誰がつむじ曲がりと呼んだの?
嘘なんてついてないわ。
お庭には銀の鈴と貝殻と、女の子が並んでる。
仲良く咲いているのよ。
ねぇ、脳内に広がるお花畑。
● マザーグースは放課後に EPISODE 5 ●
食堂に入った瞬間、皆が一斉にこちらを見た気がした。
被害妄想だ。
そうわかっていてもは気分が重くなるのを感じて、誰にも聞こえないようにため息を漏らす。
どうにもこの雰囲気には慣れない。
任務のことを抜かせば、一生通えないと思っていた学校だ。入学は素直に嬉しかったし、授業で学ぶことは楽しい。
おまけに神田やラビといった、仲の良い友達まで一緒なのだから、文句のつけようがなかった。
けれど、何と呼ぶべきかな。
同じ年頃の人間が集まることで生まれる、この奇妙な連帯感は。
皆が皆、同じ方向を向くことを望んでいる。
それが善いほうならばまだしも、嫌なほうにいくこともしばしばで、個人主義の中で育ったとしては辟易ものだった。
重視されるのは“共有”。
彼らはこの閉じられた世界で、同じ感覚を持つことに、驚くほど重きを置いているのだ。
それも、とても無責任に。
つまり共有される事柄の真偽は、さほど気にされていないのである。
「!」
カウンターで夕食を受け取っていると、背後から呼びかけられた。
振り返ればクラスメイトの一団が手招きをしている。
正直に言って、行きたくない。
そういうわけにもいかないから、はそちらに足を向けた。
「こっちこっち」
テーブルの隅っこに腰かけようとしたら、強引に背を押されて真ん中に座らされた。
左右をがっちりと固められる。
眼前にいる女子生徒が周りを代表するように口を開いた。
「ねぇ、とアレンくんって」
ああ、やっぱりその話。
スプーンに手を伸ばしていたは、続きを察して一気に食欲を失くした。
「付き合ってるの?」
「そうなんでしょ」
「放課後の教室で、キスしてたって聞いたわよ」
そこでキャーッと楽しげな悲鳴があがった。
キスという単語が恥ずかしいのか嬉しいのか、とにかくはしゃいだ調子で繰り返される。
小突きまわされてスープがこぼれそうになった。
「あんた、神田先輩とラビ先輩はどうしたのよ」
「どちらも友人だって言ってたのは本当だったわけ」
「てゆーか転校二日目の男の子とキスって、展開早くない?」
あちらこちらから言われる間も、は冷静に考えていた。
さて、どう答えようかな。
こうやって直接訊いてくれるのはまだいいほうだ。釈明の余地がある。
もちろんこちらの言い分を信じてくれるかどうかは別だけれど、会話にも参加せず関心のない振りをして、あることないこと吹聴する輩だっているのだから。
「で?キスしてたのは本当なの?」
少しだけ低い声で問われて、は顔をあげた。
返事をしようと口を開く。
その後ろから言われた。
「本当ですよ」
唐突に聞こえてきた肯定に、本気でぎょっとして、急いで背後を返り見た。
案の定そこに立っていたのは制服姿のアレンだ。
唖然とするにちょっと肩をすくめてみせる。
「予想以上にすごいね。ここまで話題になってるとは思わなかった」
言うわりには深刻さが足りない。
その証拠にアレンは身を乗り出すと、の皿からエビフライをつまみあげた。
了承も取らずに自分の口へと放り込む。
「そんなに気にされることかな?」
もぐもぐしながら首を傾けるのを見て、は別の意味で驚いていた。
自分の前でだけならまだしも、英国紳士の彼が結構お行儀の悪いことをしている。
つまり、もういろいろと隠す気はないということだろう。
「……へぇ、噂は本当だったんだ」
がいつもの癖でアレンの世話を焼いていたら、クラスメイトたちが質問を再開した。
油のついた彼の手を拭くのを止める。
「つまり、あなた達は付き合ってるのね?」
「いいえ」
あっさりとアレンは応えた。
「僕たちは別に恋人同士というわけではありませんから」
「……?どういうこと?」
「僕が一方的に好きなだけですよ」
相変わらず当たり前のように言うアレンに、は何故だか胸がざわめくのを感じた。
恥ずかしくなったわけではない。
むしろ頬から熱が引いた。
アレンの笑顔に別のものが込みあげてくる。
「僕はを口説いている最中なんです。だからキスをした。それだけですよ」
それだけって、と本人は思う。
「興味があるのならお聞かせしますけど。本来これは僕たち二人だけの話なはず」
アレンはさらりとの頬を撫でると、その場にいる誰に対するでもなく告げた。
「間違っても野暮なことはしないでください。ね?」
そうして指で辿った部分に唇を寄せてきたから、は勢いよく立ち上がった。
アレンの腕をガッと掴む。
目を瞬かせる彼をそのまま引きずって歩き出す。
「?」
「ちょっとこっち来て」
興味津々の視線。こそこそと囁く声。露骨なからかいの言葉。
はそれを全部無視して食堂を突っ切ってゆく。
出入り口のところでルイスと鉢合わせた。
誰も彼も問答無用で突破してきたのに、彼女には真正面から行き当たってしまったから、思わず足を止めてしまう。
ああ、何てタイミング。
アレンも同じことを思ったのか、取り成すように「こんばんは」と言った。
ルイスは彼に挨拶を返した後、を見て目を細めた。
「なぁに、その頭」
てっきり噂話のことで嫌味のひとつでも貰うと思っていたは、咄嗟に反応できなくて困った。
ルイスは二人の繋がれた手を一瞥したけれど、そこには触れずに金色の三つ編みを指差す。
アレンが結んだぐちゃぐちゃなおさげをだ。
「きちんと結い直しなさいよ。みっともない」
呆れの吐息だけを残すと、彼女はさっさと食堂に入っていった。
何となく二人で振り返る。
一番に噛みついてくると思っていた人物が、そんな素振りを少しも見せなかったので、毒気を抜かれた気分になったのだ。
周囲が改めて噂話を聞かせているようだったけれど、ルイスは「興味ないわ」と一蹴していた。
「……何というか……、無駄に警戒してすみません、って感じですね」
アレンが呟いたからは頷いた。
心の中でルイスに謝って、まだ彼女を見ているアレンの手を引く。
廊下の隅まで連れていくと、三つ編みを翻して向かい合った。
「ねぇ、ルイスさんにも言われたけど、やっぱりその頭なんとかしたほうが」
「それだけって何よ」
口を開いたら予想以上に固い声が出た。
アレンの言葉を遮ってしまったから、余計そんな風に聞こえる。
見開かれた銀灰色の瞳に、は拳を握った。
「好きだからキスするんだって、それだけのことなんだって、アレンが言うのなら」
何だろう、この気持ち。
呼び名がわからない。
初めて抱く感情を、どう扱えばいいのか、見当もつかない。
「それこそ本当に、私たちだけの話でしょう。他の人に見せたり語ったりしないで」
急にわがままを言っている気分になって俯いた。
みっともない。
ルイスの声が耳の奥で再生される。
そう、こんなことを口にするなんて情けないことだ。
けれど同じくらいの強さで、正体の知らない感情が、胸の内をぐるぐる回っている。
「それって」
アレンが長いため息をついた。
「他人の目が恥ずかしいとか、そういう可愛い理由じゃないんだろう?」
伸びてきた手がの三つ編みを掬いあげた。
指先が結び目にかかる。
は咄嗟にそれを掴んで止めた。
「だめ。解かないで」
「僕だって別に、見せつけたいわけじゃないよ」
「………………………………」
「ただ、一番知られたくなくて、知ってほしかった君が、もう了解しているっていうのに。他の人を気遣う理由が思いつかないだけだ」
「……私は?」
どうして、こんな。
ひどいことをされている気分になるの。
ひどいことをしている気持ちになるの。
は自分に愕然としながら呟いた。
「私の心は」
どこに在るの。どこに向かうの。
どうすれば、いいの。
ねぇ“”。
「どうなるの?」
そんな言葉をこぼしてしまった瞬間、アレンにおさげをほどかれた。
緩んだ結び目からゆっくりと、順に編み目が壊れてゆく。
ある種優雅なその動きにの瞳は囚われる。
「ごめんね」
アレンが優しく囁いたから、唇を強く引き結んだ。
わずかに残った三つ編みの部分を撫でれば、ぼさぼさした髪の感触がした。
それが余計にの心をささくれ立たせる。
「キス禁止」
これ以上ほどけないように握りしめながら、は喉の奥で低く呻いた。
驚いた顔のアレンを見上げて宣言してやる。
「もうキス禁止!」
「……え?な、なんで?」
「噂になって注目されちゃうからよ!!」
は気持ちを持て余して、強く床を踏み鳴らした。
「私が必死に目立たないようにしてるのに!何なのよ神田もラビも、アレンも、みーんなマイペースに振る舞っちゃって!これが隠密捜査だってわかってるの!?」
一度火が点いてしまえば止められなくて、はひと息にまくしたてる。
あまりの剣幕に冷や汗をかいているアレンへと言い渡す。
「いい?今度無断でキスしてきたら、絶対に許さないからね」
「…………………………、まぁ。任務に支障が出るっていうのなら」
アレンはアレンで思うところがあったようだけれど、据わった目で凄むの勢いに押されて、渋々ながらも頷いてくれた。
それを見てもう一回床を蹴り鳴らす。
肩をいからせてアレンの横を通り過ぎたら、悔し紛れみたいに言われた。
「君を前にして、僕が我慢できるかはわかりませんけど!」
は無言で振り返った。
アレンはふんっ、と鼻を鳴らして笑った。
英国紳士とは思えない顔だ。
「約束なんてできませんよ」
「……そう。だったら」
は手を伸ばしてアレンのネクタイを掴むと、力づくで引き寄せて顔を突き合わせる。
額がぶつかりそうだ。実際に前髪が触れる。
夕暮れの教室と同じように、キスをする寸前の距離で、不敵に微笑んでやる。
「やってみればいい。二度とキスできないくらい、噛みついてあげるわ」
はアレンの口唇に指を当てると、軽く押して突き放した。
掌の上でネクタイを滑らせる。
そのまま流れるように開放すると、笑顔で睨み付けてから歩き出す。
もう彼を振り向かなかった。
頬を真っ赤に染めたアレンに、少なからず満足している自分を、顧みたくなかった。
己の身に起こったことを認識したあと、は何はともあれ「良かった」と思った。
真上から嘲笑が降ってくる。
楽しそうなふりをして、芯の冷たい笑い声だ。
「あら、そんなところにいたの?気付かなかったわ」
「ごめんなさいね。貴女があまりにも慎ましやかでいらっしゃるものだから」
「私たちの視界には入らなかったの。どういうわけだか、男性の目には映るようだけど」
は片手を持ち上げて、額に貼りついた前髪を掻き分けた。
ぽたぽたと滴り落ちる雫。
顎の先や服の裾から落下して、地面へと溜まってゆく。
良かった、と思う。
浴びせられたのがただの水で。
これが飲料や泥だったなら、制服がだめになってしまうところだった。
「ソロモン様に気に入られただけでも不相応なのに」
「神田先輩にラビ先輩、あげく今度は転校生?」
「どれだけの男性に取り入れば気が済むのかしら」
は重くなった三つ編みを払いのけると、顔をあげて校舎の二階部分を仰いだ。
渡り廊下から外に出た瞬間、そこから水を浴びせられたのだ。
確認してみると女子生徒たちがバケツを手に持っていた。
本当の出自は知らないけれど、仮にも名門校に通うお嬢様が、そんなものを抱えているなんて。何だか妙な感じだ。
わざわざ水を汲んで来たのかな。窓辺まで運ぶのは重たかったでしょうに。
「尻軽女。“偽物”はさっさと学園から出て行きなさい」
最後にそれだけ吐き捨てて、女子生徒たちは窓から顔を引っ込めた。
はため息をついて肩を落とす。
水を浴びせてきた全員が全員、見たことも話したこともない面々だったからだ。
「さて。どうしようかな」
気にしても無駄だなと思って、はすぐさま後のことを考え始めた。
早く制服を乾かさないと。
けれど、人目のつくところでずぶ濡れの姿を晒しているのもなんだ。
は少し逡巡したあと、踵を返して歩き出した。
校舎の裏手を通って木立を抜ける。
建ち並ぶ棟から離れた場所だから、授業が終わったばかりのこの時間は、まだ誰もいないはずだ。
そう推測してが足を踏み入れたのは、ドーム型の巨大な温室だった。
半円を描く鉄枠の骨組みに、幾何学的なガラスがはめ込まれた外観。
中はむっと暑い。
目立つのが熱帯植物ばかりだから、きっと温度もそれに合わせているのだろう。
此処に居ればびしょ濡れの制服もすぐに乾くはずだ。
誰かが来ても大丈夫。伸びに伸びた緑の覆いが、の味方をしてくれる。
「よいしょ、っと」
ドームの天井にも届きそうな巨木の根元に腰を下ろした。
上着を脱いで枝に掛ける。
ブラウスまでぐっしょりだったから、下着もろとも肌から剥がしてしまいたくなったけれど、ぐっと我慢した。
さすがに外だ。問題があるだろう。
胸元のリボンを取ってボタンを外す程度に留める。
袖口を絞ったら結構な量の水が落ちてきたので、さすがにイラッとして眼鏡を放り出した。
三つ編みも乱暴にほどいて地面に寝そべる。
「誰にも取り入ってなんかいませんよー、っと」
女子生徒たちに言われたことを思い出して、呟いた。
どうしてそういう考えになるんだろう。
ソロモンに関してはとしてもよくわからない。
けれど、神田とラビは友人なのに。
学園に来てみて思い知らされた。自分くらいの年頃の男女は、気安く友情など結ばないのだ。
そして、彼らの基準以上に仲良くしていると、それはすなわち恋愛関係だと決めつけられる。
おかげでは神田とラビに二股をかけていると噂されたし、アレンに至ってはもう勝手に確信されていた。
「……………………………」
はまたイラッとして、見上げた先を睨みつけた。
丸い天井ガラスの向こうを飛んでゆく鳥の群れ。
その羽根の動きと同じくらい、心中がゆっくりと揺らぐ。
「理事長の息子にすり寄って、美形留学生と不良のボスを二股して、転校生をたぶらかすとか。とんだ悪女よね、私」
自分で言って自分で笑った。
乾いた笑みにしかならなかった。
「そりゃあ目障りだって、水も浴びせちゃうか……」
雫を纏った毛先を持ち上げて、陽の光に透かしてみる。
ほどけた三つ編み。壊したのはアレンの指先。
あのとき漠然と理解した。感情の名はわからなくても、これだけは悟ることができた。
アレンにおさげを解かれたとき、私は“傷ついた”のだ。
それこそ見ず知らずの女の子たちに、水を頭から浴びせられるよりも、ずっと。
「どうして」
思わず疑問を口にして、きつく唇を噛み締めた。
自分の髪の毛を振り放す。拳を作って目元に押し付ける。
は植物の匂いのする空気を肺いっぱいに吸い込んだ。
「弱虫」
“”で“私”を嘲って、変な気持ちを追い出そうとする。
そんなことよりも思考しなければいけないことはたくさんあるのだ。
早くクック・ロビンの正体を暴き、イノセンスを奪還しなければ。
「誰?」
そのときふと気配を感じて、は呼びかけた。
しまった、声を出すんじゃなかった。
相手はまだこちらに気が付いていなかったのだから、そのまま退散すればよかったのに。
緑に隠れられる有利さを自分から台無しにしてしまった。
余計なことを考えていたせいだと内心舌打ちをして、は身を起こすとブレザーに手を伸ばした。
濡れた姿は極力見られたくない。
水に透けたブラウスを庇いつつ、垂れ下がるバナナの葉の向こうを見つめる。
そして姿を現した人物に目を見張った。
「メアリー?」
「ちゃん?」
二人は同時に互いを呼んだ。
あまりにも綺麗に声が重なったから、は何となく微笑む。
女性相手なら、ましてやメアリーになら、隠す必要もないだろう。
は再びブレザーを干しに戻して、下草の上に寝転がった。
「誰が来たのかと思っちゃった。こんなところでどうしたの、メアリー。放課後にピアノのない場所にいるなんて珍しいね」
「わ、私は静かな場所で楽譜を読もうと思って……。ちゃんこそどうしたの?」
メアリーは驚きから立ち直ると、の傍に膝を折って座った。
「ずぶ濡れじゃない……」
「局地的に降る雨に好かれちゃって。メアリーが一緒にいてくれたら、あいあい傘でもしたかったな」
「…………………………」
「乾かすついでに日向ぼっこしてるのよ。このまま昼寝もいいかもね」
「……ちゃん」
「ヘイ、彼女!一緒にどう?」
冗談めかして言いながら、これはいけないなと思う。
学園では女性を口説かないと決めていたのに、誤魔化すためについそんな調子になってしまう。
しかもメアリーが笑ってくれないから、としては苦しくて、笑顔を深めるしかない。
「なんてね。楽譜を読みに来たんでしょ?私のことは気にせずに……」
「あ、あのね」
どもりながらも遮られて、はメアリーを見る。
「あのね。こ、こんなこと言いたくないんだけどね」
「……うん」
「ひど、……ひどく、なると思うの。これから、もっと」
は無言で頷いた。メアリーも小刻みにそうする。
「ちゃんが、ソロモン様や先輩たちに、き、気に入られる理由を」
「…………………………」
「みんなに、見せない、限り」
そこではぁっと吐息をついて、メアリーは俯いてしまった。
「私のときもそうだった」
膝の上で握り締められた彼女の手に、はそっと掌を重ねた。
過剰に反応されたけれど拒絶はなかった。
優しく力を込めると握り返してくれる。
メアリーはの手を遠慮がちに包み込んだ。
「ありがとう、メアリー」
は微笑して、金色の瞳を伏せた。
「がんばるね」
「……ソロモン様とは、な、何かお話、した?」
「ううん。相変わらず黄金の午後のお茶会に誘ってくるだけ」
「先輩たち、は」
「友達だから。何も言わないけど、心配してくれてると思う」
「転校生の、彼は?」
「…………………………」
問いかけにアレンの顔が浮かんできて、は指先から力を抜いた。
メアリーが躊躇いながらも引き留めてくれる。
「あのね、メアリー」
暖かな体温を感じながら目を閉じた。
「女の子の意見を聞かせてほしいんだけど」
「え……?」
「他人に向かって、“自分は君に片思いをしてます”って言われて」
「う、うん……?」
「ちょっと傷ついた気持ちになるのは……何でなのかな」
は囁きながら気づく。
メアリーに見解を求めておきながら、本当はただ聞いて欲しいだけだ。
こんなこと神田にもラビにも、もちろんアレンにも言えないから。
(リナリーやミランダや、本部の女友達になら、相談できたのかな)
ぼんやりそんなことを考えていたら、顔を覗き込まれる気配がした。
瞼を持ちあげてみると、寝転んだの視界に、メアリーがおずおずと登場してくる。
同じような調子で言われた。
「……ちゃんは、彼のことが嫌いなの?」
「ううん。友達だもの」
「じゃあ、こ、好意を、迷惑だと思ってる……?」
「まさか」
「それじゃあ、ね。きっとね」
そのときメアリーは不思議な表情をした。
最初は泣き出すのかと思った。けれど口元は微笑んでいる。
眼差しには愛おしさのようなものが混じっていた。
「ちゃんは、その人が“片思い”だって言ったことが、哀しかったのよ」
メアリーの指先が伸びてきて、頬に貼りついた金髪を払ってくれた。
「事実一方通行の想いだったとしても、わざとそれを口にされたのが、嫌だったんだと思う……」
「……………………………」
「片思いってね、つらいものだもの。そんなことを、好きな子の前で、他の人に言うなんて。自分を無為に傷つけるだけよ」
「……。私が」
はメアリーに手を握ってもらったまま、寝返りをうって彼女の膝に寄り添った。
「私が“尻軽女”って、呼ばれてること、言っちゃったの。だからきっと」
アレンは他人に見られてもキスを止めなかった。
あっさりと、何も気にしていない風に、「僕が好きなだけ」だと言った。
それは全部を庇うためで、代償として彼は“アレン”を誤魔化したのだ。
自分の痛みをやり過ごすための笑顔。
の大嫌いな、仮面の微笑みだ。
「まぁ、あんまり効果なかったけどね!」
はずぶ濡れの現状を思い出して、目元を擦りながら無理やり笑った。
メアリーも苦笑してくれたから、今度こそちゃんと微笑む。
勢いよく起き上がって、自分の指先に絡むメアリーのそれを、胸元に引き寄せた。
「うん。私がどうすればいいか、わかった気がする。あなたのおかげよ」
「そ、そんな……」
「本当にそうなんだから!メアリーはすごいね。人の気持ちがわかるんだね」
「私は何も……」
「やっぱり自分も恋をしているから?」
メアリーが頬を朱に染めて黙り込んだから、は確信を持ってこっそりと耳打ちした。
「ソロモンが、好きなんでしょう?」
途端にメアリーはバッと体を引いて距離と取ろうとした。
けれど座った状態では逃げられなくて、勢い余って後ろに倒れそうになったところを支えてやる。
あわあわと口を動かす彼女に、は自然と笑み崩れた。
「当たりだ。やっぱり」
「そっ、なっ、あ……ぅ」
「ソロモンと喋ったあと、いつもちょっとだけ赤くなってるもんね」
「ち、ちが……っ」
「メアリー可愛い」
顔を真っ赤にして狼狽える様子に抱きつきたくなったけれど、まだ制服が半渇きだったから我慢した。
代わりのようににこにこ笑う。
「いいなぁ、恋する女の子って素敵だなぁ」
「……ちゃん、は」
「私?あ、ソロモンとは何でもないよ。構ってくれるのもきっと理事長の息子としての責任感というか」
「そ、そうじゃなくて」
「ん?そうじゃなくて?」
「恋、してない……の?」
探るような上目づかいで問われて、はゆっくりと表情を消した。
否、消えてしまったのだ。
よくわからなかった。
笑顔が保てないわけも、即座に応えられない理由も。
「ソロモン様にも、先輩たちにも、転校生の彼にも?」
メアリーの瞳の色。眼差しが突き刺さる。
彼女の眼光はこんなにも強さを持っていただろうか。
「本当に?」
質問は詰問。
適当には逃れられない拘束力を持っている。
「恋なんてしていないよ」、早くそう口にしたいのに。
微笑んで、当たり前のように、そう言わなければいけないのに。
明白なはずの返答は舌を貫いて、ぎこちなく縫い止めてしまった。
「……ぁ」
小さく吐息をつき、何とか口を動かす。
「私、は」
そこで感覚の隅に引っかかりを覚えて、勢いよく横手を振り返った。
淡褐色の双眸と出合う。
彼は瞼を押し開いて、一心にとメアリーを見つめていた。
「ジャ、ジャック?」
「続けて」
だいぶ離れたところで腹這いになっている少年の名前を呼べば短く返された。
それは遠慮による発言ではないだろう。
どちらかというと要求に近い響きを持っていた。
ジャックは手元も見ずに、地面に置いたスケッチブックへと、素早くコンテを擦り付けてゆく。
「ジャックくん、また……!」
メアリーが非難するように言って立ち上がった。
途端にジャックが嘆きの声をあげる。それでも手は止まらない。
「何で動くんっスか!今いいところだったのに!」
「か、勝手に絵のモデルにしないで!」
「絵のモデル?」
がきょとんと聞き返すと、ジャックは起き直って胡坐をかいた。
ぶつぶつ文句を言いながらスケッチブックを捲る。
ちらりと見えたそこには、確かに向かい合うとメアリーの姿が描かれていた。
「うわぁ、すごい。上手」
は素直に言ってしまったあと、絵画の特待生に向かって何て間の抜けた発言だろうと思った。
一人で勝手に照れつつジャックに問う。
「どうしてここに?」
彼はたった今来たばかりだろう。
でなければ、ももっと早くに察していたはずだ。
いくらメアリーに意識を向けていたからといって、そうそうエクソシストは気配を逃さない。
ジャックはまたコンテを紙上に滑らせながら言った。
「別に。メアリーさんが此処に向かったはずだって聞いたから」
「メアリーが?」
「俺、好きなんっス」
「?温室が?あ、絵を描くことか」
「メアリーさん」
「……うん?」
「メアリーさんが好きなんっス」
当たり前のようにそう告げられたので、は少しの間理解できなかった。
言葉の意味を呑み込んで、横目でメアリーを窺う。
彼女はソロモンの話をしたときとは対照的に青ざめた顔をしていた。
どうやら怒っているようだ。
「そういうことを言うのも止めて……!」
「何で?ほんとのことっスよ」
「ジャックくんのいう好きは、きょ、興味本位の、好きでしょう!」
「好きは好き。それだけ。こうやって絵の中に閉じ込めたいくらいにね」
そこでジャックは明るく笑いながらページを捲った。
拳を握って立ち竦むメアリーが紙と紙の間からこちらを睨む。
なんてスピードで描くのだろう。その完成度も含めて、は驚きを隠せなかった。
「か、勝手にモデルにされるのも嫌なの……!」
「どうして?俺が描いてあげるとみんな喜ぶ。怒るのは自意識過剰なブスくらいっスよ。俺は正直に描いちゃうから」
言う間にもう一枚。
紙上の女の子が涙ぐんでいたので、は慌ててメアリーに視線を戻した。
確かに彼女は瞳を潤ませている。
「だからメアリーさんは大丈夫。ほぉら、綺麗。そのびくびく怯える顔の下に、とってもイイものを隠してるんだから」
「……っつ」
「ねぇ、見せて。俺に」
「ジャック」
は名前を呼んで制したけれど、彼は構わず言い募った。
「俺はね、あなたのそういう――――――――ドロドロした感情を押し殺してる様が、大好きなんっスよ」
屈託もなく笑う少年には束の間硬直した。
彼の眼差しには子供のような残酷性と、男性としての欲望が秘められていた。
好き?これも?“恋”と呼ぶべきものなの?
見たい見たいとせがむ小さな子が、強引に衣服を剥いでくるような、そんな錯覚に襲われる。
それを真っ直ぐに向けられたメアリーは、嫌悪もあらわな様子で叫んだ。
「そんな絵、捨ててしまって!!」
普段からは想像もできないような、掠れた命令の声だった。
は起立して引き止めようとしたけれど、それより早くメアリーは背中を向けて走り去ってしまう。
長いため息がその後を追うように吐き出された。
「まーた逃げられた」
「……今のは仕方ない気がする」
唇を尖らせるジャックには半眼を向けた。
彼はそれでも描き続ける。
「何回好きだって言っても伝わらないんっスよねー」
「ごめん、傍で聞いてた私にも伝わってこなかった」
「しかも絵を捨てろだって!ひどくね?俺、傷心っスわ」
「うーん。メアリーだって傷ついてると思うけど」
「……さんさぁ」
不意に沈んだ調子で呼ばれた。
が見てみると、ジャックは視線をも落としている。
「どうしてだかわかる?」
「何が?」
「俺の気持ちを理解してもらえない理由っスよ」
そこでジャックは興味を失ったように、スケッチブックから手を離した。
あおられて見えたその全ページに同じ少女の姿があったから、はようやく彼がメアリーを好きだということを信じられそうだと思った。
「そうね……」
巨木の幹にもたれかかりながら呟く。
「相手を思いやってないから、かな」
「?それって、どうすりゃいいのさ」
「メアリーみたいな繊細な子を、強引に攻めるのは逆効果だと思う。好きだからーっていって、無理やりモデルにするのはよくないよ」
としては真面目な女子生徒として、真面目なアドバイスをしたつもりだったのだけど、ジャックには思い切り顔をしかめられた。
「だって、俺の出来るのなんて、描くことくらいなのに?」
彼はスケッチブック掴むと、勢いよく立ち上がった。
「わーったよ。仕方ないからちょっとは控えるよ。好きな人ってのは、思いやらなきゃいけないんっしょ?」
「うん、そうね。そうしてあげて」
「じゃあ、代わりのモデルはさんね」
「はい?」
そこでは音程を跳ねあげてしまった。
ジャックは返事を求めていなかったようで、さっさと踵を返してしまう。
そのまま行ってしまいそうな後姿に慌てて声を投げる。
「ちょ、ちょっと待って!私がモデルってどういう……」
「言葉どおりっスよ。あんた、野暮ったい三つ編みと眼鏡をなくすと、すっごくいい顔してるし」
そう言われては自分の目元を探った。
しまった、素顔を晒してしまった。
メアリーにならいいかと思ったのが間違いだった。
髪だって濡れたままで下しっぱなしだ。
「か、顔ならルイスが飛び抜けてるじゃない!モデルは彼女が適任よ」
「ヤだよ。確かにあの人は綺麗だけど、描きたくない。描く必要性が見つけられない」
が納得できないでいると、ジャックは半笑いで続けた。
「だって、ルイスさんは見たまんまっスもん。自分の美貌と才能を自覚してて、努力に裏打ちされた自信があって。これからも女王様みたいに生きていくんっしょ、きっと」
あっさりと断言してみせる。
「表も裏もない。何も隠さない。気に喰わないのなら口に出すし、行動で示してくる。さんに対してだってそうじゃないっスか。“嫌いだ”ってハッキリ言われたっしょ」
「う……っ。ま、まぁ」
「ね?そんな女、描かなくたっていいじゃないっスか。だって寸分違わず目に見えてるんだから。あんなの本物を拝みに行くか、写真に撮っておけばいい」
はルイスの姿を細部まで思い出そうとした。
輝く海のような双眸。
その色はグローリアとほぼ同じだというのに、師のような複雑な光を宿していたことはなかった。
だからジャックの言い分を漠然とだが理解してしまう。
「でも、さんは“違う”っスよね」
唐突に言葉が鋭い刃となって、の胸に迫ってきた。
ハッとして顔をあげる。
表情を取り繕う。
完璧な仕草で首を傾げてみせる。
「どういう意味?」
「さぁて、どういう意味っスかね」
が気付かない振りをすれば、ジャックも同じようにして返してきた。
わずかに瞳に力を込めると、肩をすくめて苦笑される。
「安心しなよ。俺はソロモンさんたちみたいに、あんたをどうこうしようなんて思ってない。ちょっと描いてやろうかなって気になってるだけっス」
「私だってモデルはお断りよ」
「やだなぁ、そんなの聞くわけないじゃないっスか」
「なんで」
「だって俺、あんたに惚れてないし。思いやる必要もないし!」
「うわぁ、見事なブーメラン!」
は自分の発言にダメージを受けて額を押さえた。
これは痛い。そして嫌な予感しかしない。
ジャックは軽く笑って片手を振ってみせた。
「んじゃ、そういうことで。よろしくね、さん」
笑顔だけを残してゆく少年を留まらせたくても、今の自分では何も言えないことを知っていたから、は黙ってその場に立っていた。
スカートの裾を握ったら、もう随分と乾いていたので、枝に干したブレザーを手に取る。
きちんと着込む。おさげを編む。眼鏡をかける。
こうやって私は自分を偽らなければいけない。
偽り続けなければいけない。
この“学園”に居る限り。
それが任務のためだけではないと、は仲間にも、アレンにさえも言えないでいた。
「……っ、くしゅん!」
これでもう3回目だ。
アレンはいい加減に気になって、勉強ノートから顔をあげた。
コタツを挟んで座っているに、眉を寄せながら訊いてみる。
「風邪?」
「まさか」
即答。
けれどティッシュを鼻に押し当ててぐすぐすいっているのだから、説得力がないにもほどがある。
アレンが思わず半眼になっていると、が潤んだ目で睨みつけてきた。
「風邪なんて引くと思う?この私が?この健康マニアのさんが!?」
「うん、最近そう呼ぶのもどうかと思ってきたんだよね。君って豆乳さえ飲んでいたら年中病気しないし、怪我もすぐ治ると思い込んでいるだけの、ただの馬鹿だろう」
「馬鹿じゃない!馬鹿じゃないけど風邪だなんて認めたくないから馬鹿でいい!!」
「変な自虐しないの。ほら、熱は?寒気はある?」
呆れの吐息をつきながらアレンはの額に触れた。
やっぱり少し熱い気がする。
本当に珍しいことだ。
「……何で風邪なんて引いたんだ、自称健康マニア」
「自称言うな。だから平気だってば」
「お腹出して寝た?それとも水でもかぶったの?」
「…………………………」
そこで変な沈黙が生まれた。
アレンは疑問符を浮かべたけれど、尋ねる前にが話題を変えてしまう。
「それより書けた?」
鼻をかんだ紙くずをゴミ箱に投げ入れたは、アレンに向かって掌を突き出してくる。
その要求通りにノートを渡した。
「まったく……。いきなり日本語を覚えろ、だなんて」
アレンは頬杖をつきながらぼやいた。
に手渡したノートはびっしりと丸みのある記号で埋め尽くされていた。
それは日本の“ひらがな”という文字で、全てアレンが書きつけたものだ。
“あ”から順に三十回ずつ。
つまり延々と書き取りをさせられているのである。
「今回は隠密捜査だからね。今まで学園内で任務のことを話すとき、私たちは日本語を使っていたのよ」
「……まぁ。神田もラビも君も話せる、マイナー言語だしね」
「そのカモフラージュのために同好会まで作ったんだけど。部長のおかげで日本語の授業が大人気になっちゃって。話し言葉がわかる生徒が増えちゃったのよ」
「美形って得なのか損なのか……」
「だから書き言葉に変更したの。日本語はひらがな・カタカナ・漢字と三種類あるから」
「さすがに一朝一夕では身につけられない、ってことか」
アレンが言うとが頷いた。
赤ペンを取り出してきてキャップを外す。
そうしてアレンのノートを添削し始めた。
「でも、アレンには身につけてもらわないと」
「うう……」
「日本語で読み書きが出来なければ、私たちの情報共有に参加できないでしょ」
「その通りだけどさ……。僕にだって難しいよ」
「大丈夫。私が教えてあげるから」
「……手取り足取り?」
何となくそう訊いてみたら、が目だけで見上げてきた。
ちょっとどきりとする。
それを察したのか、彼女は微笑みながらノートに思い切り赤を入れた。
「うん、間違ったら手取り足取り、一本ずつもぎ取っていくね!」
「文字通り!?」
「とりあえず左手から貰おうかな!」
「最初っから一番大事なやつ取る気だ!!」
まるでアレンみたいな冗談を言ったは、続けてバツを四つつけた。
「アレン、もう両手両足を失ったよ。あとどこ取っていい?」
「勉強ってこんなに代償がいるものでしたっけ……?今日この部室を出るとき、僕は骨も残っていない気がします……」
アレンは冷や汗をかいて、嫌に脈打つ胸を押さえた。
「が物騒なこと言うからドキドキしちゃいましたよ……」
「マジで?口から出そう?心臓もらった!」
楽しそうにが赤を入れるものだから、アレンはちょっとムッとしてしまった。
ペンを持つ彼女の手に自分のそれを重ねる。
邪魔だとばかりに軽く振られたから、力を込めて押し留めた。
「……バツをつけさせないつもり?」
「別に。欲しいのなら手も足も心臓もあげるけど」
「差し出されるとなんだかなぁ」
「あまのじゃく」
吐息のように微笑みながら、つぅっと指先を滑らせた。
なめらかな肌の感触。
皮膚の下の骨を辿る。
「ちょっと」
「キスはしてない」
文句は言われる前に封じておいた。
わずかに詰まったは、無言で赤ペンを持ち変える。
アレンの掴む右手から、自由な左手へと。マルやバツくらいなら、そちらでも書けるのだろう。
添削を再開したにアレンは訊く。
「これから毎日、ここで日本語の勉強?」
「日本語研究会だからね。趣旨は間違ってないはずよ」
「うえー……」
「イノセンスの捜索もしなくちゃいけないから、午後を全部使ってってわけにはいかないけど」
「……上達する気がしないな」
「継続は力なり、よ。日々続けていれば自然と覚えちゃうから」
「がんばって!」とか言いながら、一際大きなバツを入れてくる。
アレンは憂鬱に顔をしかめて、真っ赤になったノートを見下ろした。
「……勉強なんて滅多にしてこなかったけど。あんまり好きになれそうにない」
「見た目“優等生”のくせに何言ってるの」
苦笑したは、なだめるように続けた。
「じゃあ、こういう勉強方法は?日本語で手紙を書くの」
「手紙を?」
「日記でもいいけど。ノートだと誰にでも見られちゃうからね。封をして私にちょうだい」
「……つまり、君宛てに手紙を書くってこと?」
アレンが首を傾げれば、はひとつ頷いた。
「短くてもいいから、その日の出来事とか、思った事とか、何でも手紙に書いてみて。もちろん日本語でよ。自分の言葉なら、定着しやすいはずだから」
「うーん」
どちらかというと直接話したいんだけどなぁ、と思う。
いまだに人前ではぎこちないままなのだ。
は大人しい女子生徒の演技を続けているから、気兼ねなく会話ができるのはこの部室内だけ。
寮に帰れば部屋に引きこもっているようで、食堂以外の共有スペースで会うことは滅多になかった。
本部にいた頃と比べると一緒に過ごす時間は格段に少ない。
「君宛てに手紙ねぇ……」
「この際、罵詈雑言でもオッケーよ。上達が一番」
寛大なお言葉をいただいたので、アレンはシャーペンを伸ばした。
の手元、マルの少ないページの隅に、覚えたばかりのひらがなを書きつける。
「あってる?」
自信がなくて訊いてみたけれど返事はなかった。
はアレンの手に赤ペンを突き立ててくる。
甲の部分に思い切りバツを書かれた。
「だからダメだって言ったでしょ!」
ぷんっと怒られて瞬く。
思っていたのと反応が違う。
アレンはもう一度自分の書いた文字を見下ろして、「ああ」と呟いた。
「間違えた。逆だ」
「逆?」
聞き返してくるから赤ペンを取り上げて、今度は彼女の手の甲にひらがなを二つ書いてやった。
先刻ノートに記したのは“き”と“す”。
けれど、本当に伝えたかったのは“キス”じゃなくて。
「………………………………」
“す”“き”と並んだひらがなを、は黙って見つめていた。
ゆっくりとまばたきをして顔をあげる。
目が合ったから笑って尋ねた。
「あってる?」
は咄嗟に何か言おうとしたようだったけれど、声は出てこなくて結局そのまま口を閉じた。
アレンとしてはバツがつけられなければそれでいい。
それどころか、彼女が赤くなってくれたのだから、言うことなしだ。
手を握り直せばびくりとされた。
構わずにそのまま引き寄せようとしたところで、
「おい、!」
ラビが引き戸を開けて飛び込んできたので、神田みたいな舌打ちをしてしまった。
当の本人も赤毛の後ろから姿を現す。
アレンは不機嫌を隠しもせずに二人を振り返った。
「何ですか、騒々しい」
「言っている場合か」
神田に苛々と吐き捨てられて、アレンはの手を離した。
何か厄介事が持ち込まれたのだと雰囲気で察したからだ。
アレンより一足先に金髪が立ち上がる。
「何ごと?」
「いいからコッチ。来てみろさ」
渋面のラビはそう促して、早々に来た道を戻り始めた。
「玄関ロビーに、“えらいモン”が出現してるぜ」
そう言う原因に検討がつけられず、アレンとは二人の後に続くしかなかった。
「な、何ですか、あれ……」
隣でアレンが唖然としたように呟いた。
も同じような心情だ。
否、彼よりも衝撃は強かったに違いない。
だって、まさか、あんな。
それは“絵”、だった。
幾重にも人垣ができているのにも関わらず、玄関ロビーに足を踏み入れた瞬間、視界に飛び込んでくるほどの巨大な油絵だ。
画面を染める鮮やかな色彩。縦横無尽に走る筆の跡。
そこに描き出されていたのは、半裸の少女だった。
衣服を脱いでいるわけではない。濡れているのだ。
水分を含ませたブラウスを身に纏い、植物に囲まれて草の上に座り込んでいる。
頬や髪に繊細な雫を纏わせ、上半身をひねってこちらを振り返えった貌。
表情は無に近いながら、わずかに開いた唇にあどけなさを感じる。
それとは対照的に、白い上着から透けて見える肌の色が、異様な艶めかしさを発していた。
キャンバスに閉じ込められた女の子。
光る金色の髪と瞳が、緑の中で花咲くようだ。
「だから言っただろ。“えらいモン”だってな」
ラビに嫌そうに呻かれて、は顔を覆った。
昨日から頭痛が止まらない。
引き攣る口元から情けない笑みを漏らす。
「さすが絵画の特待生。まさか、たった一日で仕上げちゃうなんてね」
「どういうことだ」
神田はの虚勢を切って捨てた。
「何でお前の絵が、こんなところに飾られてる」
「そんなの私が聞きたいくらいよ」
ため息と共に吐き出して、きちんと眼鏡を掛けなおす。
無駄だとわかっていてもそうせずにはいられなかった。
「というか、どうしてあんな格好なんです?」
「そうそう!服スッケスケじゃんか!!」
それは見知らぬ女子たちに水をかぶせられたからです。
とは言えずに、はアレンとラビに眉を下げて微笑んだ。
「いやぁ……イメージ図じゃない?」
だってジャックが来たときにはもう随分と乾いていたはずなのだ。
どうして彼はわざわざ水浸しの姿で自分を描いたのだろう。
「濡れているのは、オフィーリアだから」
返答は横手から発せられた。
四人が驚いて見てみると、黒髪の少女が静かに佇んでいる。
ジャックとお揃いの淡褐色の瞳は、じっとに据えられていた。
「ジルさん。オフィーリアって?」
アレンが英国紳士の顔で訊いたけれど、ジルには効果がないらしく、彼女はぴくりとも表情を動かさなかった。
「水死した乙女。シェイクスピアの戯曲、『ハムレット』のヒロイン」
「『ハムレット』……?」
「話の筋を知らないのなら、クリスマスまで待てばいい。そこの舞台で演劇部が見せてくれる」
「つまり、この絵は私にケンカを売っているってことよ」
今度は人垣の方から声が聞こえてきた。
生徒たちが道を開けた先で、長い亜麻色の髪が翻る。
ルイスはまるで舞台の上をそうするように、悠々との眼前まで歩み寄ってきた。
「眼鏡を外しなさい」
命令の口調だ。
はルイスを見返した後、はっきりと首を振った。
彼女の苛立ちは隠せるものではなく、これは無理やり剥ぎ取られるかなと思ったけれど、それより早くアレンが割って入ってくれた。
「ルイスさん、落ち着いてください」
「私は冷静よ、アレンくん。ただ馬鹿にされて黙っていられないだけ」
「にそんなつもりは」
アレンが弁解をすれば周囲から嘲笑が聞こえてきた。
くすくす笑う女子たちの囁きだ。
「ソロモン様の手前、ジャックくんが気を遣ったんでしょう」
「何たって絵画の特待生だもの」
「わざと美人に描いてあげたってこと?」
「それ以外に有り得ないわ」
「そもそも本当にあの子がモデルかどうかも怪しいわ」
「ルイスが気にすることじゃないよ」と、演劇部の生徒がなだめたけれど、その努力は無駄に終わった。
「ジャックが言っていた。“モデルはさん”だと」
ジルがそう断言したのだ。
ひそひそ話は消え、ルイスは目を細めた。
「絵のタイトルは『温室のオフィーリア』。……あなた、昨日そこにいたそうね?」
メアリーが言うはずはない。
となると、ジャック自身の言か。それとも他の誰かに見られたのか。
どちらにしろルイスの視線からは逃れられない。
「どうせくだらない連中に水でも浴びせられたんでしょう。それを乾かしに行った先で、ジャックと会った。違う?」
「………………………………」
「びしょ濡れのときに眼鏡をかけたままでいる人はいないわ。ついでにそのダサいおさげもほどかざるを得ない。結果、あの絵が誕生したってわけね」
はただ瞳の力で応える。
ここで正体をさらけ出すわけにはいかない。
「『温室のオフィーリア』。外敵から守られた場所で、独り悲しみに溺れ、死んでゆく乙女」
ジルがルイスの隣で詩でも読みあげるように呟く。
今やその場にいる誰もが黙ってこちらを眺めていた。
「ジャックは嘘を描かない。昨日あなたを見て感じたままを絵にしただけ」
「それをオフィーリアに例えたというのが気に喰わないわ。私にをけしかけているってことでしょう」
ルイスは憤然と鼻から息を吐いた。
アレンがわからないといった顔をしたからか、腕組みをしながら言う。
「“オフィーリア”は私よ。次の舞台で私が演じる役」
蒼い目を光らせて、を睨み付ける。
「つまりあの天才画家は、ヒロインに相応しいのは私ではなく、その子だと言っているのよ」
アレンはようやく得心がいったようで、大きく肩を落としてみせた。
気遣わしげに振り返られたから、は微笑んでみせる。
「私、ジャックにいらないことを言ってしまったの。だからこれは彼なりの趣向返しでしょ。ルイスの思うような意味じゃない」
「昨日の今日で、これだけ大きな絵を、全校生徒の目に触れる場所に飾ったっていうのに?」
の言い分をルイスは頭から否定した。
ジルがそれを援護する。
「ルイスがオフィーリアを披露するは、12月に開かれるクリスマス・パーティーの予定。そこでは毎年、学園のナンバーワンが決められる。全校生徒の投票で男女ひとりずつ」
これは初耳だ。
を含む四人は、軽く目を見張って続きを聞く。
「年度ごとに優秀な人物を称える行事。新たな特待生を決めるためでもある。……実際のところ、選ばれる人は毎年変わらないけれど」
何となく想像がついて、はスカートの陰で拳を握った。
「男子のトップはソロモン・シャフトー。女子のトップはルイス・マフェット。どちらも入学時から他人に譲ったことはない」
「これでわかったかしら?・ウォーカー」
ルイスはつんっと顎をあげて、冷たくを見下ろした。
「今年は女子生徒の頂点を巡って、あなたと私は争うべきだと、ジャック・フィッシャーは言っているのよ。あの無駄に大きな絵を通してね」
オフィーリアは『ハムレット』のヒロイン。
クリスマスにそれを演じる、歴代1位のルイス。
そんな彼女を差し置き、をオフィーリアに見立てた絵を、ジャックは全校生徒に示した。
つまり本人が言うように、ルイスの対抗馬として、の存在を訴えたということらしい。
(ソロモンたちとは違って、私をどうこうする気はないって、言ってたくせに)
は胸中でジャックに苦言を呈したけれど、今目の前にいるのは彼ではなくてルイスだ。
それこそケンカを売るように睨まれては堪ったものではない。
は唇を開いた。
その場にいる全生徒の視線を一身に集めて。
「……っ、くしゅん!」
思い切りくしゃみをした。
咄嗟に取り出していたハンカチを顔面に押し付ければ、アレンが決めつけたように言った。
「やっぱり風邪だ」
「鼻がむずむずする……」
さらに続けて3回。
勢い余って涙が滲む。あぁ何だか喉も痛いような。
「残念ながら、この鼻じゃあローズマリーの香りもわからない」
まだぐすぐすといいながら、はルイスを見た。
「オフィーリアは愛しい人に花を捧げる乙女よ。そして花摘みの最中に水に落ちて死ぬ。そんな最期を迎えるどころか、鼻水を垂らしてる女がヒロイン?そうだとしたら、とんだ駄作ね」
「……………………………」
「偉大なるシェイクスピアの戯曲でしょう。あなたが自分の役を疑ってどうするの、大女優さん」
「……本当に、ジャックもソロモンもどうかしているわ」
言葉の最後でがくしゃみを連発したので、ルイスは呆れ返った様子でそう呟いた。
ブレザーの内側からポケットティッシュを取り出してくる。
はお礼と共に掌を出したけれど、ルイスはわざと高く掲げて、そのままアレンへと手渡した。
「みっともない女は嫌いよ。いいえ、鼻を出したお子様は女とも呼べないわね」
「言っておくけど風邪じゃないよ」
「風邪だろう」
「風邪でしょう」
は反論したけれど、アレンとルイスに声を揃えられた。
ムッとしたので話を変えてやる。
いまだにこちらを注目している野次馬たちの意識も逸らすように。
「私とおぼしき絵よりも、あっちのほうが問題じゃない?」
指差すに釣られて皆がそちらを振り返った。
「なぁに、あれ」
ルイスが怪訝に眉を寄せる。
『温室のオフィーリア』と向かい合う壁だ。
ラビが身軽に近づいていって、まじまじとそれを観察した。
「暗幕か?」
神田が尋ねると、赤毛が頷いた。
「ああ、黒い布が壁に打ち付けられてるさ」
「あそこは確か、『ハムレット』のポスターが貼られていたんじゃなかった?」
がルイスに確認すると、彼女は栗毛をばさりと払いのけた。
「ええ、そうよ。……イヤガラセかしら。せっかく新聞部が作ってくれた宣伝なのに」
ルイスはラビに対しても、その高飛車な態度を変えなかった。
「取り去ってちょうだい」
「へいへい、女王様……っと」
半眼で暗幕を掴んだラビは、そこで動きを止めた。
黒い布の裾を持ち上げて、ひだになっていた部分を広げる。
そうして瞠目すると低い声で言った。
「オイ。この布、文字の縫い取りがあるぞ」
仲間たちに目配せをして、一本調子に読み上げる。
「“Who'll be the clerk?” “I,” said the Lark,“If it's not in the dark, I'll be the clerk.”」
ざわり、と生徒たちがどよめいた。
誰かが「クック・ロビン」と囁く。
「誰が書記役を勤めてくれる?“私です”とヒバリが言った。“あたりが暗くならない限り 私が書記を務めましょう”……『誰が駒鳥を殺したの?』の第七フレーズさ」
「どけ」
神田は足早に歩いていくと、ラビを押しのけて暗幕を掴んだ。
視線だけで振り返って「近づくな」と伝える。
それから一気に黒布を取り去った。
「……なによ」
緊張した一拍の後、ルイスが眉を吊り上げる。
「何もないじゃない。ただポスターを隠したかっただけ?」
彼女が憤然と言うとおり、暗幕に覆われていたのは、元々そこに貼られていた宣伝紙だけ。
別段に変わったものはない。
神田とラビは協力して大きな布をひっくり返したけれど、歌詞の縫い取り以外妙な点は発見できないようだった。
「どういうことだ」
「相変わらず意味不明さね」
ため息をこぼすエクソシスト二人とは対照的に、ルイスは肩をいからせて怒りはじめた。
「ふんっ。クック・ロビンもの味方ってわけね」
「な、なんでそうなるの?」
「よく考えてごらんなさい。あなたをオフィーリアに見立てた絵がある場所で、私がそれを演じる宣伝が隠されていたのよ。つまり、“そういうこと”でしょう?」
「それは深読みしすぎじゃ……」
は冷や汗をかいて否定したけれど、ルイスの勢いは激しくなるばかりだ。
「このままじゃ済まさないわよ」
「済むも済まさないも、私は何もしてないでしょ……」
「ええ、何よりもまずそういう態度が気に喰わないわ」
そう吐き捨てながら、ルイスは歩き出す。
すれ違うときにわざと肩をぶつけてきた。
三つ編みを片方掴まれて、引かれるままに向かい合う。
「ジャックやクック・ロビンが、あなたを私のライバルだと言うのなら、いいわ、受けて立ってあげる」
「ルイス、私にそんなつもりは」
「オフィーリアは私よ。この学園で一番は私」
ルイスはおさげの先での頬を撫でると、見惚れそうなほど強気な笑顔で宣言した。
「あなたなんかに、負けたりしないわ」
三つ編みを指で弾いて颯爽と歩き出す。
凛と伸びた背筋。テンポよく繰り出される脚。
去りゆく姿さえ美しい女優のあとを、幾人もの生徒が追っていった。
もちろんに嘲笑を残しながら。
「……今」
は隣に立つアレンにしか聞こえないよう小さく呻った。
「久しぶりに、“女の子めんどくさぁい!”って、思っちゃった……」
「気持ちはわかる」
同情のため息と共に肩を叩かれる。
軽く引かれて耳打ちされた。
「本当に面倒なことになったね……。どうする気?」
「どうもこうも!とりあえずジャックに突っ込みを入れに行く」
「物理的に?」
「物理的に」
笑顔で拳を固めていたら、ジルが傍を通り過ぎた。
「絵を描いたのはジャックの意思だけれど、此処に飾るよう指示したのはソロモン」
驚くアレンとの眼前で、絹糸のような黒髪が揺れる。
艶やかなそれに頬を半分隠しながらもジルが振り返って囁いた。
「ジャックには好意も敵意もない。ただ描きたいだけ。あなたには迷惑だろうけれど、責めないであげてほしい」
「……ジルさん。つまり」
「そう。とルイスを争わせようとしているのは、ソロモン」
アレンが促せばジルは潜めた声で肯定した。
耳元でアレンが嘆息する。も同じ気持ちだ。
「……ソロモンはどこまで私を過大評価したいのよ」
「過大、ではないでしょう」
ジルは一歩後ろに下がって、真正面からを見据えた。
「『戦車』と『隠者』の後を追って来た『星』。上手く光を隠したつもりでも、『逆さまの月』が本当のあなたを引き出してしまう」
意味がわからない。占いの話だろうか。
確かに『戦車』や『隠者』はタロットカードの絵柄にある。
「陽光や雲に紛れようにも、星は自ら輝いている。月が傍に在ればなおのこと、共に闇を照らしてしまうでしょう。その光を見逃すソロモンではない。ルイスだってもう気がついている」
「……ごめん、ジル。どういうこと?」
「『星』はあなた。『逆さまの月』は、そこの転校生」
いきなり水を向けられて、アレンはきょとんと目を瞬かせた。
その横顔を見上げながら、はジルの言を聞く。
まるでお告げのようなそれを。
「どうしてもあなたが自身を隠したいのなら、……彼の傍を離れるしかない」
アレンの動きが一瞬止まって、すぐにこちらを見下ろしてきた。
彼の瞳の中に金の目玉が映っている。
ああ、相変わらず嫌な色。
大嫌いだ。
「『逆さまの月』は『星』を暴く。あなたが望もうとも望まざるとも」
ジルが言葉を続けながら踵を返した。
はそれを目で追ったけれど、アレンは視線を逸らさずに、こちらの手を握ってきた。
“すき”と書かれた右手をだ。
そのままぐいっと引き寄せられる。
「光は消せない。良くも悪くも輝きを放ってしまうから」
はアレンを見ない。
ジルの後姿だけに眼差しを注ぐ。
だって、どんな顔をすればいいの。
「手を打つなら早めに。……ジャックはもうすぐ次を完成させる」
「えええええ」
そこで素の声をあげてしまった。
「しかも今回のより大きい」
「天才画家すごい!すごい迷惑!」
思わず顔を覆って嘆いている間に、ジルはその場を去っていってしまった。
ああ、もう、どうしてこう厄介事ばかり起こるのだろう。
「」
ジャックを止めに行くべきか、ソロモンに苦情を入れに行くか、はたまたルイスをなだめるのが先決か。
が頭を悩ませていると、アレンに名前を呼ばれた。
視線を動かす前に覗き込まれる。
彼はやたらと真剣な表情でこちらを見つめていた。
「ソロモンが何を考えているのかも、ジルさんの言っていた意味も、わからないけれど」
「う、うん……?」
「僕は君の傍から離れる気なんてないよ」
「……………………………」
「それだけ、忘れないで」
言うと同時に手を握り直された。
そのぬくもりの下には、彼の気持ちが潜んでいる。
赤ペンで書かれた“すき”。
それがまるで疼くようで、咄嗟に手を引き戻そうとしたけれど、アレンの力には敵わなかった。
「……どうしてそんなことを言うの」
が指先を強張らせれば、アレンは少しだけ微笑んだ。
「君がまた余計なことを考えてそうだから」
余計なこと?
アレンがそう言うのは、私自身のじゃなくて、あなたを守ることなんでしょう。
アレンを傷つけたくないから、“”を暴かないで。
そう言っても、あなたは当たり前みたいに、私を拒絶するんでしょう。
(また、だ)
は胸の奥がぎゅうと締め付けられて、少しだけ泣いてしまいそうになった。
(また、“私”が傷ついてる)
どうして?
アレンに告白されてからこちら、彼と話していると度々こんな風になる。
私を好きだという唇で、熱と痛みを発する跡を、いくつも刻んでくる。
いつ致命傷を負わされるのだろう。には少しもわからなかった。
「私にとっては余計なことじゃないわ」
は平坦に告げると、多少強引に自分の手を取り戻した。
ああ、違う。
そんな顔をしてほしいわけじゃなくて。
「……ソロモンのところに行ってくる。どういうつもりなのか聞かなくちゃ」
他の何も出てこなくてそう呟いたけれど、アレンはもう普段の調子に戻っていて、当然のように「僕も行く」と言った。
まだ暗幕を調べている神田とラビの名前を呼ぶ。
「何さ」
「どうした」
「二人はソロモンがどこにいるか、知ってたりします?」
その質問をどうして私にはしないのだろう。
はそう考えて、すぐに答えが思い当たったから、口をつぐむしかなかった。
「ソロモン?あの男に何の用だ」
「オイオイ、まさか恋のライバルを始末しに行く気さ?」
「ある意味それで正解ですよ。にちょっかいを出すなって、僕から伝えさせてもらいます」
アレンは『温室のオフィーリア』を一瞥した。
「ソロモン自身にはその気がなくても、彼のやり方はの立場を悪くするだけです。……おかげさまで馬鹿が風邪を引いてしまいましたってね」
「風邪じゃないってば!」
思わず反論するとアレンに頭を撫でられた。
「本当に“馬鹿”は全面的に受け入れたんですね。いい傾向です。少しだけお利口さんになりましたよ」
よしよしと子供のようにしてくるので、さらに文句を言ってやろうと、唇を開いた矢先だった。
「ウォーカーさん」
背後から呼ぶ声。
普段は冷静なはずの調子に、今は別の感情が混ざっている。
それはどうやら“怒り”のようだった。
が恐る恐る振り返ると、そこには背の高い貴婦人が立っていた。
「こちらへいらっしゃい」
窓から差し込む午後の陽に、フェルディは眼鏡を光らせながら告げる。
「理事長先生がお呼びです」
そうして連れて行かれた先に、良いことはひとつも待っていなさそうだと、正確に予測したは返事の代わりにくしゃみをした。
おかげでアレンにティッシュを押し付けられる。
鼻をもぎ取られそうなほどの強い力に、は涙目で彼を見上げるしかできなかった。
事件が起こるところまで辿り着かなかったパターン!
本当にすみません……。いつも通り前フリが長くなってしまいました。
ある意味で事件といえば、ヒロインが地味にひどい目に遭っていますね。
噂話の餌食にされるわ、水を浴びせられるわ、半裸絵を晒されるわ、ルイスにライバル認定されるわ。
おまけにアレンが宣言通り口説いてくるから、見た目以上にいっぱいいっぱいな感じです。
まぁひどい目に遭ってこそのヒロインなので頑張っていただきたい。(笑)
次回こそ!事件が起こりますよ〜。よろしければ引き続きどうぞ!
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