くるり、くるりと一回転。
なびく亜麻色の髪と薄紅のスカート。
舞姫は僕だけに微笑んだ。
再会は、遠い日の夢の中で。
● 遺言はピエロ EPISODE 6 ●
「エニスは」
アレンは床に直接敷いたシーツの上で胡坐をかいていた。
自分の膝に肘をつき、そこに顎を乗せる。
服装も夜着でかなりだらしない格好だ。
けれど今いるのは昔なじみの男友達ばかりなので、普段のように振舞うことのほうが変に思える。
教団に入ってからの知り合いでは、唯一だけが、この輪に入っても同じ態度でいられそうな相手だった。
「記憶にある限り、僕を好きだったとは思えないんだけど」
「言ってろよ、ばかアレン」
ぼやくように呟けば、間髪いれずにそう返された。
隣のシーツに潜り込んだミハエルはまだご機嫌斜めだ。
枕に顔を埋めたその頭を、フリードリヒが撫でてやった。
「ミハ、そう拗ねるな。アレンだって悪気があるわけじゃないだろう」
「でもバッチリ恋敵なんだよなぁ。7年間も“私はアレンが好きなの!”で振られ続けてきた身としては、怒りたくもなるだろうさ」
向かいで寝そべっているセルジュが哀れみの目で言うものだから、フリードリヒの慰めはまったくの無駄となった。
ミハエルは完全にシーツの中に潜り込んでしまい、団員達が雑魚寝をしているテントに入ってから延々と宥め続けていたアレンの努力も水の泡だ。
思わず横目でセルジュを睨む。
「せっかく再会した友達と喧嘩したくないんだけど?」
「バカ、争いを避けようとするなよ。友達だからこそきちんと向かい合え」
「あぁそうだな。だがそれは、年がら年中 女性問題で友人に迷惑をかけている奴の台詞ではないぞ、セルジュ」
「あっはは、いつも尻拭いありがとうフリッツ!」
フリードリヒは冷ややかに瞳を細めて言ったのだが、セルジュは構うことなく明るく笑い飛ばした。
それが許されるような雰囲気を彼は持っている。
相変わらず憎めない男だと思って、アレンは少し微笑んだ。
親しみを込めて辛辣な言葉を投げておく。
「女たらし」
「羨ましいか」
「全然」
「ふん、お前だって人のこと言えないだろう。このエニスたらしめ」
セルジュが投げ返してきた言葉尻に、隣のシーツの膨らみが過剰に反応する。
アレンは今度はため息をついた。
「だから止めてくれってば。ミハと険悪になりたくない」
「お?女より友情を取るのか?すごいな、お前。俺の親友とは思えん」
「それはまったく同意だ」
一応ミハエルの兄貴分であるフリードリヒが、セルジュの額を軽く押さえた。
それだけで彼を黙らせる。
どうやら寝所に入ってしまえば完全に“団長”という身分はなくなるらしい。
「それで、アレン」
フリードリヒが真面目な顔で訊いてきた。
「実際のところ、どうなんだ。エニスとは」
「ちょ……止めてくれたんじゃなかったの?フリッツまで……」
「いや。ミハをこれ以上いじけさせないためにも、はっきりさせておいたほうがいいと思ってな」
「あぁ、是非ともはっきりさせよう!」
「それもこの馬鹿な団長が面白がって引っかき回す前に、だ」
笑顔で同意したセルジュを切って捨てるようにしてフリードリヒは付け加えた。
アレンはなるほどと思って頷く。
しかし、そう言われても困るというものだった。
「だから……、あんまり覚えてないんだよ」
この言はかなり失礼な気がして、アレンはのろのろと口を動かす。
「あの頃はまだ小さかったし……。此処を出たあと、いろいろ大変で」
そこまで口にして、そういえば皆はマナのことを聞いてこないなと思った。
セルジュが察して気を利かせているのか、それともが先回りして何か言ってくれたのか。
どちらにしろアレンには有り難いことだ。
「エニスとは仲が良かったと思うけど……。好きだったかどうかなんて、もうはっきりしないんだ」
「俺が覚えてる。ミハもフリッツもパティもだ」
セルジュが言った。
アレンが見てみると、彼は意外にもふざけた様子を見せてはいなかった。
フリードリヒも止めないから、きっぱりと断言されてしまう。
「お前は、エニスが好きだったんだよ。初恋の相手だ」
こうも完璧に言い切られては、納得してしまいそうになる。
アレンは思わず「そう、なのかな……」と呟いてしまった。
すると隣の山からシーツを跳ね飛ばしてミハエルが飛び出してきた。
「エニスはお前からもらったリボンを今でも大切に持ってるんだぜ!それも忘れただなんて言わないだろうな!!」
真っ赤な顔で、涙目で怒鳴られる。
アレンはその剣幕と言われた内容にぽかんとしてしまった。
「リボン……?」
ぱちぱちと目を瞬かせると、ミハエルは今度こそ本当に怒ってしまったようだった。
身を小さく縮めてシーツの奥深くまで潜り込んでしまう。
これはもうアレンたちが何を言っても出てこない構えだ。
セルジュが倒れこむようにして横になった。
「はい、ミハの勝ちー。同情票で大勝利だ」
「さすがにこれは……、な」
フリードリヒまで呆れ顔で頷いた。
アレンはといえば、疑問符を浮かべるばかりで訳がわからない。
そうこうしているうちに消灯の時間が来て、4人で陣取った就寝用のテントの明かりが落とされた。
アレンは慌てて上掛けを引き被る。
同時にミハエルに蹴りを入れられた。
結構、痛かった。
すん、と小さな音がした。
何度も何度も繰り返される、それはテントの裏手から聞こえてくるようだ。
アレンは不思議に思って回り込み、顔を突き出して覗いてみた。
すん、すん。
また音がする。その発生源は地面にしゃがみ込んで、必死に土を掘り返している。
白くて小さな手が泥だらけだ。
爪が割れて血が出ていたから、アレンは言った。
「やめろよ」
声をかければ彼女が振り返る。
頬が真っ赤で下瞼に涙が溜まっていた。泣き出す寸前だということに気付いて、少し怯む。
けれどサーカスの一員としては黙ってはいられなかった。
「お前、舞い手だろう。体に傷をつけたら怒られるぞ」
自分の口から飛び出した言葉遣いに、あぁこれは夢だなと思う。
昔の夢だ。僕は眠りながら思い出を見ている。
目の前の幼い少女を見ている。
「…………………」
紅い瞳がアレンを睨み付けた。
今にも涙がこぼれそうなのに、必死に堪えているようだ。
震える唇を噛んでぎゅっと目を閉じる。
そして長い亜麻色の髪を揺らして作業に戻った。
ざくざくと土を掘り返す。すんすんと鼻を鳴らす。
泣きそうなのに我慢しているから、そんな変な音がしているのだ。
「おい……」
アレンは困った。
制止したのに聞いてくれない。
仕方がないので名前を呼んだ。
「エニス」
彼女は応えない。
「お前が怪我するとセルジュが哀しむ。ミハは大騒ぎするし、フリッツに叱られるぞ」
「………………………」
「パティの盛大な怒鳴り声を聞きたいのか?なぁエニス」
「………………………」
「エニスってば」
「うるさい」
ようやく返された答えはそれだった。
アレンは当然ながら気を悪くする。
ずかずか近づいていって、彼女の脇にしゃがみ込んだ。
「だから止めろって」
手首を掴んで動きを止めた。
するとそれを合図にしたように、エニスが泣き出した。
アレンは吃驚して咄嗟に手を離してしまう。
声を殺して涙を流す女の子にうまい言葉をかけてやれるほど、アレンも成長してはいなかったのだ。
「エ、エニス……」
「っく……、ふぇ」
「どうしたんだよ。何で泣いてるんだ?」
「お、お兄ちゃんが……っ」
嗚咽で詰まった声はひどく聞き取りにくかった。
「お兄ちゃん、がっ、……うぅ、くれたリボン……」
「セルジュ?セルジュがくれたリボン?」
アレンが繰り返すと、亜麻色の髪を振り乱して頷く。
「とら……っ、とられちゃった……のっ」
「盗られた?誰に?」
尋ねたけれど返答はなかった。どうやら言いたくないようだ。
アレンは半眼になった。
「お前、いじめられてるんだ」
まぁ、当然といえば当然か。
天涯孤独の身が多いサーカスの中で、肉親が傍にいるうえにベッタベタに甘やかされている。
加えて兄妹揃って将来有望な芸人だったから、これでやっかみを買わないほうがおかしかった。
アレンでさえ養父と一緒というだけで嫉妬され、嫌がらせを受けたことがある。
「リボン……」
エニスはまたすんすんと鼻を鳴らした。
「どこかに埋めちゃったって、言われたの……」
「どこかってどこだよ」
「……わからない」
「お前、サーカス中の地面を掘り返す気か?見つかるわけないだろ。諦めろよ」
下手をすると埋めた本人すら場所を覚えていないかもしれない。
それほどまでにサーカスが陣取っている敷地は広大だ。
アレンは当たり前の考えだと確信してそう言ったのだが、思い切りエニスに睨まれてしまった。
「アレンのいじわる!」
何で俺が。幼いアレンはそう思う。
言い返してやりたいが、エニスがぼろぼろと泣いているので言葉に詰まる。
黙っていると彼女はまた地面を掘り始めた。
泥だらけの手で涙を拭うから、可愛い顔がひどく汚れてしまう。
ドロドロになってしまった白い肌を見て、アレンは焦げ茶色の髪を掻き乱した。
無言で立ち上がる。
そして大声で叫んだ。
「セルジュ!!」
足元にいるエニスがびくりと体を震わせた。
非難するように見上げてくるが、アレンは構わない。大音声で呼び続ける。
「セルジュ!ちょっと来てくれ、セールージュー!!」
急かすように連呼すると、迷惑そうな表情を貼り付けた彼がテントの陰から顔を出した。
「何だよアレン。うっせぇな」
遠慮なく文句をたれたセルジュだったが、エニスの姿を見るやいなや目を見開く。
驚いた顔で駆け寄ってきて妹を腕に抱き上げた。
「おい、どうした?何があったんだ?」
エニスは何も言わなかった。
否、兄の姿を見て我慢していたものが切れたのか、今度こそ声をあげて泣き始めてしまったのだ。
小さな手でしがみつきながら号泣するエニスに、セルジュは盛大にあわあわしていた。
あやすように揺すって背中を撫でる。
それからアレンに視線を投げた。
「……何があった?」
その困惑の表情を見て、「俺が泣かせたんじゃない」という言い訳の言葉を呑み込んだ。
セルジュは最初から疑っていない。
ならば話は早いと思って、簡潔に告げた。
「俺が言ってもダメだったから。お前が慰めてやって」
「だから何でなんだよ。理由がわからなきゃ無理だろう」
「いいから」
ぐいぐいと背中を押してその場から追い立てる。
とりあえずエニスは泥を落として着替えをして、兄の胸で泣けるだけ泣いた方がいい。
アレンはそう考えて、早々とセルジュとエニスをテントの中へと押し込んだ。
「さて」
一人になってため息がもれる。
何で俺が、どうしてこんなことを……とも思うが、こうなっては仕方がない。
空を見上げて陽の具合を確かめる。もう夕方だ。
綺麗に染まった薔薇色から、アレンは足元の茶色へと視線を落とす。
それから無造作に土を掘り返し始めた。
そこからはしばらく曖昧だった。
アレン自身、どれだけそうやっていたのか記憶があやふやなのだろう。
とりあえず闇に落ちた地面が思いのほか冷たかったことは覚えている。
そして食事の時間になっても戻ってこないアレンを心配して、マナが迎えにきてくれたことも。
そのときアレンは、セルジュに泣きついたエニスのように、マナの胸に飛び込んだのだった。
「どうして?」
泥まみれだから床に直接座らせられていたアレンは、その問いかけに顔をあげた。
パトリシアにさんざんお説教を喰らった後だったので耳が痛い。
それに気付いているのか、エニスは控えめな声でもう一度囁いた。
「どうしてアレンが、私のリボンを探してくれたの?」
周りには他に誰もいなかった。
マナとパトリシアは泥を落とすお湯とタオルを取りに行っているし、セルジュたちはお腹を空かせたアレンのために食事を用意してくれている。
此処に残ったのはエニス一人だ。
アレンは妙に気まずくて、彼女から目を逸らした。
「……だから言っただろ。見つからないって」
案の定アレンの必死の捜索でもっても、エニスのリボンは発見できなかったのだ。
だからもう気にするなと言いたかったのだが、
「答えになってないわ」
ずばりと切り返された。
エニスという少女は見た目こそ舞姫に相応しい可憐さだが、性格はおてんばなほうで、今もその勝気さが表に出ている。
アレンはちょっと面倒くさくなってきた。
「うっさいな。そんなこと訊いてどうするんだよ」
「アレンはいじわるね」
また言われてちょっと眉を寄せる。
何だコイツ。本当に面倒だ。
「いじわるでお兄ちゃんを呼んで、私の邪魔をしたんでしょう」
「……………………」
「……そう思ったのに、私の代わりに探してくれていたから、驚いたの」
アレンが黙っていると、エニスが傍に座り込んできた。
目が赤い。泣きはらした瞳で見つめられる。
「ねぇ、どうして?」
再び問いかけられてアレンはため息をついた。
無視しようかとも思ったが、尋ねる声が先刻と違って優しかったから、何となく口を開く。
「……大切な物なんだろ」
「………………………」
「俺も昔、隠されたことあるから。……マナからもらったバンダナ」
「……そのときは、どうしたの」
「川に投げ捨てられてたんだぜ。手元に戻ってくるわけがない」
ハッと自嘲気味に笑って、アレンはエニスの前で追い払うように手を振った。
それでもう向こうへ行けと言ったつもりだったのだが、彼女は動かない。
仕方がないので続ける。
「………戻ってくるわけないけど……、探さなきゃ居ても立ってもいられなかったのは、わかる」
思い出すと今でも悲しかった。
辛かった。どうしてそんなことをされたのか、理解できなくて苛立った。
アレンはマナを、エニスはセルジュを、ただ好きなだけなのに、何故だろうと思った。
そしてどうしても取り戻したいと願ったのだ。
本当に、大切なものだったから。
「なんか結局ダメだったけど」
アレンはまた自嘲する。
エニスにも笑ってほしかったけれど、彼女はにこりともしなかった。
ただ瞳を細めてアレンを見つめていた。
「ごめん、エニス」
なぜ謝ったのかは自分でもわからない。
別にアレンがリボンを隠したのではない。だからエニスを泣かせた責任もない。
探したのだって勝手にやったことだから、失望させたわけでもないだろう。
それでも何だか、無性に悔しかった。
エニスの頬に残る涙の跡。
その味をよく知っていたのに、何とかしてやれなかった自分がふがいなかった。
「ごめん」
もう一度言うと、エニスは顔を伏せてしまった。
亜麻色の綺麗な髪が頬にかかる。
いつも結い上げているそれがボサボサになっていたから、アレンは思わず手を伸ばした。
触れようとして、直前で止める。
自分の手が泥だらけだったからだ。
「……リボンがないと、練習のとき邪魔だろ」
明日、朝一番に踊るときはどうするのだろう。
店はまだ開いていないから買うことは出来ないし、こんなことになった理由を考えると誰かに貸してもらえというのも気が引ける。
パトリシアなら……とも思ったが、彼女はこの頃から肩の長さまでしか髪を伸ばしていなかった。
「仕方ないな……」
アレンはごそごそとポケットの中を探った。
色んな物を突っ込んでいるので、目当ての物を当てるのには苦労した。
これでもないそれでもないと時間をかけてようやく取り出してきたのは、薄っぺらな赤いリボン。
アレンはそれをずいっとエニスに突き出した。
「やるよ。とりあえず明日はこれで髪を結んでろ」
エニスは目を瞬かせる。
紅い瞳が窺うように見てくるから、アレンは変な気分になった。
ちょっとだけ頬を染める。
「お、お菓子の箱についてたリボンだからしょぼくて当然なんだ!」
言いながら本当にそうだと思った。
こんな編み目の粗いリボンなんてエニスの髪を傷つけそうだ。
それ以前に結んだ途端に千切れるかもしれない。
あぁもう本当に、今日は余計な真似ばかりしてしまっている。
「……セルジュがくれたのと比べるなよ」
自分への腹立ち紛れに卑屈なことを口にしてしまった。
これもいらない言葉だと思って、アレンはリボンを引っ込めようとする。
そのとき不意にエニスに手を掴まれた。
驚いて顔をあげると、彼女は少しだけ微笑んでいた。
「比べないわ」
アレンとは違って、もう汚れひとつない舞姫の指先が触れる。
「比べられないわ」
そしてそっとリボンを受け取った。
その赤よりずっと美しい色の瞳を閉じて、エニスは囁く。
「私はね、アレン。リボンが大切だったわけじゃないの」
服についた泥が固まって重くなったのか床に落ちた。
ぼたりという音が不快だ。
エニスの声が綺麗だから、アレンはそう感じる。
「あなたがお兄ちゃんを呼んできたとき、わかったのよ。私はリボンをなくして泣いていたんじゃない。そのことでお兄ちゃんを悲しませることが怖かったの」
「……………………」
「お金を貯めて、一生懸命選んで、買ってきてくれた物だったから。失ったと言えば傷つけてしまうんじゃないかって……」
「……セルジュはエニスのためなら何だって平気だよ」
アレンが言えば、彼女は小さく頷いた。それから続ける。
「私が大切だったのは、リボンじゃなくて、お兄ちゃんの気持ち。だから」
瞼を持ち上げて、アレンを見る。
エニスは手の中のリボンを握って微笑んだ。
それは観客を魅了する舞姫の笑顔であり、心からの感謝がこもった表情だった。
「このリボンも大切よ。だってアレンがくれた物だもの」
エニスは胸に赤を抱きこむ。
宝物のようにそうするものだから、アレンは何だか恥ずかしくなった。
あんな薄っぺらいリボンなんて、エニスに喜んでもらうような価値はない。
けれど彼女はセルジュがくれたそれのように、与えた相手や込められた気持ちを重要だと思ってくれているのならば、アレンにとっても嬉しいことだった。
お兄ちゃんがくれたリボンだから大切。
アレンがくれたリボンだから大切。
その言葉が、笑顔が、心に響いた。
「そ……、そっか……」
アレンはエニスに釣られるようにして微笑んだ。
胸が暖かくて心地良い。照れくさいけれど頬が緩む。
少し首を傾けて笑うと、エニスが抱きついてきた。
アレンは驚いて、ドロドロの格好だから汚れると言おうとしたけれど、それより先に明るい声で告げられる。
「ありがとう、アレン!」
そしてキスをされた。
アレンは今度こそ本当に吃驚した。
頬に可愛い唇を押し付けられて一気に紅潮する。
エニスは汚れきったアレンの服にも肌にも構わずにじゃれついてくるから、ますます混乱して頭が爆発しそうになった。
全身が熱い。そして重い。
熱が処理できなくて死んでしまいそうだ。
熱い重い熱い重い熱い重い熱い重いあついおもいあついおもいあついおもい
「熱重い!!」
アレンは叫びながら飛び起きた。
同時に腹の上に乗っているセルジュの頭とミハエルの足と払い落とす。
二人の分のシーツまでこっちに来ていたからそれも乱暴に排除した。
「……っつ、あれ?」
アレンは寝ぼけ眼を瞬かせる。
周囲は薄暗い。規則正しい寝息と、やかましいいびきが響いている。
天井の感じから見て此処はサーカスのテントの中だ。
そう認識しても未だに時間軸が混乱していて、アレンは咄嗟に自分の額に触れた。
ペンタクルがある。はっきりと刻み込まれている。
ということは、
「現実か……」
どうやら幼い頃の夢から帰還したらしい。
寝起きのアレンはぼんやりと周囲を見渡す。
寝床はきちんと四つ作っていたはずなのに、アレンのスペースにはセルジュとミハエルが侵入していた。
どちらも夢で見た子供ではなく、立派な青年姿だ。
シーツを跳ね飛ばし、腹を出して眠る様子は、昔とちっとも変わらなかったが。
我関せずな顔で横たわっているフリードリヒも記憶のままだ。
アレンは苦笑して、夢を覚ますきっかけとなった二人に上掛けを返してやった。
ところが重さと違って熱さはなかなか解消されなかった。
何枚もシーツを重ねられていたのだから当然だろう。
このままでは寝なおせないと踏んだアレンはコートを掴むと、静かに寝所を抜け出していった。
外はさすがにひんやりと冷え込んでいた。
秋も終わりに近い。冬はもう目の前だということを、気温で感じた。
アレンは熱を持ってしまった体をその冷気で冷まそうと試みる。
星空を仰いで、息を吐き出した。
少しだけ白く固まってすぐに消える。
つい先刻まで確かだった夢も、同じように霧散していった。
「エニス……」
名前を呟いてみた。
幼い頃、彼女はとても身近な存在だった。
けれど再会できた友人たちの中に、その姿はなかったのだ。
やっぱり会いたかったなと、アレンは思う。
(好き、だったのかな)
夢の中で……、いや過去に実際キスをされた左頬を押さえる。
指先が保護テープに触れて苦笑した。
エニスに口づけられたところには、今や醜い傷跡が刻まれている。
現在の僕を見たら、エニスは何と言うだろう?
セルジュたちの反応から予想して嫌悪されることはないだろうけれど、きっともうキスなどしてはくれない。
呪いの証は普通の人間にとって……、特に女性にとっては恐ろしいはずだ。
さらに言えばエニスはサーカスの花形で美しい舞姫なのだから。
(好き、だったとしても……、もう昔の話だ)
今は違う。今はもう、どうしようもない。
自分はエニスから遠くかけ離れたところまで来てしまった。
だから寂しいと感じるのは恋慕ではなく、旧友を慕うゆえの感情だろう。
アレンはそう思いたかった。
少し寒くなってきて手にしているコートを広げる。
着込もうと動いたところで自分の左手が視界に入った。
その赤い色。
(リボン……。ミハの言っていたのはあれのことだったのか……)
夢という形で思い出した過去がそれを知らせてくれた。
ミハエルは、エニスはまだアレンがあげたリボンを大切に持っていると言っていた。
セルジュやフリードリヒも知っているようだったので、彼の勘違いではないのだろう。
そうすると、エニスはどうしてそんなことをしたのかという話になってくる。
“私はアレンが好きなの!”……ずっとその言葉で振られ続けてきたミハエルのことを思えば、少なくとも自惚れではない。その上で認めなければならない。
「エニスが此処にいなくてよかった……」
アレンは思わず左手で顔を覆ってしまった。
会いたかった……その気持ちに嘘はないけれど、呟いた言葉も真実だった。
(今の僕を見られたくない)
エニスが自分を好きだというのならば、そして7年間もこんな男に恋をしていたのならば、なおのことそう思う。
アレン・ウォーカーという人間は、変わってしまった。
髪の色や顔の傷だけじゃない。
マナをアクマにして破壊したあの日から、生きる道そのものが変化した。
エニスの好きだったアレンは、もうこの世のどこにも存在してはいないのだ。
その事実に少なからず傷ついている自分を発見して、アレンは目を閉じた。
たった今さっき、エニスへの感情は古い友人を慕うものだったと決めたばかりだというのに、面倒なことだ。
はぁとため息をついてコートを羽織る。
ついでに少し歩こうかなと思った。
余計な考えをする間もなく眠りたい。それには体を動かすのが一番だ。
アレンは寝所にしているテントから離れて、暗い敷地内を歩き始めた。
大通りに出るのもアレなので、裏手にある公園に向う。
普段の癖で足音を消して進んでいった。
ふいに、その歩みを止めた。
アレンは咄嗟に近くの大木の陰に身を隠した。幹に背をあずけて気配を窺う。暗い中、目を凝らす。
視線の先に、人影があった。
時刻は午前0時をまわって随分経つ。
こんな遅くにウロウロしているなんて、普通の人間だろうか。
アレンが今いるのは昔なじみのサーカスであると同時に、アクマと関わりのある可能性の高い集団なのだ。
警戒心が一気に強くなる。
(アクマ、か……?)
自分の左眼に訊いてみるが、応えはない。
快楽のノアに潰された眼球は疼くこともなく、静かに傷が癒えるのを待っている。
アレンは右眼を瞬かせた。
(わからない……。なら……)
アレンはそっと木陰から滑り出た。
少し進んでまた別の陰に隠れる。それを何度か繰り返して、確実に距離を詰めてゆく。
人影もかなり警戒しているようで、機敏に周囲を確認しつつ進んでいた。
アレンの目から見てもかなりの経験値がありそうだ。自分の尾行がバレないか、猛烈に不安になってくる。
先に姿を発見できたのは幸運としか言いようがなかった。
そうこうしているうちに、人影は公園の中心まで来ていた。
柵に淵をぐるりと囲まれた湖が視界に入ってくる。
さほど大きくはないが、小さくもない。恐らく人工のものだ。
人影は足を止めて何度か辺りに視線を投げた。
そこでその人物が被っているフードがわずかに揺れて、頬が、耳が、髪が垣間見えた。
アレンは心底驚いて目を見張る。同時に混乱する。
とりあえず最速で迫って後ろから口を塞いでやった。
「ん……ぐっ」
「静かにして」
くぐもった声をあげた相手の耳元で囁く。
反応される前に捕まえたつもりだったけれど、さすがの反射神経で半分くらい逃げられていたから力づくで引き寄せる。
腰を抱き込んでやったところで大人しくなった。
アレンは呆れた声で訊いてやる。
「こんな夜中に何をしてるの、」
すると彼女は自分の口を塞ぐアレンの手を軽く叩いた。
離せと言いたいらしい。
返事を聞きたいというよりは、いろいろと問い詰めてやりたかったので、アレンは要望通りにしてやった。
抱きしめた腕は絶対に外さなかったが。
「び、びっくりした……」
「それは僕の台詞だ」
背後にいるのがアレンだと知って安堵したのかが大きく息を吐くけれど、それをすっぱり切り捨ててやる。
何よりもまず言い訳をしてもらわなければならない。
「どうして君がこんなところにいるの」
「ア、アレンこそ……」
「訊いているのは僕」
「………………………」
が黙ってしまったので、アレンは彼女のフードを剥ぎ取った。
どうやら闇夜に紛れるために目立つ金髪を隠していたらしい。
マフラーに手袋といった防寒具もばっちりで、アレンのようにちょっと散歩に出たという感じでもない。
「……明らかに目的があって外にいたんですよね?」
ずばりと尋ねてやると、は気まずそうに肩をすくめた。
言いたくないという雰囲気がダダ漏れだったので、アレンはさらに強く腰を抱き寄せる。
逃がさないと言外に告げると、彼女はしぶしぶ口を開いた。
「アクマがここに潜んでいるのなら……、夜に動くかと思って」
「アクマ……?じゃあ君は仕事をしていたの?」
その動きを警戒して夜の見回りをしていたといったところか。
確かにサーカス内にアクマが潜伏しているとなると油断は大敵だ。
さらにはこうすることで、エクソシストが来たことをアピールできる。
触発されて敵が動けば対処すればいいし、動かなければここにアクマはいないという推測が立てられるのだ。
なるほど、もっともな考えである。
そしてそれは教団歴の長いらしい行動だった。
けれどアレンはわずかに胃の腑が焦げるのを感じる。
苛立ちを隠すことなく口にした。
「どうして僕に言わなかった」
は一人で動くべきではなかった。
戦力的にも安全面からも断言できる。
叱るというよりは怒りの方が強くて、アレンはを無理に振り返らせた。
「単独行動が危険だとは思わなかったのか」
肩を掴む手に力がこもる。
は一瞬痛みに表情を揺らしたが、すぐにいつもの顔に戻った。
それがまたアレンの心を焼く。
「報告書にあった被害者はかなりの数だった。居るとしたら間違いなく高レベルのアクマよ。知能が高くなっているぶん、短絡的に襲い掛かってくるとは思えない。初日の今夜は比較的安全なはずでしょう?」
口にされる言葉も正論で、苛立ちは募るばかりだ。
「だから、私ひとりでも平気だと判断したの」
「……じゃあ明日の夜からは?」
「………………………」
「ずっと一人で見回りをするつもりだったんじゃないのか」
「……ちゃんと、アレンに言うつもりだったよ」
「嘘だろう」
「どうして決め付けるの」
「!」
だんだん本当に腹が立ってきて、思わず怒鳴りつけてしまった。
これで二度目だ。
何だかハンガリーから帰って以来に手加減ができなくなっている気がする。
遠慮はしないと言ったけれど、これではただの無作法者だ。
アレンが気まずくなって瞬くと、彼女も同じような雰囲気で視線を逸らした。
「……今日くらい、いいでしょう」
本当に言いにくそうに、が呟いた。
「再会できた日くらい、友達を疑わなくたっていいじゃない」
アレンはちょっと意味がわからなくて、もう一度瞬いた。
次の瞬間には理解して目を見開く。
不覚を取ったみたいな顔をしているをまじまじと見つめる。
彼女が口にしたことはエクソシストとしては愚かな考えだ。
本人もそう認識しているから、あんなにも歯切れが悪かったのだろう。
だが、アレンはそれ以上に人間として暖かみを感じる。
こんな夜遅くに、たった一人で。
ひどく張り詰めて、警戒して、神経をすり減らしながらも、彼女は危ない橋を渡ろうとした。
馬鹿だと思う。冷静な頭では、愚考だと言い切れる。
けれどその行為がアレンの気持ちを考えたものだったから、もう何も言えなくなった。
自分は友人達に本当の目的を隠してサーカスに潜り込んだ。
それは再会を喜び、仲間だと歓迎してくれた彼らへの裏切りだろう。
そして今後は皆を騙したまま調査に進め、ひとり残らず疑いにかけて、敵を炙り出さなければならないのだ。
その全てがアレンのエクソシストとしての仕事だった。
否定するつもりはない。逃げるつもりもない。
それでも、
「…………………」
アレンは何か言おうとして、本当に言葉が出ないことに気がついた。
はエクソシストとしての判断と個人の感情を秤にかけて、この答えを出したのだろう。
今日は。今日くらい。今日だけは。
そのために起こる危険も負担も全て自分で背負う覚悟で。
(慣れないことばかりで、疲れているはずなのに)
サーカスでの経験があり、旧友までいるアレンよりもずっと、は疲労を感じているはずだった。
誰だって初めての場所は必要以上に気を張るものだ。
それに加えてアクマの襲撃やその撃破、全てに完璧に備えて見回りに臨んでいたのだとすれば、アレンの声はどこまでも奪われてしまう。
眠る前の他愛のないやりとりを思い出す。
ミハエルが拗ねまくっていたこととか、セルジュの面白がるような笑い声とか、フリードリヒの真面目な問いかけとか。
ああいうのはすべて……エニスの夢を見たことも含めて全部が、の馬鹿な気遣いの上に成り立っていたのだ。
そのとき上空から金色のゴーレムが舞い降りてきた。
ティムキャンピーだ。どこへ行ったのかと思えば、に引っ付いていっていたのか。
球体が差し出された彼女の手の上に着地した。
「お疲れさま」
微笑んでそう言ったから、ティムキャンピーにも見回りを手伝ってもらっていたのだと知る。
一人ではどうしても目が足りない。だからこその助っ人だろう。
本当には万全を期していたらしい。
「」
アレンには彼女を責めることはできなかった。
けれどエクソシストとしてお礼も口にできないから、これだけを言う。
「明日からは……、僕も」
は無言で頷いた。少し目を伏せる。
「ごめんなさい」
アレンは首を振りたかったけれど、それも無理だからの手を取った。
手袋の上から握る。
ティムキャンピーがそこから飛び退いた。
「勝手なことをして」
はアレンが触れていることをあまり気にしていないようで、言葉を続けている。
だからこちらも構わずに掌を合わせて指を絡めた。
「それと……」
長い睫毛が瞬く。
「エニスさんのこと」
アレンはの手首を撫でた。
「私、余計なことを言ったみたいで……」
声が途切れた。
がようやく気がついたみたいだ。顔をあげてくるから、目が合った。
それもそのはず、銀灰色の瞳はずっと彼女を見つめていたのだから。
「………………………」
アレンは無言のまま、指先での手袋をずらした。
そのままするりと滑り入れる。
肌を辿るように、手の甲を重ねる。
中途半端に持ち上がっていた手袋が、ぱたりと地面に落ちた。
「……アレン?」
が呼んだ。不思議そうというよりは、不審そうに。
アレンはそれも無視して金色の瞳を見つめ続ける。
隔たりを排除した手を引き寄せて……
そこでパッと振り離した。
は驚いたように瞬いた。
アレンはというと、何となく体を強張らせていた。
自分がしようとしたことが信じられなくて硬直する。
(キス……、しようとした……?)
自問自答してみる。
アレンはと視線を絡めたまま、その手に口づけをしようとしたのである。
否、それは願望に近い。
キスを、したかった。
自分のせいで冷え切らせてしまった肌に唇を這わせて、熱を与えてやりたかった。
そのすべらかな感触を味わい貪りたかった違う違うそんなのは嘘だ。
そんなことは欠片だって考えるはずがない。
きっと昼間にセルジュがの手にキスをしているのを見たせいだと、アレンは無理やり自分を納得させた。
「アレン?大丈夫?」
小首を傾げたに訊かれる。
アレンは何とか頷いた。
視線を合わせたくないから落としてしまった手袋を拾おうと膝を折る。
それを彼女に押し付けると、すぐさま踵を返した。
「帰ろう。今日はもうこのくらいでいいだろう」
そして足早に歩き出した。
が慌ててついてくる気配がする。
追いつかれて顔を見られるのが怖い。
それでもエニスのときとは違って、会えなくてよかったとは思わなかった。
むしろ彼女を一人で凍えさせずにすんでホッとしている。
そこで手にキスをしようとしたことを思い出してしまったから、アレンはますます歩く速度をあげた。
おかげで後ろのはもう走るしかない様子だ。
あぁもう僕はどこかおかしい。どこまでもおかしい。
自分の感情なのにわからないことが多すぎて、アレンは本当に頭を抱えたくなった。
眠い。
は無理にあくびを噛み殺した。
さすがに新しい生活第一日目が寝不足顔というのはいただけない。
思考を叩き起こそうと思って水場へと向う。
場所は昨夜のうちにパトリシアが教えてくれていたから、一人でも迷うことはなかった。
サーカスの朝は早い。
陽がのぼると同時に起き出して早朝練習に励まなければならないのだ。
それはハードな職業に就いているにとって苦ではなかったが、どうやら今日は夜の見回りのおかげで少し疲れが残っているようだった。
もちろん原因は自分にあるので弱音は吐かない。
結果がこの疲労感なら、それを吹き飛ばす勢いで頑張らねばと気合が入った。
「おはようございます」
水場にはすでに何人もの団員がいた。朝のこの場所は溜まり場になっている様子である。
全員が女性で、たぶん性別によってわけられているのだろう。
が笑顔で挨拶をすると、数人が返してくれた。
残りは戸惑いや値踏みの視線を投げてくるだけだ。
は察するところがあったけれど、特に態度には出さなかった。
蛇口を捻って水を出し、冷たいそれで顔を洗う。
頭がはっきりして気分も引き締まるようだ。
「おっはよーさん」
そこでやけに機嫌のいい挨拶が聞こえてきた。
がタオルから顔をあげてみれば、緑かかった髪が朝日に輝いているのを発見する。
セルジュだ。
女性が身支度をしている場に堂々と現れるとは何とも大胆不敵である。
しかも誰もがそれを迷惑がっていない様子なのが凄い。
怒ったふりをしているけれど、結局は笑顔で彼を迎え入れている。
露骨に喜んだり頬を染めている女性達もいるものだから、はセルジュのモテっぷりに感心してしまった。
そんな我らが団長は笑顔を振りまきながら、一直線にこちらへと近づいてきた。
「よっ、ちゃん」
セルジュはひらひらと手を振った。
「昨夜はよく眠れた?」
「はい。自分でも驚くくらい、ぐっすり」
見回りから帰ってきた途端転がり落ちるように眠り込んでしまったものだから、はそう返した。
セルジュはわずかに瞳を細める。
「ふーん。そう」
「……、あの?」
何だか笑顔に含まれるものが変わった気がして、はゆっくりと瞬いた。
なにか癇に障ることでも言っただろうか。
初対面のときから感じていたことだが、彼は人懐っこい表情の裏に様々なものを隠している人物のようだった。
アレンもやけに取り繕う人だけど、実際は結構単純でわかりやすい。
似ているとしたら、ラビか。
いや、自分の親友は役割上そうしているだけで地の性格とは違う。
はセルジュを読めない人だな、と思った。
表面はとても社交的だが、警戒心が強くて身内にしか本心を見せない。
彼はなかなか心を許さない代わりに、一度内側に入れてしまった相手には、とことん尽くすタイプではないだろうか。
「その調子で早く慣れてくれ」
不意に言われて考えを読まれた気分になった。
見上げた先のセルジュは変わらずに微笑を浮かべている。
「俺はちゃんを買ってるんだ。あんたの顔も、体も、動きも……全部な」
紅い瞳がの全身を眺める。
色を込めた視線のくせに、嫌悪感が湧いてこないのが不思議だ。
「あんたはきっといい芸人になるよ。なぁ、ウチのために仕事に励んでくれるかい?」
先刻の視線の正体はこの意思確認かと思って、は力強く頷いてみせた。
「はい。がんばります」
「できれば家事にも励んでくれると嬉しいんだけど。もちろん俺の嫁として」
そう爽やかな笑顔で続けられたから、肩すかしを喰らった気分になる。
にっこりと微笑み返した。
「団長は今日も絶好調のようで何よりです。練習の指導、覚悟しておきますね」
「おいおい、俺は女の子をしごいたりしないさ。それはパティの仕事……って」
セルジュは表情を苦笑めいたものに変えた。
「ホントかわすのがうまいなぁ。……あんた、やっぱり俺に口説かれる気はない?」
「口説かれるより口説くほうが好きなんです、私」
言葉を返す間に手を取られて握られる。セルジュの指先がのそれを撫でる。
「このサーカスは美しい女性が多くて、ときめきが止まりません」
「気が合うな。俺もだよ」
触れてくるセルジュの行動はまったく自然で、振り払う必要がないように感じる。
彼は握手のように掌を合わせると眼差しを怪しくした。
「でも今はあんただけだ。あんただけが、気になってる」
途端にざわめきが起こった。
今の今までもさんざん周囲の女性陣に注目されていたのだけれど、団長の直球な言葉に少しばかり騒然となってしまったのだ。
はちらりとセルジュを睨む。
「団長」
「セルジュでいい。あと、プライベートでは敬語もいらない」
「じゃあ、セルジュ」
お言葉に甘えてはすぐさま呼び方を変えてみた。
「そういうことは、ここで言わないほうがいいと思うのだけど」
何せ大勢の女性に囲まれているのだ。
それなのに色男がたった一人の小娘に“他は眼中外だ”と宣言してどうする。
おかげでは呆れ顔になってしまったのだけど、当の本人は満面の笑みを返しただけだった。
「そっか。ちゃんはもっと薄暗くて二人きりになれる場所で、愛の告白してほしかったんだな!」
いやいや、違います。
はそう言おうとしたが、セルジュは口を開かせてくれない。
握っていた手を強く引かれて肩を抱きまれた。
そうして彼は女性達に含みのある一瞥を投げると、をテントの陰に引きずり込んだのだった。
「セルジュ」
顔を見上げて名前を呼ぶ。
するとパッと手を離された。
どうやらおふざけはお終いらしい。
「あんたに訊きたいことがある」
人目から隠れると、セルジュは単刀直入に言った。
表情は笑んだままだったけれど、先刻のそれとは違う。
昨日アレンに本気で入団したいのかと尋ねたときと、まったく同じ雰囲気だ。
薄い黒を落とす影の中で、小さく、鋭く囁かれる。
「あんた、昨日の夜、外をウロついていた?」
は目を見開いた。
その表情で察したのか、セルジュが先回りをする。
「夜中に、敷地内を徘徊する姿を見たって言う奴がいる」
「誰が……」
「悪いが名前は伏せさせてくれ。俺にも守らなきゃいけないものがある」
もっともな言だ。
反射的に尋ねてしまった自分を馬鹿だと思う。
口を閉ざしたを、セルジュが静かに見下ろした。
「同じように、俺にはあんたを問い詰める義務があるんだ。ここの代表として新参者に勝手をされるわけにはいかない」
「……………………」
「あんた、何をしていた?ウチを探っているのか?そもそも何か目的があって入団してきたとか?」
は沈黙したまま、セルジュへの認識を改めていた。
彼は“読めない”というよりは、思慮深く、勘の鋭い青年のようだ。
その根拠を自分の中に持っているから、知り合ったばかりのには推測できないだけだろう。
旧友のアレンや仲間のフリードリヒたちなら、この状況もうまくかわせるかもしれない。
そう考えて、いいやと首を振る。
今は自分だけの問題だ。
誰に頼るでもなく解決しなければ……、は口を開こうとした。
けれどその直前でセルジュにまた手を捉えられる。
「なんて、ね」
そして微笑み。
今度は他意のない笑顔だったから、は驚かざるを得ない。
セルジュはそれに構うことなくウインクをした。
「言ったろ?パスカーレサーカス団は芸の腕と人柄だけを見る。あんたにどんな思惑があろうと関係ないさ」
「……それで、いいんですか?」
が訊けば、「だから敬語はいらないよ」と返される。
セルジュは普通に頷いた。
「あぁ。つーか、問い詰めたところで正直に答える馬鹿もいないだろ。だったら好きにすればいい」
随分と楽観的な……とは思ったけれど、そこで双眸をすがめられた。
「俺がしたかったのは問答じゃない。忠告だ」
セルジュはぐっとに顔を近付けた。
距離はほとんどない。
利き手と背中をテントの布に押し付けられた。
「あんまり妙な真似はしないことだ。……団長としては、裏切り者に優しくできないんでね」
言葉が吐息となって唇を撫でる。
瞳に宿るのは穏やか声とは正反対の感情だ。
「此処だけじゃない。サーカス界から永久に追放されたくなければ、俺を失望させないでくれ」
はじっとそれを聞いていた。
抵抗はしなかった。否定の声もあげなかった。
ただ間近にある紅い眼を真っ直ぐに見つめる。
セルジュは事の真偽を確かめなかった。恐らく事実だと確信しているのだろう。
そのうえで、の言葉を聞く気もないと言う。
弁解はいらない。どうでもいい。
ただ、自分達の害になるようであれば徹底的に排除すると、それだけを告げに来たのだ。
この人がアレンの親友かと思う。
なるほど、“仲間”想いな人だ。彼とはだいぶやり方が違うけれど……。
はその想い応えるべく、ようやく唇を動かした。
「私も、言ったはずよ」
そしてセルジュに向って微笑んでみせた。
「此処のために、頑張って仕事に励むと。……私はサーカス団の不利益になることはしません、団長」
は笑顔で団員としての言葉を紡いだ。
「むしろ利益になるよう精一杯やらせていただきますとも!」
わざと彼の真似をしてウインクをしてやる。
音が出そうなほどバッチリきめると、セルジュはちょっと目を見張った。
すぐに破顔してクスクスと笑い出す。
「是非ともお願いするよ。できればあんたには辞めてほしくない」
「ありがとう」
「アレンに嫌われたくないしな」
「私もよ。アレンのお友達には嫌われたくない」
「うん。でも、俺はあいつがいるからあんたを気に入ってるわけじゃないよ」
唐突に音量を落とされて、は目を瞬かせた。
同時に遠くからアレンの声が聞こえてくる。
どうやら消えてしまった団長を探しているらしい。
「俺は、俺個人の感情で、あんたが気に入ってる。だから」
セルジュは自分の名を呼ぶアレンに応えようとしない。
紳士な彼は女性達の居るほうを避けて回ってくる気配がする。どんどん近づいてくる。
としてはそれが気になるのだけど、間近すぎてセルジュの顔から目が逸らせなかった。
触れてくる掌の熱。
「あんたには、ずっと此処に居て欲しいな」
優しい声で言われる。
「俺の傍に」
アレンの声よりずっと小さいのに、掻き消されることなくの耳に滑り込む。
そういえば、と思い出した。
昨夜アレンにも似たようなことをされた気がする。
こうやって手を握られて、持ち上げられて……、指先が絡まった。
爪が引っかかって少し痛い。
そう感じた直後だった。
「セルジュ、こんなところに居た!」
テントの陰に目的の人物を発見したアレンが、駆け足で飛び出してきた。
「いい加減行かないとパティが……」
続く言葉はなかった。
セルジュはの動きもアレンの非難も、たったひとつのキスで封じ込めてしまったのだ。
爪を立てた部分に口づけをする。ぬくもりで柔らかく感覚を溶かす。
青年の唇が少女の手に落ちて、ゆっくりと離れていった。
「パティが何だって?」
セルジュは身軽にアレンに向き直ると、何事もなかったかのように尋ねた。
硬直している親友の顔を、腰を屈めて覗き込む。
「おーい。アレン?」
「…………………………、パティが、そろそろ、怒り出す。……フリッツが早く来いって」
アレンは妙に切れ切れに伝えた。
セルジュはうっと顔をしかめて舌を出す。
ウチの姉さんは怖いなぁと独りごちて、を振り返った。
「早朝練習の場所はわかる?」
「あ、はい。大丈夫です」
「じゃあまた後で。待ってるからさ」
セルジュはやってきたときと同じ調子で手をひらひらさせた。
「俺、本気だから。覚えといてくれよ」
にはわからない。
先刻彼が口にした内容はふたつだ。団長としての言か、個人としての言か。
判断しかねたので、口元を笑みの形にして訊いてみた。
「どっちを、ですか?」
「どっちもさ」
セルジュは閃くように微笑んで、自分の口唇を撫でた。
「今度はあんたのここにキスがしたいな。……いろいろと“頑張って”くれよ、」
初めて呼び捨てにされて、は少し驚いた。
その表情を満足したように眺めてからセルジュは歩き出す。
すれ違う一瞬でアレンの肩を叩き、そこを掴んで無理に方向転換させた。
「わっ」
「さぁてアレン、行こうか!一緒にパティに怒られよう!!」
「何で僕まで……!」
アレンはに何かを言いたそうな素振りを見せたが、セルジュが無理やり引きずってゆく。
遠ざかってゆく賑やかな声に知らずに苦笑した。
「……………………」
彼らの気配が完全に消えた途端、はエクソシストの顔に立ち戻った。
(見られていた?昨夜、私の姿を?)
ただの人間の気配を察せられないほど、も教団歴は短くない。
ましてや昨夜はいつも以上に気を張って臨んでいたのだ。
それなのに、わが身に注がれたという視線は、何者のものだろうか。
(アクマ……なの?)
セルジュに報告した人物が、そうだというのか。
そうして自分を追放しようと画策した?
あまりに安直な考えだが、完全に否定することもできない。
(一体、誰が……?)
確かな不審がの胸に芽生えた。
前半ヒロイン出てねぇー!本当にすみません。(平伏)
アレンの初恋話が思いのほか長くなりました。
微笑ましい感じを目指しまてみましたが、子供って書きにくい。特にアレンの悪ガキ口調には苦戦しました……。
次回は新人のヒロインがサーカスで頑張るお話です。
よろしければ彼女を応援してやってください〜!
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