フェル先生、あなたが嫌いです。
何故かって私にもわかりません。
きっと理由を言ってもご理解いただけないでしょう。
鈍い心で、固い頭で、私の想いに気づかない。
フェル先生、私はあなたが、大嫌いなのです。
● マザーグースは放課後に EPISODE 9 ●
「…………………………」
その異様さにラビは閉口していた。
先刻から冷や汗が止まらない。
原因は火花が散りそうなほどピリピリした空気。
うかつに触れれば暴発しそうな雰囲気の中で、平然とお茶を啜れる神田は尊敬に値するだろう。
場所は日本語同好会の部室である。
今日も今日とてそこに集合し、任務の進捗具合の確認。
その後は一学生として各々課題に取り組み始めた。
しかし何だろうか。この部屋に満ち満ちる、戦場のような殺伐さは。
こんなところで宿題なんてやってられるか!とノートを投げ出したラビは、負のオーラを発している二人に声をかけた。
「あ、あのさ……」
「なに」
「何ですか」
返事は短い。そして調子が怖い。
暖かなコタツに入っているのに寒気がしてラビは震えあがった。
「オレの勘違いだったら悪いんだけどぉ……」
「勘違いよ」
「ラビが悪いです」
「まだ何も言ってないのに!?」
何だこの絶対零度の対応。
ラビは涙目になりながらも、勇気を出して言い放つ。
「アレン!!オマエらケンカしてんだろ!何があったかお兄さんに話してみなさい!!」
言葉の最後でどんっと机板を叩くと、その弾みで文字が歪んだらしく、アレンに舌打ちをされた。
は捲れそうになったテキストを勢いよく押さえる。
そしてどちらにも睨まれた。
「いつものことだろ。放っておけよ」
神田は二人の様子に興味がないらしく、教科書とにらめっこを続けている。
てゆーかユウ、解かなきゃいけないページ間違ってる。答えを悩む以前の問題さ。
ラビはそう思ったけれど口にしなかった。
悪いが今は年下の面倒を看るほうが先である。
「放置できるレベルじゃねぇだろ、この険悪さ……。今度はなに?何でケンカしてるんさ?」
「別に。アレンが勝手に不機嫌なだけでしょ」
「別に。が一人で怒ってるだけです」
「ハァ?」
「何よ」
「何ですか」
「言ったそばから顔突き合わせるな、ガン飛ばし合うな、事態を悪化させんな!」
「だってアレンが」
「だってが」
「ハイハイ、つまりどっちが悪いんさ?」
アレンがシャーペンを投げ出し、がプリントを叩き置いたから、ラビは二人の間に割って入った。
手をぶんぶん振って無理やり離れさせる。
彼らは仕方なくといった風に座り直し、相手から目を逸らしつつ応えた。
「……私」
「……僕です」
どんな罵詈雑言を聞かされるだろうと思っていたラビは、そこで少しの間固まってしまった。
ちょっと意味がわからなかった。
混乱する頭を押さえつつ確認する。
「………………つまり、どっちも自分が悪いと思ってるんさ?」
「うん」
「はい」
「じゃあ話はカンタンだろ!」
急に馬鹿馬鹿しくなってラビは天井を仰いだ。
このまま後ろにひっくり返ってふて寝をしてもいいだろうか。
それくらいには自分は迷惑をこうむっている。
誰が喧嘩中の友人達に挟まれて午後を過ごしたいものか。
しかもものすごく簡単に解決できる類だったなんて。
「さっさとゴメンナサイしろよ!んで、お互いに許せよ!それでもうおしまいじゃん!!」
「「嫌だ」」
「なんで!?」
即答されてラビは咆えた。
後方に逸らせていた体を勢いよく戻す。
「声揃えて拒否すんなよ!」
「だって嫌なんだもの。ねぇ?」
「ええ、まったくです。僕たちがラビの意見を聞くとでも?」
「オマエらケンカ中のくせに仲いいな!?」
こんな息の合った反論をするのなら、仲裁などいらないのではないか。
ラビはそう思って二人を見やった。
そして相変わらずの不機嫌な様子に、自分の努力はまったくの無駄ではないと知る。
「……つまり、オマエらはどっちも自分が悪いと思ってる。でも謝りたくないから、ケンカ続行中ってわけさ?」
「うん、まぁ」
「そんなところです」
「なんで?自覚はあるのにゴメンって言えないワケは?」
ずばりと突っ込めば、が口を開いた。
けれど声を出さずに閉じる。
アレンに至ってはむっつりと唇を引き結んでしまった。
「……ラビ。相談に乗ってくれるのならアレンのいないところでお願い」
「へぇ。僕には言えなくてラビには言えるんですね」
そこでアレンが皮肉ったから、ラビはコタツの中で蹴りを入れてやった。
どうして好きな女にだけあまのじゃくな態度を取るんさ、コイツは。
もで負けず嫌いだからなお悪い。
彼女は肩をすくめて短く息を吐いた。
「親友だからね」
「じゃあ僕は」
「仲間でしょ?名女優の演技に完敗しちゃうくらいには仲良しよ」
の反撃を聞いて、アレンは黙り込み、ラビは何となく事を悟った。
思わず目を半分にして言う。
「あーうん。今回の件はアレンが悪いな」
直感で思った通りのことを口にしてみる。
反論はなかった。
だから続ける。
「でも、それをアレンに認めさせるなら、が悪い」
「さすがマイベストフレンド。その通りよ」
は微笑んでパチパチと手を打ち合せた。
表情も態度も何だか捨て鉢だ。
今まで我関せずだった神田が、そんな彼女を横目で一瞥する。
「相変わらず面倒くせぇな、お前ら」
「おかげさまで」
「おい、ブサイク」
神田は眉間に皺を寄せての頬に手を伸ばした。
撫でるのかと思いきや指先で摘まむ。
そのまま力いっぱい引っ張ったから、ふて腐れた表情も台無しになった。
それが可笑しかったのか、自分でやったくせに、神田は口元を緩めた。
「ひどい顔だな。見るに堪えねぇ」
声を押し殺して笑うと、アレンに向かって鼻を鳴らしてみせた。
「だが、謝りたくねぇんなら仕方ない。お前らは一生ケンカしてろ。のブサイクな面くらい、すぐに慣れてやるよ」
その挑発にアレンがイラッとしたのは明らかだった。
に触れている神田の手を横から弾く。
そうして真っ向から睨みつけた。
「ご忠告どうも。……、二人で話そう」
「その前に、出ろ。馬鹿女」
アレンはを促したけれど、神田も別の意味合いで彼女に声をかける。
ぞんざいにそちらを示してみせた。
「客だ」
同時に部室の戸がノックさせた。
タイミングを挫かれたアレンは嘆息し、は眼鏡を掛けて立ち上がる。
軽やかに下足置き場に降りて扉を開いた。
「はーい、どちら様?」
「何であなたが出てくるのよ」
来訪者を愛想よく迎えようとしたの笑みが固まる。
何故なら引き戸の向こうに立っていたのが、不満げな様子のルイスだったからだ。
彼女は両手を腰に当ててを見下ろした。
「がっかりだわ。まさか四分の一の確率でハズレを引くなんてね」
「そうか?俺にとっては大当たりだが」
穏やかな言は単なるフォローでもないだろう。
ルイスの後ろから顔を出したのはソロモンで、に向かってにっこりと微笑んでみせた。
「やぁ。昨日やった花は、まだ綺麗に咲いているか?」
「ええ。僕の部屋に飾らせてもらっていますよ」
ソロモンとまったく同じ表情をしたアレンが、の肩を引いて彼から離れさせた。
二人の少年は笑顔で睨み合う。
実際が廊下に落としていった花はアレンが可哀想だと思って持ち帰っていたのだけど、そんなことは知らないラビはおやまぁと両眉を持ち上げた。
いつの間にかバトルが起こっていたらしい。
これはどういう展開になることやら。
そう危惧したところでルイスが前に進み出てきた。
のほうを見もせず、彼女を物か何かのように押しのける。
「もう、出てくるのが遅いわよ。私の大当たり」
ルイスは嬉しそうに笑ってアレンに抱きついた。
それもこれ見よがしに左腕にだ。
ラビは両眉をもう一段階を持ち上げた。
えええ何さ、あの修羅場。
「うわぁ、アンタら四角関係なんっスか」
「乱れてる……」
あとからやって来たジャックとジルが口々に言った。
いつも正反対の双子が、珍しく同じ口調である。
つまり心底呆れた調子だ。
「みんな揃って何事?」
ルイスに追いやられたが隅っこで首を傾げている。
順々に特待生の顔を見やって、最後に現れた人物に目を見張った。
「メアリー」
「こ、こんにちは……」
遠慮がちに登場した彼女のために双子が道を開けた。
ソロモンが手を差し伸べる。
メアリーは躊躇ったけれど、ジャックに背中を押されて、恐る恐る自分のそれを持ち上げてみせた。
「ようやく起きられるようになったんだ」
ソロモンはメアリーの手を取ると、優雅に達の前へと導いた。
相変わらず様になっている。
コイツ前世は王子だったんじゃないかとラビは思う。
「それで、お前たちに礼を述べたいと言ってな」
「お礼?」
「あ、あの……、火事のとき……皆さんが助けてくれたって……聞いて……」
アレンがきょとんと瞬くと、メアリーは身を縮ませた。
「そ、その……だから……」
「はっきりしなさいよ。それじゃあ伝わらないわ」
口ごもるメアリーに苛立ったのか、ルイスがきつい調子で促した。
おかげでますます声が小さくなってしまう。
「あ……、ありがとう、ございました……」
消え入りそうな音量で言って、メアリーは深々と頭を下げる。
がその肩に手をかけた。
「顔をあげて。お礼なんていいのよ」
優しく身を起こさせると、菫色の瞳を見つめて微笑む。
「元気になってよかった。……それに、あなたを助けたのは私達じゃなくてソロモンよ」
「ソ、ソロモン様が?」
「いや、火事から救ったという意味ではルイスだろう」
ぱっと頬を染めたメアリーに、ソロモンは首を振ってみせた。
思わずラビは考えてしまう。
あれは自分の功績をひけらかさない慎み深さか。
それともメアリーの気持ちを牽制しているのか。
「炎の傍で気を失っていたお前を、ルイスが背負って連れてきたんだ。俺は手を貸したに過ぎない」
「ルイスちゃんが……」
メアリーは口の中で呟くと、ルイスに気遣わしげな視線をやった。
「ご、ごめんね……」
「何を謝っているの?そこは感謝にしておけばいいのよ」
「だって、あの……」
もじもじとスカートの裾をいじりながら続ける。
「私、あの……あんまり覚えていないけど……」
「何よ」
「アトリエから連れ出してもらったとき、苦しくて苦しくて、……その人に」
「……………………………」
「あなたの“背中”に、必死にしがみついてしまったような……」
そのときラビは部室の中にいたのでルイスの顔は半分も見えていなかった。
けれども彼女の変化に気付けたのは、ひとえにアレンのおかげだった。
何故だかそのタイミングで、彼がルイスの手を握ったのだ。
自分の左腕に絡む指先を掌で覆う。
まるで何かから隠すように。
「あんなに力を込めてしまって……。い、痛かったでしょう?」
「……………………………」
「背中、大丈夫だった……?ごめんなさい、私……本当に」
「……っ」
「……ルイスちゃん?」
「平気よ!」
訝しげな表情になったメアリーに、ルイスは叩きつけるような返事をした。
同時にアレンが名前を呼ぶ。
びくりと肩を震わせたメアリーを見て、ルイスは苦しそうに顔をしかめると、アレンの手を振り払った。
「義理で付き合ってあげたけれど。もういいでしょう?日本語同好会の皆さん、火事のときはどうもありがとう。それじゃあね」
それだけ言い捨てると足早に廊下に出る。
双子を突き飛ばす勢いで歩いてゆくから、その場の全員が呆気に取られてしまった。
「どうしたんだ、あいつは」
ソロモンが不思議そうに呟くのと同時に、アレンがその眼前を通り過ぎた。
「オイ!」
思わずラビが引き止めたけれど、彼は軽く振り返っただけだった。
「すぐ戻ります!」
そーゆー問題じゃない。
ラビがそう叫んでやろうか迷っているうちに、アレンはルイスに追いついて彼女に何かを囁きかけた。
優しく背中に手を添える。
ルイスはそれを迷惑そうに避けたけれど、結局はアレンに寄り添うと、揃って角の向こうに消えていった。
二人を見送ったラビは思う。
馬鹿アレン。オマエ、この場をオレにどうしろと。
「何だ。あいつらデキてるのか」
「ユウ、空気読もうさ!!」
心底興味なさげな神田の言に、ラビは頭を抱えて嘆願した。
何でこういうときだけ的確なツッコミを入れるんさ、コイツは。
「へぇ……。ルイスさん、あんな顔もできるんっスね」
神田と同じくらいジャックの口調は自由だった。
その唇は楽しげに笑んでいる。
「今なら絵に描いてやってもいいかも」
「ジャック、趣味が悪い」
「それは前からだろ、ジル」
たしなめられてペロリと舌を出す。悪びれのない態度だ。
「あれって、アレンさんのせいなのかなぁ。あの人、他人を暴くのがうまい。そうだろ?」
「……否定はしない。上手な人なら、もうひとりいるけれど」
「ああ、さんね」
本人がその場にいるというのに、構うことなくジャックは続けた。
「おかげで絵のモデルには困らなさそうだ。ねぇ?」
そう言って笑いかけたのがソロモンだったから、何となくラビは寒気を感じた。
案の定、琥珀色の瞳が細められる。
口元に笑みを浮かべたまま、ソロモンはジャックを睨み付けた。
「本当に悪趣味だな。男などモデルにしても面白くないだろう。お前はを描いていればいい」
「どうして私よ」
「俺が見ていて楽しいからだ」
半眼で口を挟んだにソロモンは微笑み返す。
今度は冷たさを含まない、いつもの笑顔だった。
それで完全に調子を戻してしまうと、ソロモンはメアリーの手を離して、の肩を抱き寄せた。
「アレンがルイスに構うのなら、俺はその間にお前を口説こう。行くぞ」
「え?ど、どこに?」
「楽器のあるところだ。お前に曲をやる」
「まさか作ってくれたの?」
「ああ、今からな。即興で捧げてやるさ」
「でもソロモン、手が……!」
「大丈夫。メアリー、ピアノの鍵を貸してくれ!」
驚くを引きずって、ソロモンは部室から出て行った。
そのあとをメアリーがつき従う。
取り残された四人は何となく顔を見合わせた。
「あー……」
ラビはとりあえず言ってみる。
「茶でも飲んでいくさ?」
「いいっスね」
すぐさま頷いてくれたジャックは気遣い屋なのか、それとも自由奔放なだけなのか。
彼は姉を振り返る。
「ジルもごちそうになるだろ?」
「私は遠慮する」
弟へ視線もやらずに首を振ると、彼女はさっさと歩いて行ってしまった。
今度こそ本当に取り残された三人は、それぞれ深いため息をついた。
「はぁ、もう。茶飲もうぜ、茶」
「ああ、さっさと淹れろ」
「すんません、お邪魔するっス」
ジャックはぺこりと頭を下げると、靴を蹴り飛ばすようにして脱ぐ。
下足置き場からあがって畳に座り込んだ。
神田が座布団を投げてやれば、それを顔面で受け取る。
ラビが三人分のお茶を淹れている間に、ジャックはコタツの机板に顎を乗せて、もう一度嘆息した。
「はぁーあ。ソロモンさん達ならいくら気まずくなってくれたっていいのに」
「他人事だな、お前」
「その通りっスもん」
神田の突っ込みにジャックは平然と返す。
「でもジルはなぁ。あいつだけはいつも通りに戻ってほしいんだけど」
「何さ、オマエら姉弟ケンカでもしてるんか?」
ラビが湯呑を差し出しながら訊けば、彼はお礼と共に受け取った。
熱さのせいか会話の内容のせいか、顔をしかめて唇を尖らせる。
「ケンカっつーか……。ジルに避けられてるんっスよ。あれから」
「あれからって、あれさ?火事のときの」
『あんな人のために、危険なことをしないで!!』
そう叫んだジルには、ラビとて息を呑まされたものだ。
普段からは想像できないほど、鬼気迫る様子で彼女は弟を引き止めていた。
“あんな人”……メアリーをそんな風に呼んで、救いに行くことを阻んだのだ。
「他人の色恋沙汰なら面白いんっスけどね。自分のことになると面倒」
どうやらジャックは猫舌らしい。
熱々のお茶を持て余して、両手で湯呑をいじっている。
「……ジルがメアリーさんのこと、良く思ってないのは知ってたんっス。でも俺、気付かないフリしてきた」
「何でさ」
「だって何か哀しいじゃん。家族が好きな人のこと嫌ってるなんて」
実はラビも熱いのは苦手だから、ジャックと一緒になってお茶が冷めるのを待つ。
神田だけが平気でそれを啜っていた。
「しかもさぁ。その理由が俺だもん。……姉さんはメアリー・フェアが嫌いなんじゃなくて、弟の好きな女が気に喰わないだけなんだもん」
「何だそれは。あの姉は、そこまで弟離れできていないのか」
眉をひそめた神田が怪訝そうに訊いた。
その間にラビは後ろの戸棚からお菓子を引っ張り出してくる。
コタツの上に置いてやれば、ジャックは会釈をした。
「どもっス。……俺ら双子なんっスよ、神田さん」
「だからどうした。依存する理由にはならねぇよ」
「……あんたらホント学園にいないタイプっスよねぇ」
呆れとも感心とも取れる調子で呟いて、ジャックは肩の力を抜いてみせた。
お菓子を一つ手に取る。あんこの入った饅頭だ。
それを頬張りながら言った。
「あのねぇ、それなりに古い家だと……カビの生えたような迷信を、いまだに信じている奴らがいるんっスよ」
「ああ、つまり」
伝統云々は知らないが、知識は持っていたので、ラビが言葉を継ぐ。
「“双子は凶兆”。特に男女のそれが産まれた家は、長らく繁栄が妨げられる……ってヤツか」
「そ。このご時世にホントどうかと思うよなぁ」
ジャックは明るく笑い飛ばして、もう一口饅頭に齧りつく。
うまいうまいと喜ぶついでのように説明した。
「おぎゃーって生まれた瞬間から、俺らはたった二人きりの味方だったんっスよ。親父には蔑まれ、お袋には罵られ、親戚中からは針のむしろだ。おまけにジルには、何っつーんスか?霊感?みたいなのがあったからさぁ。そりゃあもう死ねだの殺せだのガキに向かってよく言ってくれたもんだなぁって!」
ジャックは饅頭を丸呑みにした。
よく苦しくないものだとラビは感心する。
話している内容のほうがよっぽどそうだからだろうか。
「ああいう“お告げ”って、大人に言うとダメなんっスよね。不気味だって怒り出しちまう。だから俺、絵に描くようにしたんっス。ジルが言うままに。ジルが見た通りに。あいつの目に映る世界を、まんまキャンパスに描き出した」
お茶はまだ飲めないだろうか。
ラビは湯呑に触れてみたけれど、火傷しそうなくらいに熱かった。
早く冷めてくれ。ジャックの喉が真っ黒なもので詰まってしまう前に。
「そしたらジルが叱られずに済むと思ったんっス。けれど、大人たちは怒るどころか褒めはじめた。うまいって、ゲージュツ的だって、カネになるって!」
凶兆どころか吉兆だ、繁栄をもたらす双子だ!
卑しい叫びが聞こえた気がして、ラビは軽く頭を振った。
「描けるだけ描けと急かされて、俺はジルのためじゃないと嫌だと言った。そしたらあっさり掌返しだよ。あいつらは寝る間も与えずジルに占いをさせた。俺はアトリエに軟禁。ホント俺たちあの数年でいくら稼いだんだろうなぁ」
帳簿とか残ってないかな、と呟いてまたお菓子に手を伸ばすから、ラビはさっと取り上げてみせた。
あまりに口へと詰め込むから見ていられなかったのだ。
注意しようかと思ったけれど、何となく別の事を言ってやる。
「オマエ、そーゆーこと話していいんか?素性をバラすのは禁止されてるだろ」
「やだな、明言はしてないじゃないっスか」
ジャックは不満そうな顔でお茶を手に取る。
ふぅふぅと一生懸命に冷まし始めた。
「調べたけりゃ調べればいいよ。きっとすぐにわかる」
確かに、とラビは思った。
今の話だけでもうブックマンの情報網に引っかかってきていたのだ。
ジャックとジルの場合は隠せというほうが難しいのかもしれない。
先刻本人が言った通り、男女の双子を擁する名家はそうない。
「ま、とにかくそーゆーわけっス。俺たち随分長い間、お互いのために生きてきたから。……姉さんの世界には、弟しか理解者がいなかったから」
顏を伏せるジャックにラビは翡翠の眼差しを注いだ。
彼らはきっと逃げてきたのだ。
自分たちを食いものにする家族から、姉弟の手だけを握り締めて、真実才能を発揮できる場所……“学園”へと。
しかし、特待生という称号で守られるのは卒業まで。学生時代が終わればまたカネのために働かされる。
ジルは自由に占いができなくなるだろう。
ジャックは好きなものを描けなくなるだろう。
大人たちに都合の良い未来だけを、ひたすら絵にしなくてはならなくなる。
「今までが」
じっと考え込んでいたラビは、静かな声に意識を引き上げられた。
顔を向けた先で神田の目が動く。
彼はジャックを真っ直ぐに見つめた。
「今までがそうだったからと言って、これからもそれに従う必要はねぇだろ」
「……え?」
「お前が依存から抜け出したように、姉貴にもそうさせるべきだってことだ」
「………………………」
「いつまでも二人きりの世界で生きるな。お前たちは実家に閉じ込められているのが嫌で、この学園にやって来たんだろうが。それなのに変化を拒んでどうする」
相変わらず神田は正しい。
正しすぎてときどき嫌になる。
ラビは大きく頷いたジャックから視線を逸らした。
彼は素直だ。自分とは違う。神田の真っ当さを呑み込める。
その根拠は強さでしかないから、弱くて細いオレの喉には、引っかかって仕方がないのに。
「やっぱりジルを説得するしかないのかなぁ。メアリーさんへの気持ちを、わかってもらえるまで」
ジャックの呻きを聞きながら、ラビはお茶に口をつけた。
まだ熱い。飲めなくはないけれど、無理にそうすれば痛みを伴うだろう。
「神田さんとラビさんならどうするっスか?」
いきなり意見を求められて、二人は目を瞬かせた。
ジャックは真面目な様子で繰り返す。
その手はラビが取り上げたお菓子へと伸ばされていたが。
「家族が恋人を連れてきたとき、どうしたら許してやろうって思える?」
「恋人って……オマエらまだくっついてないじゃん」
「そもそも俺たちに訊くことかよ」
揃って呆れた顏をしてやったけれど、ジャックは気にせず質問を重ねた。
「いいじゃないっスか、先輩がた。参考までに教えて」
そう言ってあんこのついた唇を舐めあげる。
今度はちゃんと咀嚼して呑み込んだようだった。
「ほら、例えばさぁ。さんが男を連れて来たとして」
「何で」
「何で馬鹿女」
「あんたら仲イイっしょ。あの人ちょうどソロモンさんとアレンさんに迫られてるし」
それが核心とも知らずに無邪気に問いかけてくる。
ラビは神田のほうを見なかったし、向こうにもその気がないようだった。
お互いの表情を知りたくなかった。
神田はいつも正しいけれど、この問題に関してはラビも自信が持てなかったし、何より己の幼稚さを認めるのに苦心していたからだ。
「気に入らない奴を恋人だって言われたとき、一体何をしてくれたら認めてやろうって思えるんっスか?」
何、って。
何だろう。
今までそんなことはないと信じていたから、オレは安心してアイツと親友でいられた。
けれど変化し始めた心。その中に芽吹いたもの。
鮮やかに染まった、優しげで激しい想い。
あの金色の瞳が熱を持って見つめる先に、アレンかソロモンかその他、誰でもいい。自分以外の男がいるとしたら?
「なんにもしなくていいよ」
ラビは囁いた。
神田もジャックも見なかった。
ただ、記憶の中のだけを見つめていた。
「なんにもしなくていい。ただソイツと居れば幸せなんだって、当たり前の毎日の中で、教えてくれればいい」
笑って。
オレの大好きな顔で微笑んで。
そうしていてくれたらもう“充分”だ。
「たぶんさぁ、何されても、どう言われても……淋しいんさ。でもそれって側の問題じゃない。オレの心の問題」
胸が切なく軋むから、ラビは唇を緩めた。
「ジルも同じだと思うぜ。本当は全部わかってる。……だからオマエは、いつも通り」
「……いつも通り?」
「ジルを慕ってやればいい。別の女に惚れてたって、姉さんは大切なままなんだと、伝えてやればいいんさ」
「そんな当たり前のこと」
ジャックは納得できないというように首を傾けたけれど、その角度は神田によって元に戻された。
短い黒髪を乱暴に撫でる。
最後に軽く叩くと、手を引き戻して頬杖をついた。
「“当たり前のこと”を、当たり前にしてやれ」
ラビは神田の横顔を見た。
今度はしっかりと目を向けた。
掌で口元が隠されていたけれど、微笑んでいるのではないかと思う。
「うん、それが一番さ」
ラビも一緒になって笑った。
腑に落ちないという顔をしているジャックにも、いずれわかる日が来るのではないかと思う。
感情を比較されることをは嫌うだろう。
恋人と友人。どちらが大切かなんて、疑問に思うことすら、彼女は許してくれない。
きっとそうだという確信に頷いて、ラビは湯呑の中のお茶を飲んだ。
そろそろ冷めたかと思っていたのにまだ随分と熱かった。
中心でくすぶる熱。
触れれば温かいだけのそれを、喉を焼きながら一気に呑み込む。
きっと、火傷は残らない。
油断した、とは思った。
両肩を落としてため息をつく。
視線の先にはロッカーがあって、開いたその扉の内側に、ぐしゃぐしゃになった黒が落ちている。
鼻をぐずらせながら引っ張り出した。
風邪はまだ治っていない。それどことか悪化の一途を辿っている。
手の中のものを確認してみれば、さらに頭痛がしてくるようだった。
ああ、皺にされただけかと思ったら、ご丁寧に切り刻んでくれたのね。
嫌なところに感心して、は黒を広げてみせた。
頭の上では楽しげな音楽が流れている。
校内放送を使って学園中に響き渡るそれは、年に一度のお祭りを盛り上げるためのもの。
そう、今日は10月31日。ハロウィン当日だった。
オレンジと黒で装飾された校舎内は、甘いお菓子の匂いで満ちている。
授業は早々に切り上げられ、部活も全面休止。
夕刻までに生徒も教師も仮装をして、ハロウィンパーティーへと繰り出すのである。
今まで親しい仲間内でお菓子の交換をしたことはあったけれど、こんなにも大規模な催し物は初めてだったから、も少なからず楽しみにしていた。
それが気の緩みとなったのだろうか。
は今日着る予定だった衣装を前に、もう一度深いため息をついた。
「あーあ」
思わず呻く。
女子更衣室のロッカーに入れていた魔女服は、見るも無残にズタズタにされていた。
布の裂け方が綺麗だから、きっと裁ち鋏を使ったのだろう。
随分と用意のいいことだ。
「せっかくラビが作ってくれたのになぁ……」
親友に申し訳なくて、の嘆息は止まらない。
あんなにはりきって用意してくれたのに。
相変わらず嫌がらせは続いていて、だからこそは身のまわりに気をつけていたのだけど、イベントを前に多少浮かれてしまったようだ。
「どうしようかな……。直すには時間が足りないし」
もうすぐパーティーが始まる。
仮装していないと会場には入れない決まりだ。
やはりこのままの格好では締め出しを喰らうだろうか。
「まだ着替えないの?」
不意に背後から声をかけられた。
振り返るついでに衣装をロッカーに戻す。
見せて気持ちのいいものではないので、気付かれないように隠しておく。
「ジル」
が名前を呼べば、彼女は静かな瞳を瞬かせた。
透ける紫の布で口元を覆っている。
同じ素材の上着は丈が短く、下は裾のしぼんだズボン、先の尖った木靴を履いている。
モチーフはアラビアの占い師だろうか。
ヴェールの上に垂れ下がった、コインのような金飾りが目に眩しい。
「うわぁ、よく似合ってる!そんなに可愛いとみんなが放っておかないでしょ?もちろん、私もね」
素直に褒めたら嫌そうに目を細められた。
うーん、ジルって口説きにくそう。ルイスほどじゃないけど。
がそんなことを考えていると、彼女はロッカーのほうを一瞥して、もうひとつ瞬きをした。
「ああ、またイジメ」
「さぁ、どうかな」
「……服を破られたんでしょう?」
「うーん。ラビの芸術作品を見た誰かさんが、感動のあまり力を入れ過ぎちゃっただけかも」
「馬鹿なことを」
「まぁ、占い師の目は誤魔化せないか」
は苦笑して、ロッカーの戸を閉めた。
着替えるものがなければ此処にいる必要はない。
首を振りつつ歩き出す。
「パーティー会場に行こう。制服でもいいか聞かないと」
このテの話題を引きずられるのは嫌だから、は何でもない顔で微笑んでみせた。
「ジルの仮装はジャックとおそろい?二人並んでいるところが見たいな」
「……………………………」
「いいね、姉弟なかよくって。私もジルみたいなお姉さんが欲しかった」
「……………………………」
「いや、私より年下だから妹かな。うわぁ“お兄ちゃん”とか呼ばれたい!来世あたりどう?」
「……どうもこうも」
更衣室の出入り口を通ろうとしたは、横に突き出されたジルの腕に進路を塞がれて足を止めた。
金飾りが擦れて鈴のような音を立てる。
紫に塗られた爪が、扉枠に喰い込んでゆく。
「来世なんてない」
その声はやけに暗かった。
言葉の意味がわからなくて、はジルを振り返る。
そして沈んだ淡褐色の瞳と出合うことになった。
「魂の行く末は虚無。私にわかるのはそこまで」
「ジル?」
「とは違う。あなたなら私など、いくらでも凌げるはず」
「何を……」
「この目には視えない。カードは応えない。……昔は、私とジャックのことだけだった」
何かに追い詰められたジルの表情。
その正体が掴めなくて、は彼女を見つめた。
「私たち姉弟の未来だけが、見通せなかった。どうすればあの子を幸せにしてあげられるのか、一番欲しい答えだけが手に入らなかった。だから占いに没頭したの」
「…………………………」
「いつの日かジャックの幸福を見つけるために。私があの子にできることはそれだけ。こんな気味の悪い姉を持ってしまった弟への贖罪。私をかばうために絵の才能を使わせてしまった懺悔」
「……贖罪?懺悔?あなた達は」
初めて耳にすることには混乱していた。
ジルの能力は忌み嫌われていたのだろうか。
そしてそんな姉を守るために、ジャックは絵筆を取っていたのだろうか。
唐突に切り出された話について行けず、はジルの肩に手を伸ばした。
「急にどうしたの?そんなことを私に言うなんて」
「私には、見えない。あなたには、視えている」
「?何が……」
の指先がジルに届く前に、彼女はその身を投げ出していた。
胸に飛び込んできた小さな体に驚く。
ジルはの制服にしがみついて、吐息ほどの音量で続けた。
「見えない。私には、もう」
「ど、どういうこと……?」
「……初潮が来てから、だんだんと、わからなくなった。いくら目を凝らしても、何度カードに尋ねても、未来を見通せなくなってしまった」
これがとんでもない告白なのだと、ようやくは気が付いた。
ゆっくりと鳥肌を立てる。
ジルは今、特待生として、禁断の秘密を口にしている。
「月のものが来るたびに能力が弱くなっている。いずれ跡形もなく消え去るでしょう。……私にはすでに占者としての資格がない」
「……そう、だったの」
「どうにかしなければ。この学園を卒業したら、また家族に働かされる……」
「働かされる……?」
「私の能力がなくなったと知ったら、あいつらはジャックに全てを背負わせる。脅しすかしてあの子にカネ儲けを強要する」
「待って、ジル」
「私ではジャックを救えない。何の価値もない存在になってしまうのだから」
「少し落ち着いて。ね?」
あまりに強い力でしがみついてくるから、はジルの二の腕を掴んだ。
身を離そうとしたけれど、それより先の間近で見上げられる。
能力を消費した占い師の目は死んでいた。
涙さえ浮かべられない乾いた瞼が震える。
「あなたには、“視えて”いるんでしょう?」
今度こそ本当に全身が粟立った。
は自分が顔色を失っていることを自覚する。
抱きついてくるジルに押し倒されないように、手足にぐっと力を込めてみせる。
「あなたは私よりもずっとずっと、ずっと“格上”」
そう言う声に羨望が滲んでいたから、は哀しくなった。
苦々しいものが胸中に広がっていく。
「あなたならきっと、ジャックの未来も視えるはず」
それは違うよ、ジル。
私に未来視はできない。
唯一の能力は、道を踏み外した者を、“在るべき姿”に戻すことだけ。
それすらも禁じられているのだから、私はあなたの求めるものにはなれない。
「お願い、弟を助けて」
「ジル」
「そのためなら何でもする。私なんてどうなったっていい。一生あなたに仕えましょう。だから……!」
「……そんな風に考えるのなら、ジャックはきっと不幸になる」
強くなっていく哀切に、は思わず囁いた。
双眸を見開いたジルに、そのすがるような眼差しに、首を振ってみせる。
「彼を幸せから遠ざけるのは、あなたのそういう思い込みよ」
「……思い込み?」
「私はあなた達のことを何も知らない。だからこれは無責任な言葉になる。それでも、言わせて」
今から告げることは家族が、師が、仲間たちが教えてくれたことだ。
「ジャックの痛みを思いやれるのに、どうして相手も“同じ”なんだと思えないの」
「……………………………」
「ジルが自分を投げ出して、ジャックを脅威から守ったとしても、彼は幸せにはなれない。あなたを犠牲にしたことをずっと悔いることになる」
「……そんな、ことは」
「あなたの大切な弟は、お姉さんを踏み台にして生きていけるほど、薄情で冷たい子なの?」
「違う。ちがう……けど」
「認めてあげて、ジル。ジャックの幸せのためには、あなた自身も幸せにならなければいけないんだって」
はジルの腕から手を滑らせて、彼女の両肩を優しく覆った。
なだめるようにさすってやれば小さな震えが伝わってくる。
やはりすがるように見上げてくるから、そっと微笑んでみせた。
「ジルにとって、ジャックは大切な家族。きっと向こうも同じように思ってくれているわ。ジルが今後どんなことになっても、あなたはジャックの愛するお姉さんのままなのよ」
「……占術の能力を失っても?」
「それはあなたの一部でしょう。あなたの“全て”じゃない」
「でも……」
「愛する人を想うのなら、自分を傷つけては駄目よ。相手も自分を愛してくれていることを忘れないで。……信じてあげて」
「あの子は私よりもメアリーが好きなのに?」
吐き出すように言われたから、は目を瞬かせて、それから苦笑した。
抱きついてくる可愛い女の子の背中に腕を回す。
ぎゅっと力を込めれば、相手はひどく驚いたようだった。
「バカね。それで家族への気持ちがなくなるわけじゃないでしょ」
ヴェール越しに艶やかな黒髪を撫でてやる。
「ジャックの一番じゃなくなるのは……うん、ちょっと淋しいかもしれないけど。それこそ、彼の幸せを願うのなら、受け入れてあげて。あなたの弟は他人を慈しめる、素敵な人間なんだって」
「……できる気がしない」
「ゆっくりでいいの。大丈夫よ。だってジャックの幸福は、あなたの笑顔の源でしょう?」
「は難しいことを言っている」
「まぁ、そんな私も精進中だからね」
拗ねた口調になったジルに微笑んで、はゆっくりと距離を取った。
淡褐色の瞳はまだ揺れていたけれど、底の見えない暗さは薄まっていた。
それにホッとしてジルの頬に手を伸ばす。
「何がジャックの幸せになるのか、もう一度よく考えてみて。それは決してジルの能力で手に入れるものじゃない。あなたの何かを犠牲にして、与えてあげるものではないのよ」
触れた肌は冷たかった。
熱を移してあげたくて、は掌を当てる。
そんなことをされたのは初めてだったのか、ジルは居心地悪そうに身じろぎをしたけれど、振り払おうとはしなかった。
「ジャックもジルもまだ十四歳なんだから!卒業まで時間があるじゃない。焦らずにきちんと探さなきゃ。二人で笑っていられる道を」
「やっぱり、難しい……」
「言っておくけど、自分を無価値だと決めつけるのも、相手の感情を比べるのも傲慢よ。私だってそれでどれだけ怒られたか」
「も?」
「うん、もうほんと……あの人たち容赦ないから」
ちょっと昔を思い出して遠い目になったに、ジルは怪訝そうな顔をした。
首を傾げているから気にするなと肩をすくめておく。
瞳を緩めて明るく笑ってみせた。
「ほら。双子の絆を前に、私なんて無力も無力!もちろん、頼ってくれるのなら精一杯がんばるけどね」
頬に当てていた手を離して眼前に差し出せば、ジルは少しだけ頬を染めて睫毛を伏せた。
数歩後ろにさがって衣装の裾を整える。
「ごめんなさい、急にこんな話をして。……抱きついたりして」
「それはいつでも大歓迎!だって来世の妹だもの」
「……あなたみたいなお姉さんは遠慮する」
「あ、あれ?じゃあ、“お兄ちゃん”で」
「それはもっと嫌」
取りつく島もなく拒絶されたけれどは気にしなかった。
ジルがこちらの手を取って、ぎゅっと握り返してくれたからだ。
「お友達でいい。……今世から」
耳までほんのり赤くして、小さく呟かれた言葉に、は自然と笑み崩れた。
手を引いて歩き出す。
ジルは戸惑いながらも、の後を付いて来る。
「とりあえずジャックのところに行こっか。仲直りしなきゃね」
「……別に、ケンカしているわけじゃない」
「火事の後から気まずくなってるんでしょ。そんな空気は吹き飛ばさなきゃ」
「……………………………」
「二人で笑うためにね」
「も」
後ろからの声に振り向いた。
ジルは相変わらず少しだけ照れた様子だったけれど、に向かってはっきりと告げる。
「アレンと、仲直りしないと」
これはとんだブーメランだ。
は思わず顔をしかめて、視線を前へと戻した。
別に、ケンカしてるわけじゃない。私達だってそうよ。
先刻のジルの言葉を胸中で繰り返してみる。
何だか虚しい気分になった。
「ほら、ね」
は大業なため息をついてみせた。
「私の目には、未来なんてちっとも見えやしないのよ」
だって「ごめんね」って言ったとき、アレンがどんな顔をするかなんて、丸っきりわからないんだから。
「あれ?」
こちらに気が付いたのはアレンが最初だった。
彼の傍には神田とラビ、そしてタイミングのいいことにジャックがいる。
パーティー会場の外で待っていてくれた皆に、はジルを伴って近づいていった。
日が暮れるとさすがに寒い。
鼻がぐずぐずいい出すのを止められない。
「珍しい組み合わせですね。ジルさん、こんばんは」
二人でやって来たことを不思議に思ったのか、アレンが首を傾けながら言ってくる。
それでも挨拶を忘れないあたりは紳士の鑑だ。
「遅ぇよ、馬鹿女」
「つーか、なんで制服?オレの作ってやった衣装はどうしたんさ」
不機嫌に文句を垂れた神田や、嫌な突っ込みを入れてくるラビとは大違いだ。
……なんて、言えた立場じゃないけど。
「えーっと、実はね」
ズタズタにされた魔女服を思い出しながら、どう伝えたものかと逡巡しただったけれど、そこでジルが隣に進み出てきたから驚いた。
片手はしっかり繋いだまま、もう一方の手で腕に抱きついてくる。
「運が良くなかったから」
「「は?」」
思わずラビと疑問の声を揃えってしまったは、見えないところでジルに叩かれた。
どうやら黙っていろという合図らしい。
「今日のに、あの衣装は不吉。運勢が悪くなる」
「え、えーっと。そうなんか……?」
「色がダメ。形が最悪。あれを身に着けていたら、非業の死は免れない」
「そんなに!?むしろそんな呪いのアイテム作ったオレすごくね!?」
「そういうわけだから、私が着るのを全力で阻止した」
ジルは何でもない顔でそう言ってのけると、ラビに向かって頭を下げた。
「製作者のあなたには申し訳なかったけれど。……ごめんなさい」
「い、いや。を守ってくれてどうもな」
ラビは自作の出来に衝撃を受けたようだったけれど、ジルの言い分に感じるものがあったのか、冷や汗をかきながらも礼を口にした。
はもっとその気持ちが強くて、すぐ傍に立つ彼女の頭に頬を寄せる。
「ありがとう」
イジメを受けた自分を庇ってくれたのだと、考えなくてもわかったから、暖かな気持ちでそう囁く。
ジルはまた少し顔を赤くして黙り込んでしまった。
「でも、どうするんさ。仮装してなきゃ会場には入れないぜ」
「ああ、そのことだけど」
こうなったらいっそジルだけジャックのところに送り届けて、自分はパーティーを欠席しようかと思っていただった。
実はちょっと本格的に具合が悪い。
さらに言えば、ジルの嘘の通りに、今日は運とかあたりがきつそうだ。
「私はパスさせてもら……」
「これでいいじゃないですか」
そこで急に視界が真っ暗になった。
頭からズボッと何かを被せられたのだ。
直前の声からして、犯人はアレンに違いない。
「オイこら、それ取られたらオレのカッコが意味不明なるんだけど!?」
「大丈夫、ラビは常日頃から仮装しているようなもんですから。足りなければその眼帯に星マークでも描いてあげますよ」
「うわぁ、それ可愛すぎ。というか、何?私は何を被せられたの!?」
「「カボチャ頭」」
涙声で訴えるラビと、それを軽くあしらうアレンに、が問いかければ答えは二重で返ってきた。
カボチャ頭?
つまり私は今それの被り物をさせられているってこと?
くるくる回してみれば、なるほど目と口の部分にくり抜きがあった。
「いや、これラビのでしょ」
被り物の中から親友の姿を確認してみる。
彼の仮装は恐らくジャックオランタンだ。
奇抜なデザインの黒服を着て、露出した肌の部分を包帯で隠している。
顏だけは何もされていなかったけれど、それはこのカボチャを被るためだろう。
「いいじゃないですか、貸してあげれば。ラビは頭まで包帯を巻いてミイラ男にでもなってください」
適当なことを言っているアレンの仮装は狼男だ。
白髪に馴染む三角の耳と、ふさふさの尻尾。ご丁寧に肉球のついた手袋まではめている。
黒を基調とした服装はいつものかっちりしたデザインに近くて、何とまぁ上品な狼男もいたものだと感心する。
「ああ、似合ってるじゃねぇか。それで行け」
無責任な発言を寄越してきたのは神田だった。恐らく人の多い場所に苛立っているのだろう。
ラビに着せられたであろう衣装は、赤い裏地のマントとすらりとした黒のスーツ。
フリルの付いた白いシャツの胸元には血色のブローチが留められていた。
あれはドラキュラ伯爵?
せっかく日本語同好会を立ち上げたのだから、個人的に着物姿が見たかったでもない。
「ああ、うん。三人とも素敵な仮装だね」
「オマエもな」
「君こそね」
「テメェほどじゃねぇよ」
普通に褒めたのにすげなく返された。
唯一ジャックだけが明るい声で言ってくれる。
「へぇ、その格好いいじゃないっスか。制服にカボチャ頭って……」
軽く吹き出してから笑い出す。
「すーげぇマヌケで可愛い!似合ってるよ、さん」
……どうにもジャックは自分に正直すぎる気がする。
無神経と呼ぶには愛嬌があり過ぎて、怒るに怒れないのがずるいところだ。
「ありがとう、ジャック。さぁ、パーティーよ。ジルをエスコートしてあげて」
は苦笑すると、彼の前にジルを連れて行った。
ジャックの仮装はやはり姉と合わせてあって、青の上着と白のズボン、頭にはターバンという出で立ちだった。
モチーフはきっとアラビアの騎士だろう。
「……エスコートの相手はメアリーでしょう」
ジルがまだそんなことを言うから、はその背をぐいぐい押してやる。
「こんな可愛い格好をしたお姉さんを放っておけるわけないでしょ。あっという間にハロウィンの餌食よ」
「もちろん、そんなのことさせないっスよ」
ジャックは拍子抜けするくらいあっさりと返してきた。
ジルの腕を取ると屈託もなく微笑んでみせる。
「ジル。俺の手はふたつあるんだぜ?お前もメアリーさんも、一緒に引っ張ってやれるよ」
「ジャック……」
「お前だって傍にいてくれなきゃ、俺はちっとも楽しくないんだ。そんなことわかってるくせに。なぁ、“姉さん”」
お揃いの淡褐色の瞳。
一方は愛おしげに細められて、一方は喜びに見開かれる。
その様子を見た神田とラビは笑んだ視線を交わし合った。
ジャックも振り返ってそれに加わる。
二人が肩を叩いてやれば、彼は姉の手を引いて、元気よく走り出した。
「ほら、早く!パーティーだ!」
「待って、ジャック!」
楽しげな笑顔を交わす二人に、神田とラビも続いてゆく。
オレンジの明かりの灯る入り口をくぐって、パーティー会場へと入っていった。
それを見送ったは安堵と共に、眩暈とも寒気とも思えるものを感じていた。
被り物のせいで視界が狭い。
思考もそれに引きずられるように、ある考えに囚われてしまう。
(ジルにはああ言ったけれど。私にはできるのかな)
暗くなってしまうのは、きっと暮れゆく陽の下にいるからだ。
(大切な人の一番じゃなくなったとき、私はきちんと微笑んであげられる?)
「で?心あたりはあるの?」
唐突に言われてハッとする。
目の前にはアレンが立っていて、少し呆れたような顔をしていた。
この間のことがあって以来、二人きりにはなっていなかったから、妙にどぎまぎしてしまう。
「……何の話?」
「犯人のだよ。今日の衣装、台無しにされたんだろう」
確認するでもなくそう言い当てて、アレンは短いため息をついた。
対するは言葉を詰める。
なんて鋭いんだろう。それにこの態度。
ジル相手にはあんなに紳士的だったのに、自分に対しては相変わらずだ。
「……ラビには」
「言わないよ。勘付いてる可能性はあるけど。騙されてるのは神田くらいじゃないの」
「じゃあ、何でアレンにはわかるのよ」
「馬鹿にしてるんですか」
そこだけわざと敬語に戻して、アレンはふんっと鼻を鳴らしてみせた。
「好きな人のことくらいわかるよ」
眉をひそめて、顔をしかめて、まるで喧嘩を売るような口調で。
そんなことを言われたものだから、はカボチャ頭に感謝した。
おかげで熱を帯びた頬を見られなくてすんだ。
今年の風邪は本当にしつこいと、は無音で毒づいてみせる。
「……ひどいことを」
どう言うべきか、いつ伝えるべきか、迷って迷って、結局こんなかたちにしてしまう。
風邪よりも私のほうがよっぽどタチが悪い。
はそう考えながらも必死で言葉をひねり出す。
「ひどいことを、したと思ってて」
「……した?されたじゃなくて?」
「衣装のことじゃない」
「?じゃあ何の話」
「お花の話よ」
咄嗟にそう返した自分の舌を噛み切ってやりたい。
「……ソロモンに貰ったお花。あんな風に扱うなんてどうかしてた」
「……………………………」
「私が落としていったのを、持って帰ってくれたんでしょう。まだ綺麗に咲いている?」
いや、根元から引っこ抜くべきか。
案の定アレンは気分を害したようだった。
「急に何を言い出すかと思えば……。とっくに枯れてしまったよ。あれから何日経っていると思ってるんだ」
「そう、何日も」
衝動的に叩いて、謝りもせずに、何日も。
「ごめんなさい」
ようやく告げることができた謝罪は、被り物の内側でこもってしまって、アレンに届いただろうかと心配になった。
そう思うほど黙り込まれた。
沈黙が忍び寄って体を冷やしてゆくのに、顔だけはどんどん熱度をあげてゆく。
「……お花の話だよね?」
「お花の話よ」
やっと聞こえてきたアレンの声に、嘘の返答をしてしまう自分の口を、端から端まで縫い付けてしまいたい。
「こっちこそ」
ゆっくりと顔をあげると、困ったような表情のアレンが見えた。
被り物をしているからこちらの視線はわからないだろう。
おかげで本人に気付かれることなく、その色づいた肌を眺めることができた。
「ごめん」
「……お花の話よね?」
「そうだよ。枯らしちゃったから」
先刻当たり前だとしたことを言い訳にするアレンに、は思わず微笑んでしまった。
声は出さなかったのに気配で伝わったのか、向こうも同じような様子になる。
「僕は君ほど器用じゃないから。うまくできなくてごめんね」
「ううん。私もらしくなかった」
アレンがルイスを庇ったのには、きっとそれだけの理由があるのだろう。
考えなくてもわかることだ。
何よりも彼は信用に足る相手ではないか。
疑うほうがどうかしている。
「アレンが言うのなら、ルイスのことは……」
信じてみる。
そう告げようとして、続きが出て来ないことに気が付いた。
咄嗟に喉に手を当ててみる。
声帯の異常でないとわかっていたのに、確認せずにはいられなかった。
どうして?
舌を噛み切りたいとか引っこ抜きたいとか、縫い付けてやりたいとか、さんざんひどいことを思ったから?
「?」
不思議そうに見つめてくる銀灰色の瞳。
私は彼が好きだし、信頼している。
だからこそ、アレンがルイスを信じると言うのならば、私だってそうできるはずだ。
それなのに、何故だろう。
言葉が続かない。
「……………………………」
は自分に愕然としていた。
そして全身に感じているものを否定しようとした。
この寒気は風邪のせいだ。
決して私の内側から生まれてきた“感情”じゃない。
「……アレンは」
は半ば呆然としながら問いかけた。
「大切な人の一番が自分じゃなくなったとき、どうする?」
「また唐突だね。何の話?」
「……さっきジルと話していたの」
「ああ、あの姉弟のことか」
嘘を言ったわけでもないのに心苦しくなって、真面目に考えてくれているアレンに目を伏せる。
こんな気持ちになるなんて思ってもみなかった。
枯れてしまう。朽ちてしまう。
命を終えた花のように、私の中で何かが崩れてしまう。
「……家族が恋人を連れてきたとき、アレンならどうすると思う?」
「うーん、そういう立場になったことないからなぁ。僕は兄弟もいないし」
「お義父さんとか、クロス元帥とか、は」
「マナは独り身だったよ。師匠に関しては毎回のことなので、もう呆れるしかありませんでした」
「そ、っか」
「まぁとりあえず、三回くらい殴って本気かどうか確かめるんじゃないですか」
「歪みなくバイオレンス!」
あまりに投げやりな答えにはいつもの癖で突っ込んだ。
アレンは気にした風でもなく訊いてくる。
一番痛いことを問い返してくる。
「君は?どうするの?」
それがわからないから尋ねたのよ。
は咄嗟にそう言いそうになって、らしくない返答だと思い呑み込んだ。
私ならどう答える?
“”、なら。
「バンザイ三唱して抱きつく」
「あはは、何それ」
がんばって普段の通りに応えたら、アレンが笑ってくれたのでホッとした。
彼は笑顔で腕を伸ばしてくる。
両手を掴まれて振りあげられた。
「はい、バンザーイ」
「バンザーイ?」
「「バンザーイ!」」
そんな場面でもないのに言ったままのことをやらせて、アレンはに抱きついてきた。
抱きしめられたというほうが正解だけど、勢いとか仕草が子供みたいだったから、自然とそう思えた。
久しぶりの距離だ。
よく知っている匂いや感触が、何よりもの傍に在る。
「行こう。せっかくのハロウィンだ。楽しまないとね」
すっかり態度を戻したアレンは、の手を引いて歩き出した。
どうやら彼はこちらの不調に気が付いていないようだ。
此処は薄暗い野外だし、カボチャ頭を被っている。顔色を確認することはできない。
おまけに仮装で手袋をしているから、の体に触れても、体温の高さを感じ取れなかったのだろう。
これは幸か不幸か。
本当は具合が悪いの。風邪をこじらせてしまって。だから今日は帰って安静にしているね。
そう言ってしまえばいいのに。
そうするべきだろうし、出来ない仲ではないのに。
はそのままアレンに連れられて行った。
自分の内側に気を取られていたというのもあるけれど、何よりも仲直りのしるしのように見せてくれた笑顔を、心配で曇らせたくなかったからだ。
なるほど、確かにこれは立派な“仮装”だと、は妙に納得したのだった。
続いちゃっ た ……。(汗)
ハロウィン回は1話で終わらせるつもりだったんですが。
何はともあれ今回はジャック&ジルがメインな感じです。
ジャックはラビと神田に、ジルはヒロインに懐いてきましたね。
こうやっていろんな人と話して、いろんなやり方を知って、自分だけの道を見つけて欲しいものです。
次回もまだまだハロウィンです。そしてヒロインがついに……!
よろしければ引き続きお楽しみください。
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