痛みも苦しみも、貴方の誇りだった。
その強さの、源だった。
でも私は、まだそのことを知らずにいたんだ。
● 花咲く記憶 EPISODE 2 ●
「それは……」
言いかけて、けれどアレンはそのまま口を閉じた。
目を伏せたリナリーに、訊くことは出来なかった。
“それは、本当になんですか?”
そんな、無反応な子供が。
与えられた優しさに、応えない人間が。
恐怖と絶望に囚われて、“殺して”と叫ぶ少女が。
それはアレンの知っているではない。
絶対に違う。
そんなのは。
「それはじゃねぇさ」
キッパリと言い切ったのはラビだった。
彼もリナリーと同じように、瞳を翳らせていた。
「それは、じゃない。“”になる前の、コイツだ」
「……ええ、そう。次に会ったとき、はもう、“”だったもの」
リナリーはそう言ってにこりと笑い、どんな顔をすればいいかわからなくなっているアレンを見た。
「とにかく初対面の印象が良くなかったのはわかってもらえたかしら。最初は兄さんを取られてしまったような気がしたの。今考えると恥ずかしいんだけど、子供じみた嫉妬ね」
「……恥ずかしいなんてことはありませんよ。たった二人の兄妹ですから」
「ふふ、そうね。それと、ただ単純に怖かったの」
そこでリナリーは眠るを見下ろした。
いつもより黒さを増した深い瞳で、そっと見つめる。
「近づくのも躊躇うくらい、あのときの彼女は恐怖に叫んでた。絶望のどん底にいた。あんなに必死に助けを求め、死を請う声を、私は知らなかった」
「………………」
「しばらく眠れなかったわ。怖くて怖くてどうしようもなくて。その後、彼女がどうなったかも聞けなかった。兄さんやグローリアさんも、話題に出そうとはしなかったの」
リナリーはの髪をさらりと撫でて、それから顔をあげた。
「だからびっくりしちゃった。次に会ったとき、あまりにも様子が変わっていたから」
話を聞くアレンとラビを見つめて、リナリーはそっと瞳を細めながら語る。
初対面から、ゆうに数ヶ月は経っていた。
事のはじまりはコムイだった。
ある日、彼はほがらかな笑顔でこう言ったのだ。
「お友達を紹介してあげるよ」
リナリーは一瞬、その言葉の意味を掴み損ねた。
それもそのはず、黒の教団はほとんどと言っていいほど男性しかおらず、女性もリナリーより年上ばかりだった。
けれどコムイは“同じ年頃の女の子”を紹介すると言ったのだ。
「そんな子がいるなんて、聞いたことがないわ」
リナリーは首を傾げた。
最近入団した人々の中にも、そのような人物はいなかったはずだ。
だからリナリーはますます混乱して、兄を見上げた。
けれどコムイは楽しそうに笑うばかりだ。
「いやぁ嬉しいなぁ。リナリーには同じ年頃のお友達が必要だと思っていたんだよ。あぁもちろん女の子のね」
「兄さん……」
「男の子なんてとんでもない!ボクの可愛いリナリーが奪われてしまうかもしれないじゃないか!!」
「兄さんってば」
「リナリー」
呆れた顔をしていたリナリーを、コムイは呼んだ。
その声は何だか今までと違って、少しだけ真剣味を帯びていたから、リナリーは驚く。
彼はリナリーの前に屈みこんで、その両肩にそっと手を置いた。
「仲良くしてあげてくれるかい?」
「え……?」
「出来る限りのことをしてあげたいんだ。あの子の許された時間の中で、人間としてのあらゆる幸福を与えてあげたい。それが、すべてが終わった後、彼女の生きる希望になるように」
「兄さん……?」
何だか切ないような兄の笑顔に、リナリーは瞬いた。
どうして彼がそんな表情をするのか理解できなかった。
リナリーはその疑問を尋ねようと口を開いたが、その時ちょうど司令室の扉がノックされた。
コムイはぱっと立ち上がって、「どうぞ」と言った。
訊く機会を失ったリナリーは、ただ扉を見つめた。
するとそれは少しだけ開いて、見慣れた美貌がひょこりとのぞく。
「グローリアさん」
驚いて名前を呼ぶと、彼女は微笑んだ。
「よっ、リナリー!お友達を連れてきたよー」
「ちょっと先生。何の話ですか」
軽く手を振ったグローリアの後ろで、聞きなれない声がした。
女の子の声だ。
空間に響く、綺麗なそれ。
けれどそこには、何だかとっても嫌そうな感情が混じっていた。
上半身をねじって背後を振り返ったグローリアに、その声が続ける。
「私は良いものを見せてくれる、って言うからついてきたのに」
「うっさい、馬鹿弟子。師匠に口答えしていいと思ってんの?」
「うっさい、ヘボ師匠。弟子に嘘ついていいと思ってるんですか?」
「いいと思ってるけど、嘘なんてついてないからな。お前は今すぐ自分の発言を後悔しろ」
「嫌ですよ、そんなもん。良いもの見せてくれないんなら帰ります。ラビと遊ぶ約束があるんで」
「ちょ、待てお前、まだあのガキとつるんでるのか?やめとけやめとけ」
「なんで」
「私がアイツのこと嫌いだから」
「人の親友つかまえてイキナリそれですか」
「だって嫌いなんだもんー」
「私もそういうこと言う先生嫌いですー」
「何だとこの馬鹿弟子、やるのかコラ」
「ぎゃーこの暴力師匠め、バイオレンス反対ー!!」
何やら激しいケンカが勃発したようだったが、リナリーにはグローリアの背中しか見えていなかった。
先刻から彼女と言い合う少女の姿は、まだ扉の向こうに隠れていたのだ。
けれどそこから響いてくる痛々しい音と大きな悲鳴に、コムイが呆れた口調で呼びかけた。
「おーい、グローリア。いつまで弟子とじゃれているつもりだい?」
「コムイ室長!」
その言葉を聞いて半泣きの悲鳴と共に、扉が蹴り開けられた。
「これのどこがじゃれてるって言うんですか!?」
そう叫んだ人物を見て、リナリーは目を見張った。
そこにいたのは金髪の少女だった。
光に輝く金の髪は、少しうねりながら肩にかかるくらいに切りそろえられている。
透けるような白い肌は興奮のためか、それともグローリアに引っぱたかれたためなのか、赤みを帯びていた。
ハッ目を惹くような整った顔立ちに、健康的な四肢。
けれど最も印象的だったのは、その金の瞳だった。
涙をにじませたそれは大きくて、美しい色に輝いている。
その少女は、将来の美人を確かに予想させる容姿をしていた。
しかし今の格好はいただけなかった。
グローリアと手加減無用でつかみ合い、髪を引っ張り合っている。
片足は高々とあげられ、下着が見えるのも構わずに蹴り開けた扉に突き立てられていた。
少女はグローリアに連続平手打ちを叩き込まれながらも、必死に叫んだ。
「これ!この暴力のどこがじゃれあいですか!コムイ室長、そのメガネ曇ってるんじゃないの!?」
「おぉ馬鹿弟子よ、お喋りとは余裕だな。でもそのへらず口は閉じといたほうがいいぞ。舌を噛み切りたくなかったらな!!」
「ちょ、待っ、ぎゃあ!痛い!本気で痛い!!」
「さぁもっと泣き喚け!私に逆らうとどうなるか、骨の髄まで叩き込んでやる!!」
「うんうん仲良しなのはわかったけどね。リナリーが引いてるからそのへんにしてあげてくれるかな」
あまりに激しい暴力の応酬に、リナリーはコムイの足にしがみついてしまっていたのだ。
普通の声音でスットプをかけられて、グローリアは殺人的な目でコムイを睨みつけた。
けれどその横で本当にリナリーが怯えた顔をしていたから、即座に態度を変える。
かなりぞんざいに金髪の少女を放り出して、リナリーに駆け寄ってきた。
「ごめんねぇリナリー。あの馬鹿がもう全然言うこと聞かなくってさ!」
「い、痛い……っ、何コレすごく痛い……!」
「おいコラいつまで泣いてるんだ、早くこっち来なさい!」
自分が投げ捨てたくせに、グローリアは床に転がっている少女にそう命令した。
少女はさんざん文句を言いながら身を起こし、それから部屋の中に駆け込むと、グローリアを無視してコムイの足に抱きついた。
「何で助けてくれないんですかコムイ室長!信じてたのに!私への愛情ってそんなものだったんですか!?」
「あーハイハイ。落ち着こうね」
「これが落ち着いてられますかぁ!ひどい人だよ、あなたひどい人だよ、私の純情な心を弄んだのね……、ってあれ?」
そこでようやく少女は、自分と同じようにコムイの足にしがみついているリナリーの存在に気がついたようだった。
大きく目を見張ってリナリーを覗き込む。
対するリナリーは戸惑いに瞬いていた。
しばらく二人は、無言のまま見つめ合った。
そうした後、金髪の少女が明るい声をあげる。
「か、かわいい!」
「え……?」
そのあまりの大声にリナリーはびくりと身をすくめたが、少女は慌てた様子でコムイの服を引っ張った。
「ちょ、コムイ室長!何この子、すっごくかわいいね!」
「うんうん、そうだろう?」
「だから言っただろう、良いものを見せてやるって」
コムイは満足そうに頷き、グローリアは誇らし気に胸を張った。
それからグローリアはしゃがみこんでリナリーの肩を抱いた。
言葉を失っているリナリーのかわりに口を開く。
「コムイの妹のリナリーだ」
「仲良くしてあげてね」
コムイも上から金髪の少女に言った。
金髪の少女は驚いた顔でグローリアとコムイを交互に見、それから恐る恐る口を開く。
「そ、それはこの可愛い子と将来的に素敵な家庭を築けとかそーゆーことで……」
「違うよ」
「その前に自分の性別を考えろ」
「赤い屋根の家で庭はお花がいっぱい、白い大きな犬と木で出来たブランコは絶対だよね!」
「いやいや、あのね?」
「お前の理想家庭論はどうでもいい」
「こ、子供は!子供はどうする、私は男の子と女の子を三人ずつが良いと……」
「聞け!!」
何やら顔を赤くして興奮したように喋り出した少女を黙らせたのは、グローリアの鉄拳だった。
大変痛々しい音が辺りに響き、少女はそのまま床に沈没する。
グローリアはそんな彼女を引きずり起こして、無理にリナリーと向かい合わせた。
「はいリナリー。初っ端からものすごく引いてると思うけど、これは私の弟子だ」
「こ、これ言うなぁ……っ」
頭をぐらぐらさせた少女が涙声で訴えたが、グローリアは軽快に無視した。
背後からの一撃で少女を黙らせ、リナリーに微笑みかける。
「名前は。本名は秘密。年齢は不明。出身は内緒。果てしなくうさんくさい奴だが、どうぞよろしく」
「ど、どういうことですか?」
困惑に眉をひそめながらリナリーが尋ねると、グローリアは平然と言った。
「んー?いや、いつまでもブックマンのところのガキとばかり遊ばせておくわけにはいかないからな。まともで可愛い女の子のお友達をつくらせようという、師匠の愛なわけだよコレは」
「い、いえ、そうじゃなくって……」
リナリーは背を丸めて痛みに悶えている金髪の少女を眺めた。
雰囲気がまるで違う。
明るく笑って、思い切り暴れて、自然な反応を返している。
少し行き過ぎている気もするが、それすらも親しみやすい魅力のようだ。
今や焼け焦げていた髪は綺麗に切りそろえられ、投げ出されていた手足は漆黒の団服に覆われていた。
あの時とはあまりにかけ離れた印象を受けた。
別人とさえ思った。
けれど瞳が同じだった。
リナリーがどうしても惹きつけられた、あの金の双眸。
「この子、あのときの……」
「違うよ」
思いがけず強い声で言われた。
グローリアはいまだに痛みに暴れているに、もう一撃喰らわせた。
それは悲鳴がうるさいとかそういうことではなく、この会話を彼女に聞かれたくないからのようだった。
「貴方とこの子は今日が初対面。はじめまして」
「でも……、私は」
「あのとき、貴方が会った女の子なら、死んだ」
リナリーは目を見張った。
グローリアが何を言っているのか、まったく理解できなかった。
死んだ?
そんな馬鹿な。
だって彼女は今、目の前にいるではないか。
「あの子はもう、どこにもいない。この子は。別の人間だよ」
「……………………」
「別の人間にならなければ、ここにはいられない。だからあの子を殺して、こいつは“”になった。それだけのことだ」
何を言っているんだろう、と思った。
意味がわからない。
納得ができない。
リナリーはどうすることもできなくて、コムイを見上げた。
コムイはそっと微笑んだ。
「まだわからなくていいよ。これは大人が決めたことだから。けれどそうする必要が、彼女にはあったんだ」
仕方がないと言うのなら、ねぇ兄さん。
どうしてそんなに切な気に笑うの?
それだけでリナリーにはわかった。
コムイはこの子に心を寄せて、胸を痛めている。
それだけの事情が、彼女にはあるのだろう。
それは子供でも悟ることが出来た。
大人たちはこの少女の処遇に頭を悩ませていた。
その解決策として、彼女は別の人間になることを選択させられたのだ。
あの時リナリーが会った、無反応な子供はもうどこにもいない。
けれど。
(それでも私は覚えてる……)
胸を突き破るような絶叫を。
心を揺さぶるあの哀しみを。
覚えているのに、それを全てなかったことにして、目の前の少女を違う人間として扱えというのだ。
そんなのはおかしい、とリナリーは思った。
自分は彼女を覚えているのに、まったく別人の顔をしたこの子を、示し合わせたようにそれとして接するだなんて。
そんなのは変だ。
自分にも、この子にも、公平ではない。
お互いに偽り合って、それを容認して、仲良くしろと言うのならそんなのは。
そんなのは……嘘だ。
「うう……っ」
が涙声でうめいた。
それを合図にグローリアはその体を引き上げて、再びリナリーの前に突き出した。
「ほら、挨拶しなさい」
「うー……」
はしばらく痛がっていたが、見つめてくるリナリーの視線に気がつくと、途端に笑った。
「はじめまして、でっす」
はじめまして?
違う。
そうじゃない。
そうじゃないのに。
正体のわからない怖気がリナリーを襲った。
存在を消されたのは目の前のこの子だったはずだったのに、その言葉がリナリーを否定した。
あのとき彼女を繋ぎとめようと、必死に微笑んだ自分をなかったことにされた。
兄の優しさも、グローリアの言葉も全部ぜんぶ。
(どうして?)
納得できない自分は、子供なのだろうか。
目の前のこの子はしっかりそれに順応して、微笑んでいるではないか。
ここで微笑み返すことの出来ない自分こそが、いけないのだろうか。
けれど、どうしても違和感がぬぐえなかった。
耳について離れない彼女の叫びがリナリーを縛っていた。
別人として、扱えるはずがなかった。
「え、っと。リナリーだっけ?よろしくね」
そう言って差し出された手を見て、リナリーは咄嗟にコムイの背後に隠れてしまった。
これ以上、を見ているのが辛かった。
思考が混乱して、頭が変になりそうだった。
あの時の子と、目の前の彼女は別人のようだ。
けれど別人では有り得ない。
私はそれを知っている。
見なかったフリなんてできなかった。
だからの笑顔が理解できなかった。
どうして今までのことをなかったことにして、別人のように振舞えるのかわからなかった。
リナリーは強くコムイに抱きついた。
何だか泣いてしまいそうだった。
必死に顔を押し付けて、それを隠した。
「リナリー?」
「あーあ……」
不安気なコムイの声と、嫌そうなグローリアの嘆息。
続けてグローリアが呟いた。
「やっぱり子供は敏感だな。そう簡単には受け入れないか……」
「…………そうみたいだね」
「ごめんねリナリー。うさんくさい弟子で」
「でもね、それはちゃんのせいじゃないんだよ」
優しく頭を撫でてくるコムイの手が暖かかった。
わかっている。
この子は何も悪くないのだろう。
大人が強制したことに従う、小さな子供なのだろう。
かつてリナリーがそうであったように。
けれど頭ではわかっていても、心では理解できなかった。
確固たる他人を、過去を、そして自分自身すら殺して別人になった彼女が、どうしても理解できなかったのだ。
「ブックマンのところのガキは単細胞で助かったのになぁ……」
「それは彼もまた、似たような境遇だからだろう」
「リナリーみたいな普通の子には、まだ難しいということか」
「うん……。大人たちはもっと厄介だろうね。何とかならないものかな」
頭の上で交わされる大人たちの会話。
そんな中、コムイの背に顔を押し付けたまま、リナリーは視線を感じていた。
金髪の少女が、じっとこちらを見ていた。
あまりにそうしてくるからリナリーが身じろぎをすると、彼女はハッとしたように差し出したままだった右手を引っ込めた。
それはそのまま宙をさ迷い、ふと思い出したように、スカートのポケットに突っ込まれる。
そしてそこから何かを大量につかみ出してくると、その手をまたリナリーのほうへと突き出した。
「あげる!」
「え……?」
の掌に乗っていたのは、色とりどりのキャンディーだった。
彼女は何となく視線を泳がせながら言った。
「えーっと今のはね、その……、これをあげようと思って!」
「……………」
「だから手を出したの!うん」
必死にそう言って何とか笑うの後ろで、グローリアが呆れたように口を開いた。
「お前……、握手を拒まれた気まずさをどうにかしたいのはわかるが、それはかなり苦しいだろう」
「………………先生ってアレですね。一言多いタイプですよね。ちょっと黙っててくださいよ!」
「そもそもそのキャンディーはブックマンのガキと食べるためのものだろう?」
「いいの!可愛い女の子にはお花かお菓子をあげるのが常識だって、ラビも言ってた!」
「お前たちは一体何の話をしてるんだ」
後ろで「あーだからあのガキとは遊ばせたくないんだよ」とかぶちぶち言っているグローリアを流して、は笑った。
その笑顔は今までと違って、少しだけ哀しそうだった。
「はい、あげる。甘いものを食べると、笑顔になれるから」
リナリーはどうしていいのかわからずに、ただを見つめた。
は受け取ろうとしないその様子に少し悩んだようだったが、そっと腕を伸ばして、リナリーの手を取った。
思わずびくりとすると、はキャンディーをそこに乗せて、すぐさま離した。
そしてもう一度笑った。
「ごめんね、怖がらせて」
それだけ言うと、はコムイとグローリアを見上げた。
「じゃあ私、約束があるので失礼します。…………いろいろと気を遣わせちゃったみたいでごめんなさい。ありがとうございました」
は微笑んでいた。
けれどその微笑に、コムイもグローリアも表情を消した。
ありとあらゆる感情が消え、踵を返し去っていくの後姿を見つめる目は、ただ哀しみに染まっていた。
途方もない罪悪と、そして理不尽なものに対する怒りが見えた。
それはひどくゆるやかで、静謐で、同時に激しい炎のようだった。
「……アイツは何も考えていないような顔で、時々あんな言葉を吐くんだ」
それこそ吐き捨てるようにグローリアが言った。
の出て行った扉を苛烈な瞳で睨みつける。
「嫌なガキだよ、本当……。たまに絞め殺してやりたくなる」
「………………」
「そうしてやったほうが、アイツのためかもしれない」
「グローリア」
「冗談だ」
咎めるように名を呼んだコムイにグローリアは片手を振ったが、とてもそうは聞こえない口調だった。
言い聞かせるようにグローリアは続けた。
「大人が決めて押し付けた運命を、あの娘は生きると言った。私はそのうえでアイツを引き受けたんだ。途中で投げ出すわけにはいかないだろう」
そっと細められる、蒼い双眸。
「あんなひどい選択を強制させた。そのきっかけを作ったのは私だ。その責は負うさ」
「………………それだけではないだろう」
囁くようにコムイが告げる。
「それだけでは、彼女の人生を一緒に背負うことなどできないよ。グローリア、君は……」
「買いかぶりだ、コムイ」
グローリアはコムイの声を遮り、一度リナリーの頭を撫でると、扉に向かって歩き出した。
「私はそんな優しい人間じゃないよ」
「グローリア……」
「リナリー、今日はごめん。またね」
グローリアは優しくそれだけ告げると、振り返ることもなく司令室から出て行った。
重圧を伴った空気だけが残された。
リナリーはコムイを見上げた。
彼はやはり哀しみに満ちた瞳で、吐息をついたのだった。
「ごめんなさい、兄さん……」
自分でも説明しきれる感情ではなかった。
けれど、どうしてもあの時のことが忘れられない。
知らないフリなんて出来なかった。
嘘を重ねて、仲良くするなんてことは。
コムイはそっと微笑んで、リナリーを腕に抱き上げた。
「謝ることはないよ。その感情は、今はまだどうすることもできないものだから」
暖かい体温に包まれながら、リナリーは静かに目を閉じた。
「けれどリナリー。それと同じように彼女もまた、どうすることもできない所に立っているのだということを、どうか知っていて」
それは祈りのようだった。
切なさが胸を侵していった。
苦しくて苦しくて、縋るように兄に抱きつく。
リナリーは掌にある溢れるほどのキャンディーを、ぎゅっと握り締めた。
「そのキャンディー!!」
唐突にラビが叫んだ。
アレンは本気で驚いて、ソファーから少し腰を浮かしてしまった。
「コイツひとりで全部食ったって言ってたのに!あの後ちょっと喧嘩したんだぜオレ達!!」
「あら。そうだったの?」
「何だよ、のヤツ言ってくれればいいのにさー!約束してたのに、って怒ったオレ嫌な奴じゃんか、もー!!」
ラビは幼い自分の所業にショックを受けたのか、ソファーに倒れこんでジタバタした。
振り回される足が邪魔で、アレンは片手でそれを押さえつける。
「ちょっと、ラビ……」
「それは知らなかったわ。ごめんなさい」
口元に手をあてて謝罪するリナリーに、ラビの動きが止まった。
アレンはホッとして掴んでいた足を離す。
するとラビは身を起こして、苦笑した。
「別にリナリーが謝ることじゃないさ。が何となく言いづらかったのもわかるし」
そうして翡翠の瞳を少し伏せた。
「幼いリナリーがを受け入れられなかった、って言うのもわかる。子供っていうのは素直で正直で、まだ世界を知らなすぎるから、大人たちの事情をうまく呑み込めないもんなんさ」
「そうね……。私は少し前まで感情を吐露して、気が触れるまで泣き続けていた。兄さんが救ってくれたけれど、もしそうでなかったら、私は悲しみを押さえきれずに壊れていたと思うわ」
「………………」
「私の中の感情はそういうものだった。押さえきれない激情だった。子供過ぎたのかもしれないけれど、あのとき絶望に叫んでいた女の子は、そんな私と同じだと思ったの」
リナリーは少しうつむいた。
長い黒髪がさらりと落ちて、その膝で眠るの顔を翳らせた。
「けれど、二度目に会ったときその子は微笑んでいたから、わからなくなった。そんなに簡単に絶望を押し殺してしまえるものなのか。事もなく別人の顔ができるものなのか。不安になったの。私にとって確かな感情が否定されて、足元が崩れてしまうようだった。だからどうしても」
幼い、私は。
「どうしても、をわかってあげることが出来なかった……」
泣いているのだと、アレンは思った。
その当時リナリーの胸で、金髪の少女は全てを揺さぶる哀しみだった。
慟哭する子供こそが、その存在の象徴だった。
それは彼女が“”になった後でも変わらないほど、強烈にリナリーを縛っていた。
リナリーの知る“”のすべては、初めて会ったときの孤独な少女。
だから彼女が、その何もかもをなかったことにして微笑んでいる違和感に、耐えることができなかったのだ。
それを認めてしまえば、子供だったリナリーは崩れてしまう。
認識を否定され、感情を歪められ、己を見失ってしまう。
だからリナリーは、から目を逸らした。
怖かったのだ。
不安定になる自分の世界に、全身を竦ませてしまったのだ。
リナリーは自分の膝に散るの髪をいじりながら言った。
「それからはね、何だかずっとから逃げていたわ。傷つけたくはないから、それと気づかれないようにしていたつもりだけど……。はわかってたみたい。必要以上に傍に来ようとはしなかった。会ったときは笑って挨拶をしてくれたけれど、それ以上踏み込んではこなかったの」
「そういや、あのころとリナリーが仲良く話してるところなんて見たことねぇさ」
「ね?私がを苦手だったって、これでわかってくれた?」
笑顔で問いかけられて、アレンは何だかぼんやりと頷いた。
幼いリナリーの気持ちもわかるが、当時のに対する周囲の反応に、少なからず戸惑いを覚えていたのだ。
予想できていたこととはいえ、まさかここまで異端視されていたなんて……。
アレンは何だか沈んでしまった気分で、それでも声を励まして訊いた。
「それで……どうしてそんなを、今みたいに好きになったんですか?」
「うふふ、それはね」
リナリーは瞳の色を深めて、話を再開した。
聖堂に哀号が満ちていた。
数えきれない棺の群れが床を埋め、残酷な現実がその場を支配する。
仲間が死んだのだ。
たくさんたくさん、死んだのだ。
その事実がリナリーを完膚なきまでに痛めつけた。
世界の一部が崩壊していく。
音もなく、跡形もなく、滅びていく。
恐怖が足元を燃やし、無力さに膝が砕けた。
消えていった命に縋り付いて、声の限りで泣いた。
誰もが悲しみを叫んでいた。
けれどそんな中で、だけは泣かなかった。
涙を見せなかったのは師であるグローリアも同じだったが、彼女は胸の前で十字を切り、手を組んで死者に哀悼の意を表した。
その傍らでは、ただ慟哭する団員達を眺めていた。
無表情に、目の前の悲劇を見つめていた。
「」
グローリアが呼んだ。
聖堂から去るために、彼女を促したのだ。
けれどは首を振った。
「もう少し、ここにいます」
「居てどうするんだ」
「それがきっと、“”には必要だから」
「……………………」
わけのわからない返答だった。
けれどグローリアは少し目を細めて、そのまま踵を返すと、ひとりで聖堂から出て行った。
彼女の高い踵が音を響かせて遠ざかっていく。
はそれでも言葉通りそこに残っていた。
何をするでもなく、ただひたすらその場所に立っていた。
すべてが崩れ落ちた哀しみの中で、いまだその顔に表情は発生しない。
は異質だった。
哀惜に満ちた聖堂の中で起立する、たったひとつの孤独だった。
リナリーは涙の中で思った。
なんてひどい人なんだろう。
仲間が死んだのに、何も感じていないのだ。
涙もなく、哀悼の意もなく、ただそこに立って、死んでいった彼らを見下ろしている。
彼女はやはり別人になのだと、リナリーは強く意識した。
認めることは出来なくても、変わってしまったのだと理解させられた。
何故なら“”になる前の彼女は、誰よりも絶望を知っていたからだ。
哀しみに叫び、悲鳴に喉を塞がれていた。
今の自分と同じように。
けれど“”はそれをまるで忘れてしまっている。
感情を失くしてしまっている。
やはり、受け入れられない存在なのだと思い知らされた。
リナリーにはがわからなかった。
にもきっとわからない。
どうして自分達が今、これほどまでに泣いているのかなんて。
ひとり何をするでもなくそこにいる彼女に、他の団員達も確かな不審を感じているようだった。
そしてそれは徐々に怒りへと変質していった。
誰かが露骨に囁いたのが聞こえた。
「泣くのでもなく、哀悼の意も表さないのなら、どうしてここにいるんだ」
「何も感じないのなら、アイツが殺されればよかったのに」
「あんな身元のわからないガキ、死んだってそれこそ誰も悲しまない」
絶望のあまり抑制のなくなったその声は、にも聞こえているはずだった。
けれど彼女は、やはり何の反応もしなかった。
ただじっと、その金の瞳で、死んでいった仲間達を見つめていた。
そして投げられる侮蔑の視線と言葉の暴力を、その身に刻み続けていた。
目が覚めると辺りは闇だった。
ベールのように重く黒い夜の帳が、聖堂を覆っていた。
リナリーは涙で張り付いた顔をあげた。
棺に突っ伏したまま、いつの間にか眠ってしまっていたようだ。
涙で腫れた瞼を開けていられなくて、目を閉じていたのがいけなかったらしい。
すでに聖堂には人影がなかった。
それもそのはずだ。
あれからもうずいぶん時間が過ぎていることは、考えなくてもわかった。
リナリーは哀しみに淀んだ頭で、帰らなくちゃ、と思った。
きっと兄さんが心配してる。
気を遣ってそっとしておいてくれたのだろう、だからこそ早く姿を見せてあげないと。
そう思って立ち上がろうとしたところで、リナリーは目を見張った。
自分の肩にかけられた、漆黒のコート。
冷える体を優しく包み込んでいたそれは、するりと背を滑って床に落ちた。
そしてリナリーは彼女の存在に気がついた。
十字架の下に、が立っていた。
く、暗い……!
基本的にヒロインの過去は暗いのですが、今回はそれがモロに出てますね。(汗)
そんな境遇を簡単に受け入れたヒロインが、リナリーには理解できないのです。
仲間が死んでもヒロインが泣かない理由は『荊を抱いて』でも言っていましたが、このころの理由とは少し違います。
彼女もまだ子供ですからね。15歳前後の今よりも、もっといっぱいいっぱい。
自分を保つことに必死なのです。
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