オレはただの紛れ者。
異端で異色で、孤独な記録者。
何の味方でもない。誰も仲間ではない。
だから、オマエなんていらない。
● 心情の定義 EPISODE 4 ●
どう訊けばいいのか、アレンにはわからなかった。
沈黙が喉を締め上げ、静寂に唇を閉ざす。
触れてはいけないことだと、感覚で理解していた。
それを踏み越えていいのは、きっと“”だけなのだ。
同じ宿命を持つ、彼女だけなのだ。
「友達だったんさ」
問いかける言葉のないアレンに、ラビは先回りをして答えてくれた。
その口元には笑みが浮かんでいたが、どこか虚ろな色をしていた。
「ソイツの名前はコーネル。コーネル・テディっていって、オレの友達だった。でも“ラビ”の友達ではなかった」
ラビの翡翠の瞳が、ゆるく瞬く。
「コーネルと友達だったのは、オレが28番目の名前を名乗っていた時さ。次の土地に移動するときに、名前と一緒に思い出は捨てた。同じように、コーネルとの友情も捨ててしまった。だから“ラビ”はコーネルなんて奴のことは、知らない」
それは、心の廃棄だ。
「だから、“久しぶり”と笑うコーネルに、オレは応えることはできなかった」
静かに囁くと、ラビはアレンを見た。
恐らくアレンは思いつめたような顔をしていたのだろう、ラビはにやりと笑い、手を伸ばしてその白髪を乱暴に撫でた。
「べーつにアレンが気にするようなことじゃないさ。これがオレの生きかたで、理解も納得もしてるんだから」
「でも……」
それでも、と思う。
そんなのは哀しい。
胸が痛む。
大切な人を、その思い出を、自ら殺さなくてはいけないだなんて。
もう二度と微笑み合うこともなく、他人のフリをして、去っていかなければならないなんて。
切ないような苦しさが心を満たしていた。
ラビもも、こんな想いを。
いや、これよりもずっと大きな苦痛と絶望を抱えて生きているのだ。
ラビはため息のように笑って、またアレンの頭を撫でた。
「そう悲観的になるなよ。アレンは他人のことで傷つき過ぎさ。オレも、だって、そんなことは望んでないっていうのに」
「………………すみません」
「謝ることでもないけどな」
「すみま……、いえ、その。……何でもないです」
「よっし」
最後にアレン額を軽く小突いて、ラビはにっこりと笑った。
そして明るい声で言った。
「まぁとにかく、運悪くそんな昔の知り合いに出くわしちまって。は何も訊かなかったけれど、オレはコーネルのこと喋っちまったんさ。何だかいたたまれなくて」
「……それで、はどうしたの?」
リナリーがそっと尋ねる。
ラビは彼女の膝の上にある、の寝顔を見つめた。
「うん。ここからは、あとでから聞いた話なんだけどさ」
そうして柔らかな午後に、その時の記憶が流れ出す。
は思考していた。
場所はモントリオールにあるホテルの一室。
白く大きいその建物の二階の端、あてがわれた部屋ではベッドにひっくり返っていた。
さすがはローマ教皇直属の軍事機関である『黒の教団』だ。
小娘一人には広すぎる室内に、立派な家具や絨毯、カーテンの類。
窓辺に飾られた花は溢れんばかりで、机に置かれた籠の中のフルーツは山盛りだ。
寝転がっているベッドだって、ダブルどころではない大きさである。
しかしそんな豪華な部屋を楽しむでもなく、はコートだけを脱いだ格好で考えていた。
もちろんそれは、隣の部屋に引っ込んでしまったラビのことである。
自分達の到着が予想より早かったらしく、探索隊たちは慌ててウワサの工場群に人払いをかけに行った。
もとより昼間から目立つマネをしては街の住民が混乱するので、動くのは日が落ちてからだ。
そのためエクソシストの二人は今現在、とっても暇なのである。
いつもならこんな時、ラビはを誘って街をまわり、独自に情報を集めたりする。
そうでなくても同じ部屋で時を過ごし、任務やアクマの話を、その他のどうでもいい話題とまじえながら語っていくのだ。
それなのに、今日はどうだ。
自分の部屋に入ったきり出てこない。
その原因は、つまりこれだ。
「友達、だったんだよね……」
思い出すのは大通りで出会った、一人の少年。
藍色の髪と瞳の、男の子。
彼とラビが友達であったことは、本人から聞いた。
けれどその記憶は、当時の名前と共に捨ててしまったのだ。
だから知らないフリを決め込み、他人の顔をして、去ってきてしまった。
は思う。
ラビは間違っていない。
それが“未来のブックマン”として当然のことであり、義務でもある。
彼は立派に自分の規律を守ったのだ。
しかしそう納得してはいても、はやりきれない気持ちを抱いていた。
ラビは間違ってはいなかった。
けれど同時に、心を殺してもいた。
ブックマンの後継者としての己のために、苦しい想いで胸を満たしているのだ。
そんなことは考えるまでもなくわかったが、彼が今、部屋から出てこないのがいい証拠である。
他の誰かの前では無理をして普段通りに振舞おうとするだろうが、を相手にそれはなかった。
同じ苦痛を理解しているに対して、そんな必要はないからだ。
「友達……、ともだち」
呟きながら、その存在の大切さを想う。
は覚えている。
孤独の場所で、皆に敬遠されて、どうしようもなく立ち尽くしていたを助けてくれた。
いつだって暖かく見守って、優しく背を押してくれた。
一緒にいてくれたから、ずっと笑っていられた。
どんなに辛いことがあっても、光を思い出せた。
“ありがとう”なんて言葉では、言い切れないほどの感謝がある。
恥ずかしいからいつも茶化すようにしか言えないけれど、はラビが大好きだった。
だから今、動かずにはいられなかった。
友達がいてくれるという奇跡を、は知っている。
だから行かなくてはと思った。
あの藍色の髪の少年に会いに。
それでどうするのかなんて考えていなかったけれど、はベッドの上に跳ね起きると身軽に飛び降りて靴を履く。
椅子にかけていたコートを引っ掴み、羽織るのもそこそこに部屋の窓へと向かった。
扉から出るほど馬鹿ではない。
それではラビに気づかれてしまう。
ガラス窓を押し開き、枠に手をかけて空中に身を躍らせた。
金の髪を翻らせ、スカートがはしたなく捲りあがる寸前で着地。
はモントリオールの街を猫のような敏捷さで、駆け出したのだった。
手がかりはあの時の出会いのみ。
けれどそれでほとんど推測ができた。
少年のつけていた泥だらけのエプロンに、雨でもないのに履いていた長靴。
そして近くに来たときに漂った、甘い香り。
は大通りを行く人々に、こう聞いてまわったのだ。
「すみません、テディさんの経営しているお花屋さんはどこにありますか?」
そうして辿り着いたのが、大通りの端っこに建てられた小さなお店だった。
緑と黄色の外装に、溢れる花の匂い。
通りにまではみ出した銀色のバケツには、色とりどりの花々が入れられていた。
掲げられた看板には『フラワーショップ・テディ』とある。
よかった、わかりやすい店名で。
はそう思いながら木で出来た階段を数歩のぼり、店内に入った。
中は綺麗に整えられており、やはり花で溢れている。
壁にはドライフラワーや、リースやブーケの見本が飾られていた。
けれど誰もいない。
店は開いているのだから人はいるだろうと思って、は「すみません」と声をかけた。
反応はなかった。
何度呼びかけを繰り返しても、出てくる気配はない。
仕方なくは路線を変更した。
つまり足を肩幅に開いて、息を大きく吸い、
「たのもー!たーのーもー!!」
大声で叫んだ。
外の通りを行く人々が何事かと覗きこんでくるが、は気にしない。
「貴方は完全に包囲されている!速やかに出てきやがってください、コーネル・テディさん!!」
それから幾度も丁寧な口調で優しい脅し文句を並べてみた。
けれど目的の人物が出てこないから、今度は店先で珍妙な歌でも熱唱してやろうかと思い詰める。
そうすれば店の名誉と今後のために、とりあえず無視はできないだろう。
そう思ってマイク代わりに壁に立てかけてあったモップを拝借、何事かと集まってきた通行人の皆さんを振り返る。
「『黒の教団』から来ました、年齢不詳の乙女です!」
とりあえず自己紹介をして、涙を拭うフリをする。
「今日はコーネル・テディさんに会いに来たのに、どういうわけだか居留守を決め込まれとっても傷心!この悲しみを歌に乗せて、いいからさっさと出てきてくださいコノヤロウな気持ちを彼にお届けしたいと思います!!」
最初は誰もがぽかんとしていたが、の勢いに負けて、「何だか知らないけどがんばれー」という声援を送ってくれた。
舞台慣れのような確かな度胸では言う。
「ではいきます!聞いてください、私の魂の歌を!!曲は……」
ここでちょっと間をためるのがミソだ。
「『乙女はツライよ、押しかけ純情編〜花屋でドッキリ★二度目まして〜』で……」
「人の店の前で何やってるんですか!!」
ちぇ、一番いいところで出てきちゃった。
はちょっとだけ残念に思いながら歌を中断。
店先から店内を返り見る。
そこには異例の事態に顔を青くした藍色の髪の少年、コーネルが立っていた。
彼は瞳を怒りと恐怖に染めてまた何か言おうとしたが、それより先には前に向き直る。
「すみません、お目当ての人が出てきてくれたので歌はまた次の機会に!」
にこやかに言うと、野次馬達はガッカリとため息をついたり、よかったねと笑ってくれたり、じゃあまた今度ーと手を振りながら解散していった。
も手を振り返す。
「ありがとー、是非また聞きに来てねー!」
「またなんてありませんよ!!」
後ろから叫ばれて、はコーネルを振り返った。
そして頭を下げた。
「ごめんなさい。何度呼んでも反応がないから、強硬手段を取らせてもらいました」
「強硬すぎですよ……。何なんですか、あなたは」
コーネルは怯えたように数歩後ずさったが、顔をあげたを見て、目を見張った。
「あなた……、さっきアイツと一緒にいた……」
「そうです。二度目まして。っていいます」
そのの態度と言葉に、コーネルは少し警戒を緩めたようだった。
軽く会釈をして、自分も名乗る。
「二度目まして。コーネル・テディといいます」
「はい、どうぞよろしく」
「よろしく……。なかなか出てこれなくてすみません。裏口にいたものですから」
「裏口ですか……。この店はひとりで?」
「はい」
「失礼ですが、誰か雇った方がいいと思いますよ。でないとホラ、私みたいなのに入られちゃいます」
「…………そのようですね。善処しますよ、それはもう」
二度とこんな変人の侵入を許すまいと、コーネルは密かに誓ったようだった。
はそんなことより彼を真っ直ぐ見つめて言う。
「コーネルさん」
「コーネルでいいですよ、さん」
「そちらこそでいいです。それと敬語も」
「そうですか。ではもそのように」
「ありがとう」
「それで、一体なにかな」
「話がしたいの。時間はある?」
「…………アイツの話?」
コーネルは少しだけ顔を歪ませた。
それは怒りなのか悲しみなのか、判断のつかない表情だった。
きっと本人もどちらを思えばいいのかわからないのだろう。
は頷いた。
「そう。アイツの話」
コーネルはしばらく沈黙した。
考えがまとまらないのか、せわしなく視線をさ迷わせる。
薄黄色のエプロンをぎゅっと握って、何かに耐えているようにも見えた。
そしてゆっくりと唇を開く。
「俺は……」
「よぉ、コーネル!今日も頼むよ」
背後からの陽気な声に、コーネルの言葉はかき消された。
は後ろを振り返り、そこに背の高い人物を認める。
妙にめかしこんだ、灰色の髪の男性だった。
コーネルは慌てたように走り出て、おじぎをした。
「ペインズさん!いらっしゃい」
どうやら常連の客のようだ。
コーネルは途端に笑顔になり、ペインズを店内に招き入れた。
は脇に避けて道をあけたが、ペインズは歩みながらこちらを凝視していた。
「この子はどちらさんだ、コーネル。えらく美人だな」
「……ええーっと」
コーネルがどう言ったものか口ごもったので、が助け船を出す。
「こんにちは」
「ああ、こんにちは。お目にかかれて嬉しいよ、可愛いらしいお嬢さん」
「私も嬉しいです。ペインズさん」
「それで、ここには花を買いに?」
「いえ、ちょっとコーネルとお話がしたくって」
お客相手ということで正直にそう答えると、ペインズは虚をつかれた表情で固まった。
の顔をまじまじと見つめ、それからコーネルに視線をやる。
「意外だよコーネル。お前も隅に置けないな」
「違います!その子は、その……、知り合いの友達で」
「まぁそう照れるな!よくやった!上出来すぎるぞ!!」
「だから違いますって!!」
ペインズは何をどう勘違いしたのか手を打って喜び、コーネルは顔を赤くして否定した。
「この子はうちの店の前で変なことをしでかそうとしていたんですよ!?どうしたらそんなことになれるんですか!!」
「ああ何だ、告白を聞いてくれって懇願されたのか?いいぞいいぞ、素敵だぞ!!」
「ちょっとペインズさん!自分が恋愛中だからって、誰もが皆そうだと思わないでくださいよ!!」
「おおそうだった。今日は愛しのマリアとデートなんだ。花をくれ。そこの金色のお嬢さんと同じくらい、とびっきり綺麗なのを頼むよ!」
上機嫌でそう言われては、コーネルも商売に勤しまねばならなかった。
申し訳なさそうにに視線をやって、ペインズに向き直る。
「どんな種類をご希望ですか?」
「何でもいい。とにかくこの店で一番いいやつだ」
それからコーネルとペインズはブーケ作りに、ああでもないこうでもないと悩みだした。
ありとあらゆる花がカウンターの上に出されて、組み合わせを考えていく。
甘い匂いに包まれて、は壁際からそれを見ていた。
ここに来た用事は私的なことだし、そのせいでコーネルの仕事を邪魔するわけにもいかない。
待ちの姿勢ではそこに立っていたが、しばらくするとジリジリしてきた。
なにせ黙って抜け出してきた身だ。
夜までは自由だが、それまでに自分が消えていることをラビに知られるのはまずい。
これが余計なお節介だということはしっかりと自覚していた。
さらに言うと、いつまでも悩み続ける男二人にじれてきてしまったのだ。
「うーん。どれも綺麗だがパッとしないなぁ」
「もっと華やかにしてみます?たとえば……」
「何色ですか」
は低い声で二人の会話に飛び込んだ。
コーネルはぎょっとしたように振り返り、ペインズは目を見張る。
それを強く見つめては言う。
「マリアさんの髪と目の色は何色ですか」
「はぁ?何だい、お嬢さん」
「ちょっと、……」
「マリアさんの髪と目の色は!」
びしりと小気味よく訊いてやると、ペインズは驚きに肩をすくめて咄嗟に答えた。
「赤みがかった茶髪に、緑の目だけど……」
「そうですか。ありがとう」
微笑みながらはすたすた二人に近づいていって、カウンターの上に散らばった花を幾本手に取った。
そしてバランスを見ながら喋り出す。
「プレゼントなら渡す相手のことから考えましょう。いくら華やかにしてみても、彼女の魅力を消してしまってはこちらの器量不足です。精一杯の可愛らしさで彼女を引き立ててあげないと」
形の綺麗な花を選び取りながら、は続ける。
「髪が赤いのなら、真っ赤なものは駄目ですね。反対に寒色もよくない。目の色が濃いから、淡い色なんてどうでしょう」
「あ、ああ……」
「薔薇は使い古されている感じもしますが、オレンジやピンクの小ぶりなものならやっぱり可愛いですよ。百合も綺麗ですね。春だからチューリップも素敵。女の子になら間違いなく喜ばれます」
あまりに確かな自信で言われたので、ペインズはこくこくと頷いた。
「一色だとすぐに見飽きてしまうので、アクセントに違う色の花を混ぜるとか。少しだけ紫がかったラナンキュラスとレースフラワー……、ああコーネルそこの花とってくれるかな」
ぽかんと事の成り行きを眺めていたコーネルは、慌てて頼まれたとおりにしてやる。
そうしてだけが流れるように喋り続け、ペインズが頷き、コーネルが花を整えて、あっという間にそれは完成した。
愛らしいパステルカラーのブーケの出来上がりだ。
「リボンは赤で、ここはあえて彼女と同じ髪の色で引き締めて……。さすがコーネル。すごいね手際がいい!ペインズさん、どうですか?」
持ち手の部分にくるりと巻かれた真っ赤なリボンを揺らして、はそれを差し出した。
ペインズはしばらく呆然としていたが、見る見るうちに笑顔になる。
「すごいなお嬢さん!これをマリアが持てば、彼女は世界一魅力的になるぞ!髪や目の色に映えるし、イメージにもぴったりだ!美しい!エクセレント!!」
「気に入ってくださって光栄です」
「ありがとう、本当にありがとう!さぁ、急がないとな。早くマリアにこれを見せてやりたい!!」
ペインズは興奮したようにまくし立てた。
顔を赤くしてそのまま店内から駆け出して去ろうとしたが、すぐに戻ってきてコーネルに訊く。
「忘れてた。お代は?」
「ああ、ええーっと……」
コーネルは代金を告げ、ペインズはそれより多く支払う。
いただけませんと言う少年を押し切って金を握らせ、男性は踊るように大路に飛び出した。
そして振り返って大きく手を振った。
「コーネル!それと金色のお嬢さん!礼を言うよ、二人も俺達のように幸せにな!!」
「だから……、違うって言ってるのに……」
コーネルはぶつくさ言ったが、は手を振り返した。
「ありがとうございましたー!どうぞまたフラワーショップ・テディをご利用くださいませ!」
そうして本物の花売り娘のようにお辞儀をするに、コーネルは不審気な目を向けた。
「本当に君って何なの?もしかして花屋?商売仇?」
「ううん。ただ女の子を喜ばせるのが好きだから、自然と花には詳しく」
「女の子を喜ばせるのが……?君も女の子なのに?それに接客業が板についている気がするけど」
「職業上、お偉いさんと会う機会も多いからね」
「職業って?」
「聖職者とは名ばかりの、命がけのチャレンジャーよ」
「……………ますます意味がわからないな」
半眼で呟いて、コーネルは藍色の髪をかき回した。
それからの瞳を覗き込んで呟く。
「でも君は嘘をついていない気がする。口にすることはぜんぶ本当みたいだ」
がコーネルを見上げると、彼は少しだけ微笑んだ。
それはとても淋しげで、見ているこちらまで切なくなるような笑みだった。
「君はアイツとは違うんだね」
「え?」
「アイツは楽しいことばかり口にして俺を笑わせてくれたけれど、本当のことは何も言ってくれなかったような気がするんだ」
「コーネル……」
「何を誰に話すかなんて、そんなのはアイツが決めることだけど……。いつか、俺にはぜんぶ話してくれるって、馬鹿みたいに思ってた」
「ねぇ、それは……」
は口を開こうとしたが、その時また人がやってきて、会話は途切れた。
コーネルはすばやく笑顔に戻るとお客を迎え入れ、は再び壁際に引く。
次に来店したのは黒髪の少年だった。
どうやらこれから意中の女性を口説きに行くらしい。
ペインズのときと同様に、長々と悩みだしたコーネルと少年にが突撃していくのも、時間の問題だった。
「まさか完売するとは思わなかった……。しかもこんなに早く」
驚きに目を瞬かせながら、コーネルが呟いた。
見渡す店内にはすでに花はひとつもなく、快い寂しさを漂わせている。
店の奥からが出てきて、ダンボール箱をどんと床に降ろす。
「ブーケ用のリボン、完成したよ」
「早いな。じゃあ本当にこれで今日の仕事はおしまいだ」
「明日の準備とかは?」
「朝市で花を仕入れない限り、することはないよ。掃除も終わったし」
「そっか。お疲れさま」
「それはこっちの台詞」
コーネルはを振り返って、微笑みを浮かべた。
「お疲れ様、。君のおかげで大繁盛だったよ。ありがとう」
「ううん。私は私の都合で、早くコーネルに暇になってほしかったんだから」
少し後ろめたくもあったが、労働の後の心地良さにも笑った。
あの後も入れ替わりに来るお客にコーネルは大忙しで、とても話が出来る状態ではなかったのだ。
それにはとっても困った。
だからは、彼に時間をつくってもらうために、店を手伝う作戦に出たのだ。
コーネルからエプロンを借り、店先に出て呼び込みや、ブーケの見本を見せてやる。
店に訪れた男性客には愛しの彼女にぴったりの花を見立ててやり、女性客だったならば遠慮なく口説いて似合う花を勧めた。
男女問わず、何人かは買ったそばからにプレゼントしてくれたのだが、それは丁重にお断りしておいた。
生花は教団に帰る前に枯れてしまう。
それを見るのはどうにも悲しい。
さらに来店したお客の話には進んで耳を傾けた。
人が集まると必ずウワサ話がはじまり、それには例の『反魂の花』の話題が多くあったからだ。
消えた人のその後や、そのときの状況は明らかに捏造だったが、破棄された工場群の中がどうなっているかという話は大きな収穫だった。
以前そこに勤めていた人物の言葉を聞きながら、は自分の頭に地図を描き、独自に作戦を立て始める。
これは条件反射で、完全に職業病と言えた。
そうしてはエクソシストとしての仕事もこっそりしつつ、花屋の手伝いに勤しんだのである。
コーネルが戸締りをしながら声をかけてくる。
「バイト代を出すよ。あまり多くはないけれど」
「は……?バイト代!?いいよいいよ、いらない!」
は慌てて片手を横に振った。
私的な目的から手伝ったのに、そんなものを貰っても困る。
「でもずいぶん助かったし……」
「いいってば!本当にいらないから!!」
頑ななその態度に、コーネルはくすりと笑った。
「は花屋に向いていると思うよ。エクソシスト……だっけ?そんな危ない職業よりも、ずっと」
「あ、はははは……」
「この店で働いてくれたらすごく嬉しいんだけど」
「おーい店長!こんなの雇ったら、店先で変な歌を熱唱されちゃうよ?」
「それは困る」
「でしょ?」
とコーネルは明るく笑い合って、店の外に出た。
春の陽は長く、まだまだ翳りを見せていない。
穏やかな青空だ。
遠くで鐘が鳴って、午後の四時を知らせてくれた。
「本当に早く終わってしまったな」
コーネルは満足そうに言って、店に鍵をかけた。
その扉に閉店を知らせる看板を掲げる。
それを道に下りて待っていたは、体の後ろで手を組んだ。
「ねぇ、コーネル」
「何だい?」
「バイト代がわりほしいものがあるんだけど」
「わかってるよ。俺と話す時間だろ?」
「さっすが店長!太っ腹にお願いします」
「もちろん。でも、その前に行きたいところがあるんだけど、いいかな?」
「行きたいところ?」
きょとんと目を見張るを振り返って、コーネルは頷く。
指でくるくる鍵の束を回しながら、階段を下りてくる。
彼は藍色の髪を揺らして微笑んだ。
「そう。病院」
訪れたそこは大きな白い建物だった。
十字架が掲げられ、石造りの壁が太陽を反射する。
さまざまな人が廊下を行き来し、その中に混じっては歩を進めていた。
前を行くコーネルの足取りに迷いはなく、彼が何度もここを訪れていることを雄弁に語っている。
やがて辿り着いたのは小さな病室だった。
コーネルはノックもなしに扉を開け、中に入る。
後ろのもそれに続いた。
「母さん、お見舞いに来たよ」
コーネルがそう声をかけた。
室内に居たのは初老の女性で、白髪まじりの髪を軽く結い上げている。
閉じられていた瞳がゆっくり開き、光を映した。
色は藍色。コーネルと同じ色だ。
彼女は白く清潔なベッドに横たわったまま、コーネルを見て微笑んだ。
「いらっしゃい、コーネル。今日は早いのね」
「うん、仕事が早く終わったんだ。花も完売してね。だから今日のお見舞いは手ぶらだ」
「あらあら。嬉しいことだけど、少し淋しいわ」
「やっぱり?」
「ええ、あなたが持ってきてくれるお花はとても綺麗だから」
「でも昨日たくさん持ってきたから、まだまだ眺め飽きていないだろ?水をかえてくる」
コーネルは言いながら母の枕元にある花瓶を手に取った。
そして椅子を引っ張り出しながら、後ろのを振り返る。
「、ここに掛けていて。すぐに戻る」
そうしてパタパタと病室から出て行った。
は言われたとおりに椅子に腰掛け、コーネルの母に会釈をする。
彼女は目元を和ませ、微笑んだ。
「まぁ、可愛らしいお嬢さんだこと。コーネルのお友達かしら?」
これにはどう答えたものかと一瞬考えたが、そうでもないのにこんなところに来るのはおかしいと思えて、結局頷いた。
「はい。初めまして、です」
「初めまして。コーネルの母です。ごめんなさいね、起き上がれなくて」
「いえ。こちらこそ急に来てしまってすみません。楽になさっていてください」
は自然とそう言った。
何故ならコーネルの母があまりいい状態とは言えなかったからだ。
はこれでもエクソシストとして戦場にいた時間が長い。
人の死には嫌というほど立ちあってきた。
その目が感じ取ったのだ。
コーネルの母が死と近いところにいることを。
おそらく重い病気なのだろう。
それこそ不治の病かもしれない。
コーネルはラビと再会した時、母は少し体を壊している程度だと言っていたが、あれは偽りだったのだ。
久しぶりに会った友人に、心配をかけさせないための、優しい嘘だったのだ。
胸が締め付けられる想いがして、は思わず目を伏せた。
すると突然、視界に手が伸びてきた。
白くて少し荒れた、母の手だった。
「聡い子ね……。コーネルでさえ、最近やっと気づき始めたというのに」
コーネルの母の手がの頬に触れた。
は目を見張って、それからゆっくりと閉じた。
気づいてしまったことを、悟られてはいけなかったのに。
「ごめんなさい……」
「謝らなくてもいいのよ」
コーネルの母は柔らかく微笑んでくれた。
「でも可哀想に。あなたはきっと、その優しさで自分を傷つけてしまうわ」
「…………………」
「謝らなければいけないのは私のほうね。ごめんなさい……」
違う、と強く思った。
優しいのはこの人で、自分ではない。
目の前の彼女が謝らなければいけない理由なんて、どこにもない。
は瞳を開いた。
「いいえ。私は自分の傷しか背負えません。誰かのために心を痛めるなんて、そんな優しいことは出来ません。私はいつも、自分の苦しみのためにしか傷つけないんです」
「けれどあなたを苦しいと思わせるのは、いつだって他人なのでしょう。可哀想な子……。あなたは自分が嫌いなのね」
死の近くにいる人はどこか精霊めいていて、時々心の奥底を深く突いてくるものだ。
今のコーネルの母も、そうだった。
はかすかに息を呑んで、肩を震わせた。
その頬を優しく撫でていく手がある。
「だから自分ばかり傷つけるのね。それを叱ってくれる人はいないの?」
「…………………」
「いるのね。だったらその人たちを大切になさい。あなたはきっと、独りではないのだから」
独りじゃない。
そう教えてくれた人がいた。
一番にを友達だと言ってくれたのは、彼だった。
大切で、大好きで、言葉では追いつかないほどの感謝がある。
ああ、でも私は、彼に誇れる生き方をしているのかな。
コーネルの母は手を引いて、の掌を握った。
暖かい体温を感じた。
遠く昔に、それこそ“”になる前に亡くした母を思い出して、泣きそうになった。
その命を引き止めるように、強く握り返す。
コーネルの母は、そっと微笑んだのだった。
「自分を大切になさい。あなたを大切に思う、あなたの大好きな人たちのために」
病院を出て、近くに設けられた公園に入る。
花壇には花が咲き誇り、子供達が走り回っていた。
雑木林を背にしたベンチに並んで腰掛けると、コーネルが言った。
「ありがとう、付き合ってくれて。仕事終わりの日課なんだ」
「そっか。親孝行なんだね」
「唯一の肉親だからな。でも、ごめん。見舞いだなんてつまらなかったろ?」
「ううん。素敵なお母さんだったよ。会えてよかった」
心の底からそう思って、は微笑んだ。
また少しだけ泣いてしまいそうになったけれど、笑顔は消さない。
コーネルはそんなを眩しそうに眺めて、それから手を振る。
それで“どうぞ”と合図して、口ではこう言った。
「今日のお礼だ。全然間に合ってないと思うけど、は無欲だからな。さぁ、君の話を聞こう。店長は太っ腹だから、何でも言ってくれ」
そのおどけた口調には小さく声をあげて笑った。
けれどそうしていないと、言い出せないということもわかっていた。
コーネルもわざと茶化して、無理に聞く体勢に入ってくれたのだろう。
は笑顔を引っ込めると、まず頭を下げた。
「あなたに会いに来たのは私の独断で、ラビは一切知らないことなの。そしてこれは、私の大きなお節介で、あなたのこともラビのことも、怒らせるかもしれない。だからごめんなさい」
「先に謝られると、続きを聞きたくなくなるよ」
「それでも言わなくちゃいけないと思ったんだ」
「……いいよ、約束だ。話して」
前を見つめたまま、コーネルが促す。
は一度唇を引き結んでから、口を開いた。
それからしばらく言葉を選びながら、一人で喋り続けた。
もちろんブックマンの存在について詳しく言うことはできないから、過去を捨てなければならない、特殊で重要な職業に就いたとだけ伝えた。
語れる限りで、昼間のラビの対応の理由を説明する。
「結論を言うと、仕方がなかったことなの」
「仕方がない、か」
「ラビはあなたを忘れたわけでも、嫌いになったわけでもない」
「…………………………」
「でも、ああするしかなかった……。選んだ道を歩むためには、規律を守らなくちゃいけないから」
言いながらは理解していた。
こんなのはただの言い訳なのだろう。
けれど知ってほしかったのはただひとつだけ。
ラビはコーネルを、彼との思い出と友情を、自らの意思で捨てたわけではないということだ。
は祈るような気持ちで言葉を続けた。
「わかってほしいだなんて言わない。言えない。だた、ラビも平気だったわけではないと、お願い知っていて」
「無理だよ」
返答は唐突に返された。
一瞬意味を掴み損ねた。
は呆然とその声を聞いて、それから顔をあげた。
コーネルはやはり、前方を見つめたままだった。
「俺にはわからない。理解できない」
胸が、裂けるかと思った。
それほどまでにコーネルの声は静かで、淡々と真実を語っていた。
「仕方がないとか、そんな理由で、納得なんて出来ないよ」
「コーネル、でも」
「アイツの……、今は“ラビ”、だっけ?の事情はわかった。けれどハイそうですか、なんて頷けない。そんな簡単には割り切れない」
コーネルは片手で胸元を押さえた。
「アイツは本当に急に消えちまって、もう二度と会えないと思ってた。けれど今日久しぶりに会えて、俺はすごく嬉しかった。死ぬほど嬉しかったんだ。でも、アイツはそうじゃなかった」
彼の指先が心臓の位置で、服をきつく握り締める。
「アイツは平気な顔で俺のことを知らないと言った。当然のように他人のフリをした」
「でも、それは……っ」
「仕方がない事だって言うんだろう?でもこれだって真実だ。突き放された俺が、自分でも信じられないくらい、ひどく傷ついたことだって本当なんだ」
はハッとして息を呑んだ。
それはの知らないことだった。
ラビの気持ちはわかる。
自分はラビと似ていて、大切な人を捨て去る、その苦しみを覚えている。
けれどコーネルの気持ちはわからない。
突き放される側の心なんて、知らない。
それはその立場に立たされたことがないからだ。
「役目だか仕事だか知らない。そのための規律だって関係ない。そんなのはどうだっていいんだ。は仕方がないと言うけれど、その道を選んだのはアイツなんだろう?」
「……………………」
「だったら俺を捨てたのは間違いなくアイツだよ。アイツは自分の意思で、俺を破棄したんだ。だったら仕方がないだなんて、言えないはずだ」
コーネルは顔を動かして、硬直しているを見つめた。
その悲しみに溢れる瞳で、ただひたすらに。
「俺にとってアイツとの思い出はかけがえのないものだったんだ。それを捨てるだなんて、信じられない。どんな事情があったにしても、やっぱりひどいと思ってしまうよ」
コーネルはもラビと同じ境遇だということを知らない。
だからこうも真っ直ぐに気持ちをぶつけてくれるのだろう。
けれど彼の言葉は、自身にも激しく響いた。
心に食い込んで、ゆっくりとひび割れていく。
「俺はアイツがわからないし、許せないとも思う。でも同時に、アイツも俺のことがわからないんだ。アイツの選択に、どれだけ俺が傷ついたかなんて、きっと理解できないんだ」
理解できなかった。
は捨てる側で、突き放すことしか出来ない人間で、その孤独さと苦痛しか知らなかった。
コーネルのように捨てられる側の、突き放されてしまった人間の淋しさ。
拒絶された絶望など、理解することはできないのだ。
何ひとつ、知らなかったのだ。
ああ私はなんてひとりよがりだったんだろう。
自分の知る感情にだけ傾いて、考えることなく行動してしまった。
理解してほしいと思うばかりで、理解しようとはしなかった。
そんなのはひどい。
最低の醜さだ。
コーネルがそっと立ち上がった。
瞳はまだ、を見ていた。
「もうお互いに理解できないんだよ。歩く道が違ってしまったんだ。きっと二度と交わらない。それがどれだけ子供じみた感情だろうと、俺は全てを捨ててしまったアイツを許せないんだから」
子供じみてなんかない。
きっとそれが当たり前なのだ。
破棄された人間と思い出の、哀しい悲鳴なのだ。
「だから、アイツも俺を許さなくていい。……アイツとは二度と会わないよ」
それを聞いて、は顔を振り上げた。
見上げた先で、コーネルが笑った。
「何度も無視されて平気なほど、俺は強くないんだ。ごめん、……」
は首を振った。
何に対してそうしているのかは自分でもわからなかった。
ただ必死に認めることを拒んだ。
コーネルはそんなの手を取って、無理やり握った。
握手のように上下に振る。
「きっととも二度と会えないな。淋しいけど、お別れだ」
「コーネル、待って」
「今日はありがとう。本当に感謝してる」
「お願い、待っ……」
コーネルは引き止めるの手を、するりと離した。
そして最後に精一杯の微笑を見せてくれた。
「元気でな、」
風が、流れた。
けれどその言葉を、遥か遠くに流してはくれなかった。
「さようなら」
終わってしまったのだと、理解した。
何もかもの終焉だ。
伝えたかったことも、知りたかったことも、ふたりの気持ちも、彼らの思い出も。
もう何も、戻らない。
コーネルが踵を返した。
歩き出す。
その右足。
揺れる藍色の後ろ髪。
行かないでほしいと思った。
もう無理だと知っていても、言わずにはいられなかった。
本当に、すべて終わってしまうのが怖かったのだ。
「待って……!!」
弾かれたように立ち上がって、コーネルの背に向かって叫んだ瞬間だった。
背後から腕が伸びてきた。
それはの両肩にまわされ、きつく拘束する。
背中から引き止めるように抱きすくめられて、は言葉を失った。
去っていくコーネルに追いかけることは、もう出来なかった。
背後にいる彼が、それを望んでいなかったからだ。
コーネルの姿が完全に視界から消える。
そのまましばらく沈黙の時が流れた。
は胸が苦しくて、息を吸い込んだ。
知っている匂いがした。
いつだって傍にいてくれた、その温もりがを抱きしめていた。
「ラビ」
名前を呼ぶと、ラビは少し笑ったようだった。
「黙っていなくなるなよ」
頭の後ろで声がする。
「探しちまったじゃん」
「いつから聞いてたの?」
「………………」
「……ずっと?」
「もういいよ」
の側頭部に額を押し付けて、ラビは囁いた。
声が震えている。
それはだけに見せる、彼の弱さだった。
「もういいから。」
また風が吹いた。
花壇の花が揺れて、春の匂いが滲む。
「コーネルが正しいんさ。間違ったことはひとつも言ってない。アイツは本当にオレの友達で、だからオレを許さないんだ」
「…………………………」
「アイツはオレと一緒にいた時間とか、交わした約束とか、オレがためらいもなく捨てたものを大切にしてくれている。確かにあの時、オレ達は友達だったのだと、思ってくれている」
子供の笑い声が、二人の傍を通り過ぎていった。
「だからコーネルとはもう二度と会えない。オレはアイツには向き合えない。そんな資格は、オレにはない」
「ラビ……」
「もういいよ、。放棄してしまった過去が確かにあったのだと、その証がこの胸の苦しさだって言うんなら、これでいいんだ」
コーネルの哀しみが、許さないという言葉が、今はもう二人の友情の証だった。
彼らは確かに友達であり、結ばれた絆があったのだと、世界に告げる証拠だった。
すでに孤独を苦しめるものでしかなくても、それだけが真実だった。
ラビは少しだけ微笑んで、呟く。
「もう、これで、いいんさ」
冗談じゃない、とは思った。
嫌だ、こんなのは。
こんなのは、哀しい。
泣いてしまうよ。
「何がいいって言うの」
は自分の肩にまわされたラビの腕を掴んだ。
「嘘だよ。よかったなんて、そんなの」
胸が哀惜で詰まったけれど、必死に耐えながらは言う。
「どうしようもことだってわかってる。コーネルは間違ってない。言っていることは本当で、当たり前の感情で。特殊なのは私達なんだって、わかってる」
変なのはこちらだった。
世界の人々は、自分に与えられたものを育て、手に入れたものを守り、大切にしながら生きている。
名前も、故郷も、記憶も、感情もすべて奪われないように抱きしめている。
それなのに自分達はそれを捨てたのだ。
心を放棄し、その瞬間、それらをもう一度手に入れる権利は剥奪された。
二度と戻らない孤独に立たされ、寄り添うものもなく歩いて行く道を選択した。
おかしいのは自分達だ。
誰もが何よりも大切にする全てを投げ出して、暗闇の中に独り立つことを望んだのだから。
「でも、それでも淋しいんだよ。誰も自分を知る人がいなくって、何も自分の物に出来なくって、見ている世界すら違うものにして生きていかなきゃいけなくて。そんなのはやっぱり淋しいんだ……っ」
選択したこの運命への哀しみを、ここまで吐露したのははじめてだった。
それは口にしてはいけないことだった。
確かに存在する感情、けれど決して吐き出してはならないもの。
言ってしまったのは、相手がラビだからだった。
彼でなければ見せることの出来ない、深く積もった心の闇。
ラビは言葉を失って、そんなをただただ抱きしめていた。
「どうして?大切なものにまた会えたのに、それに触れることすら出来なくて、それでどうしてよかったなんて言うの?」
問いかけながらも、その理由は知っている。
そう言わなければいけないのだ。
ラビは“ブックマン”の後継者。
だからこれでよかったのだと、そう言わなければいけない。
けれどは嫌だった。
そんな嘘は聞きたくなかった。
その胸に満ちた痛みも苦しみも、自分のもののように感じるのに、嘘をつくラビが哀しかった。
わがままでも思い上がりでも、彼の素直な気持ちをわかってあげたいと思った。
あぁでも言いたいことは言葉にならずに胸の中をぐるぐる回る。
駄目なのに。こんなんじゃ駄目なのに。
「こんな哀しみをよかったなんて言わないで」
お願いだから、私にだけは嘘をつかないで。本当のことを言って。
だって、ねぇ、私達は……。
「ブックマンに心はいらないんさ」
突然そう囁かれた。
声はもう震えてはいなかった。
それどころか、何の感情も感じ取れなかった。
は確かにラビに抱きしめられていたけれど、その腕は何もかも拒絶していた。
「だから何も感じなくていい。こんなのは平気だ。今まで何度もあったことだ。オレは仕事のためにすべてを捨てて、役目を果たすだけの存在なのだから」
「……………………」
「オレには何もいらない。心も、感情も、仲間も」
「いらないの……?」
は呆然と尋ねた。
「心も感情も仲間も?」
「いらない……」
「『黒の教団』のみんなも?」
「いらない」
「リナリーも?」
「いらないっ」
「神田も?」
「いらない!」
「私も?」
「いらない!!」
それは絶叫だった。
声は囁くほどだったけれど、の全身に響き渡った。
ひび割れていた心が、砕け散るような感覚に襲われた。
呼吸も忘れて立ち尽くす。
ラビはハッとしたようにを離した。
温もりが遠ざかり、数歩後ずさる気配がする。
「ごめ……っ」
ラビは自分の言ったことが信じられないように掠れた声を出した。
けれど謝罪の言葉を打ち切り、沈黙した。
何度か浅い呼吸を繰り返して、きつく拳を握る。
ぐるりとこみ上げてくる激情に、彼は口を開いた。
「………………オマエだって」
その声はどうしようもない怒りと哀しみに染まっていた。
「オマエだって、いつかはオレを捨てるんだろ!?」
背中に投げつけられるその言葉はひどい苦しみに満ちていて、ラビは心に溜め込んでいたものを吐き出すように叫んだ。
「オマエだって、いつかはオレを捨てるくせに!いつまでも今のままじゃいられない!時が来たらオマエは“”じゃなくなるんだろ!?」
は何も言えなかった。
それは二人ともわかっていて、けれどとても怖いことだったから、言わずに避けてきたことだった。
いつだって自分達の心に、深い影を落としていたものだった。
「オマエはいつか“”じゃなくなって、あの時みたいな無感情な顔になって、事務的な口調になって、それで」
ラビは今にも泣き出しそうな声で、怒鳴った。
「それでオレのこと、“ブックマン”って呼ぶんだろ!!」
それは終わりを意味していた。
本当は違っていたのだ。
自分達は確かに一緒だ。
死ぬまでずっと続く関係だ。
けれどそれは、共に歩むことを意味してはいない。
生きるべき道は互いにあり、それはやはり途方もない孤独で埋め尽くされていた。
一時寄り沿うことが出来ても、やがてそれには終焉が訪れる。
ラビは“ラビ”のままでいられない。
そして新たなブックマンが誕生した時点で、は“”ではいられなくなる。
“”になる前に立ち戻り、彼に真実を告げねばならない。
互いに規律を守り、役目を果たさなければいけなくなるのだ。
その時点で幼き記憶は息の根を止める。
それぞれけがかけがえのない思い出を捨てなければならなくなる。
そこで“ラビ”と“”は終わってしまうのだ。
そんなことは、本当は二人とも知っていた。
けれど自分達ならきっと何とかなれるのだと思いたかった。
何よりも似ていて、誰よりも傍にいることが出来るから、決して消えない絆があるのだと信じたかった。
それがどこまでも脆く儚い望みだと理解しているから、諦めたくなかった。
そうでもしていなければ、こんな恐ろしく冷たいこの世界に、独りきりで立っていることなど出来なかったのだ。
「オマエは……っ」
どうしようもない激情で、ラビの声は震えていた。
はただ孤独に硬直しながら、背中でそれを聞いていた。
「オマエだけが、オレのことわかってくれてると思ってた……!!」
本当に理解し合えるのは二人だけだと思っていた。
けれど結局、最後にそれを裏切るのは互いの存在だった。
隔絶した絆で結ばれているからこそ、その絶望には耐えられない。
もう二度と、もとには戻れない。
ラビは息を詰まらせると、音をたてて踵を返した。
そしてひどく乱暴な足取りで、走り去っていった。
彼の顔は一度も見ないままだった。
見てしまえば、本当に死んでしまっていたかもしれない。
互いの裏切りに、心が壊れてしまっていたかもしれない。
は目眩を覚えた。
ふらりとよろめいて、倒れるようにベンチに座り込む。
春だというのに風に冷やされた木の感触が、これが現実なのだと思い知らせてくれた。
「あ、ははは……」
唇から乾いた笑い声が転がり出てきた。
軽く握った両拳を額に押し付ける。
体が小刻みに震えていた。
「いらない、か」
大切で、大好きで、いつだって傍にいてくれた人が自分を拒絶した。
同時に自分も彼を拒絶してしまったのだ。
誰よりもわかり合え、ずっと一緒にいられるから、二人の心は別たれなければいけないのだ。
理解することができるからこそ、引き止めることも出来ずに、さらなる孤独に立ち尽くすしかない。
これが遠くない未来に訪れる絶望なのだということを自覚した。
埋めようのない喪失感が“”を打ちのめした。
必死に確立してきたこの人格が、輪郭をぼやかせていく。
こんな空虚を胸の中に抱いて生きていけというのか。
すでに自分すら見失ってしまいそうだった。
どうすることも出来ずに、ただただ己の膝を見下ろしていると、突然水滴が落ちてきた。
漆黒のスカートに染みこんだその雫を見て、金髪の少女は天を仰いだ。
「雨……?」
見上げた空は、憎らしくなるくらいに青かった。
蒼穹に溶けた涙、一雫。
大ゲンカ……!と言うよりも仲違いというか、すれ違いと言うか。
この二人はどれだけ一緒にいられても、結局は“ブックマン”と“庇護される者”でしかないのです。
その時が来れば、やはり互いを捨てなければいけないという……。
最後にヒロインが少しだけ泣きましたが、あれは無意識です。彼女が涙を流すのは自分が壊れそうな時だけなので。
そしてオリキャラ一人登場。詳しくはオリキャラ設定で。
次回もコーネルが出ます。
そして流血・戦闘描写ありです。苦手な方はご注意くださいませ。
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