深い黒の中で、それは命を破壊するもの。






● 黒の教団 黒の少女  EPISODE 3 ●






気が付いたときにはすでに、によって地面に引きずり倒されていた。
そして眼前に迫っていた刃。
が手にしたままだった『六幻』が、迷いもなく自分の命を狙っていた。
アレンは咄嗟に発動した左手で刀を弾き、剣先をずらすことによって何とかその攻撃を避けた。
この喉を真っ直ぐ貫くはずだった刃は、かろうじて肉体を傷つけることなく、顔のすぐ脇の地面に深々と突き刺さっている。


「………っ」


アレンは『六幻』の刃を左手で掴んだ。
元の持ち主の手を離れて発動は解けているが、武器には変わりない。
その様子を、はアレンの上に馬乗りになったまま見下ろしている。


冷たい金の瞳は、静かな憎悪に染まっていた。


先刻までの親しみやすい雰囲気は消え、氷のように冷ややかな表情。
凛とした、鬼気の宿る眼差しが痛い。鋭い美しさに身が斬られるようだ。
圧し掛かってくる強い気迫にアレンはただ彼女の持つ凶器を止める手に力を込めた。


は本気だった。
神田もアレンを殺すことに関しては本気だったが、彼にあったのはただ殺意だけ。 敵―――――――アクマを倒すために必要な、最も単純で純粋な感情だけだった。


けれど、はどうだ。


彼女にあるのは紛れもない憎悪だった。
ただのアクマに向けるにはあまりにも深い憎しみと、嫌悪。
それはとても複雑で、長い間心で育てなければ存在し得ない。
言い訳も、命乞いも通用しない、確実に息の根を止めるための凶器だ。


…………………どうして。


ぞっとするほど冷たい瞳で見下ろしてくるを、アレンはきつく見つめ返した。
その視線の先で、


「……あれ?」


がゆっくり瞬いた。
途端に消え失せる凄惨な気配。氷のようだった双眸に暖かい光が戻る。


「え……?」


突然の変化にアレンは戸惑いを隠せない。
は何度か瞬きを繰り返すと、『六幻』からいとも簡単に手を離した。
そして両手でアレンの頭をがしりと掴み、鼻がくっつきそうなほど近くまで顔を寄せた。


「ちょ……!」


あまりの近距離にアレンは慌てた。
視界いっぱいに広がった、の整った顔。
彼女は眉を寄せ、真剣にアレンを覗き込んでいる。


「………………………………………あれー?」
「あの……?」
「おかしいなぁ……」
「ちょっと、近いんですけど………」
「なんか若い」


はアレンの控えめな主張を無視して、そう呟いた。


「まだ少年じゃない」
「はい?」
「髪の色もちがう」
「すみません、何の話で……」
「しかもこの傷」


はアレンに構うことなく、片手を伸ばした。
そしてその指先で、アレンの左眼、そこに刻まれた傷痕に触れた。
躊躇いなく、無造作に。


アレンは、肩を震わせた。
こんなに何の他意もなく、この呪いに触れた人間は初めてだった。


呪いに手を伸ばす人がいるなんて。
傷痕に手を差しのべる人がいるなんて。


アレンはただ、どうしていいかわからずにを見上げた。
は素早くアレンの傷痕を確かめると、今度は額へと指先を移動させた。前髪をかきあげて、ペンタクルにも軽く触れる。
それからむくりと身を起こして、アレンから顔を離した。


「傷じゃなくて……ペンタクル?これが呪い?…………そういや門番がそんなこと言ってたな。じゃあやっぱり違うってこと……?」
「だから言っただろ。待てって」


憤慨したような神田の声がの背後から聞こえてくる。
彼女はうっと言葉を詰めて気まずそうな表情になった。


「言うのが遅いんだよ神田は……」
「ふざけんな、ちゃんと間に合ってただろ」
「私の足を止めたければ爆笑一発芸でも身につけることだね!」
「ああ、今度からは半殺しにする勢いで止めてやるよバカ女」


だからその暴走癖をなんとかしろ後始末が面倒だ、とウンザリした調子で呟く神田。
それを聞きながら、アレンは嫌な予感が胸を占めていくのを感じていた。


「…………………………………すみません」


恐る恐る、自分の上に跨ったままのに尋ねる。


「どうして僕は、君に憎悪むき出しで殺されかけたんですか……?」


答えを聞きたくない気がすごくするが、そうもいかない。
アレンのその問いに、は微笑んだ。
何と言うか……これ以上ないくらい爽やかな笑みである。



「誰にだって人違いはあるよ」



…………………………………。
今。
人違いとか言ったよね、この人。


「ひ……っ、人違いーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!??」
「うん、人違い。ごめんね!」


あまりに理不尽なその答えにアレンは思わず絶叫したが、それさえも笑顔で一刀両断される。
何となく勘づいていたことだったが、改めて肯定されるとガッカリだ。
予想があったても全然うれしくない。


「ちょ……待っ、じゃあ僕が地面に引きずり倒されて、喉をブッ刺されそうになったのは全部人違いとかいう現象なんですか!?」
「そうだね。そーゆーこと」
「なに “そんなことも分かってなかったの?” とでも言いたげな顔してるんです!?」
「いやぁ、だってよくあることでしょ。人違い」
「ありませんよ!!」
「あるって!ホラ、子供のころ買い物中にお母さんだと思って手を握ったら見知らぬおば様だったり、新学期に先生のことを思わず “お母さん!” って呼んじゃったり!!」
「ええ、ありますよね!ありますとも!そーゆー平和的な人違いなら大歓迎ですよ、何ですかこの刀!!」
「そんな日常的人違いの結果?」
「たかが人違いで凶器を振り回さないでください!!!!」


目の前の彼女の行動が本気で理解できずに、アレンは叫んだ。
冗談じゃない。
そんな人違いごときで殺されかけただなんて。
しかしそこで、はふと瞳を伏せた。


「ごめんね。“たかが”人違いでも、私にとってそいつは仇だから。君の左眼の傷しか目に入らなかったんだ。 ………………見た瞬間、理性が吹っ飛んだ」
「……仇?」


予想外の言葉に驚くアレンに、は頷く。
わざとなのか、それとも素なのか、暗さを吹き飛ばすような明るい声で。


「そ。左眼に傷のある男性。ちょうど君みたいな」
「……………………………」


ちょん、と指先で傷に触られて、アレンは思わず左眼を押さえた。


また触れられた。


慣れていないその感覚に、奇妙な感情を覚える。
何だろう。
胸の奥がむずむずするような。
変な感じがする。
不快ではない。触れたのが嫌なわけでもない。
けれど初めて抱くその心に、訳がわからず眉が寄ってしまう。
その様子を見て、はパッと手を引っ込めた。


「ごめんなさい、嫌だった?」
「え……?あ、いえ………」


アレンは曖昧に言って首を振った。
正体がわからないその感情を、とりあえず今はしまっておこう。
それよりも。
アレンはいまだに自分の上に乗っかったままのを見上げた。


「それよりいい加減どいてください」


原因はともあれ、人違いだったのだ。もはや彼女に地面に倒され、馬乗りになられている理由はない。
アレンは当然のこととして、そう要求した。
だが、しかし。


「は?なに言ってんの?そんなのダメだよ」


あっさり却下。


「何でですか!?」


憤然と抗議するも、は当然のことのように言う。


「君が私の仇じゃないってのはわかったけど。アクマはアクマでしょ」


ああ、まだその誤解があったのか!!
すっかり忘れていた根本的な間違いは、ここまできてもまだアレンを苦しめるようだ。


「ねー神田。中身もう確かめた?」
「まだだ。邪魔したのはテメェだろうが」
「じゃ、私が皮剥ぐから。神田は斬り刻んじゃって」
「ったく……」


神田は不機嫌オーラ全開で、しかしの言葉通りにする気のようだ。
つかつかと乱暴な足取りでこちらに向かってくる。


「ちょ……、なに人の上で物騒な相談もちかけてるんですか!?」
「神田。綺麗に三枚おろしでお願い」
「しかもえげつない注文つけてるし!!」


は自分の下でわめいているアレンなど気にもかけない。
地面から『六幻』を引き抜き、神田に投げ返す。


「どうせやるなら」
「完膚なきまでにぶった斬ってやる」
「それでこそ神田!」
「うるせぇ」
「おやおや短気だなぁ。では早速」


は神田に向けてにやりと笑うと、再びアレンを見下ろした。
細められる金色の瞳。
その確かな殺気にアレンはの両手を掴んだ。


「ちょっと待ってください!!」
「だめだめ。人生のトラブルに待ったはなしだよ」
「トラブルって、明らかに人災なんですけど!?」
「大丈夫、君の最期は華々しく演出してあげるから」
「しなくていいですよ!!」
「遠慮するな少年。今日はあの世への門出だからね!ああ、めでたいなぁ」
「めでたくない!ちっともめでたくないですから!!」


わざとらしく感涙の真似までしてくるに、アレンは全力で怒鳴った。


何だこの人、本当にちっとも話が通じない!!!


心の中でそう叫んで、アレンは必死にの手を押しとどめる。
だが、彼女の力もそれなりに強い。馬乗りになられたこの体勢からは逃げるのも難しい。


どうしよう。
結構ピンチだ。


歯を食いしばって抵抗するアレンに、はにっこりと微笑んだ。


「わかったわかった。わかったからとりあえず消えてね!!」
「とりあえずのレベルで殺す気ですかーーーーーーーーーーーーーー!!??」



前言撤回。



かなりのピンチだ。






















そのころ、『黒の教団』 科学班研究室。


そこでは科学班員の全員が、モニターに写し出された少年とその上に馬乗りになった少女の姿を呆れた表情で眺めていた。
それぞれ「ああ、またか……」とでも言いたげな面持ちである。


「兄さん、がまた暴走してるわ」
「いいよいいよ、ほっといて」


眼鏡の男は空になったカップにコーヒーを注ぎ入れながら言った。
モニターには背をむけたまま。


「どうせ誰にも止められないんだから」




スピーカーからは門前で言い合う二人の声が響いていた。







出逢ってすぐに押し倒され、人違いで殺されかける主人公。 やっぱり可哀想ですね!
そろそろアレンは限界ですが、まだまだヒロインの追撃は続きます。