もしも涙を流すなら、世界の果てで人知れず。
たった独りで泣いてみたい。
誰にも触れられないように。
● 荊を抱いて EPISODE 6 ●
「……?」
アレンがその名を呟いた瞬間、は唐突に立ち上がった。
顔を見られたとわかった後の彼女の行動は早かった。
脇目もふらず、全力疾走でその場から逃げ出したのだ。
「な……っ、ちょっ、!?」
アレンも反射的にその背を追って駆け出していた。
驚きから生じた硬直は、の見事なまでの逃げっぷりに吹き飛んだ。
彼女はそのまま中庭に突っ込み、花壇を飛び越え、植え込みへと突進していった。
自分が着ているのが丈の長くないワンピースだということになど欠片も気にせず、大きく足を動かして、逃げる、逃げる。
ハッキリ言って下着が丸見えだ。
アレンはその事実に何となく視線を落として、が裸足だということに気が付いた。
それに加えて無理やり植木に突っ込むから、枝が無防備な顔や腕をこすって赤い痕をつけている。
これは真剣に追いかけっこなんかしている場合じゃない。
アレンは打ち付けてくる枝を払いのけながら叫んだ。
「!待ってください怪我しますよ!!」
「………………」
「聞こえないんですか!止まれって言ってるんです!!」
「…………………………」
「この……っ、馬鹿!低能!考えなし!君が宇宙一意地っ張りなのは知ってますけどね!たまには素直になってください!!」
「…………………………………………」
「あぁもう、奇跡でもなんでもいいから言うこと聞け!!」
何だか走るの背に怒りのようなものを感じたが、足を止めてくれないのならそんなのは無視だ。
そんな調子で二人は全力疾走の追いかけっこを展開しているが、エクソシストなだけあって、の足は速かった。
しかしそれはアレンだって同じだし、歩幅の違いもある。
どうにかして距離を詰め、彼女の腕に手を伸ばす。
もう少しで捕まえられる、というところで、突然が方向転換した。
アレンの手は空を掴み、行き過ぎてしまってから慌てて進路を修正する。
「!!」
苛立ちの声で叫ぶが、彼女はやはり振り返りもしない。
走りに走って二人は反対側の庭園にまで来ていた。
周囲には整備された木々が立ち並び、行く手には噴水があった。
真夜中のため水は止められていたが、水盤には水が張られていて上空の月を映し出している。
アレンはが噴水を迂回してどう逃げるかを予測する必要があった。
いつまでも裸足のまま走らせておくわけにはいかない。
そう考えるアレンの目の前で、は唐突に信じられないことをした。
勢いよく地面を蹴りつけると、そのまま噴水に飛び込んだのだ。
「な……っ」
言葉を失うアレンの顔を水しぶきが襲う。
派手な水柱をたてて、は噴水の中を走り回った。
「あはははは!あははははははははっ」
これもまた唐突に笑い声を上げながら、はバシャバシャと水を跳ね散らす。
アレンも噴水に飛び込んで、ようやくその細い腕を捕まえた。
「何してるんですか!?」
本気で理解できなくてアレンは怒鳴ったが、は声をあげて笑うだけで答えない。
あまりにも水を蹴立てるので、二人はすぐにずぶ濡れになった。
「あははははは!びしょびしょだ!濡れねずみだ!」
「だから何を……っ」
「ずぶ濡れになって何やってるんだろ、おっかしー!」
「!!」
「バカみたーい!!」
はしばらく発作のように笑っていたが、力尽きるようにそれも徐々におさまっていった。
ひくり、ひくり、と痙攣しながら、は呟いた。
「本当に、ばかみたい」
最後に大きく息を吐いて、彼女は全身から力を抜いた。
アレンが掴んでいる腕もだらりと体の横に垂れ下がる。
はどこか呆然とした瞳で、足をひたす水面を見つめた。
「ずぶ濡れになったって、泣いたことを消せはしないのに」
の白い頬は濡れていた。
アレンが垣間見た涙は、噴水の水に混じってわからなくなっていた。
けれど泣いたという事実を、アレンは、そしては知っているのだ。
は俯いたまま少し笑ったようだった。
「あんたまで濡れることなかったのに。ごめんね」
アレンは言葉を失った。
そしてようやく理解する。
は追いつかれると悟って、涙を隠すために、咄嗟に噴水の水の中に飛び込んだのだ。
言うべき言葉がいまだにわからないアレンは、それでも突き上げてくる疑問に口を開いた。
「どうして……」
「………………」
「どうしてそこまでして涙を隠すんですか」
水を含んで肌に張り付いた金髪がの白い頬を覆っていた。
表情は見えない。
けれどやはり彼女は微笑んでいるようだった。
「簡単な話だよ。単純明快な答え。それはただの意地」
「意地……?」
「そう。信念なんて呼べるほどカッコ良くない、ただの意地」
アレンは向けられたの横顔を見つめる。
意地?
そんなのは違う。
それはただの強がりだ。
「そんなのは強さなんかじゃありませんよ」
「それでも私は弱いから、強いフリでもしていないと立っていられないんだ」
「どうして……っ」
今はもう微笑んでいて、先刻見た涙すら嘘のようなに、アレンは焦燥を覚えた。
それは昼間に感じたものと同じだった。
わけのわからない感情が胸を苦しめる。
「リナリーに泣いてあげてと言ったのは、じゃないですか……!」
夜の匂いが辺りに満ちていた。
空気が冷たくて温もりを求めたくても、お互いがそれを許さなかった。
は涙を拒絶し、アレンはそんな彼女の考えが理解できないからだ。
はわずかに視線をあげた。
「あの子の涙は純粋だから」
声にぬくもりが宿る。
「リナリーはとても純粋で、死んだ仲間のために泣いてあげられる、本当に優しい子」
羨望にも似たその言葉の調子。
しかし、そこで一変。
声のトーンは変わらないのに、そこに含まれる感情は冷ややかなものとなった。
「でも私は違う」
は水面に映る自分の影を見下ろして、冷たく言った。
「私は自分のためにしか泣けない。みんなが死んで、苦しくて辛いと叫ぶ自分の弱い心のためにしか泣けない」
「そんなの誰だって……」
「私は仲間の死を悲しむより先に、自分の無力さに涙してしまう」
アレンはハッと息を呑んだ。
そうだ、彼女が切り裂いたんだ。
救うことが出来なかった、仲間の死体を。
意思を失ったその器を、悪意のままに踊らされた肉体を。
操るアクマの呪縛から開放するために。
アレンには何故か想像することができた。
一瞬にして仲間たちの死体を無に返したは、その血にまみれながら傍にいた神田に言ったのだろう。
同じ血で汚れさせてごめん、と。
「泣きたくないんだ。泣いて、楽になってしまうのが怖いんだ。この痛みを忘れてしまうのが嫌なんだ」
はもう微笑んではいなかった。
ただ自分自身に向けて、戒めのように言葉を紡ぐ。
「この罪は忘れない。悲しみも絶望も私だけのものよ。涙にして流したりなんかしない」
そうすればきっと、最期のときまで背負ったまま生きられるから。
真摯な決意がそこにはあった。
アレンには想像もつかない、深い深い心の奥。
誰に聞かなくても今ならわかった。
は今日まで、仲間が死んでも人前で泣くことをしなかったのだろう。
彼女はずっと涙を流すことを自らに禁じていたのだ。
そして一人になって時ですら、たった一雫。
誰もいない真夜中に、耐えきれなくなったように膝を折ってしか、泣くことを許さなかったのだ。
アレンは正体のわからない感情に胸が締め付けられるのを感じた。
苦しくて、視線を落とす。
目を凝らしてみれば、眼前の少女は傷だらけだった。
体を構成するほとんどのパーツに巻かれた包帯。
腕に残ったいくつもの注射針の跡は、鎮痛剤を投与したからだろうか。
裸足の足には血がにじみ、立っているのもやっとのように見えた。
彼女はその傷跡を団服といつも通りの態度で隠した。
神田やリナリーといった親しい者にすら決して見せずに。
そして悲しみに呑まれて崩れ落ちそうな自分に負けないために、わざと膨大な量の仕事をこなしていたのだ。
すでに少なからずを知っているアレンには、彼女の考えていることを推測することができた。
耐えて耐えて耐えて耐えて耐えて耐えて耐えて耐えて耐え続けて。
俯いたりしないように、ただ真っ直ぐ前だけを見て。
涙を流してはいけない。
泣くのはひどく簡単だから、無理にでも笑って、絶対勝つからって不敵に宣言して。
それが。
それがの考えた、彼女に出来る唯一のたむけなのだ。
精一杯の誇りなのだ。
けれど君の涙を見てしまった僕は。
胸の奥が焼かれているかのように痛かった。
その熱さに、を掴む手が震える。
力を込めて握りなおす。
アレンはを見つめた。
彼女は決してこちらを見ようとはしない。
苛立つ。
同時に切なくて仕方がなかった。
もういいよ、と言ってあげたかった。
大切なものを失ったのは誰もが同じはずなのに、どうしてだけが涙すら許さずに、鮮血を流し続ける傷を背負おうとするのだろう。
絶望の中で、それでもただ独り強くあり続けようとするのだろう。
そんなのは駄目だとアレンは思った。
理由なんてわからなかったけれど、同時に言うまでもなかった。
悲しみも、痛みも、だけなんて駄目なんだ。
だって、涙の温度を君は忘れている。
「泣いてください」
言葉が口をついた。
言いながら、アレンは理解した。
これだ。
これだったんだ。
昼間、研究室で呼び止めた彼女に言いたかったこと。
アレンがに言いたかったこと。
は驚いたように顔をあげてアレンを見た。
月光の宿る銀の瞳に、その長い睫毛を震わせる。
あまりに真剣な眼差しを受けて、彼女は逃げるように身を引いた。
それでもアレンは手を離さなかった。
「」
「な……、なに言ってるの。話聞いてなかったの。私は……」
「駄目です」
決して彼女を逃がさずに、アレンはその細い腕を引いた。
ほとんど抱きしめるようにして動きを封じる。
「、泣いてください」
アレンのその言葉に、彼女の肩が大きく震えた。
それは悲しいのか、苦しいのか、辛いのか、寂しいのか、そんなのはそんなのはそんなのは誰が?
僕がだよ。
アレンはを真っ直ぐ見つめて言った。
「泣いてください。君にはそれが出来るんだから」
の金色の瞳が大きく見開かれる。
それが自分勝手な言葉だということを、アレンは理解していた。
己のエゴのために彼女に泣けと言う自分は、なんてひどい奴なんだろう。
その気高い決意も、ここまで耐えてきた心も、真っ二つに折ろうとしているのだ。
けれどアレンは悲しかった。
苦しかった。
辛かった。
寂しかった。
ただが。たった独りで、全ての重圧に耐えようとする少女が。
そんな姿は見たくない。
彼女は馬鹿みたいに笑って、意味不明なことを言って、さんざん暴れまわっているほうが似合っている。
だから駄目なんだ。
祈りも、涙も、でなければ駄目なんだ。
見開かれていたの瞳が震えた。
彼女は顔を歪めて、アレンを睨んだ。
「どうしてそんなこと言うの」
アレンは答えない。
は視線を落として、ゆるゆると首を振った。
「私は泣きたくないのに」
「……」
「泣いちゃいけないのに……っ」
はかすれた声で呟いて、アレンの胸に額を押し付けた。
かなりの勢いで、まるで頭突きのようだったが、アレンは文句を言わなかった。
それがまた気に食わなかったのか、の拳が胸を叩く。
細い体はかすかに震えていた。
それは闇の中で、彼女が白いワンピースを着ていなければわからないような、本当に小さな震えだった。
アレンはその華奢な肩を両手で覆った。
嗚咽の声はない。
涙も見えない。
それでもの心は泣いていた。
決して誰にも見せることなく、闇の中でひっそりと。
ただ彼女が今、独りでないことだけが、光になるように祈りながら。
アレンはの震える肩を支え続けた。
頭の上を月がめぐる。
「泣きたくない」と言うヒロインを放っておいてやるのが、神田の優しさです。
放っておけないのが、アレンの優しさです。
どちらもとても尊いものだと私は思います。
ヒロインはそんな二人にとても感謝していると思いますよ。
色は違っても、優しい心は同じですから。
次回はやっぱりこうなるのか、的な展開です。
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