愉快、愉快。
だって今日は10月6日、マッドハッターは微笑を絶やせない。
さぁさ、早く席にお着きよ!
「いかれたお茶会へようこそ、お嬢さん」
● 恋船旅路 EPISODE 3 ●
「人違いです」
は言った。
断言した。
これ以上ないまでにキッパリとした口調で言葉を放った。
不遜なほど自信に溢れたその態度は、さすがのティキをも硬直させる。
は緩んだ彼の腕の中から普通に逃れた。
「だからですね、大豆ですよ!大豆さえあれば私が」
「………………………」
「レシピ?大丈夫です、作り方はばっちり覚えてます!任せてください!」
「………………………」
「そもそも豆乳とは何かって?やだ、コックさん。そんなことこの私に聞くなんてもう」
「………………………、おい」
「語りますよ?語っちゃいますよ?マジ語りモードに突入しちゃいますよ?」
「おいって」
「仕方ありません。そこまで言うのならこの不肖、健康飲料キング豆乳さまについて延々切々と語らせていただきます!!」
「やめてくれ!!!!!!」
そこで本当に嫌になったティキが大声で訴えるとが振り返った。
コックとの会話を邪魔されて大変不満そうだ。
カウンターの上に乗り出したまま片足を振ってみせる。
「何なんですか、さっきから」
「お前こそさっきから何なの」
「だって人違いですって。知らない人に声をかけられても応えちゃいけない、ってこの世の法則で決まってるんですよ」
「いや、俺ら知り合いだろ」
「人違いです」
「全否定かよ」
「そういうわけなんで話しかけないでくださいね」
そこまで無表情に言うとは再びコックに向き直ってしまった。
完璧に放置される形となったティキは半眼になる。
どうしようコレ。
次の行動が思いつかなくて頭を掻く。
まさかここまで完全に相手にされないとは思ってもみなかった。
「プッ……、キャハハハハハハハハハ!!」
唐突に聞こえてきたのは甲高い笑い声。
同時にティキの脇を小柄な影が通り過ぎて、背後からの腰に抱きついた。
「ティッキーのフラれんぼー♪」
歌うような調子で言われたものだから、ティキはますます半眼になった。
「うるせぇよ」
あからさまにムッとしたのが声に滲んでしまう。
大人気ないとは思うが仕方ないだろう。
何故なら自分のことはまったくスルーしてみせたが、彼女の登場には相応の反応を見せたからだ。
「会いたかったよぉ」
黒く短い髪を揺らして、少女はの背に頬を擦り付けた。
猫が懐くような仕草は非常に可愛らしい。
けれど唇に浮かんだ嗜虐的な笑みがその印象を裏切っている。
彼女は釣りあがった大きな瞳でを見上げた。
「ねぇ、ネームレス」
その暗紫色。
背後から抱きつく少女の名を、は驚きに満ちた声で呼ぶ。
「ロード」
ノアの長子はにっこりと微笑んだ。
少しだけ離れてみせたかと思うと、を無理に振り向かせて、今度は真正面から抱きつく。
背丈の関係で思い切り胸に顔を埋める形になったものだから、見ているだけのティキとしてはかなり面白くない。
「ふふっ、元気だったぁ?」
相手の反応など無視で力いっぱい抱擁をするロード。
ここだけ見ると親しい間柄でしかないが、二人の立場上それは有り得なかった。
はロードを突き放すこともなく、かといって抱きしめ返すこともなく、彼女を受け入れてみせた。
あれだけ驚いていたくせに常人より遥かに早く平常心を取り戻している。
さすがと言うべきだろう。
「残念ながらとっても元気よ、ロード」
はわずかに苦笑さえしてみせた。
「それとネームレスって呼ぶのはやめて。名前ならあるんだから」
「だってそれ、偽名でしょぉ?」
「私の名前よ。“”」
「ふぅん。変なのぉ」
相変わらずロードは上機嫌だ。きゃらきゃら笑っての体に懐いている。
その裏に隠されたものを思えば、ティキも苦笑するしかなかった。
(蝋燭で全身ブッ刺したいとか考えてんだろうなぁ)
通過自在能力の自分ならまだしも、彼女があんなにもベタベタしているのはそういうことだ。
スキンじゃないだけマシかもしれない。彼ならその感情を制御できずに、もうを殺しにかかっている。
(ま、そう簡単に殺らせてはくれないだろうけど)
真っ赤な飴色。
ロードの好きな色。
にそれをぶちまけさせるには、相当な労力と意思が必要となる。
そんなことすでにノアの一族全員が承知の上だ。
「なんだよ、今日はカワイイ格好じゃーん」
ロードはのひらひらしたスカートを掴んで振ってみせる。
それに同意したティキは腰を屈めての顔を覗き込んだ。
「確かにな。いつもの野暮ったい黒服よりは断然イイよ、お嬢さん」
「それはどうも。でも、誉め言葉は我が親友にお願いね」
「何だ、眼帯くんに着せられたのか?」
言いながらティキは無造作にの髪へと手を伸ばす。
わずかに身構えられたけれど、殺気は出していないから過剰な反応はされなかった。
どこまでも自分を崩さない彼女には尊敬と同時に吐き気を覚える。
人間なんだったらもっと不様になってみせろよ。
そんな気持ちで握りつぶしてやった。
「どうりでこれは俺の趣味じゃないと思った」
褐色の指先から零れ落ちるオレンジ色の花弁。
名前も知らない花。
の髪に飾られていたそれを引き千切って振り捨てる。
床に落ちたところで踏みつけた。
ぐしゃり、と無惨な音を鳴らす。
「お嬢さんは可愛いから、何を着ていてもイイけどな。……この花は気に喰わない」
特に理由もなくそう思う。
いいや、ただ単純に親友にもらった花を散らされて、彼女がどんな顔をするか見てみたかっただけだ。
ティキは胸元に挿していた赤薔薇を引き抜いた。
「お前にはこっちの方が似合うよ」
耳の上、金髪に贈ってやる。
悪意の笑みと共に。
「血で真っ赤に汚れた花が、な」
その言葉で思い出させるのは、ハンガリーの廃教会での一幕だ。
白薔薇を赤く染めたの姿。今でもティキを興奮させる。
あれほど美しく穢れた光景を他には知らない。
「ほら。可愛い」
髪を撫でて頬に触れる。
はそれを受けて、何か強い言動に出るかと思ったら、ため息を吐き出しただけだった。
ティキの手を軽く押しのける。
「ちょっと離れてね」
ロードにそう言うと、床にしゃがみこんで、散らされた花を拾い始めた。
ちょっと意外だったからティキもロードもただそれを眺める。
はオレンジの花弁を全て集めると、ハンカチで包んでドレスの胸元に仕舞い込んだ。
「そんなもん拾ってどうするんだよ」
「もう飾れないじゃん。それに汚い。ヒヒッ」
空間に割って入る嘲笑は頭上から。
飛んできたつま先に後頭部を小突かれる。
「お前、バッカじゃねぇの」
「バーカバーカ」
それなり強く蹴られたものだから結い上げていた金髪が崩れた。
肩に落ちかかったそれを払っては顔をあげる。
その鼻先を狙った蹴りを、左右の腕で受け流した。
「さすが双子。相変わらず息がぴったり」
今度は額に突きつけられる二挺の拳銃。
「そして相変わらず物騒ね」
いつの間にか出現していた二つの人影は、カウンターの上に並んで腰掛けていた。
驚いたコックが身を引いている。
そのまま奥に引っ込んで行ったので、は胸を撫で下ろしたようだった。
「よぉ、」
「ヒッヒッ、久しぶりだね」
楽しげに、そして憎々しげに笑うのは、やはり浅黒い肌と紫の瞳。
ノアの一族の特徴をしっかりと受け継ぐ、黒髪と黄髪の少年たちだ。
「今度はジャスデロ、か」
は双子の名を呼ぶと、ちょっとうんざりした表情になる。
「次から次へと……」
「何だよ、もっと驚けよ」
「つっまんない反応ー」
「それはご期待に応えられなくてごめんね」
ぐりぐりと銃口を押し付けてくる痛みに目を細めながら、は肩をすくめた。
双子は不満気に口元を歪める。
「ホント、つまんねー。このままブッ殺してやろうかな」
「コロす!コロす!」
「それより、ねぇ」
は身軽に立ち上がるとスカートの埃を払う。
またロードが腰に抱きついたから少しよろけながらも指差した。
「それ」
「あん?」
何だよ、と返したのはデビットで、その腕の中には大量のお菓子が抱えられていた。
もちろんジャスデロも同様だ。
お皿にきちんと盛られたスイーツから、そこいらで売っている袋詰めのスナックまで多種多様である。
その様子は子供らしくて微笑ましい限りなのだが、銃を片手にしているから間違っても笑えない。
それでも笑顔になれるのがだった。
「ちょうだい」
「「は?」」
ジャスデビは揃ってぽかんとしたけれど、は構わず興奮した調子でまくしたてた。
「それ!それだよ、その白いの!私の健康眼では豆乳プリンと見た!!」
「はぁ!?やっぱりバカだろお前!!」
「ヒッ……コレってそんなキテレツなものなの、デビット」
「んなわけねーだろ!!」
「いい?見分けのポイントはここよ。この艶やかな白さに、ぷるんっとした弾力、とろける口どけ。そしてこの芳醇な香り!!」
「おい、ジャスデロに変なこと吹き込んでんじゃねーよ!!」
「ヒッ……本当だ!本当に豆乳プリンだ!!」
必死に否定するデビットの横で、とジャスデロは楽しそうにきゃっきゃと笑っている。
髪の色と癖が似ていないこともないから、その姿はまるで姉弟のようだ。
「仲良く食べてるんじゃねー!!」
デビットは目の前の二人に咆えた。
ジャスデロは豆乳プリンを譲ったようだったけれど、はそれを一口スプーンですくって彼に分け与えているのだ。
さらにロードまでが「ボクもボクもぉ」と駄々をこね始める。
「ハイハイ、順番にね。デビットもあーん」
「誰がするか!!!!!」
「何だこの幼稚園みたいな光景……。ちなみにお嬢さん、俺には」
「あげない」
「即答!?」
ティキは少しばかり期待していたのだが完全に流されてしまった。
何だかんだでデビットでさえ食べさせてもらえたのに非常に不満だ。
文句を垂れてもちょっとは美味しかったようで、デビットはスプーンを咥えたまま呻いた。
「馬鹿」
「いやいや、今日は何を言われても許しちゃうよ!お菓子くれたしね」
「あげたのはジャスデロだよ!!」
「うん、そうだね。ありがとね。じゃ!」
「「「ちょーっと待て!!」」」
そこでジャスデロ以外の三人の声が重なった。
何故ならが華麗に回れ右をきめたからだ。
しかも両腕に双子のお菓子を全て抱え込んで。
「お嬢さん、どこ行く気だ?」
「ボクを置いていこうとするなんてひどいなぁ」
「つーか何普通にオレらのお菓子奪ってんだよ!!」
近くにいたティキが肩を鷲掴み、腰に抱きついているロードが足を踏ん張る。
それでもは前進しようとするのを止めなかった。
「いやいや、だって何だか家族団欒みたいだしね。部外者のことはお気になさらずに」
踵の高いヒールが絨毯を踏む。
先刻からかなり騒いでいるから注目の的だ。
食堂中の視線もノア達の注意も惹きつけているくせに、はとっととこの場から去る気でいるようだった。
「私は乙女らしく慎ましやかに退場させていただきます!」
そう言って笑う彼女は、両手から溢れるほどのお菓子を抱いたまま。
それは決して食い意地からではなく、現状を“茶化す”ための行動だろう。
軽口を叩いて、笑い飛ばして、敵である自分たちに隙を見せない。弱みを露呈しないための防衛策だ。
いつもの平気な振りは相当な精神力を削ってのことだと、ティキはもう知っていた。
真っ赤に色づいた薔薇が教えてくれた。
やっぱり可愛いね、と思う。
そして反吐が出そうだ。
どれだけ自分勝手だと嘲っていても、彼女は“彼女”のためだけに、生きようとはしないのだから。
「菓子ならここで食べて行けよ」
口調はそのまま、わざと声のトーンを落とす。
引き止める手に力を込めて、細い脚を床に縫いつける。
動くなよ。どこにも行くなよ。お前はここにいるんだ。それを穏やかな強制力で教え込む。
ロードがにぃっと口の端を持ち上げて微笑んだ。
「そうだよ、ボクといっぱい食べようよぉ」
弧を描く朱は深く、幼女の容姿からは乖離していた。
幼い顔立ちに浮かび上がる熟れた果実。口に含めばきっと毒で死ぬ。
「それとも仲間と一緒がいい?」
優しく尋ねられた瞬間、の肩が強張った。
否、それはティキだけに許された妄想だ。
彼女はいまだ平然とした態度の下に、全ての感情を埋葬している。
(駄目だよ、お嬢さん)
すでに嘲笑しか浮かばない。
わかっているんだ、お前は今すぐ此処から去りたいんだろう?仲間の元に駆け戻りたいんだろう?そして告げてしまいたい。
「お茶の準備に時間がかかりそうだから、部屋でゆっくり待っていてね」、なんてことを。
それは彼らと己を分離して現状に立ち向かうためだ。
馬鹿な女。愚かな人間。
怖いと怯えて、嫌だと喚けよ。
は仲間を信用して放り出すくせに、自分のことは一切省みずに危険の中へと置き去りにする。
だから放ってやった。
体を拘束するよりも確かな鎖を。
「逃げるなよ」
これで、もう、“聖職者”は引けない。
「駄目ですヨ」
その声は不思議だった。
まるで耳元で囁かれたような気もしたし、遠くから大声で叫ばれたような印象もあった。
距離感がひどく曖昧で、不安定になる。無防備になる。
それはがあまりに素直な表情になったところからも感じ取れた。
「そんな誘い方では、レディに失礼でス」
振り返ってみれば声の主はすぐ傍のテーブルに腰掛けていて、近くも遠くもない距離にいた。
先刻の不思議な感覚は、恐らくその途方もない存在感が生み出したものだろう。
「あなたはもっと礼儀を覚えないといけませンねぇ」
しみじみと言われてティキは嫌な気分になる。
この人はいつでも自分を子ども扱いすることを忘れない。
「ハイハイ、すんませんね」
適当に返事をして、から手を離した。
今度こそ本当に彼女の体は硬直していて、力の抜けた腕からスナック菓子の袋がひとつ落ちてゆく。
がさり、と鳴った場違いな音。
見開いた金色の瞳が見つめる先で、その人物は手品のように何かを取り出した。
それは珍しい真っ黒な封筒。
無礼にならない程度の仕草で放って、の目の前の席に置いた。
「あなたへの招待状ですヨ」
宛名は白いインクで綴られている。達筆な英語の滑稽な文字。
「送ったのは全部で89通。そのうちのほとんどは教団の手によって消されましタ。でもあなたの手元に行き着いたものもあったでショウ?」
「そうだよぉ。ロンドンの公爵の家にも、ハンガリーのカフェにも、この間のサーカスにだって届けたんだから」
明るい調子でロードが言う。
声も便乗して笑うように続けた。
否、そもそも“彼”はいつだってそうだった。その正体ゆえに、微笑みを絶やさない。
「無視され続けて我輩は傷つきましタ。今日こそ招待を受けてもらいますヨ」
さぁ、と急かす。
さぁ、さぁ、さぁさぁさぁさぁ!
幕をあげて始めよう。これは不条理の国の物語。
道化は歌うように招待状の宛名を読んだ。
“”を、呼んだ。
「名無しの女」
色とりどりの花の飾られたシルクハット、そこからはみ出した長い耳がひくひくと動く。
大きな口を引き攣らせ、風船のような体を膨らませて、彼は喜んでいた。
そう、歓喜していた。
「千年、伯爵……」
が呆然とその名を口にする瞬間を。
「いらっしゃイお嬢さん。さぁ、楽しいお茶会の始まりでス」
その光景に、きっと10月6日というのは今日のことを言うのだろうと、ティキは密かに思ったのだった。
ごりごり。
は手を動かしながら思う。
憂鬱だ。果てしなく気が重い。
ただでさえアレンとのことが心に引っかかっているのに、これ以上懸案事項を増やさないでいただきたいものだ。
ごりごりごり。
無視をして、冗談をやって、流せる相手ではないことはわかっていた。
けれどティキ・ミックが一人で来るのと、他のノア達が共にいるのとでは大きな違いだ。
対処法に悩んでいたのは実はの方で、解決策はいまだに出ていない。
ごりごりごりごりごりごりごり。
あぁ、もう、頭がいかれてしまいそう。
ごりごりごりごりごりごりごりごりごりごりごりごりごりごりごりごりごりごり……。
「うるせぇよ!!」
そこで唐突に怒鳴られた。
ついでに発砲されたから、首を傾けて回避しておく。
金髪を掠めて飛んでいった銃弾は背後の壁に当たって弾けた。
「さっきからごりごりごりごりごりごり!いつまでやってんだ!!」
デビットの文句が耳に刺さるけれど、は決して動きを止めなかった。
片腕でボールを抱え、もう片方で延々と棒を掻き回す。
擦り潰されてゆくのは大量の大豆だ。
「いつまでって、そんなの決まってるでしょ?豆乳が出来上がるまでよ」
「お前な!何マジでやってんだよ本気で作ってんじゃねーよ!!」
よくわからない。
デビットは何を怒っているのだろう?
「いや、あのな……」
横から言葉を挟んできたのはティキで、彼にしては控えめな調子で言った。
「レシピを暗記してるだけでもドン引きなのに、この状況で作り出すとかさ……。本当に有り得ないから、お嬢さん」
彼がそう言うのも仕方なく、は今やノア達と同じテーブルに腰掛けている。
ロードに捕まり、双子に銃を向けられ、千年伯爵にまで促されれば、逃げられるはずもない。
しぶしぶといったふうに席についてみたけれど、そこでが始めたことといえば交渉でも舌戦でもなく、“豆乳作り”ただそれだけだった。
「何言ってるの、これからが本番よ!」
は力強く断言した。
「次は水を加えて掻き混ぜ、糊状になったところでお鍋に移し、中火で加熱。ここでさんからのワンポイント★アドバイス!」
「いや聞いてねぇし」
「いい?お鍋は一気に熱しないこと。ゆっくり沸騰させないと底が焦げ付いて大惨事になるからね!」
「なればいいだろ、なれば」
「何よ、そんなこと言う人には出来上がった豆乳分けてあげないからね」
「むしろ望むところだよ、お嬢さん」
「あぁ、そう。ロードにジャスデビ!駄目だよー?こんな夢も希望も豆乳も失った、ティキぽんみたいな大人になっちゃ」
「その呼び方はやめてくれ!!!!!」
何だか声高に訴えられたけれど構ってやる義理はない。
ノアの子供達も無関心のようで、話がそこに留まるわけはなかった。
「それより紅茶飲みなよぉ」
ロードがねだるような口調で勧めてくる。
ワイルドストロベリーが描かれた、世界的に有名な茶器を押しやられて、はようやく手を止めた。
何故なら千年伯爵が、
「砂糖は我輩が入れてあげまショウ」
と、のたまったからだ。
「それはとってもありがた迷惑です!」
礼儀的に返すつもりがしっかり本音が出てしまった。
だって最後に砂糖が底の残ってじょりじょりいうのはごめんだ。
溶解度を超えた量を入れられてはカロリーオーバー、伯爵みたいな体型になってしまうのは完全に許容オーバーである。
は手早くカップを回収して紅茶を一口。
飲むつもりなんてなかったのに、味わってしまえばお茶会の始まりだ。
強制的な開催に千年伯爵は笑みを深めた。
「それでは、お菓子を片手に語らいを。楽しい楽しいお話を!」
「私とあなた達で?素晴らしき人選ミスね」
「イイエ、そんなことはありません。我輩はお前と話したかっタ」
「………………………」
「もうずっと」
「……、私たちの間に会話が可能なら今までの戦闘は何だったの」
は目を閉じてカップをソーサーに戻した。
表情も動作も静かを極めてみせたのに茶器が少しだけ音を立てる。
手が震えたのだ。……そうさせた感情の正体は何だろう。
焦燥?不安?恐怖?
いいや、怒りだ。
「ナンセンスね。筋の通らない話よ。冗談にしか聞こえない」
「何故?」
尋ねたのはティキだ。
は横目で彼を見た。
「あなた達が同行している時点で、私との“会話”は成立しない」
「それは二人きりでするものだって?密談をご所望とは、なかなか誘ってくれるじゃないか」
ティキの軽口は無視して、ぐるりと席を見渡す。
「ノアを引き連れて来ておいて、対等に話しをしてくださるつもり?」
「彼らはただの野次馬ですヨ」
千年伯爵は言い切ったけれど、どうにも胡散臭い。
は眉をひそめ、道化は肩をすくめてみせた。
「本当です。我輩は一人でお前と会うつもりでしタ」
「では、この四人は?」
「ワガママを言われたんです。自分も一緒に行きたいとネ」
「それは彼女と」
は片手で丁寧にロードを指し、
「彼だけでしょう?」
取って返した指先で、乱暴にティキを示した。
本人は渋い顔をしたけれど知ったことではない。
は続けて自分の目元に触れた。
「騙しメガネね?」
「ご名答!」
嬉々とした声をあげたのはジャスデロで、テーブルに上半身を乗せながら銃を振ってみせた。
「ヒヒッ、馬鹿なエクソシスト共!乗る船を間違えていることにも気づかないで」
「俺らはロードやティキと違って、この茶会の正式な参加者だ。役割があって千年公に連れてこられた。それは、お前らの眼を騙すこと」
デビットは笑いながらバンッ!と撃つ真似をしてみせた。
「そして、お前をここに誘き寄せることだ」
は思わず自分の下瞼をなぞった。
そこに染み付いているはずの特殊なインク。双子の特殊能力“騙しメガネ”は、視界に嘘の魔法をかける。
今見ているものだって本物かどうか怪しいものだ。
敵に五感の一つを支配された状態で、海上という逃げ場のないところに居るのは、随分と危険だと言えた。
(いつ……)
絶対に表情には出さずに歯噛みする。
(いつ、騙しメガネをかけられたんだろう)
情けない話だがまったく気が付かなかった。
同行者も無反応だったところを見ると、四人仲良く敵の術にはまってしまったようだ。
どうして今日に限って……、否、皆が気もそぞろだったのは自分のせいか。
はテーブルの上で強く拳を握り締めた。
「ほら、やっぱり“会話”は成立しないわ」
「何故デス?」
今度の問いは千年伯爵から。
はきっぱりと答えた。
「誠意がないからよ」
ロードとティキが嘲笑を浮かべたけれど気にするものか。
「あなた達はすでにこちらを罠に掛けている。言葉の取引は相手を信頼していなければ成り立たないものだというのに」
「残念だけどぉ」
クスクス笑いを漏らしながらロードは自分のカップの縁を撫でる。
綺麗な爪だ。全て真っ黒に染めてある。
そういえばさっきラビも私にマニキュアを塗りたがっていたっけ。
「それはお互い様でしょぉ、ネームレス」
名前で呼んでくれとお願いしたばかりなのになぁ、と思いながらは何となく自分の指先を眺めた。
薄い桃色。ちょっと白い。生来のままの爪だ。
「キミはボク達を信用していない。だから今まで千年公の誘いに応じなかった。ちがう?」
「……その通りね」
「だったら今回のことを非難しちゃダメだよぉ。ジャスデビの騙しメガネに頼った原因は、頑ななキミにあるのだから」
「つまり、“仕方がなかった”ことだと?それは自らの行動を棚に上げているだけじゃない?」
「ネームレス」
そこで口調が変わったからはロードを見た。
彼女はたまに熟成した声を出す。
「そうまでして話したかった、千年公の気持ちを汲んであげてぇ」
「だからさ、な?俺らは正真正銘、ただの付き添いに徹するよ」
こちらも宥めるような調子だけど、同時に手を握られたからイラッとした。
少し引っかいてやろうかな。
ティキはお構いなしに囁きかけてくる。
「さすがにお前と二人きりというのはいただけない。結構重要な場なんだぜ、この茶会」
「………………………」
「そんな顔するなよ可愛い顔が台無しだ。ほら、騙しメガネを使った詫びと言っちゃあ難だが、今回俺達はお前に手を出さない。絶対にだ」
「……、まさか。私に危害を加える気はないと言うの?」
はちょっと本気で驚いてティキを見返した。
顔が近い。いつも思うけどこの人ドアップで話しすぎだ。
「そう“今回”は。俺達だって、千年公の意に反したくはない」
この場限りの約束だと、念を押されてから手は離された。
は真意を窺うように千年伯爵に視線をやる。
見つめ合っているつもりだけど、彼の瞳は底なしの穴のようで、何の意思も発見することは出来なかった。
「……何であれ、私が出席を承諾していない時点で、友好な会話は出来ないと思うのだけど」
はうんざりした気分で思い出す。
今まで何度も届けられたお茶会への招待状。
封筒に書かれているのは“Nameless”という宛名のみ。
住所も指定されていないのに、気がつけばコートのポケットに、自室の扉の隙間に、畳んだ夜着の上に、ひっそりと存在していた。
この不気味な現象を誰にも打ち明けたことはない。
教団側は知っているようだったけれど、は気に留めなかった。そういう振り続けてきた。
敵からのコンタクトは危険なものだと、考えるまでもなくわかっていたからだ。
“私”は見張られている。
誘いに応じればすぐさま反逆行為とみなされるかもしれない。
「これは“脅迫”でしょう?」
は静かに双眸を細める。
「そちらの能力で私を強制的に召喚した。それも逃げ場のない海上、こんなにも大きな船の中に」
「滅多に乗れない豪華客船ですよ。お気に召しませんでしたカ?」
「……他の乗客は人質のつもりなの」
「それはそちらの受け取り方次第ですネ」
にべもなく答えられたので思わず瞼を下ろした。
千年伯爵は紅茶を飲んでから、歌うように続ける。
「“豪華客船、不慮の事故により沈没!”……そんな見出しが明日の新聞を飾ることもあるかもしれませン」
そこで、あぁ、と悟った。
感覚が違うのだ。
自分達が優位であるのは当たり前で、だからこんな状況を平気で“会話”と呼ぶ。
千年伯爵が一人で会いたかったというのも、ティキ達が手を出さないというのも、彼らにとっては本気の譲歩なのだろう。
もしかしたらこれだけの人数で囲んでいるのに、いまだに一撃も喰らわせていないだけで、素晴らしい気遣いだと思っているのかもしれなかった。
まるで駄々っ子だ。
自分がひどく幼稚に思えては下を向いた。
数の暴力が普通の感覚こそ異常だと決め付けてくる。
「……私に何を言いたいの?」
は吐息と共に尋ねた。
こうしないとこのおかしなお茶会は永遠に終わらないということを、正確に理解してしまったからだ。
「まぁ、まずはお菓子をドウゾ」
千年伯爵は笑顔でシルクハットを取ると、それを逆さまにしてみせた。
途端に出現した様々なスイーツにジャスデビが歓声をあげる。
「ハートの女王のジャムタルト、糖蜜井戸のパイ、バターつきパンの蝶プティングはいかがデス?」
「私は普通のお菓子が食べたいな」
「ならばケーキに“Eat me”と書いてあげまショウ」
「それよりママレードをちょうだい。瓶を投げつけてあげる」
「“犯人アリス”になるおつもりデ?」
「アリスじゃないからやってみせるのよ」
くだらない会話を交わす間にもノアの子供達は次々とお菓子を頬張っている。
はしゃぐ彼らからティキが一皿取り上げての前に置いた。
「食えよ。うまいから、たぶん」
「そうみたいね」
「お嬢さんだって甘い物は好きだろう?あれだけポケットに詰め込んでいたんだからさ」
唐突にそう言われて意味を察するのに数秒を要した。
どうやら彼は、ハンガリーのカフェでのことを言っているらしい。
確かにあのときはエプロンに大量の菓子を潜ませていた。
「あれは近所の子達にあげようと思っていたのよ。いつも喜んでくれるから」
「へぇ。確かにイーズもそうだったな」
「……………………」
「今の俺が“あっち”俺の話をするのは意外?」
ティキはにやりと笑って頬杖をついた。
表情を観察されているのを感じる。
は無関心を決め込んで、フォークに手を伸ばした。
「どちらも“あなた”なのでしょう?だったら意外も何も、ね」
「ちなみに好みは?」
「……はい?」
「だから、黒の俺と白の俺。好みなのは?」
「どっちも」
「おおっ」
「嫌い」
「………………手厳しいな」
一瞬だけ頬杖から身を起こしたティキだったが、次の瞬間にはがっくりと肩を落としていた。
としてはその反応はもちろん、質問さえ意味がわからない。
「あなたは自虐的だから。そういう人は好きじゃないの」
気がつけばそう言ってしまっていた。
「人間を愛して、人間を殺す。そんな矛盾のある二重生活を送るのは、随分と負担だと思うのだけど」
それこそ心身を削り取るように、黒と白は存在を強めてゆく。
“ノア”は灰色には染まれない。ならば相克する己をどうやって制御しているのだろう。
は彼を本当に不思議に思っていた。
「俺はお前のほうがずっとそうだと思うけど?」
フォークを突き刺したケーキが崩れた。
は首を回してティキを見る。
予想に反して彼はもう微笑んではいなかった。
「俺は黒の自分も白の自分も失いたくない。それはどちらも“俺”だからだよ。人間を殺すのが楽しいと感じるのも、人間と共に生きたいと思うのも、俺自身」
褐色の手が自らの胸を叩く。
「だから矛盾はあっても反発はない。どちらも“俺”だと認めているから」
「…………………………」
「お前は、違うだろう?」
何の話だと言ってやってもよかったけれど、自分が振った手前それはできなかった。
は暗紫色の瞳に覗かれるのを感じる。
眼でもなく、顔色でもなく、心の中を暴き出そうとしているのを。
「俺なんかじゃ足元にも及ばない。お前のほうがよっぽど自虐的で」
そこでティキは少し言葉を切った。
「人間として、異常だよ」
「……、まさか超人にそう言われるとはね」
は苦笑したけれど、同調してくれる者はいなかった。
フォークの先に絡みつくクリーム。重い沈黙。
崩壊したケーキは醜かった。
「ねぇ、ネームレス。キミは名前を失って何を得たの?」
さくり、と小気味いい音を立ててロードがクッキーにかじり付く。
アイシングが囁く“私を食べて”。
不思議の国のお菓子を彼女は事も無げに平らげてゆく。
「過去を捨ててまで、何を欲しているの?」
「残念ながら私は応えを持っていないわ」
「……名称の消失は自己の抹殺。延々と自殺し続けるキミは、生命あるものとして、確実に狂っている」
「いかれた女だ」
「頭がおかしい」
ケラケラ笑いながら双子が相槌を打つ。
「「誰もがお前の存在を肯定しない!」」
「そう、お前自身ですらも」
ティキはちょいと手を伸ばして、のケーキから苺を奪い取った。
「いいや、一番に否定しているのはお前だよな。“”」
赤い果実は男の唇に齧られ白い内面を晒した。
もう食べる気がしなくて皿を押しやれば、千年伯爵が新しいものを差し出してくる。
「時々、我輩は思うのでス」
いらない、と仕草で示したけれど伝わらなかったらしい。
今度目の前に置かれたのは小さなホールケーキで、ピンクのクリームとねじれた蝋燭で飾られている。
真ん中に乗ったチョコプレートには、ふざけた文字でこう書かれていた。
“Unbirthday to you!”
「お前は我輩たちが見ている夢ではないかとネ」
「確かにそれぐらいには荒唐無稽なやりとりよね、これ」
「だって誰に証明できル?“お前”という存在を」
「訊いてどうするの。他人にその意義を求めてはいないのに?」
「ふとした拍子に跡形もなく消えてしまう……。そんなことが起こっても不思議ではないでショウ」
「私はチェシャ猫?」
「いいえ、アリス」
「私が不思議の世界に迷い込んだなら、すぐさま自分の頬を抓ってみせるわ」
「やってごらんなさイ、名無しの女」
投げるように交わされる言葉の合間に、千年伯爵は優雅に微笑んだ。
「長い夢から目覚めた瞬間、“お前”がどうなるのかを見せてごらン」
カツンッ、と大きな音を立ててカップをソーサーに戻した。
行儀が悪いけれど知ったことか。
無作法なのは向こうの方だ。
「随分と回りくどい言い方をするのね」
「おやおヤ」
「長話にお茶も冷めてしまいそうよ」
「これはいけません。ロード、お客様に熱いのヲ」
「もう結構」
本当は今も紅茶は湯気を立てていて、冷え切ってしまったのはの心だった。
付き合いきれない。
最初からそのつもりがなかったのだから我慢の限界も早かった。
「結局はいつもと同じね」
いい加減、飽き飽きだ。
「あなた達は私の正体を暴きたいだけなのでしょう」
「違いまス」
思いのほか強く否定されてはひとつ瞬いた。
千年伯爵を見やるがやはり感情も思考も読み取ることが出来ない。
ならば言葉に頼るしかないというのに、会話をする気はどうしても沸いてこなかった。
「確かに、我輩たちはこれまで、お前に正体を明かせと迫ってきましタ」
「そう、さんざんにね」
「それを不思議に思ったことはありませんカ?」
「……どういうこと?」
「何故、“我ら”が“お前”に、そこまで執着をするのかと……考えたことはありませんカ?」
それは意外な質問だった。
驚きを顔に出してしまってから後悔する。
いけない、これでは肯定を示してしまったことになる。
千年伯爵は相変わらずの調子で続けた。
「エクソシストだから?過去を隠蔽しているから?グローリア・フェンネスの弟子だから?それとも得体の知れないイノセンスを操るかラ?」
「俺達はただエクソシストだからってだけだな」
「ヒヒッ、そうだね。あいつらみんなムカつくもんね」
応えたのはジャスデビで、彼らは競うようにしてお菓子をぱくついている。
次に口を開いたのはひとり平和にプティングを突っついているロードだ。
「ボクは何だろうなぁ。顔が可愛かったから?」
千年伯爵が一瞥すれば彼女はきゃらきゃらと笑った。
「ウソだよぉ。ボクはイノセンスを壊したかったの。何だか嫌な感じがしたからさぁ……。案の定ノアを破壊する能力を持っていたんだってね」
それを聞いて胸の傷が疼いたのかティキが苦い笑みを浮かべる。
ロードの「まだ痛む?」という問いには首を振ってみせた。
意地でもなく本当にそうなのだろうと思いながら、は彼から最後の回答を受け取った。
「俺は千年公の命令に従っただけだ。“黒葬の戦姫”を殺して来いと言われたからそうした。削除は俺の仕事だったしな」
他のノア達も似たようなものだろう、と呟いて彼はに触れる。
金髪を指先で弄んでキスをした。
「それが今じゃあこんなに夢中。……お前は俺を惹きつけて離さない」
「私は猛烈に離して欲しい気分よ」
は素早く自分の髪の毛を取り戻して握り締めた。
平然として見せるけれど、本当は腹立ちや厭わしさでこの場にいる誰の顔も見たくない。
仕方がないからテーブルに置かれたシュガーポットを睨みつけた。
いつだって自分の価値は“戦う”ことのみで、教団側はそれを要求し、伯爵側は否定してくる。
それでいい。
それでいいはずだ。
否、“それだけ”でなくてはならない。
「誰もがそうやって、あなたに関心を持ったのだと思っていました」
緩いカーブ。波打つ金髪。
大嫌いな色だ。
それが視界を遮っていたので、はしばらくその異変に気づけないままでいた。
「けれど、違う。顔を見るたびに、言葉を交わすほどに、私たちは“”を強く求め始めた」
「…………………」
「わかりますか?これは異常なことなのです。今やノアの一族全員が、あなたを気にかけている」
「確かに異常かもね。私はそれほど面白おかしい人間じゃないもの」
「……お嬢さんには自分を過小評価する癖がありますね。大丈夫、中にはあなた自身に惹かれている者もいますよ」
そこで千年伯爵はティキを見たようだったけれど、は絶対に彼に倣おうとはしなかった。
「ただ、皆が皆あなたという存在に焦がれているというのは妙な話でしょう?……それこそ強制的に恋に堕とされたかのように、抗えない何かが我らを急きたてているのです」
「私を殺せと?」
「いいえ、“破壊しろ”と」
それは、の中で“あの子”が求めていることだった。
あまりに内側を突いた言葉を、何の前触れもなく口にされたから、滑稽なほどに理解が遅れる。
反射的に顔をあげて、今度こそは頭がまわらなくなった。
息を呑んで瞳を見開く。
その金色に映った変化。
「お嬢さん」
あぁ、そうだ。
いつからだっただろう、自分への呼称も私へのそれも変わっていたのに。
何故気づけなかった?何故気づかなかった?
まるで認識したくないとでも言うように、は意識を“彼”から逸らしてしまっていたのだ。
「私はあなたに告げたかった」
囁く唇は厚く、口元には髭が散っている。
凡庸な印象。
それはどこにでもいる、初老の紳士でしかない。
「この感情を」
穏やかな口調で語りかけてくる人物は、先ほどまで奇人が座っていた席、の視線の先に存在していた。
まるで舞台の上でのそれのように、彼は一瞬して変身を遂げてみせていたのだ。
「まだ自分では言葉に出来ない気持ち……。それでも、あなたなら、わかってくれるのではないかと思ったのです」
は“彼”のあまりにも哀しい双眸に釘付けにされた。
そう、その、黄金色。
自分の持つそれと同じ色彩に。
「」
彼にその名前を呼ばれたのは初めてだった。
あなたは誰だと問いかけてやりたいのに、感覚でもうそれを知ってしまっていた。
「……、っつ、伯爵」
「いかにも。私ですよ」
思わず声を詰まらせれば優しく、それも娘に対するそれのように頷かれたものだから、はとても理不尽な気持ちになった。
どうしようもなくひどいと感じてしまう。
自分勝手でも、そう思う。
「……本当に、人間、なのね………」
人を人とも思わぬままに、命を掠め取っていった宿敵。
これがその正体。
知っていたことだけど、私たちがしているのは聖戦ではない。ただの醜い争いだ。
意志と信仰を違えた、人間同士の殺し合いだ。
は一度強く眼を閉じて、開いた。
普通の男性の姿となった伯爵を視線で捕らえる。
外野ではジャスデビが驚いたように、と彼の顔を見比べていた。
「千年公のその姿、すっげぇ久しぶり」
「ヒッ、に見せてもいいの?」
ティキは口元に手を当てて小さく呟く。
「金色の眼……。どうにも見覚えがあると思えば」
わずかに眉を下げて笑った。
「千年公だったのか。滅多に見せてくれないから、忘れてたよ」
「それも仕方がありません。私のものより、お嬢さんのほうがよほど美しいですからね」
「ううん、二人は同じ色だよ」
断言したのはロードだ。
同時に彼女は制御を外したようで、溢れ出す能力の波動がの頬を叩く。
こちらに向けられた少女の眼は暗紫色ではなく、やはり深い黄金色に染まっていた。
「彼女が持つのは、我らと同色の瞳」
どうやら本来の能力を発揮し、“ノア”を表に出せるのは、千年伯爵と長子のロードだけのようだった。
そう察せれたのは、ジャスデビが関心も感慨もないような顔をしていたからだ。
対照的にティキは好奇に身を乗り出す。
「どういうことだ?何故、お嬢さんが」
「気になるでしょう?」
千年伯爵が意味深なことを言ったけれど、は即座に異論を唱えた。
「私はノアじゃない」
は胸元に隠しているロザリオを握り締めた。
身に纏っているのもいつもの団服だったらよかったのに。
あれは鎧だ。自分の在り処を示す、分かりやすい記号。
せめて親友が着せてくれたドレスだということが、に力を与えてくれていた。
「そうですね。……あなたは私たちの同胞ではありません」
それを武器に身構える。迎え撃つ準備をする。
千年伯爵の囁き、そこに潜むものを聞きつけて、には何となく彼が話したがっているものの本質が予想できてしまったのだ。
いいや、そんな馬鹿な。
それだけは有り得ない。
は気にしない振りで一度は断った皿を引き寄せた。
「けれど私は、“あなた”を知っている」
嘘だ。
「そんな気がして仕方がないのです」
はナイフでプラムケーキを切り分けた。
「気のせいよ」
断言したつもりが囁く程度にしかならなくて、そんな自分に舌打ちをしたくなる。
勘付かれるな。気取られるな。あなたは“私”を知らない。
知っているはずがない。
「あまりに私の正体がわからないから、そう思い込んでしまっただけじゃない?」
「そうでしょうか……。先ほども言ったように、私にもはっきりしたことは言えないのです。ひどく曖昧で掴みきれない感覚なものですから」
「ほら、やっぱり」
「それでも、確信はある」
「どこに?記録を見つけた?記憶にでもあった?……“私”はあなたなど知らない」
「そう、“私”ではないのかもしれない。……あなたの存在を訴えるのはこの身の内にある」
ジャスデビはやはり意味がわからないようで、しきりに首をかしげたり顔を見合わせたりしている。
ロードは微笑んだままだ。無邪気な笑顔はいっそ不気味といっていい。
ティキだけが真剣に話の成り行きを見守っているようだった。
「私の中の何かが叫んでいるのですよ。“我々”はあなたを知っている。わかっている。そう、理解していた。今すぐに取り戻したい。なんて哀しい。苦しい。切ない。あぁ……」
唐突に千年伯爵はに瞳を据えたまま涙を流し始めた。
大人のくせに子供みたいな泣き方だ。
自分でも感情を理解できないうちに溢れ出した真実の欠片。
それでもは首を振った。
確かに否定を示した。
「そんなわけないでしょう。何度も言うようだけれど、私はノアではないだから」
「ええ……。あなたは私たちとは違う」
「それどころかイノセンスの適合者よ」
「わかっていますよ。わかっている。それでも……」
肥大する嫌な予感が肌を粟立たせる。
ざわり、と神経を逆撫でしてゆく。
は唇を開いた。
相手に言われる前に、口にしてしまいたかった。
せめてそうやって、自分を求める紳士の悲哀を回避したかったのだ。
「まさか」
哀しい。苦しい。切ない。……そんなのは私もよ。
「“私”に、仲間になれとでも言うつもり?」
優雅な茶会が開かれる食堂室に、その言葉はそら恐ろしいまでの異質さで響いた。
見つめ合う。金と金の双眸。
よく観察してみれば千年伯爵の方が深い色をしていて、それは瞳の奥に光の届かない闇を抱いているからだった。
一瞬にして場の空気は凍結し、次いで根本から揺らぎ始める。
「……何だって?」
呻くように言ったのはデビットだった。
ジャスデロが千年伯爵に向って叫ぶ。
「本気!?この女は敵だよ!」
そんな二人にロードがしぃと人差し指を立ててみせた。
「黙って。ボクらが口を挟んじゃいけない」
「でも……っ」
「ふざけんな、こんな話があってたまるか!」
長子の言葉にジャスデロは戸惑ったようだけど、デビットは激昂して目の前の食器を全てひっくり返した。
カップから紅茶がこぼれ、皿が床の上で砕け散る。
飛散したクリームがの手元まで汚した。
「こいつは憎きイノセンスの所有者だ!俺達が殺すための標的だ!それを仲間にしたいだって!?」
「千年公、僕らは納得できないよ!」
「双子が正論よ」
本人がそう肯定したものだから、二人はますます苛立ったようだった。
椅子を蹴倒したかと思うと同時に拳銃を向けられる。
滲み出るのは怒りと拒絶だった。
「確かにお前は楽しいオモチャだ。そういう意味では好きだぜ」
「でも、本当には受け入れられない。はエクソシスト」
「俺達はノアの一族」
「「何千年にも渡って殺しあってきた仲だというのに、どうして今更その手を取ることができる?」」
は睨みつけてくる紫の瞳の奥に、怪しい金色の光が瞬くのを見た。
あれが彼らの本質か。ノアの持つ血なのか。
視界を遮らないように掌を自分の目元にかざす。
呪われた色彩がどこまでも疎ましい。
少年達も同じ気持ちのようで、指先が引き金を引こうと動く。
「やめろ」
それをティキが手を掲げて制止した。
デビットは銃口を彼に向けなおして咆える。
「馬鹿ティキは黙ってろよ!」
「黙るのはお前らだ」
今度はティキの瞳にまで金色が滲んだ。
まさか彼らの能力を活性化させているのは自分なのか。
はそんな暗い予想を抱く。
あまりにも“ノア”に関わりすぎた?それとも、千年伯爵の言葉に触発されて、彼らが“真実”に近づきつつあるのか。
どちらにしろそんなことは許されない。
黄金に底光りする眼差しで、ティキはジャスデビの反抗を封じてみせた。
「この場では彼女に手を出さないと約束したはずだろう。それが守れないのなら帰れ。もうお前たちの席はない」
「く……っ」
「座れよ」
鋭い命令の声に、デビットは押し殺した呼吸を数回繰り返した。
先にジャスデロが力を抜くようにして腰を落とし、相棒の腕を引く。
そうされて仕方がないというふうに席についてみせた。
「いい子ですね」
千年伯爵は手を伸ばして双子の頭を撫で、ティキに感謝の微笑みを向けた。
そして視線はへ。
皺の刻まれた頬はいまだに流れ続ける涙で濡れていた。
「仲間になれ、と言っているわけではありません」
「そう、千年公はキミに“こちら”に来ないかと誘っているだけだよぉ」
「……どちらにしろ勧誘でしょう?どう違うと言うの」
が静かに首を振る眼前で、ロードはフリルのついたハンカチを取り出してくる。
千年伯爵はお礼と共に受け取って目元に押し当てた。
そうすると金色が隠れたものだから、随分と楽な気持ちになる。
そんな自分が情けなかった。
「どうか、この漠々たる感情をわかってください。そしてこの苦しみを静めてください。私の中の何かがあなたを求めている。殺したいのではなく、壊したいと訴えている。それはきっとあなたの魂の解放だ」
「……………………」
「偽の使途たちに捕らえられたあなたを、本当の神の元へと導きましょう」
「それは“死”という形で?」
「場合によっては」
「話にならない」
「それでも“こちら”なら、“そちら”では不可能なことを可能と出来るのですよ。」
「…………っつ」
「私たちならば、“あなた”という存在を肯定してあげられる」
千年伯爵が震える手からハンカチを取り落としたものだから、ロードが拾い上げて止まらない涙を拭ってやった。
そして愛情を込めて彼の頬にキスをする。
「おいで、ネームレス」
千年伯爵に語りかけるように、ロードはに優しく囁いた。
「“死”を恐れ、“無”に耐える、そんな必要はもうないんだよ。ボク達がキミの本当の罪を壊してあげるから」
おいで、と赤い唇が誘う。哀しみの雫を掬い取る。
気が付いてみればその場にいる全員がを見ていた。
いくつもの視線。
その き ん い ろ 。
嗚呼、頭がいかれてしまう。
「おいで」
は衝動のように立ち上がった。
差し出された褐色の掌から逃れるように、一歩後ろに下がってみせる。
最後の意地で背筋だけは曲げず、真っ直ぐに伸ばして敵と向かい合った。
「お断りよ」
は別れの挨拶のつもりで言い放った。
もうこの場に留まる理由はない。
否、これ以上居ては魔法にかかったように意識を巻き取られてしまうだろう。
言葉の水銀が脳を発狂させる前に自分は此処から去るべきなのだ。
「おいでと言われてついて行くほど子供じゃない。それがどういう結果をもたらすか、わからないほど馬鹿じゃない。真っ平だわ」
は金髪を翻して、扉の方へと視線を投げた。
「交渉とは呼べないけれど……決裂ね。話はお終いよ」
そして高いヒールで歩き出す。
「私は失礼させてもらう」
「無作法なガキ」
そこで唐突に耳元で囁かれた。
気配はなかった。そう、有り得ないと思っていたから気づけなかった。
何よりもそう信じていたから、の意識は千年伯爵やノア達に奪われ続けてしまっていたのだ。
「!?……っつ」
驚愕と同時に肩に衝撃。
蹴りを喰らったのだと即座に理解した。
の履いているのよりも鋭い踵が、肉に食い込み、関節を押さえつける。
そのまま先刻まで座っていた椅子に戻され、そこに体を縫い付けられた。
「話は終わっていないというのに、どこに行くつもりだ」
頭上から降ってくるのは低い怒りの声。
冷徹さと侮蔑を含んだ視線を感じる。
目の前の人物の顔を見たくなくて俯いていれば、足が肩から外され、今度は腕を蹴りつけられた。
同じように椅子の背もたれに押し付けては踏みにじる。
まだ完治していないそこばかりを圧迫されては、ひどい痛みが容赦なくに襲い掛かった。
わずかに苦鳴を漏らせば金髪を掴まれる。
乱暴に引かれて顔をあげさせられた。
おかげでは真正面から向かい合う羽目になってしまった。
自分の痛む場所だけを的確に攻撃してくる、性根のねじ曲がった人物と。
「相変わらず忌々しい」
それはこちらの台詞だ。
はそう思って“彼女”を睨みつけた。
長い銀髪、輝く碧眼、見惚れるほど美しいその顔を。
「この、馬鹿弟子が」
グローリア・フェンネス。
あまりにも懐かしいその人が、視界一杯になって氷の微笑を浮かべている。
ぐりっ、と捻られた踵がの心までをも痛めつけていった。
ラスボス 来 襲 。
何だかあっさり出してしまってすみません。よく考えれば初登場ですよね!(汗)
しかも伯爵の話が長いからアレン達の出番が来る前に終わってしまった……。
次回!次回はちゃんとヒーロー出てきますのでご安心を……!
とにかく今回はノア達がたくさん書けて楽しかったです。^^
スキンも出そうかなと思ったのですが、キャラ的にこういう話し合いの場に居てくれなさそうだったので断念。
いつか書ければいいなぁ。
さて、まだまだ続きます“いかれたお茶会”。
面倒な勧誘をかけてくるノア達に、突如現れたグローリア、そろそろ出てきて欲しい男キャラ三人(笑)を前にヒロインはどうするのか!
よろしければ次回もお付き合いくださいませ〜。
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