど、心が痛いの?」
金の、瞳が。
リオンを捉えた。
違う、そんなはずはない。
自分の心はもう死んだのだから、これ以上なにも感じるものか。
違う、違う、こんなのは違う。
しかしリオンは考えるまでもなく、全身でその感情の正体を理解していた。
それは紛れもない恐怖だった。
目の前の少女が、リオンは心底恐ろしかった。
が一歩を踏み出す。
こちらに近づいてくる。
リオンは硬直したままそれを見上げていた。
「……ろ」
無意識に声が出た。
ひどく震えた声だった。
みっともないけれど、仕方がなかった。
それほどまでに、リオンはが怖かった。
「やめろ……っ」
「……………」
「やめろよ、来るな……っ」
リオンは視線を外せないまま首を振った。
はわずかに瞳を細めただけで、歩みを止めようとはしなかった。
なんて恐怖だ。
「来るなよ、俺に近づくな……っ」
「……………」
「来るなって言ってるだろ……!それ以上近づいてみろ、容赦しないからな!!」
「嘘だよ」
はリオンの叫びを否定した。
それはひどくきっぱりとした響きを持っていた。
同時に、何故か優しくもあった。
「君は私を傷つけたりしない」
「どうしてそんなこと……っ」
「だって、傷つけられれば痛いって、君は知っているから」
殺されるかと、思った。
その瞳に。
ただ純粋に、自分を見つめてくるその眼に。
殺される、かと。
「…………来るなよ」
リオンの世界は歪んでいた。
ひどく揺らめいて、不安定だった。
出会ったまま逸らすことのできない視線だけを感じながら、リオンは崩れ落ちる。
その体は、少女の手によって抱きとめられた。
「やめろ、やめろ、お前なんて嫌いだ」
「……リオン」
「呼ぶな、お前の声なんて聞きたくない」
「大丈夫。大丈夫だから」
「うるさい、うるさい、消えろよお前なんて、大嫌いだ……っ」
喉から絞り出した声でうめくと、が強く抱きしめてきた。
何だかひどく暖かかった。
目の前の彼女の肩が少しずつ、けれどすぐに濡れていく。
リオンはに抱きしめられて、泣いていた。
嗚咽を隠せない。
世界がにじんで、揺れて、崩れていく。
「だから、嫌だったんだ……っ」
リオンは強くの肩に額を押し付けた。
「お前に会いたくなかった、お前の眼はとても怖いから、俺の全てを見透かそうとするから……!」
の金の瞳はいつだって光を宿していた。
屈託なく微笑んで、遠慮なく怒って、ためらいなくその掌で触れてくれた。
優しく手を差し伸べてくれた、アレンだって同じだ。
だから、嫌だったんだ。
お前たちなら、もしかしたらこんな俺を認めてくれるんじゃないかって。
弱い本当の自分をさらけ出しても、嫌いにならないでいてくれるんじゃないかって。
本音をぶちまけても、心を投げ出しても、許してくれるんじゃないかって。
受け入れて、くれるんじゃないかって。
だから、嫌だったんだ。
泣いてしまいそうになるから。
熱い涙があとからあとから溢れ出してきて止まらなかった。
嫌だったのに。こうなってしまうのが怖かったのに。
リオンはもう自分の力で立っていることも出来なかった。
膝をついた少年を、はしっかりと抱きしめた。
「悲しいんだね」
「………………っ」
「心が痛くて苦しいんだね」
「だって、父様が……!」
言いたくはないと思うのに、リオンの口は勝手に動いていた。
の眼が、温もりがそうさせていた。
思っていた通り、逆らうことができなかった。
「父様が俺のこと愛してないって……っ、いらないって言うんだ。捨てられる。もうどこにもいられない……!!」
「……………………」
「俺は欲しくなかったよ。公爵なんて家も、たくさんある財宝も、跪く使用人たちも!何もいらなかった、何も!いらなかったのに!!」
どうしてだ、と何度も問うた。
はしゃくりあげるリオンの背をただ撫でていた。
「欲しいものなんて何も手に入らない!こんな自分なんて嫌いだ、父様なんて大嫌いだ!!」
「リオン」
「消えてしまえばいいのに……っ、どうして、こんなっ」
「わからないのなら、一緒に考えよう」
が静かに囁いたが、リオンはそこに何の意味も見出せなかった。
「今さら何を考えるって言うんだ……!」
「大切なことだよ。辛いけれど、お父さんのことを考えてみて」
はそっとリオンの肩を支えて、体を離した。
そして両手で、リオンに短剣を握らせた。
「………………っ!」
それは鞘におさめられていたが、漂う血臭にリオンは体を強張らせた。
は真っ直ぐリオンを見つめて言った。
「君を傷つけたお父さんならば、この刃でその痛みを返してやりたいと思う?」
「そんなこと……っ」
「そうだね。君はそんなことはしない。……かわりに君は自分を消そうとした」
リオンはびくりと痙攣した。
それでもは手を離さなかった。
「それはどうして?考えてみて」
「……………」
「私は何ものかに傷つけられたとき、迷いもせずにやり返す。自分を守るために。それは反射かもしれないし、本能かもしれない。私は、私を傷つけたものを、絶対に許さない」
の声はひどく重い響きを持っていた。
まるで日常的に傷つけられて、それに立ち向かっているかのような現実感があった。
「けれどもし、その相手が大切な人だったなら、きっと躊躇う。混乱する。悲しくなる。心が痛くてどうしようもなくなる」
はかすかに目を伏せた。
何かを思い出しているようにも見えた。
彼女は大切な人に、刃を向けられたことがあるのだろうか。
漠然とそれを感じ取って、リオンはを見つめた。
「そしてその人ではなくて、自分自身に刃を向けるかもしれない。今の君のようにね」
「…………………」
「苦しくてどうしようもないから、消えてしまおうとするかもしれない。でも考えてみて。どうして苦しいの?どうして傷つけてきた相手に刃を向けることができないの?」
「そんなの……」
そんな、こと。
リオンは言葉を失った。
そんなこと考えたこともなかった。
リオンの手から力が抜けて、イノセンスが床に転がり落ちた。
硬質な音が、霊廟内に響き渡る。
「君はお父さんが大好きなんだね」
「………………!?」
「だから今、悲しいんだね。苦しくて、仕方がないんだね」
「俺が……?」
昔から反発してきた父を?
だって自分がこんな目にあうのはぜんぶぜんぶ父のせいだ。
母が死んだのも、妾の子だと蔑まれるのも、何もかも。
愛してはくれなくて、俺を見てはくれなくて、手を差し伸べてはくれなくて。
何度家出したって、父は哀れむような目で自分を見ていただけだった。
ラターニャにきつく当たられても、何も言ってはくれなかった。
言葉ひとつ、温もりひとつ、与えてはくれなかったのに。
そんな父を俺が愛してる?
「そんな、こと」
「君はお父さんに愛されたいんだよ。必要とされたいんだ」
「違う……、違う、そんな」
否定するだけの力は、リオンにはなかった。
その前に、それはするりと胸に入り込んで、全てを納得させてしまったのだ。
ああ、だから今、こんなに苦しくて悲しいんだ。
ずっとずっと、泣きながら居場所を探してたんだ。
俺は。
「でも……っ」
涙がまた溢れてきた。
何度も何度も頬を伝って、の手に落ちる。
リオンはそれを眺めながら悲痛に叫んだ。
「父様は俺を愛してはくれなかったよ……!」
一番欲しいと思っていたものを知ったとき、それはもう失われていただなんて。
震える息が胸を苦しめる。
はっきりと正体を知り得た絶望に、リオンは目を閉じそうになった。
その顔をぐいっとあげさせたのはだった。
乱暴ではなかったが、強い力で仰向かされる。
彼女は笑っていた。
いつもの不敵な笑顔だった。
「うつむくのには早いよ、お坊ちゃま」
「え……」
「欲しがるだけが愛じゃないってこと」
の指先が、リオンの涙をぬぐう。
「君はまだ何も示してはいないでしょ?お父さんに、自分の気持ちを」
「……………!」
「辛かったこと、悲しかったこと、淋しかったこと……、そして愛していることを」
そう、その通りだった。
いつだって俺は子供で、言葉が出なくて、自分の心すらわかっていなくて。
何もかもを傷つけていた。
「愛して欲しいと、理解して欲しいと思うのなら、まず自分の心を伝えないと」
「……でも、拒絶されたら」
「甘えるな!」
ふいにが言葉を強めた。
けれども口調と表情が違っていた。
彼女はどこまでも優しく、そして強く微笑んでいた。
「泣くほどの想いをそこで終わらせてどうするの。そんなことで悲しみから抜け出せるわけないじゃない。本当に欲しいものが手に入るはずないじゃない!」
「わかってるよ、でも……っ」
リオンは震える唇をかみ締めた。
「俺はお前みたいに強くないよ……!」
傷を負って血にまみれて、それでも俺の手を握ってくれるようなお前とは違うんだ。
「あんな化け物と戦える、すごい力を持っているお前とは違うよ。俺に出来るのは、ただ必死に逃げることだけだったんだ……っ」
はほんの少しだけうつむいた。
そして胸元のロザリオ……イノセンスをそっと押さえて、それからまたリオンの手を取った。
「確かに私と君は違うかもしれない。でも一緒にたくさん笑ったよね」
「…………………」
「私はそれがとても楽しかったよ。リオンはどう?私とは違った?」
はもう一度、リオンを引き寄せた。
そして冷え切ってしまったその体を、ぎゅっと抱きしめた。
あぁこの温もりに、この人に、何もかも吐露して、懺悔して、縋ってしまえば全てが大丈夫になるような気がしてならないんだ。
本当に。
「ねぇ、胸を張ってよ。私は素敵だと思ったんだ。顔を真っ赤にして着替えを持ってきてくれた君が。大きな声で一緒に笑ってくれた君が」
静かに言って、は微笑んだ。
「すごく、すごく嬉しかったんだよ」
「…………本当に?」
「うん。ほんとうに」
は少しだけ離れて、コートの袖でリオンの顔をごしごし拭った。
快活な笑みはやはりどこまでも優しくて、心強かった。
「それからお父さんが好きだと想う君が、ね」
「……………」
「すごく羨ましい。……私には、もう二度と抱くことの出来ない感情だから」
「え……?」
囁かれたの言葉に、リオンは目を見張った。
彼女の表情はあまりにも儚かった。
消えてしまうのではないかと思うほどに。
けれど彼女はすぐにまた微笑んだ。
「私は君のことをとても素敵だと思ったんだ。それなのに当の本人が背を丸めて黙り込んじゃうだなんて、何だか悔しいよ」
「……」
リオンはを見つめた。
彼女は立ち上がって、その掌をこちらへと差し出した。
「ねぇ、一緒に胸を張って帰ろうよ」
それが誇れる気持ちであることを、彼女は知っているようだった。
リオンは想像した。
素直に微笑んで、好きだと言える自分。
ただ真っ直ぐに、大切な人へと気持ちをぶつけられる自分。
その強さに憧れた。
父に拒絶されるかと思うと、今でも心臓が凍りつくような冷たさに襲われる。
それでもこの気持ちだけは、ここで終わらせられるものではないように感じた。
ここで終わらせてはいけない気がした。
それは、こんな自分を認めてくれた人が、目の前にいるからなのかもしれない。
理由なんて説明はできない。
ただ裏切りたくなかった。
リオンは、真っ直ぐに見つめてくるに応えたかった。
だから彼女を見上げて、その手を取ろうと震える指先を伸ばす。
その時だった。
「リオン」
それはあまりに唐突だった。
霊廟に響く低い、低い声。
が弾かれたように振り返った。
そこに立っていたのは初老の男性だった。
背の高いシルエット。
細部は暗くてよくわからない。
けれどリオンは声でそれが誰だかわかった。
耳を疑い、現実を疑い、それから絶望を疑った。
リオンは希望を感じて、ただ叫んだ。
「父様!」
「探したよ、リオン」
男は穏やかにそう言った。
表情は見えない。
この暗い中、明かりを持っていない。
近づいてくる靴音が、天井に跳ね返って大きく反響している。
は総毛立っていた。
何故かはわからない。
嬉しいはずなのに。
この人が、リオンを心配してここに来たということを。
彼を探して、見つけ出してくれたという事実を。
喜ぶべきなのに。
何だ、この違和感は。
何だ、この悪寒は。
何だ、この男は。
「さぁ、『破魔の短剣』を持ってこちらにおいで」
リオンの父―――――――――――フロイド・ベルネスは手招くように、片手を持ち上げた。
そのゆるやかな声。
は全身が粟立つのを感じた。
頭では何も理解できていなかった。
けれど、本能が告げていた。
耳鳴りがする。
それは確かな警鐘。
「父様……!」
瞳を輝かせ、駆け出そうとしたリオンを、は肩を掴んで止めた。
リオンはどうしてが制止するのかわからないのだろう、困惑した顔で見上げてくる。
自身、何故こうするのか、よくわかっていなかった。
「だめ。近づかないで。何か変だ……。どうして」
そう、この男には気配がなかった。
いくらリオンに気を取られていたとはいえ、エクソシストであるの背後に立って、その存在を感じさせないなんて。
霊廟の扉を開ける音も、そこまで歩いてくる足音も、少しも耳に入らなかった。
彼がそこにいるのだと、証明するものは何もなかった。
天窓からの月明かりが、近付いて来るフロイドを照らし出す。
男にはやはり何もなかった。
その目に、生気はなかった。
かわりに浮かんでいたのは、確かな狂気だった。
「おいで、リオン」
人間の姿をした者が、愛に飢えた少年を呼ぶ。
リオンはの手を逃れて、フロイドに向かって駆け出した。
「父様!」
「だめ!!」
必死に腕を伸ばす少女に、男は微笑んだ。
笑みの形に歪んだ唇。
その、嘲りの色。
唐突にフロイドの片腕がうねった。
微かな光を纏って蛇のように空間を這う。
凄まじい速度で襲い掛かってくる、異形の手。
「危ない!!」
誰かが叫んだ。
知っている声だった。
けれどその姿を確認する間もなく、は目の前にいたリオンの体を横向きに突き飛ばした。
その瞬間、全身が壊れるんじゃないかと思うくらいの衝撃を受けた。
それでも不思議とは冷静だった。
あぁ、またこの感覚か。
不快だなぁ。
皮肉に笑って、何故だか震えている手でそこを押さえる。
鮮血が泉のように溢れ出していた。
恐ろしく鋭い異形の腕が、の腹を貫いていた。
す、すごいところで終わってしまった……!
ヒロインが刺されてハイ次回!です。すみません。(汗)
話的にも痛いですね。
リオンがやっとお父さんと向き合えそうな気持ちになってきたところで、この展開です。
やっちゃった感いっぱいです。
次回からしばらく流血・戦闘描写のオンパレードになります。苦手な方はご注意くださいませ。
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