ジャックが転んで頭を割った。
それを見たジルもすってんころりん。
だって二人はいつも同じでなければいけないの。

それなのに、手当てを受けたのはジャックだけ?
一緒に転がり落ちたパートナーは、どこ?







● マザーグースは放課後に  EPISODE 8 ●







結局どれだけえづいても吐けなくて、はむかむかする胸を抱えたまま途方に暮れていた。
どうしよう。医務室に行くべきかな。
そこで寝ているメアリーの迷惑になるのでは、と思うと足が鈍る。
かといって部室に赴けば友人たちに心配をかけるだろう。
困った。本当に困った。


?」


高い位置から声をかけられて、は俯けていた顔をあげた。
校舎の裏手をあてどなく歩いていたところだ。
緑でも見れば多少気分が良くなるかと思ったけれど、あまり効果がなくてがっかりした矢先だった。


「ソロモン?」


琥珀色の瞳と出合って驚く。
目を瞬かせながら問いかけた。


「外の病院に入院したはずじゃ……。それに手を痛めているのに乗馬なんて」


なんとソロモンは馬に跨っていたのだ。
純白の毛並みに漆黒の蹄を持っているから、恐らく自慢のエリザベス号だろう。
が慌てて傍に寄ると、彼は何でもない顔で微笑んだ。


「入院するほど重症なものか。治療を受けて帰って来たよ」
「そんな。だってもう二度と、繊細な楽器の演奏は無理だろうって……」


昨日の火事のあとすぐに保険医が下した暫定診断だ。
両掌の火傷はひどく痕が残るのは確実。さらに簡単な楽器以外の演奏は難しくなるだろうと聞いている。


「俺は演奏者ではなく作曲家だ。ピアノが弾ければ問題はない。複雑な演奏になるようだったらメアリーに頼もう。もちろんリハビリはするがな」


彼はに屈託なく笑いかけた。


「だからそんな顔をしないでくれ。これくらい大したことではないさ」


は包帯の巻かれた彼の両手を見た。
大したことない、はずがない。
しばらくは日常生活にだって支障が出るだろう。
それでも彼は誰も責めず不平を漏らすこともなく、表情を曇らせるを気遣ってくれているのだ。


「……ソロモン」
「うん?」
「昨日はありがとう」
「どうした、改まって」


あのときソロモンは先陣を切って救出に乗り出してくれた。
その判断力と勇敢さ、そして他者を思いやる心には敬服すべきものがあった。
多少強引なところがあろうと、彼は間違いなく皆の上に立つべき人間だ。


「礼は良い。それより笑ってくれ」


ソロモンは馬の背で身を屈めて、こちらの瞳を覗き込んできた。
としては微笑んで感謝を伝えたつもりだったので、意味がわからなくて首を傾げる。
その頬に触れながらソロモンは苦笑した。


「いつもより表情が固いぞ。どうかしたのか?」


心配そうに訊かれては頭を振った。
何でもない。
そう思わなくてはいけないから。


「私のことより、ソロモン。帰って来てくれたのは嬉しいけど、そんなにすぐ手綱を握ったりして平気なの?」
。俺を誰だと思っている」


心外だとでも言うように、ソロモンは片眉をあげてみせた。
口元に悪戯っぽい笑みを浮かべつつ両手を掲げる。
よく見ると、馬に手綱がついていない。
は思わずまじまじと眺めてしまった。


「どういうこと?どうやって乗っているの?」
「俺とベティの仲だ。操るための紐などなくても、思い通りに駆けてくれるさ」


ソロモンは誇らしげに言って馬の首筋を叩いてやった。
主人に応えて鼻を鳴らすその姿に、は感心の声を漏らす。


「すごい。そんなことができるのね」
「乗ってみるか?」


当たり前の流れだとでもいうように、ソロモンは普通の口調で提案してきた。
からしたらとんでもないことだ。
生まれてこのかた馬に乗ったためしはない。
それもいきなり手綱をつけていないのに跨るなんて難易度が高すぎる。


「お誘いは嬉しいけど」
「お前の口から断わりの言葉は聞きたくない」


手を横に振るをソロモンが遮る。
目の前に差し出された掌。包帯の巻かれたそれ。
掴めるわけがない。


「何故、俺は馬に乗っていたと思う?」


はソロモンを見上げた。
真っ赤な夕日を背景した彼は、もう微笑んではいなかった。


「……手が、使えないんだ」


囁くような低い声がの鼓膜を震わせる。
二人だけの校舎裏に落ちてゆく。


「楽器が持てない。ピアノが弾けない。譜面が書けない。よくなるとわかっていても、今は駄目なんだ。俺には何もできない」


そんなことはない。あなたはいろんなことができる人で、自分でもわかっているでしょう?
はそう思ったけれど、ソロモンの表情に言葉を失くす。
そんな当たり前のことは当人だって承知の上だ。
ただ今、このとき。
火傷の痛みに苛まれた彼は、不安に抱かれているのだろうか。
本当はそれに押しつぶされないように必死なのだろうか。


「こんなこと誰にも言えない。父上にも、先生にも、ルイスたちにも。俺はいつだって大丈夫だと微笑んで、自分よりも皆の心を守らなければならない」
「ソロモン……」
「俺を誰だと思っている?……ソロモンだよ。“何でも出来る”ソロモン・シャフトーだ。だから」


ソロモンは唇を緩めた。
いつもの笑顔ではなかった。
今まで彼がそんな風に笑うところ、は見たことがなかった。
けれどこの不器用な笑みこそが本当の彼ならば。


「来てくれ、


差し伸べられた手はわずかに震えていた。
焼け爛れた皮膚が疼くのだろうか。
それとも、


「今の俺は何ひとつ生み出せないけれど、お前の憂いを晴らすためならば、火傷の痛みだって忘れよう。治るのだろうかと不安になるより先に、その心を癒してやりたいんだ」


この人は、きっと。
誰が取り残されていても、斧を振りかざし掌を焼いて、炎から救おうとしたに違いない。
そうしてすべて終わったあとで、皆が助かってよかったと、俺のことは気にするなと微笑んで。
ひとり馬を駆るのだろう。
不安と恐怖。自分の弱さ全てを、風に乗せて流すために。
は目を伏せた。
可哀想な人だと思った。
彼はどれだけ皆に慕われ囲まれていても、孤独なのかもしれないと気付いたからだ。
その生まれや才能は羨むべきものだけど、代わりに重すぎる期待と責任を背負って、長い一生を歩まねばならないのだから。


「……気持ちを渡せる人はいる?」


思わず問いかければソロモンは熱を込めて囁いた。


「お前がいい」


は瞳をあげて真っ直ぐに彼を見た。


「今はすべて受け取ってくれなくていい。これだけでいいんだ。……自分のしたことに後悔はなくても、もう駄目なのではないかと弱くなる、もう一人の俺を」


どこか遠くで呼ばれた気がした。
アレンの声だったように思った。
空耳だろう。だってソロモンには聞こえていない。


「俺の傍に来てくれ」


は何も考えずに自分の手を持ち上げた。
指先を伸ばす。呼ばれている。
掌の熱を感じて。やっぱりアレンだ。
が後ろを振り返った瞬間、ソロモンが手首を掴んできた。
そのまま強い力で引きあげられる。
強引な所作に驚いたは、それでも咄嗟に地面を蹴って、彼の負担を減らそうとした。
おかげで綺麗にソロモンの前へとおさまってしまう。
思いの他に馬上は高い。
具合が悪いのも合わさって強い眩暈に襲われる。
少しふらついたところを後ろから抱きしめられた。
横座りになったは、ソロモンの胸にこめかみをつけ、彼の鼓動を間近に聞いた。
生命の音だ。
どれだけ強くあろうとも、簡単に傷つく体と心を持った、人間の息づかいだ。


「しっかり掴まっていろ」


言うやいなや、ソロモンは馬の腹を蹴った。
途端に疾走が開始される。
あまりの速さにはたまらずソロモンにしがみついた。
そうしないと間違いなく馬の背から放り出されてしまっただろう。


風を切る音。
それだけが全てになる。
ごうごうと耳元で渦巻いて、の体を宙に引き上げようとする。
目も開けていられない。真っ暗な世界。
けれど不思議と怖いとは思わなかった。
きっとソロモンの鼓動が乱れなかったからだ。
もちろん馬を駆っているのだから、徐々に速くはなっていったけれど、それは音階をのぼるように理想的なリズムを取っていた。
美しい旋律だ。
彼は弱さに呑まれそうなときでさえ、音楽を奏でる天才でしかない。


「目を開けてごらん」


耳元で囁かれた。
は素直にそれに従った。
視界を流れてゆく木々。どうやらソロモンは学園の裏手にある森に入り込んだらしい。


「俺を見てごらん」


はその体に掴まったまま、首をまわしてソロモンを見上げた。
大気が二人を抱擁している。
それと同じように彼はを包み込んだ。


「強引なことをしてすまない」


言葉だけかと思ったけれど、予想外に沈んだ口調だったから、溜飲を下げざるを得なかった。


「お前が浮かない顔をしていたから、元気づけてやりたいと思ったのだが。俺も本調子ではないのだった……」
「……アレンが私を呼んでいたよね?」
「ああ。だから咄嗟に。こうして攫ってきてしまった」


金髪を撫でて肩を引き寄せられる。
優しく触れたあとに、強く抱きしめてくる。
その落差には小さく震えた。


「お前を慰めたくて。俺の傍に居て欲しくて。お互いに補い合えたら、どれだけ素晴らしいだろうと、独りよがりな夢想をして」
「ソロモン、手が」
「構うな。今はお前に触れていたい」


包帯越しの火傷が心配で、は拒もうとしたけれど、ソロモンが許してくれなかった。
エリザベス号は走り続ける。
主の意思に従って?
私をその腕の中に閉じ込めるために?


。お前の鼓動が急かすから、俺は自分らしくいられない。その真っ直ぐな瞳の前では、“本当”でしかいられないんだ」


ああ、どうして。
は情熱的な言葉に熱を移されながら思う。
どうして、アレンと同じようなことを言うの?


「俺は、お前が―――――」


続くはずの告白をが耳にすることはなかった。
何故ならその一瞬前に体を放り出されたからだ。
エリザベス号が急停止したおかげで、馬上の二人は空へと投げ上げられる。
直後に衝撃。
ソロモンが庇ってくれたおかげで、地面に落ちても痛みはなかった。
すぐさまの下で笑い声が巻き起こる。


「ベティ、人の恋路を邪魔したな!お前は馬のくせに!」


その言い分が可笑しくて、思わずも微笑んだ。


「ソロモンが悪いのよ。だって彼女はあなたの女王様でしょ?」
「ああ、クイーン・エリザベス!愛しのベティ!ヤキモチか?」
「動物のメスは独占欲が強いから」
「だからといって、ここ一番で裏切ってくれるなよ」


一緒になってクスクス笑う。
エリザベス号が素知らぬ顔で草を食んでいるものだから、ますます面白く思えてきて二人はしばらくそのままでいた。
笑いおさめにはソロモンの上から地面に転がり降りた。
いい香りがする。夕暮れの澄んだ空気に花の匂いが混じっている。
そこは秋の草花が一面に広がる場所だった。


「きれいなところ」


の呟きに、ソロモンも頷いた。


「夕焼けが照らす花畑とは、な」


彼は軽やかに身を起こすと、自分の膝に頬杖をついた。


「なかなかのロケーションだ。もしかしたらベティは俺の邪魔ではなく、協力をしてくれたのかもしれん」
「…………………………」
「やはり、続きを聞くつもりはないか?」
「むしろ私が聞きたいくらいよ」


は暮れゆく陽に手をかざした。
薔薇色の空が眩しい。
寝転がったままソロモンのほうに目をやれば、彼の髪がますます赤く輝いているのに気が付いた。


「ずっと不思議だったんだけど。あなたはどうして私なんかを気に入ったの?」
「“どうして”と言われてもな。さて、なんと答えれば満足だ?」
「納得できるのなら何でも」
「それは無理だな」


ソロモンのあまりの断言ぶりに、は一瞬返事を忘れる。
その間に彼はさばさばと首を振ってみせた。


「できないことを口にするのは止めておけ、。……お前は俺が何と言おうと、その答えを承服しないだろう」
「そんなことは」
「お前は俺の気持ちを認めない。存在さえ疑っている。“ソロモン・シャフトーが・ウォーカーを想っているはずがない”と、頭から決めてかかっている。それが拒絶よりも残酷であると何故気づかない?」


ソロモンは横目でを見た。
非難の眼差しが降ってくる。
柔らかく突き立てられたのは、彼の痛みと切なさだった。


「……だって」


はのろのろと身を起こした。
この言葉は嫌いだった。でもとかだってとか、口にしたくない。
それでも言わずにはいられない。


「あなたは“ホンモノ”でしょう。それがわざわざ才能もない“ニセモノ”に構うだなんて」
「俺だって“ニセモノ”だ」


語尾にかぶせるようにして言い放たれた意味を、はしばらく理解できなかった。
沈黙の間を風が通り過ぎる。
緑の香りと水の匂い。近くに湖でもあるのだろうか。


「……“ニセモノ”?あなたが?」


そんな馬鹿なとは瞬いた。


「ソロモンはシャフトー侯爵家の人間で、サイモン理事長の息子さんでしょう?」


此処で唯一、身元の知れている“ホンモノ”。
金ボタンを着た学園のトップ。
そのはずだろうと問いかければ、ソロモンはにこりともせずに応えた。


「俺は理事長の息子ではない」


薄い雲が夕日にかかって赤を陰らせた。
空はもう輝いてはおらず、濃い紫から闇へと沈みゆこうとしている。


「サイモン様は、俺の父上ではないんだ」


ソロモンは顔を俯けることもせず、夜に喰われてゆく昼を見つめていた。
そこに何かを見出す様に。
読み上げるための台詞があるかの様に。
彼は一本調子に続けた。


「あの方は俺の祖父だよ」
「……お爺様?」
「ああ。……何かにつけて厳しい人でな。父はそれに耐えきれずに若くして出奔した。そして身分の財産もない女に俺を産ませたんだ」


はソロモンの横顔を見つめる。
仄暗い光を宿した、琥珀色の瞳を。


「俺が5歳のとき……両親が事故で亡くなった。侯爵家は跡継ぎである父を血眼になって探していたから、それを機に俺を見つけ出し、拉致するように屋敷に連れて行ったのさ。そうして俺は“ソロモン”になった」


ふっ、と吐息のように彼は微笑んだ。


「いや、“ソロモン”にされたんだ。強制的に。俺の意思など関係なく」
「……どういうこと」
「“ソロモン”は父の名だ。俺のではない」


この人も。
この人も本当の名前を奪われ、別の人生を強要された人間なのか。
前触れもなく明かされた過去は、自分とよく似たものでは声を失う。


「サイモン・シャフトーは後継者を取り戻したのさ。自分を嫌って出て行ってしまった息子をその手でつくり直した。……あの人は俺をソロモン本人だと思っている。ずっと前から頭がいかれてるんだ」


ソロモンは自身の前髪をぐしゃりとした。


「本物のソロモンが死んだことを認めていない。そのくせ孫である俺を、“ソロモン・シャフトー”に仕立て上げるために、血道をあげ続けている」


赤金色の癖毛を乱しながら、彼は感情もなく吐き出した。


「知識も経験も性格も、口調も立ち振る舞いも、何もかも自分の記憶と一致するように“教育”を施した。信じられるか?食べ物の好き嫌いまで同じになるよう教え込まれたんだ。俺は偏食家だった父のせいで、5歳からこちらまともに魚を食べたことがないよ」


髪を掴む力が徐々に強くなっていくのを、はただ眺めていた。
痛くはないのだろうか?火傷が疼かないのだろうか?
心配を口にするより先に、苦悩の声が突き刺さってくる。


「それでも音楽は……、音楽だけは違うんだ。父はピアノの名手だったけれど、作曲はできなかった。もちろん指揮もだ。祖父は新たな才能の開花だと言って、この相違だけは後押しをしてくれたよ」
「……それは、本当のあなたのために?」
「いいや、カネのために。俺の作った曲は高値で売れるからな」
「そんな」
「サイモン様は、あれだけの財産を持っておきながら、まだ足りないと見える」
「………………………」
「……いいんだ、そんなことは」


ソロモンは口元に薄い笑みを浮かべながら、強く目を閉じて拳を握りしめた。


「何だっていいんだ。奏でた音は俺のもの……、俺だけのものだから。名前から言動まで、全てを父と同じにされた俺の……、許された唯一の自由なのだから」


は手を伸ばして、ソロモンのそれに触れた。
怪我の具合が気になる。
両掌でそっと包んで、指を一本一本、丁寧に開かせてゆく。


「だったらなおのこと、早く火傷を治さないと」
「……ああ」
「無理に力を入れては駄目よ。皮膚が引き攣って固まってしまう」
「そうだな……」
「完治したら長調U第七副音の曲を聞かせて」


がそう言えばソロモンが目を見張る気配がした。
あえてその顔を見ずに、何でもないことのように続ける。


「あなたのお気に入りの音を聞かせて。……そうしたら、私も少しは自分を好きになれるかもしれない」
「絶対だ」


ソロモンは即座に返したあと、肩の力を抜くようにして微笑んだ。


「お前の奏でる音と同じだ。とても綺麗なメロディだよ」
「あなたが言うのなら信じられるわ、ソロモン。素晴らしい作曲家さん」
「……だから」


そこで不意にソロモンの体温を感じて、目をあげてみれば唇が触れそうなほど距離が近くなっていた。
は咄嗟に手をかざす。
二人の間に割って入らせれば、ソロモンは気にした風でもなく、そこに優しいキスを落としてしてきた。


「だから、お前は好きだよ」


腕を取られて掌越しに口づけをされる。
身を引いて手をどけようとしたけれど、包帯を巻いた指先を振り払うことはできなかった。


「お前は俺を見ない。“ソロモン”を見つめない。見た目も、生まれも、才能も、その心には届かない。……お前が瞳を揺らしたのは」


間近で光る琥珀の双眸。
自分の色とは違う。限りなく近いのに金ではない。
その底に沈んでいるのは蜂蜜の甘さ?果物の酸味?
それとも強烈なアルコール?


「俺が“本当”のことを言ったときだけだ」


思い出したのは理事長室での一幕だった。
あのときソロモンは私に選択を迫った。
お前が欲しいと、本性を見せろと、凶暴な欲を覗かせて。


「お前に自覚はなかろうが、最初からそうだったよ。俺が“ソロモン”として発した言葉には、ぴくりとも反応を示さなかった」


ソロモンはの指に自身のそれを絡めると、もう片方の手を頬へと伸ばしてきた。
触れた感覚。包帯の滑らかさ。
その下に隠された、焼け付く皮膚。


「それが、なぁ。俺は不思議で、面白くて、構ってやっているうちに気が付いた。お前の心は、同じく心でしか動かない。本音でしか渡り合えない。嘘偽りしかない俺を前にして、何てひどい娘だろうと思ったものだ」
「……ソロモン。だったら」
「離れない」


彼は綺麗に唇を歪めて微笑んだ。
愛おしさと皮肉の滲んだ笑みだった。
の知る限り、これは“ソロモン”の表情ではない。


「お前の眼差しは断罪だ。吐息は許しのように思う。なだめるような鼓動は癒し。……俺が“本当”を見せれば、響きあうように美しい音を奏でてくれる」


は返事ができない。
何と応えていいのかわからない。
戸惑いに眉を下げれば、ソロモンが苦笑した。


「いつものことだが、俺の感覚は伝わりにくいな。……身勝手な話だよ。俺はお前と居れば、存在を許されるような気がするんだ」
「……、私が返す音で?」
「そう。優美な旋律はいつだって魂の慰めだから」


その一瞬で、ソロモンはにキスをした。
直前まで撫でていた頬にだ。
あまりに唐突だったから、きっと唇でも避けられなかった気がする。


「俺は“ソロモン”として、祖父の満足する人間でいなければならない。……少しでも違反すれば居場所を失うだろう」
「私と同じね……」


思わず吐き出した呟きはソロモンに届いたのだろうか。
彼はの顎に指をかけた。


「だからこそ俺は、“俺”への許しが欲しいんだ」
「それが、私だというの?」
「ああ。同時にお前の拠り所になってやりたい」
「拠り所……?」
、お前は俺と同じだろう。嘘をついて偽りを纏い、自分自身を誤魔化して生きてきたのだろう」


急に図星を突かれたは呼吸を止めた。
ぎくりと体を強張らせれば、なだめるようにキスをされる。
今度は額にゆっくりと。


「だからこそ、俺の“本当”が見抜けるのだろう?」
「………………………………」
「答えなくていい。わかっているから」


彼が囁くたびに、唇が肌を撫でる。


「何故、自分に構うのかと訊いたな?……それは、お前に救いを求めているからだ。そうして見出してくれた“本当”で、俺はお前の孤独を溶かしてやりたい」
「……ソロモン」
「どれだけの人に囲まれていても、本質的なものは癒されない。そんなことは痛いほど知っている。……だから」
「……っ」
「納得したか?」


不意にソロモンはにこりと笑った。
今までのことが嘘のように躊躇いもなく身を引いて、に触れていた部分すべてを離すと、気持ちの良い動作で下草の上に寝転がった。
解放されたはというと、ゆっくりと自分の膝を抱え込んだ。
もはや赤は空の低い位置だけを染めている。
その最後を瞳に残したくて、はまばたきを止めた。


「それでもやっぱり、“私”はあなたに見合える人間だとは思えない」
「……またそれか」


はっきりと告げればソロモンが呆れの吐息をついた。
脱力したように両脚を投げ出す。
首を振り振り言い含めた。


「お前のそういうところはどうかと思うぞ。いい加減、自分を卑下するのは止めろ」
「あなたが過大評価しすぎなのよ」
「いいや。仮にそうだとしても、それは自己否定ではなく、俺への否定だ。止めてくれ」
「そう言われてもな……。どうしてもピンとこないのよね」
「何事も度が過ぎれば嫌味になる。……お前、どうしてルイスに嫌われているかわかっていないだろう」
「不相応に良くしてもらってるからでしょ?」


当たり前のようにそう返せば、ますます呆れた顔をされた。
ソロモンは組んだ両掌を自分の頭の下に入れると、半分にした眼でを見上げる。


「お前は周りに恵まれてこなかったのだな」
「失礼な。いい友達がたくさんいたよ」
「親しい相手に限らずだな……まともな評価を受けたことはないのか」
「ああ、なんかよく馬鹿とか阿呆とかけなされる」


あとは厄介者とか、疫病神とか、異端者とか。
主に中央庁からの罵倒を思い出したけれど、今更気にすることでもないのでが平気な顔をしていたら、代わりにソロモンが暗く沈んでしまった。


「どこでどう育ったのかは知らんが……。お前が今いるのは学園だ。比較対象を間違えるな」
「?どういうこと?」
「……これは口説く前に、いろいろと教えることがありそうだな」


ソロモンは独り言のように呟くと、を見つめなおして微笑んだ。


「まぁ、とりあえず今は花でもやろうか」
「どうして?」
「お前が可愛いからさ。そうでなくても、愛しい女性には捧げるべきものだろう?」


言い分はわかるが自分には当てはまりそうもない。
が微妙な表情をしていると、ソロモンは可笑しそうに笑った。


「アレンに貰ったことはないのか?どうもあいつは、意中の相手にだけ不器用と見える」


その名前を聞いて、は一瞬固まった後、自然に目を逸らした。
ソロモンは気にせず身を起こし、周囲の花を摘み始める。
彼は鼻歌でさえとても上手だった。


「……花なら」


は小さく囁いた。


「花ならローズマリーがいい。あとはパンジーとスミレ」
「うん?今の時期には咲かないものが混じっているぞ」


ソロモンは反射でそう返したあと、ふと気が付いたように口元を緩めた。


「……ああ、わかったよ。“オフィーリア”」
「摘み終ったら私にくれる?花輪にしたいから」


も微笑めば、ソロモンは頷いた。
花を手折りながら詩を諳んじるように言う。


「“立派な最期だったんですってね。愛するロビン、私のすべて”」
「え?」


振り返ったはソロモンが両手を花でいっぱいにしているのを見た。
彫刻のような顔、伏せられた瞼。
優しい瞳で告げる。


「オフィーリアの歌だ。磔刑に処された救世主の、茨の冠を外そうとして血を流し、胸を真っ赤に染めた小鳥。その忠実な最期を彼女は称えてくれた」


一輪の美しい花を差し出しながら、ソロモンはに尋ねた。


「お前もそう言ってくれるか?俺のオフィーリア」


彼はとても淋しそうに微笑んだ。


「……俺は駒鳥」


淡い闇に沈みゆく花畑で、ソロモンは告白した。


「俺の本当の名は、“ロビン”というんだよ。


最後に呼んでくれた自分の偽名が、彼を傷つけたのではないかと心配になって、は捧げられた花を受け取った。
慰めてあげたいと思ってそうしたのに、心を透明にされたのはこちらだった。
一輪の花を胸元に抱いて、も切なく微笑む。


「ありがとう。“ロビン”」


琥珀色の瞳の少年は、初めて年相応にはにかんでみせた。

































が落としていった詩集は日本語のものだった。
おかげでアレンにとっては暇つぶしの道具にもならない。
読めない文字にますます苛立って、数ページ捲っただけで完全に閉じてしまった。


陽が落ちてしばらく経ったあと、ようやく聞こえてきたのは馬蹄の音。
完全に待ちくたびれていたアレンは、それでも不機嫌を顔に出さないようにしようと思った。
何故なら対峙すべき相手がかなりのポーカーフェイスだからだ。


「おや。迎えが来ているな」


案の定、余裕の口ぶりでソロモンが言った。
彼は華麗に馬を操り、アレンの傍までやって来る。
そこはの気配が途切れた場所。
校舎の裏手で唯一渡り廊下からの明かりが届く位置だった。
アレンは壁から背を離して馬上の二人を見上げる。


「おかえり」
「ただいま。寮で待っていてくれてもよかったのだぞ」


に言ったつもりだったのに、笑顔のソロモンが返事をしてきた。
さすがにイラッとして眉をしかめたけれど、彼は気にせず自分の前に座らせた少女に囁く。


「俺が送っていこうと思ったのだが。まぁ、女性を馬屋まで付き合わせるのも気が引ける」
「そう?私は見てみたいけど。だってクイーン・エリザベスのお城でしょ」
「ははっ。だったら今度、正式に招待しよう。……今日はお帰り」


楽しそうに軽口を交わすと、ソロモンはの手を取った。
指先まで巻かれた包帯。
それを気遣ったのか、は捕まる位置を腕へと変え、馬上から滑り降りる。
ダンスのターンのようにくるりと回って微笑んだ。


「ありがとう、ソロモン」
「俺の方こそ、楽しかったよ。このまま独占していたかったが……最後くらいはペイジに譲ろうか」


アレンにはその言葉の意味がわからなかったけれど、ソロモンの一瞥を受けて何となく馬鹿にされたことだけは悟った。
どういうわけだか、今宵の彼は攻撃的だ。


「また明日、


ソロモンは膝に乗せていた花冠を、恭しくの頭に被せると、颯爽と馬を走らせて去っていった。
それがやたらと様になっていてアレンとしては気に喰わない。
王子か騎士にでもなったつもりか。
そう考えたところで、ペイジの意味を思い出して、憮然としてしまった。
ペイジとはつまり、小姓だ。


「いつから君はお姫様になったんだ」


嫉妬は見せないようにしようと決めていたのに、ソロモンがいなくなった途端に我慢できなくなって、アレンは冷ややかな声を出した。


「僕を召使い呼ばわりとは随分だね」
「それは受け取り側の問題よ」


は普通に言い返してきた。
声音もいつもと変わらない。
否、


「まさか、待っているとは思わなかったもの」


いつもと違う。
目を見張るアレンの前を、が通り過ぎてゆく。


「それでも、ごめん。遅くなっちゃったね。早く寮に戻ろう」
「待って」
「なに?急がないと夕食が」
「どうして僕と目を合わさないんだ」


そう言ってやればの動きが止まった。
数秒の沈黙の後、ゆっくりと振り返る。
眼鏡のレンズ越しに真っ直ぐ見つめられた。


「……これでいい?」
「……………………………」
「急に子供みたいなこと言うのね、アレン」


は肩をすくめて笑ってみせた。
その弾みで視線が逸れる。
ほら、やっぱり。
彼女は僕の目を避けている。


「……それで?」


苛立ちが強くなってきたアレンは、無理やり平坦な口調を保った。
夕暮れの中で訊いた馬の嘶き。すぐにソロモンだとわかった。
連れて行かれたのだと知っても、追いかけられなかった僕の気持ちを、君は少しもわかってくれない。


「大人の君は、もちろんうまくやってきたんだよね?」
「?何の話?」


空とぼけられた気がして、アレンは眉間に皺を寄せる。


「ソロモンを探ってきたんだろう。何か事件解決になりそうな情報は聞けた?」
「…………………………」
「まさか収穫なし……」
「そのために」
「え?」
「“それ”が聞きたくて、私を待っていたの?」


やっぱり変だ。
そう感じてを観察する。
どうにも彼女の態度は固い。笑顔まで強張って見える。
アレンは不審に思いながらも頷いてみせた。


「そうだけど?」


だってそれ以外に、君がソロモンについて行く理由なんてないじゃないか。


「……そう」


は体の横で拳を緩めると、アレンに小さく頷き返した。
片手を持ち上げて頭の花冠をずるりと引き下ろす。


「ソロモンは白よ。彼は“クック・ロビン”じゃない」


不意にが断言したから、アレンは息を呑んで目を見張った。
学園で一番情報を握っているだろう生徒に、話を聞きに行っただけだと思っていたから、ここまで言い切られるとは思っていなかったのだ。
何より“クック・ロビン”の名が出てきたことに驚く。


「……君、ソロモンを疑っていたの?」
「そうよ。けれど、彼だけじゃない」


の唇に笑みはなく、ただエクソシストの顔で言う。


「私は特待生“全員”を疑っている」


その告白を彼女の口から聞くことは、アレンにとって結構な衝撃だった。
どういうことだ?
仲の良し悪しは別として、は特待生のみんなと、それなりの交流を持っていたはずだ。
そんな彼らの内に犯人がいると考えてるって?


「昨日の火事」


先ほどまでが嘘のように、は揺らがない瞳で続けた。


「現場となったのは理事長室と特待生の作業部屋しかない校舎よ。関係のない者が立ち入れば目立ってしまう。誰かの記憶にだって残るはずよ。現にあの日だけ呼び出された私たちのことは、何人もの生徒が覚えていたでしょう?」
「……けれど、その他の目撃証言はなかった。だから?」
「そう。犯人はあの校舎に出入りしても違和感のない人物」


は金髪についていた花びらを指先で取り除いた。
掌にのせて握り込む。


「私たちの正体を知っている理事長とフェル先生は違うでしょう。だとしたら犯人は、特待生の内の誰かとしか考えられない」


アレンが信じられないという顔をしたからだろうか、はゆっくりと首を振ってみせた。


「火の手があがったのは授業が終わって間もなくだった。あの時間帯に、誰にも見られず、校舎に侵入することは不可能よ」
「……そうだとしても」


庇う気があったわけではないのに自然と口にしてしまう。


「ソロモンを疑うのはおかしいだろう。彼は火事が起こったとき、僕たちと一緒にいたじゃないか」


何だか心臓が苦しくなってきて、ブレザーの胸元を掴む。
どうしてはそんな僕ですら平然とした目で見ているのだろう。


「それに、あんな……火傷を負ってまで、僕とルイスさんを助けてくれたのに」
「感情論を言い出したらキリがない。捜査にならないわ」

「放火だって、何かトリックを使ったのかもしれないでしょう。その場にいなくても火が点けられるような」


の言い分はもっともだ。
間違っていない。正しくすらある。
感情や常識を切り捨てて、何もかも疑ってかかる。それこそがきっと“捜査”であるべきなのだ。
たぶん、僕と彼女なら、後者がエクソシストとして正解なのだろう。
それでも。


「……初めてソロモンに同情したよ」


どうしようもなくてアレンは吐き出した。


「サーカスのときも思ったけれど。そんな風に、自分を想ってくれる人を疑って……嫌にならないのか」


きっと、長い時間待たされて疲れていたからだ。
もしくは同じ男として、やりきれなくなったからだ。
だって彼女は容赦なく“恋心”すら疑ってかかる。


「君が言うことが正しいのはわかるけど……」
「嫌よ」


“仕事だから”と返されると思っていたアレンは、が呻くように応えたことを意外に思った。
彼女は再びアレンから視線を外して、じっと床を睨み付けていた。


「嫌に決まっているでしょう。でも、私は神田ほど割り切れない。ラビみたいに冷静を保てない。アレンのように」


握り込んだ手にますます力を込めるから、花冠を構成する色が潰される。
滲み、混ざって、淀んでゆく。


「あなたみたいに、好意を素直に信じられる人間じゃない」


は何度か首を振ってみせた。


「ソロモンを疑いたくなかった。だから言葉の罠を仕掛けて、犯人ではないと判断したのよ。……私はそんなやり方しかできないの」


そう呟く様子が辛そうに見えて、アレンは足を踏み出した。
触れたいとか、抱きしめたいとか、明確に思ったわけではない。
そもそもにあんな顔をさせているのは自分だ。


「犯人に襲われたメアリーも違うでしょう。ジャックとジル、二人が共謀している可能性もなくはないけれど……わざわざ自分のアトリエで事件を起こすなんて危険なだけだもの」


アレンはそのまま彼女の傍まで行きたかったけれど、耳に入り込んでくる推理が足を止めさせた。
微妙な距離だ。腕をめいっぱい伸ばしても、ぎりぎり触れることはできないだろう。
金色のつむじを見下ろして問う。


「つまり……、一番に疑わしいのはルイスさんだって言うのか」
「そう考えればつじつまが合うのよ」


はまたアレンの目を避けるようになっていた。
どこか遠くを見ているだけのようにも思えたし、叱られたくない子供の様子にも似ていた。
そんな彼女は急に俯くのを止め、数歩前に出てアレンの胸元に手を添える。
流れるような動作で顔を近づけてきた。
それでも視線が合わないのは何故なんだろう。
キスをしそうなほど近くで、アレンは赤くなるより先に思う。
同時にが囁いた。


「ほら、やっぱり」
「……やっぱり?」
「匂いがする。薬の匂いよ」


は小さく鼻を鳴らすと、アレンの胸を押して自分の体を遠ざけた。
そのまま背中を向けてしまう。


「恐らく麻酔薬の一種ね。そう考えると特性は……元は液体で気化も可能。神経の興奮を抑える効果があるはずよ」
「?どうしてそんなものの匂いが僕から?」
「キスしたからでしょう」


訳がわからず首を傾げたアレンに、は淡々と告げた。


「ルイスとキスをしたときに移ったのよ。……恐らく、彼女は薬物を使っている」


言われてアレンは思い出す。
“L”と刺繍されたハンカチ。濡れた布地。
ルイスはその液体の匂いを吸い込むように、何度も鼻と唇に押し当てていた。


「彼女から不思議な香りがすることは知っていたの。私はよく面と向かって文句を言われているから」
「…………………………」
「香水にしては変わった匂いだし、いつも香ってくるわけじゃない。舞台へあがるときに気を落ち着かせるための薬かと、検討をつけていたんだけど」
「ルイスさんが」
「その薬を密室で大量に吸わせれば、人間なんて簡単に昏倒するはずよ」
「そうやってメアリーさんを気絶させたって?」
「同時に発火性があるわ。普通に火を点けただけじゃ、あれだけひどい炎にはならない」
「薬をばら撒いて放火したって言うのか」
「机上の空論よ。まだ証拠はないの」


つい問い詰めるような口調になれば、は頭を振った。
それでもこちらを見ないから、アレンは彼女の肩を掴んで振り向かせた。
やはり金色の瞳は伏せられている。


「違う、。それは」


アレンは咄嗟に否定しようとして、続きが出てこないことに気が付いた。
だってどう説明すればいい?
確かにルイスは薬物を使っていたのかもしれない。
けれどそれは、舞台にあがるためでも、ましてや他人を襲うためでもなく、彼女の背中に刻まれた傷跡のせいだ。
血の固まり方。皮膚の引き攣った感じ。
アレンが見た印象では、あの怪我はそこまで古くなかった。
表現が悪いかもしれないが、ルイスが受けた“虐待”は、そう昔のことではないのだろう。
つまり彼女は、まだ生々しい肉体的苦痛と精神的負担に耐えるために、薬物を用いているのだ。


(誰にも言えずに)


脳裏に浮かんだのはルイスの勝ち気な笑顔だった。
痛みと恐怖を背中に封じ込めて、彼女は女王様を演じている。
自分勝手を装いながら、自分自身を犠牲にしようとしている。
気の違った父親のために。崩れそうな家族のために。


(独りで抱え込んで)


そう、と同じようなやり方で。


「ルイスさんは違う。犯人じゃない」


確かな自信を持って言えば、の肩がぴくりと反応した。
震えたのかもしれなかった。
目が合わないまま、顔を背けたまま。


「そう断言する根拠は?」
「……言えない」
「どういうこと?」
「とにかく、ルイスさんは違うんだ。君は彼女のことを勘違いしてるよ」


誤解を解こうと必死さを見せれば、の顔が動いた。
真正面から見つめられて口を閉じる。
まるで射竦めるような瞳だった。
こんな眼で見られたのは、初めてだった。


「アレン。これは仕事なのよ」


がアレンの手を振り払った。
表情のない顔。温度のない目。
冷たい態度とは裏腹に、一瞬だけ触れた指先は異様なまでに熱かった。


「私たちはエクソシスト。任務遂行のためだけに此処にいるの。それなのに、仲間にも“言えない”ことって、なに?」
「……それは」


ルイスの尊厳に関わることだ。
彼女は誰にも見せたくない背中の傷を、僕を安心させるためだけに晒してくれた。
左手のことを口外にしない約束の代わりにしてくれた。
不器用なその誠意を、裏切りたくなかった。


「言えない」


だからアレンには、それしか応えられない。


「なんで……」


掠れた呟きを漏らしたは、もう無表情でも冷たくもなくて、悲しみに笑い出しそうな顔をしていた。
何だかとても変だった。
らしくなくて、可笑しかった。


……?」
「……キスってすごいのね。唇同士の接触が、信頼を生むなんて、知らなかった」
「何の話だよ」
「それが、仲間の絆より強いだなんて」


内容は皮肉めいているのに、がやたらと明るい調子だから、アレンは怪訝に眉を寄せた。
思わず手を伸ばしたけれど避けられた。
彼女はアレンから逃げるように後退する。


「私には出来ない」
「だから、何の話なんだ」
「私は試して確かめて、ようやくソロモンが信じられたのに。あなたはそんなことをしなくても、ルイスを信じられるのね」
「そういうことじゃ……」
「そして、ルイスにはそれだけのことが出来る。……私とは大違いよ」


はソロモンに貰った花冠を、そっと持ち上げて胸に抱き込んだ。


「だから、“言えない”んでしょう?」


そうして、アレンに微笑みかけた。


「好きと返せない、キスもあげられない、“私”には」


そのとき、は故意に傷つけようとした。
それもアレンではなく自分自身をだ。
いくら装ってみても、硬すぎる笑顔が、震えるような声が、本心を物語っている。
どうしてそんな真似をしたのかわからなくて、ただ言われた言葉と言わせた事実に腹が立って、アレンは咄嗟に手首を掴んで引き寄せた。
強引に唇を塞ぐ。
口の中にくぐもった悲鳴が発せられる。
廊下の床に、花が散った。
抵抗したが花輪でアレンの頬を打ったのだ。
痛みはほとんどなかったけれど、無残に散らばった色に一瞬動きを止める。
その間には距離を取ってアレンを睨み付けた。


「……っ、こういうことしないでって、言ったでしょう」


乱れた息を押さえつけて、手の甲で口唇を拭う。
その動作を苦々しく見ながら、アレンは叩かれた箇所に手をやった。
頬にくっついていた花弁がひらりと舞う。


「だったら、好きだって言えば」


売り言葉に買い言葉だ。
案の定は頬を紅潮させると、喉の奥から怒りを絞り出した。


「相手を間違ってる。ルイスに頼んでよ。私は言わない!」


三つ編みとスカートの裾を翻す。
は勢いよく床を蹴立てた。


「絶対、言わない!!」


駆け出したを引き止めようとすれば、その弾みで上着のポケットから日本語の詩集が滑り落ちた。
怒気を孕んだ足音に乾いた落下音が混ざり合う。
妙に空虚な響きとなった。
おかげで追いかけるタイミングを逃したアレンは、肺の底から深いため息を吐き出した。


「何でこうなるんだよ……」


を責めようと思っても、自分を叱ろうと考えても、思考がうまく働かない。
見下ろせば床の上に転がった詩集。
それに挟んでいた手紙が靴先に触れた。
今日も日本語で書いた自分の気持ち。聞きたい言葉。渡したかった恋文。


が絶対に言わないと告げた想いが、冷たい夜の廊下にひっそりと横たわっていた。










はい、ソロモン回でした。
完璧キャラには裏がある。お約束です。
あまりに“ソロモン”らしく振舞いすぎて、“ロビン”の大切なものまで犠牲にしてしまいそうな彼です。
そんな自分が危ういと思っているし、誰かに止めて欲しいと願ってるんでしょう ね 。
一方アレンは「どうした?」ってくらいタイミングと言い方が悪い。(笑)
そしてヒロインも返し方が悪い。これはお互い気を許した者同士だからこそのすれ違いですね。

次回はハロウィンのお話になります。よろしければ引き続きお願いいたします。