そして僕はこれからも、自分を欺き続けるつもり。






● 黒の教団 黒の少女  EPISODE 7 ●






夜明けが近いことは匂いで分かった。
朝独特の清浄な空気。ひんやりとしたそれは、動かし、熱を持った身体には心地いい。
アレンは昨日与えられたばかりの部屋で、一人トレーニングに励んでいた。


「298……299……」


斜めに立てた椅子、その上に右手の親指一本で逆立ち、腕立て伏せを繰り返す。
ギシギシと木製の脚が軋む音が静かな室内に響いている。
アレンは一際腕に力を込めた。


「300!」


その時、チカリと光が瞬いた。
眩しくて目を細める。
視線を転じると、窓越しに素晴らしい景色。
それは崖にそびえ建つ、黒の教団ならではの眺めだった。


「夜が明けた……」


明るい光の洪水に、アレンは口元をほころばせる。


今日もきっといい天気だ。






















マナ……。

揺れる黒白の残像。
たゆたう魂。
交差する感情。
流れ込んでくるのは愛しい父の苦しみか、哀しみか、それとも――――――――――。




絶叫。






















「!?」


身体の芯が揺さぶられるようなその叫びに、アレンは飛び起きた。
一瞬わけがわからずに硬直する。
冷たい汗が全身を濡らしていた。
荒い呼吸を何度か繰り返し、あぁ夢か、と顔を覆った。
それはいつもの夢だった。
よくわからない時間軸の、けれど奇妙な閉塞感が伴う。
まるで夜の底のような。


悪夢だった。


生ぬるく、心地いいのに、最後には必ず闇に叩き堕とされる。
色落つモノクロームの世界。
愛しい父の面影が残酷に引き裂かれて―――――――――。


(あの叫び声はマナの……?)


顔を覆った指の間から、アレンは吐息を漏らした。
無理に面をあげて頭を振る。


「大丈夫……」


そうして目を伏せたまま、口元に薄い笑みを浮かべた。


「だいじょうぶ……、がんばるよ」


そうだよ、大丈夫。
僕はがんばるから。


だから。


アレンは自分自身にそう言い聞かせると、頬に張り付いた髪を払いのけた。
己の姿を見下ろしてみれば、上半身が裸のままだった。
どうやらトレーニングの後、そのまま少し寝入ってしまったようだ。
上着を床に脱ぎ捨てて、シーツもかぶらずにベッドに横たわっていた。
そんな自分になんとなく乾いた笑みを送って、アレンはベッドから降りようと床に両足をつく。
空腹を感じて、そういえば食堂はどこだったかなと考えた。
その時。


凄まじい爆音と共に、黒の教団が揺れた。


「うわっ!?」


立ち上がろうとしていたアレンは衝撃でベッドにしりもちをつく。


「な、なんだ……!?」


呟く間にも爆音は続いている。
何かが壊れる音と、少女の悲鳴と、青年の怒声。
なにが起こったのかわからず困惑していたアレンだったが、あることに気がついて顔色を失くした。


何だか音が近づいて来ているような……。


それは足音だ。
ものすごいスピードで誰かがこちらに駆けてくる。それを追うようにして爆音も。
うわぁ嫌な予感。
アレンが頬を引き攣らせたのと、それが部屋に飛び込んできたのはほぼ同時だった。


一瞬、金の光かと思った。
早朝に見た夜明けの光。
穢れを知らない、希望のような。


その黄金はアレンの部屋の扉を壊さんばかりの勢いで開いて、自分の身を室内に滑り入れると、やはり破壊が目的かと問い詰めたくなるような乱暴さでそれを閉めた。


「…………………………………………」


やっと像を結んだ金色の正体に、アレンは絶句した。
光に見えたのは髪の色だったようだ。
扉にびたりとはりついて、全力疾走の結果か、全身で呼吸をしているのは金髪の少女だった。
しかもアレンの記憶が正しければ、昨日さんざんな目にあわせてくれた人物である。
忘れたくても忘れられない、あの奇妙な。


「…………………?」


思わず名前を口にすると、がひどく焦ったように言った。


「しっ!黙って、静かにして、動かないで、息しないで!!」


今日も朝っぱらから無理な注文をつけてくれる。
咄嗟に言うことを聞きそうになって、最後のが絶対に不可能なことに気がついてアレンは顔をしかめた。


「何なんですか君は。こんな朝っぱらから……」
「あーあーあーあーうるさい黙れ、息の根までとまれ!!」


は他に構っている余裕はないらしく、外を窺うようにして扉にくっついたまま早口にそう言った。
その時、ひときわ近くで爆音がした。
は顔をこわばらせて、それでも耳を済ませる仕草をする。
聞こえてきたのは神田の怒声だった。


「どこだバカ女!出て来い、地獄に叩き堕としてやる!!」


まずい事態に陥っていることは、の青い顔が雄弁に語っていた。
どうやら彼女は怒り狂った神田に追われているらしい。
近づいて来る荒々しい足音には身を固くし、自分の口を両手で覆った。
アレンには彼女の心臓の音が聞こえてきそうだった。
それほど緊張した雰囲気で神田が通り過ぎるのを待っている。


扉の向こう。
足音が近づき、そして遠ざかってゆく……。


その気配が完全に消えたのを確認すると、は脱力したかのようにずるずるとその場にへたりこんだ。


「はー……たすかったぁ」


よっぽど安心したのかそのまま床にぺたんと寝そべる。それを見てさすがにアレンは慌てた。


「ちょ……、床に寝転んだりしたら駄目ですって!」


そんなことをしては体が冷えてしまう。
それになにより、女の子が無防備に床に転がっていていいわけがない。


「えー?」


間の抜けた、けれど不満そうな声を出してはごろんと仰向けになった。
金の髪が床に流れる。
そして、彼女は首をのけぞらせて逆さまにアレンを見た。


「………………あれ?」
「な、何ですか?」
「なんか人がいる」


心底不思議そうにが言った。
しかもものすごく今更なことを。


人がいなかったら、さっき君は誰に息の根を止めろとかいう無茶を言ったんですか。


咄嗟に反応できないアレンなど気にせず、は首をかしげた。


「確かここ空き部屋だったはずなんだけど」
「え……あ」


そういうことか。アレンは納得する。
確かに昨日アレンが来るまで、この部屋は空き部屋だったのだろう。
はそう認識していて、ここに逃げ込んできたらしい。


そうですよね、いくらこの人でも昨日会ったばかりの人間の部屋に、無断で逃げ込んできたりは……



「まぁいっか。どっちにしろ、あれ以上逃げられなかったからここに避難してたと思うし」



…………………………………………………………………………するんですかやっぱり!!!!


どうやら彼女にとってこの部屋はちょうど手近にあった避難所であり、そこに人がいてもいなくてもまったく関係なかったようだ。
どうなんだろう、それ……。
そう思ってアレンがを見下ろすと、彼女もこちらを見つめ返してきた。
口の中で、


「まさかこんなに早く再会するとはなー。まだ豪快な歓迎テイクツーの作戦立ててないよ大失態だ! だってラビはこの手のことに関しては頼りにならないし……。てゆーか、この状況に持ち込んだのは神田だよね。許すまじ」


とか何とか一人でブツブツ言っていたが、ふとアレンを見る目を細めた。
何だかその視線は不審気だ。
はしばらくアレンの姿を眺めた後、


「………変質者?」


なんとも失礼なことを訊いてきた。
普段は温厚で通っているアレンも、これには怒鳴るしかない。


「な……っ、んでそうなるんですか!!??」
「だってなんか上半身裸だし」


そう言われてみれば。
アレンは一瞬言葉に詰まったが、やましいことは何もないのですぐに言い返す。


「これは……っ、朝の鍛錬をしていただけです!!」
「そうだとしても人前でその格好はちょっと……、ね?」
「なに同意を求めてるんですか、そもそも勝手に部屋に入ってきておいて……っ」


怒鳴るアレンに少しも臆せず、はまた床を転がって、それからよいしょと立ち上がった。
ぱんぱんとスカートの埃を払う。
その一連の行動にアレンは眉を吊り上げた。


「ちょっと、僕の話聞いて……」
「うん、それよりさ」


は部屋の中に足を進めると、床に脱ぎ捨ててあったアレンの上着を拾い上げた。


「そんな格好のままだと風邪ひくよ」
「……………………」


そう言って、上着を手渡される。
アレンは目を見張った。
驚きに何だか返事ができない。
そんな急にまともな事言わないでくださいよ吃驚するじゃないですか。
そう思ってアレンは、を見上げる。
しかしはそんな視線には気づかないようで、アレンに上着を押し付けると、部屋の中を歩き回り始めた。
用心深く外の様子を窺う。


「どうやら完全に行ったみたいだね……。へっへーん、神田ごときにつかまるさんじゃないっての!」


は勝ち誇ったように言って、ここにはいない神田に向かって舌を出す。
綺麗な顔に浮かべられたそのクソ生意気な表情に、アレンは半眼になって訊いた。


「神田に何をしたんです?何だかすごく怒ってたみたいですけど」
「何って別に。大ケガしてたから優しく手当てをしてあげただけ」
「……………………優しく?手当て?」


何となく疑わしくて、アレンが聞き返すとは頷いた。


「そ。なのに昨日のお返しだーとか言って朝から追いかけてくるの。私の優しさがわかってないんだよ、あのおバカさんは」


やれやれ、と彼女は聞き分けのない子供を諌めるような風情で肩をすくめてみせた。
アレンは上着に腕を通しながら、今度こそ本当に疑わしくて言った。


「なにか、追い掛け回されても仕方ないことをしたんじゃないんですか?」
「まさか!今朝なんてケガのアフターケアーに、部屋を豆乳まみれにしてあげたんだよ?」
「なんの嫌がらせですかそれは!!」
「嫌がらせ?変なこと言わないでよ、豆乳だよ!?あの輝かしい健康飲料のキング、豆乳!それにまみれた部屋なんてケガ人には最高じゃない!ああ、本当に善いことしたなぁ私!!」


は本当に善意からそうしたようで、満足気にうんうんと頷いている。
アレンは神田に全力で同情した。
どうりで彼があれほどまでに怒り狂っていたわけだ。
アレンは冷や汗をかきながら、何となくとりなすように口を開いた。


。人それぞれなんだし、自分の価値観を他人に押し付けたら駄目ですよ……って聞いてないし!!」


見てみると、いつの間にか彼女はアレンの部屋に備え付けてあった食料棚を鼻歌まじりで漁っていた。
もちろん無断で。


「ちょっと何やってるんですか!?」
「いや、なんか喉渇いちゃって。豆乳の話してたら飲みたくなったっていう当然の生理現象を満たそうかなと」


至極当たり前のようにそう言われて、アレンは眩暈を覚えた。
片手で顔を覆って息を詰まらせる。何だかもう怒りを通り越して疲労感さえしていた。
どうすればここまで昨日会ったばかりの人間に己のテンションを貫けるのだろうか。
苦手だ。やっぱりこの人は苦手だ。


自分のペースを崩されて、無理やり相手の世界に引きずり込まれている感じが気に食わない。
今まで出逢ったことのない人種に、対応できずに混乱する。
それは苛立ちとなってアレンの心を焼いた。
これ以上関わりたくなくて、アレン自身にとっては珍しいことに、突き放すような言葉を無意識に吐き出してしまった。


「豆乳でもなんでもあげますから、早く部屋から出て行ってください……っ」


それは自分でも驚くほど冷たい響きを持っていた。
言ってしまってから慌てて口をつぐむ。
は食料棚を覗き込むのやめて、こちら振り返った。
見つめてくる金の瞳は無言で、ただアレンを映している。


それがかえって罪の意識を抱かせた。







アレン、言っちゃいました!
出会い編は次で最後です。