なんて残酷で、美しい。
それは血に染まった愛の色。
● 永遠の箱庭 EPISODE 8 ●
霊廟に飛び込んだ瞬間、左眼が灼けた。
鋭い痛みが眼球を貫く。
アレンは思わず息を呑んだ。
目の前の光景。
泣きそうな顔で、それでも口元をほころばせながら走ってくるリオン。
それを止めようと、必死で手を伸ばす。
そして、こちらに背を向けて立った男。
アレンの白と黒の視界に映った、その姿。
拘束された魂の慟哭が全身を打った。
アクマ……ッ!
「危ない!!」
咄嗟に響く声で叫んだ。
瞬間、転換された男の腕が空を駆けた。
その殺人衝動はリオンに向けられたものだったが、彼の体は間一髪のところでその軌道上から弾き飛ばされた。
代わりに異形の腕は、リオンをかばったの腹を、深々と貫いた。
耳を塞ぎたくなるような音が霊廟に響く。
肉を破り、人体に凶器が食い込む、破壊の雄叫び。
それからしばらくは、時間が遅く流れているようにアレンは感じた。
飛び散った鮮血が、玉のようになって空中を舞う。
の金の瞳が激痛に見開かれて、それから細められる。
震える手が、貫かれたわき腹に添えられる。
そうして、彼女は少し笑ったようだった。
自嘲にも似た、その表情。
それからは顔をあげて、霊廟の入り口に立ったアレンを見た。
舞い落ちる赤の狭間で、二人は出会った。
アレンはあまりの苦しみに、一瞬、目の前が真っ黒になった。
そして次に、真白な怒りに支配された。
「お前えぇええっ!!!!」
アレンは吠えた。
恐るべき速さで跳んで、男に襲い掛かる。
発動したアレンの左手が、激しい一線で男の体を引き千切った。
同時にの放った黒い光が、その腹に刺さっている異形の腕を消し飛ばす。
男は衝撃に吹き飛び、凄まじい音を立てて壁に激突、床に落ちる。
アレンは怒りに燃える瞳で再び跳躍しようとしたが、リオンの悲痛な叫びに意識を引き戻された。
「父様、父さま、とうさまぁ……っ」
「……………おとう、さん?」
「あれ、は、リオンのお、父さん、だった、ん、だよ……」
思わず足を止めたアレンに、喘息のまじる声でが言った。
彼女はうずくまるようにして床に膝をついていた。
「!!」
アレンが傍に駆け寄るより早く、は身を起こした。
視界に捉えた彼女の腹部は、真っ赤に染まっていた。
霊廟の床に広がる、深紅の水溜り。
口の端から血を流すの肩を支えて、アレンは汚れるのも構わずに、その傷口を掌で押さえた。
出血が多くて見ていられなかったのだ。
「ひどい傷じゃないですか……っ」
は何度か口から血を吐いて、呼吸を落ち着けると、掠れた声で答えた。
口調は普段と変わらなかった。
「へいき。何年この仕事やってると思ってるの。今さら腹に穴があいたぐらいじゃ死なないよ」
「そんなことっ」
「だいじょうぶ。ありがとう」
はそう言ったけれど、アレンには納得できなかった。
立ち上がろうとする彼女を止めようとしたが、その手は軽く拒まれる。
「それより……、リオンが」
突き飛ばされたままの体勢で床に座り込んで呆然と泣いているリオンに、はよろよろと近づいた。
「リオン……」
「どうして……?」
リオンはわけがわからないという様子で、を見上げた。
そしてその血まみれの腹部に、顔を引き攣らせた。
「どうしてお前、ケガしてるんだよ……?」
「………………」
「どうして父様が、こんな……」
そばに膝を折ったに、リオンはすがりついた。
「こんなひどいことするんだよ………!!」
彼はわけもわからずの傷口に触れた。
どろりと粘着質な血が、まだ幼い手を染める。
リオンはその恐ろしさに、声にならない悲鳴をあげた。
は無理やり彼を抱きしめた。
「大丈夫だから、お願い、落ち着いて」
「だって父様が、こんな、こんなこと……っ」
「あれはもう、君のお父さんじゃありません」
アレンは二人をかばうように立って、顔を歪めた。
視線の先で、瓦礫の中から片腕の千切れた男が這い出してくる。
その姿。
ボディに拘束された、魂。
苦しいものを吐き出すように、アレンは告げた。
「あれは、アクマです……!!」
「その通り!!」
男が嗤った。
それはリオンの知っている父の声ではなかった。
道化のように甲高く、無邪気な悪意を含んでいた。
けたけた笑うその声に、全身が総毛立つ。
「我はアクマだ。お前らのような虫けらと一緒にするなよ」
「父さま……?」
「あぁお前。お前、よくイノセンスを持ち出してくれたな。結界装置を壊す手間がはぶけたよ。ありがとう、もう死んでいいぞ」
フロイドの皮を被ったアクマは冷たくそう言い捨てると、引き千切れてなくなった片腕をリオンに向けた。
その断面がぼこりと波打ち、大量のコードが飛び出してくる。
それらは宙を走りながら絡まり合い、再び一本の異形の腕と化した。
槍のように尖ったその凶器が、目にも止まらぬ速さでリオンに迫る。
幼い少年の体が無残に貫かれる直前、のイノセンスから黒い光が放たれた。
それは瞬時にして展開し、いくつもの巨大な防御壁となる。
宝石を模した盾はアクマの殺気を弾き飛ばし、同時にその本質を武器へと転換。
流星となってフロイドの体へと殺到した。
間髪入れずに、アレンが床を蹴ってアクマに踊りかかる。
アクマは素早く跳躍して、その攻撃を避けた。
アレンの発動した左手との放った光刃が、先刻まで男が立っていた床を粉々に打ち砕いた。
白く煙る粉塵の向こうで闇に染まった声が言う。
「何故そんなガキをかばう、エクソシスト!邪魔などするなよ」
男は掲げられた十字架の下で、嗜虐的な笑みを浮かべていた。
「この父が殺してやろうと言うのだ。なぁ、リオン」
「ひ……っ!」
凄まじい殺意を向けられて、リオンが引き攣った声をあげた。
はそんなアクマの視線から守るように彼を強く抱きこむ。
リオンはガタガタと震えながら、悲鳴のように叫んだ。
「父様が、なんで、なんであんな……っ」
「リオン……!」
「化け物になっちまってるんだよ……!?」
「お前がそうさせたのだよ、リオン」
男はにたりと笑ってリオンの名前を呼んだ。
妙に優しいその響きは、途方もなく虚ろに響く。
アクマは芝居がかった仕草で両腕を広げてみせた。
「母が死んだときお前は言ったではないか。“父様が母様を殺したんだ!”、とね」
「………………!」
「その言葉にこの男の世界は滅んでしまったのだよ。全てに絶望し、罪に苦悩し、現実を嫌悪した。そして、
神を憎んだ」
アクマの声に、父の姿に、リオンの脳裏に記憶がよみがえる。
あれは母が死んだ、その日のことだった。
やはり今日のような満月の夜だった。
リオンは母の遺体の傍で泣いていた。
失われた命が恋しくて、止まらない涙を流していた。
悲しみに染まった心では、ようやく夜中になって部屋を訪れた父のことなど、許せるはずもなかった。
『父様のせいで母様は死んだんだ……!』
こんな見ず知らずの土地で、公爵だなんて厄介でしかない家に引きずり込まれて。
異国の者だと蔑まれた。
下賤な血だと軽んじられた。
そうして心を弱らせ、病を患った。
どれだけ母は苦しみ、傷ついたのだろう。
それはリオン自身の痛みだったのかもしれない。
けれど歯止めがきかなかった。
目の前を塞ぐどうしようもない悲しみに、リオンは慟哭した。
『返せよ……っ』
『リオン……』
『母様を返せよ!!』
父にだって母を奪う権利などあるものか。
俺の安らぎを、幸せを、愛を、何もかもを返せ。
今すぐに。
そっと肩に手を置いてきた父を、リオンは強く拒絶した。
その優しさを振り払い、何度も返せと詰め寄った。
『父様がぜんぶ悪いんだ……っ!』
血を吐くような勢いで怒鳴った。
本当にそうしてしまいたい気分だった。
喉を突いて、鮮血を撒き散らして、父の前で死んでやりたかった。
『父様が母様を殺したんだ!!!』
全力で吐き捨てると、父が息を呑んだのがわかった。
そしてしばらく沈黙した。
何か言ってほしかった。
殴ってくれてもいいから、真っ直ぐに自分と向き合って欲しかった。
けれど父は長く吐息をついただけだった。
『そう、なのかもしれないね……』
それだけ静かに呟いて、彼は部屋を去っていった。
リオンの前から去っていった。
そのはず、なのに。
今、目の前で、父の姿をした化け物は言う。
「お前が望んだんだろう、リオン。母様を返せと。だからこの男はそうしてやったのさ。神からお前の母を取り戻してやったのさ!!」
「そんな……っ」
悲痛にうめいたのはアレンだった。
その左眼に手を添えて、フロイドを見つめる。
眼球がひどく痛んだ。
呪縛から逃れられず、苦しんでいる魂の叫び。
それはリオンの母の絶叫なのだ。
「こんなのは哀しすぎる」
アレンは強く唇を噛んで、その左手を振りかざした。
「、リオンをお願い。僕はアクマを破壊します!」
「ほう。偉そうな口をきく」
アクマは嘲笑を浮かべると、被っていた皮を突き破って全身を転換した。
完全にフロイドの容貌を失い、異形の姿となる。
それは巨大な鎧だった。
漆黒に光る巨躯にはいくつもの杭が突き刺さり、拘束着のようにも見える。
顔の部分には禍々しい髑髏が鎮座し、目と口の部分を革のベルトが覆っていた。
けれどその上からでもわかる、蒼い双眸と真っ赤な口腔。
思わず息を呑むアレンと、そしてリオンの眼前で、アクマは手にした鈍色の槍斧を掲げ上げた。
それを合図に、数えきれないほどのアクマが霊廟内に顕現した。
「これがこの街にいる全てのアクマだ。我らはずっと、夜な夜な人間を殺して待っていたのさ」
革の拘束具の下で、赤い口が笑みの形に歪められる。
「イノセンスを求めてやって来た、愚かなエクソシストを葬るこの瞬間をな!!」
自我を持ったこのアクマは、イノセンスすら敵を狩るための餌にしたというのか。
その狂気にアレンは吐き気を覚えた。
「…………っ」
「ああ、本当に我慢したよ……。勘づかれないように殺人衝動を押さえて、この屋敷の者だけには手を出さないようにして。四、五人つまみ食いはしたがな。ついでにガキの心をえぐって遊んでみたら、思ったよりいい働きをしてくれた。まさかイノセンスを持ち出してくれるとはなぁ、あははははははははははッ」
アクマは狂ったような笑い声をあげ、そしてリオンに視線をやった。
「ありがとう、リオン。愛しているよ」
その言葉に、吐き出された優しい声に、アレンの中で何かが切れた。
風のように疾走し、発動した左手を鎧へと振り下ろす。
怒りを込めたその凄まじい一撃は、攻撃を邪魔しようとした別のアクマへと炸裂した。
鎧はその場から微動だにせず、自分の代わりに破壊された低レベルのアクマを見下ろして、それからアレンを見た。
「それでいい、エクソシスト。さぁ、殺戮の宴を始めよう!存分に殺させてくれ!!」
「!!」
アレンはアクマの声を無視して怒鳴った。
「君はリオンとイノセンスを守ってください!アクマは僕が……っ」
周りを取り囲むボール型のアクマ達から血の弾丸が放たれ、アレンへと殺到する。
巻き上がる白煙、振動するその中心で、声を響かせる。
「すべて破壊する!!」
アレンは心の底から、強くそう叫んだ。
「後輩くん!!」
の呼び声は爆風に遮られた。
飛んでくる石塊が服や肌を掻きむしっていく。
はリオンを抱え込み黒い光の盾を展開させて、こちらにまで降り注いでくるミサイルの群れを弾き飛ばした。
「く……っ、数が多すぎる……!」
この数をアレンだけに相手をさせるには、あまりにも無謀すぎた。
彼の実力は知っていたが、どんな屈強な戦士でも一人で対応できる域を超えている。
は胸元のロザリオをきつく握り締めた。
アレンは自分にリオンとイノセンスを守れ、と言った。
けれども戦いに加わらなければ、結果的に、とてもそれを実現できそうにない。
そして戦場にいながらアレン独りに戦いを背負わせるなど、エクソシストとして出来るはずもなかった。
は床に転がっていたイノセンスを掴み取ると、リオンの手を引いた。
「お願いリオン。これを持ってここにいて。この光の壁の中にいれば安全だから。私も戦わないと……!」
いくら守りの中とはいえ少年を置いていくことは躊躇われたが、それが生き残るための、エクソシストとしての判断だった。
リオンは素直に短剣を握った。
それを肯定だと受け取っては立ち上がろうとしたが、突然強い力で突き飛ばされた。
そして盾の外に走り出して行く小さな影に、目を見張った。
短剣を握り締めて駆けていくのは、動くなと言い聞かせたばかりの少年だった。
「リオン!」
は慌てて彼を捕まえた。
こちらを目がけて突進してくるアクマを黒い光刃で瞬時に撃退。
返す軌道で円を描かせ、自分達を取り囲む球体を、その進行を阻むようにして切り裂く。
はリオンを引き寄せて怒鳴った。
「何をしてるの!盾の中にいろと言ったじゃない!」
「うるさい、こんなの嘘だ、父様がこんな……っ」
「リオン!!」
「どうしてだよ!俺がいらない子だから?ひどいことを言ったから?愛していないから?だからこんなことするのか!!」
リオンはめちゃくちゃに暴れだした。
止めようとするの体を、信じられない力で突き離す。
その手が偶然にもわき腹の傷に触れ、激痛に一瞬、の思考が飛ぶ。
膝を折ったは懸命に身を起こそうとしたが、その金髪が唐突に掴まれ、床へと引きずり倒された。
アクマの巨大な足が、上から凄まじい威力で胸を蹴りつけてくる。
その衝撃に床が破砕され、の華奢な体ごと陥没する。
せり上がってきた血と悲鳴が喉の奥で絡まった。
続けてアクマの手がの首を掴み、異常な力で瓦礫へと押し付ける。
このまま首の骨をへし折る気なのか。
一瞬気が遠のいたの耳に、声が響いた。
「どうしてだよ、父様!!」
リオンは慟哭していた。
その絶叫が、全ての者を振り向かせた。
アレンの声と、アクマの気配。
「どけっ!!」
は怒鳴り、胸元のロザリオから爆発的な光刃を撃ち放った。
のしかかるようにしていたアクマを切り裂き、破壊。
必死に痛みの中から意識を拾い上げ、さらにイノセンスを発動させた。
放たれた黒い光がリオンの前で広がり、その体を包み込む。
黒死葬送、盾の儀。
『盾葬』
六つの結晶の連なり、光の檻に阻まれて、アクマの弾丸はリオンを貫くことなく地に落ちた。
は床に倒れたまま、ホッと息を吐いた。
同時に激しい振動が全身を襲う。
リオンを守るのに精一杯で、自分の防御にまで手がまわらない。
アクマの砲撃が、一斉にを襲撃した。
即座に盾を展開したが、強度が間に合わず、衝撃に弾き飛ばされる。
吹き飛び、流れていく視界にアレンの姿が映る。
白い左手が、瞬時に幾体ものアクマを切り裂いた。
彼はいくらか傷を負ってはいたが、この数を相手に考えると軽いものだった。
は安堵したが、アレンの表情は驚駭に凍りついていた。
「!!」
アレンの叫びと同時に、凄まじい勢いでの体は霊廟の壁に叩きつけられた。
「が、は……っ」
仰け反り、返る反動で大量の血を吐き出す。
自分の肋骨が折れる音を聞くのは、相変わらず嫌な気分だった。
金髪がほどけて、何かの飾りのように舞う。
クレーターのように穿たれた壁に手を突き立てて、は倒れまいとした。
しかし容赦ないアクマの追撃が、眼前に迫っていた。
「死ね、エクソシスト!!!」
それはかつてフロイドであった者だった。
漆黒の鎧が、苦痛に動けないの視界を覆う。
命を狩り取るために振り上げられた、死神の鎌。
アクマの槍斧がを一閃した。
は目を閉じなかった。
それがエクソシストとしての、戦場に立つ者の誇りだった。
例えこの一撃で死んでも、恐怖などで顔を歪めてやるものか。
最期まで前を見据えて、敵を睨みつけて、あわよくば笑ってやる。
“お前なんかに負けはしない”と、高らかに微笑んでやる。
そのつもりだったのに。
の全身を、赤が襲った。
視界までも血で染まる。
の顔に微笑みは浮かばなかった。
代わりに浮かんだのは、これ以上ない驚愕だった。
目の前に立った、白。
それは黒を纏って輝く白だった。
アクマの槍斧は、をかばって立ちはだかったアレンを強襲した。
かざした白い左手を斬り裂き、衝撃波で全身に裂傷を走らせる。
迸る血潮が、なおもに降り注ぐ。
肩の、胸の、わき腹の肉がえぐられて、赤い霧が散った。
見るも無残に引き裂かれた目の前の少年に、は呼吸の仕方を忘れてしまった。
「どうして……」
こんな、ことが。
は血に染まった髪を振るい、悲鳴のように彼の名前を呼んだ。
「アレンッ!!!」
激痛の中で、アレンはその声を聞いた。
初めてだった。
彼女の声音で、その音を聞くのは。
それは本当に初めて耳にした名のように、胸の内に響き渡った。
あぁもう、せっかくなのに、そんな辛そうな声で呼ばないで。
「嘘つき……」
声を出すと、血で喉がかすれた。
苦しいけれど、それでもアレンは言った。
そんな場合ではないのに、口元に笑みを浮かべて。
「嘘つきですね、……」
わずかに彼女を振り返ると、頭から血で真っ赤になって、呆然とこちらを見上げていた。
その様子に、アレンはまた微笑んだ。
「僕の名前、覚えてないって、言ってたくせに」
「……………………」
「嘘つきだ」
アレンはそれだけ呟くと、顔を前に戻して、鎧の槍斧を弾き返した。
同時に体に力が入らなくなって崩れ落ちる。
その視界に、背後から飛来した黒い閃光が映った。
流星となったそれは鎧に襲い掛かり、その巨躯をさらに後方へと退けさせた。
「アレン!!」
耳元で、またが叫んだ。
ああ本当に名前覚えてくれたんだなぁ、と状況的には気にしている場合ではないことをアレンは考える。
何だかんだで、自分はそのことを、そうとう気にしていたようだ。
「どうしてこんな無茶したのよ……!」
床に膝をついたアレンの肩を、が両手で支えた。
吐息を感じるくらい、顔が近い。
そういう彼女こそわき腹を真っ赤に染めているし、団服から見え隠れする腕や足には数え切れないほどの
裂傷や打撲がある。
無茶はお互い様だとアレンは思った。
「だい、じょうぶ、です。それよりアクマを……っ」
「アレン……!」
「もうやめろよ……」
呆然とした声が、アレンとの動きを止めた。
絶望に打ちひしがれたその音のもとを辿ると、の創り出した盾の中で、リオンが震えていた。
流れる涙をそのままに、鎧を見上げている。
「もうやめろよ……っ、そいつらは関係ない、関係ないだろ、お願いだから父様、殺したいなら俺だけにしろよ!!」
リオンは黒い光の壁にすがり付いて、訴えた。
「愛してないのは、許せないのは、俺だけだろ!ひどいことを言って、父様を苦しめた罰なんだろ!だったら
早く殺せよ!!」
立てた爪が、あまりの強さにはがれていく。
その痛みすら無視して、リオンは血を吐くように叫んだ。
「早く俺を殺せよ!!!」
は咄嗟に言葉を放とうとしたが、アレンのほうが早かった。
「違う!!!」
それは普段のアレンからは想像もできないような、裂帛の声だった。
前に乗り出してよろめいたアレンの傷だらけの体を、が支える。
アレンはその手を握って、リオンを強く見つめて言った。
「違う……っ、君のお父さんは、君を殺したいわけじゃない!そうじゃない、違うんだ……!!」
アレンは左の瞳を押さえた。
腹から声を出すと血が喉をせりあがってきたが、それでも告げなくてはいけない。
孤独の少年に。
そう思い込んでしまった、哀しい心に。
「僕には見えるんです……、アクマにされて苦しんでいる魂の姿が!お父さんがこの世に呼び戻した、君のお母さんの姿が!」
「母、様……?」
呆然と目を見開いたリオンに、アレンは頷いた。
一度口から血を吐き出して、続ける。
「君のお父さんは、神から死んでしまったお母さんを取り返そうとした……。それは許されることではないけれど、なぜ彼がそうしようと思ったのかは、アクマが教えてくれました」
アレンは真っ直ぐに、鎧を見据えた。
「お父さんは君の心を守りたかったんだ。返せと壊れそうに叫ぶ、君の悲しみを癒してあげたかったんだ」
リオンはフロイドに言った。
哀しみに壊れそうになりながら、“父様が母様を殺したんだ”と。
その言葉に、フロイドの世界は滅んでしまったのだ。
全てに絶望し、罪に苦悩し、現実を嫌悪した。
そして、神を憎んだ。
だからこそ彼は伯爵の囁きに従ってしまったのだ。
過ちはリオンをきっかけとしていた。
ならばその感情は彼へと回帰する。
支えてくれているの体が強張った。
そう、彼女も気がついたのだ。
この残酷な想いの残骸に。
「君のお父さんがアクマになってしまったことが、何よりの証拠だよ。リオン」
おぞましくて美しい、その感情の本流。
「お父さんは君を愛していたんだ」
リオンが息を呑んだ。
そして彫像のように固まった。
目の前にそびえ立つ、化け物。
巨漢のアクマ。
それは罪滅ぼしだったのかもしれない。
公爵という立場が邪魔をして、ぬくもりひとつ、笑顔ひとつ、与えることのできなかった家族に。
自分のせいで、悲しみや苦しみを背負わせてしまった息子に。
壊れそうに泣く愛おしい子に、せめて母を返してあげたかったのだ。
フロイド・ベルネスは、リオンの父は、そうして愛を示したのだ。
間違った形であったかもしれない。
それでも、残酷すぎるこの結末は、確かにその真実を告げていた。
「君は愛されていたんだ!リオン!!」
アレンの叫びが音となって、リオンを打った。
幼い少年の、震えの止まらない唇。
そこから絞り出される、声。
「そんな……」
ゆるゆると首を振り、かつて父であった者を見上げる。
「そんな、どうして……っ」
涙を振り散して、リオンは絶叫した。
「俺も愛していたのに!!父様!!!」
その叫びは、決してフロイド・ベルネスには届かなかった。
い、痛っ!今回はちょっと本気で痛かったですね……!
大人でも子供でも、上手に愛情を伝えるのはとても難しいことだと思います。
リオンが素直にそれを示せなかったのと同時に、彼の父もまたそうだったのです。
体裁や自我が確立している分だけ子供のようにがむしゃらぶつかることのできない大人のほうが、辛いのかもしれません。
ところでようやくヒロインがアレンの名前を呼びましたね。28話目にしてやっと!
実は『永遠の箱庭』がはじまったあたりで、ヒロインはもうアレンの名前を覚えていたんです。
ただ今さら呼ぶには何だか気恥ずかしかったので、“後輩くん”なんて呼んでいたわけです。
次回はヒロインががんばります。引き続き戦闘・流血描写が乱発しますので、ご注意を。
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