使者は漆黒の蝶。
口づけを合図に、ゲームは始まる。
さぁお前の番だよ。

カードを引いて絶望を、どうぞ?







● 蝶と口づけ  EPISODE 4 ●







「へぇ。あっちの森を抜けてきたんですか」
「ああ、その向こうにある鉱山で働いてたんだよオレ達」
「それが片付いたから、一度大きな街に戻ろうと思ってな」
「そこで次の稼ぎ口を見つけるつもりだ」


イーズを膝に抱いたままは男たちの話を聞いていた。
がつがつと猛烈な勢いで食事をしながらも、彼らの会話は止まらない。
もとより人と接するのが好きなはうまく相づちをうち、さらに話題を広げては場を盛り上げていた。
テーブルから笑い声が絶えることはなく、店内に賑わいの花を添える。
もその雰囲気を大いに楽しんだ。
話から察するに、どうやら彼らは年季の入った流れ者のようだった。
ひとつの仕事を終え、次へと移る合間にこの店に立ち寄ったらしい。
昼食を取ったら早速駅に赴き、隣町へと行くのだと聞かせてくれた。


「だったらあと一時間くらいありますね」


は店の時計を見上げながら言った。
視線で言葉の意味を問われる。
ちょっとだけ肩をすくめながら答えた。


「この村、ほとんど汽車がこないんですよ。ちなみに次のを逃せば明日まで一本もありません」
「はぁ?マジかよ……」
「なんて田舎だ」
「このまま歩いて森を抜ければいいんじゃねぇの?」


ニット帽の提案に、は首を振る。
ポケットからハンカチを取り出して、食べ物の欠片をくっつけたイーズの口元をぬぐってやった。


「隣町まで歩こうと思ったら丸一日はかかります。子供連れでそれは無茶ですよ。イーズ君もいるし、汽車をご利用になった方がよろしいのではないでしょうか」
「はぁ……。つーことは、しばらく暇ってわけだ」


ビン底メガネは吐息をつきつつ、テーブルに頬杖をついた。
その上はいまや綺麗に片付けられ、の手によって出されたコーヒーが乗っかっている。
イーズの前にはオレンジジュースだ。
食事も終え(もおいしく頂いた。主にビン底メガネの分を!)、一同は手持ち無沙汰になってしまったようだった。


普段なら何か面白いことでもしでかして暇つぶしの相手になるだったが、今日はそうもいかなかった。
何せ自分はしがない雇われの身。
そろそろ仕事に戻らなければならない時間なのだ。
いつまでもこうしていれば、昼食休憩がまだのアレンが飢え死にしてしまう。
一刻も早く交代するべきだろう。
ありがたいことにお腹も膨れたので、厨房にあった自分の分の昼食はそっとアレンの皿に移しておこう。


そんなことを考えながらはイーズの脇下に手を入れた。
そのまま持ちあげ、膝から下ろそうと動く。


「ごめんね、そろそろ……」
「しゃーねぇな。カードで時間潰すか」


そう言ったのはビン底メガネで、彼は懐からカードを取り出すと、手早く切って配り出した。
仲間達は慣れたようにそれを受け取っている。
は自分の席の前に置かれたカードの山を見て、それからイーズを見た。
こんな小さな子まで大人達とゲームをするんだ、と考える。
すると横からビン底メガネが言った。


「ホラ、お嬢さんも早く」
「は?って、ええ!?」


は思わず手を離してしまい、ちょっとだけ持ち上げられていたイーズは再び膝の上におさまった。
けれどそれよりも叫ぶ。


「私もするんですか!?」
「当たり前だろ。イーズはできねぇんだし」


あっさり答えるビン底メガネは、すでにカードを扇状に広げていた。
手役に不要なものを引き抜き場に捨てる。


「賭け事は大人の遊びだからな」


そう言われても困るというものだ。
男達が始めようとしているのはポーカーで、それなら勝負事を好むも得意のゲームである。
けれど仕事を放り出してまでそれに興じるつもりはない。
は両手を振った。


「ごめんなさい、私は遠慮させていただきます」
「釣れないこと言うねぇ、お嬢さん」


ビン底メガネはカードを伏せて置くと、こちらに身を乗り出してきた。
イーズの頭に腕を置き、の瞳を覗き込んでくる。


「ひと勝負くらい付き合ってよ」
「イーズ君と同じだと思ってください。私だって大人の遊びはできないんです」
「へぇ……そうかな?お嬢さん、いくつ?」


そんな個人情報を言える境遇ではないので、はいつも通りはぐらかした。
完璧な笑顔を作ってビン底メガネから視線を逸らす。
そして何でもない調子で言い募った。


「それに借金があるんです。賭け事に使うお金なんて一銭もありませんよ」


はこれで話を終らせたつもりだった。
掛け金がなければこのゲームは成立しない。
自分は辞退できるはずだと踏んでいたのだ。
けれど次の瞬間にはビン底メガネに顎を捕らえられていた。
ぐいっと強い力を感じる。
無理に引き寄せられて、気がつけばすぐそこに彼の瞳があった。


「賭けるものならあるだろう?」
「え……」
「それでゲームは成立する」


鼻がくっつきそうな距離で男は囁いた。
吐息が唇を撫でてゆく。
鼓膜に絡みつくような声音。
それはつい先刻までの彼の声と同じだとは思えなかった。
瞳もおかしい。
何だか色が……。
ぞくりとするような光を宿した双眸が、眼鏡の奥で緩やかに細められた。


「おまえ自身を賭ければいい」


「お客様」


間髪入れずに背後から聞きなれた声が響いてきた。
それが男の言葉からの意識を解き放った。
同時に後頭部を鷲掴まれ、乱暴に引かれる。
は椅子の背に思い切り肩をぶつけて、短い悲鳴をあげた。


「恐れ入りますが、当店のウェイトレスに絡むのはそれくらいにしていただけますか」


痛がるなど無視で、頭上からそんな声が降ってきた。
一応は丁寧な口調であるが、有無を言わせない強い響きを持っている。
後ろ頭を掴まれたままのは何とか横目で彼を見上げた。


「ア、アレン……」
「何をやってるんだ、君は」


徹底的に不機嫌な声でアレンが言った。
こちらを睨みつける瞳は苛立ちで染まっている。
まさかここまで怒られると思っていなかったは、ちょっと真面目に心配になった。
アレンはどこまで空腹を感じているのだろう。
早く何か食べさせないと本当に死んでしまうんじゃないだろうか。
そんなことを考えて涙目になっていると、が思考を読んだのか、アレンはますます眉をひそめた。
容赦なく頭を小突かれる。


「い……っ」
「馬鹿」


声をあげれば小さな呟きが聞こえた。
何なんだコイツ。
行動の意味がわからなくて、は瞬きを繰り返す。
そんな微妙な争いを止めたのは、ビン底メガネだった。


「お前!イカサマ少年A!!」


大声で叫びながら、彼はアレンを指差したのだ。
仲間達もざわめいて一気に身を引いた。
何だかみんな顔色が悪い気がする。
は痛む頭を押さえながら訊いた。


「し、知り合い……?」
「ああ……。よく見ればあの時の……」


アレンは言われてようやく思い出したらしい。
少しだけ驚いた顔で一行を見渡す。
それからにっこりと微笑んだ。


「お久しぶりです」
「な、なんでこんなところに……」
「また俺達をカモにする気か!?」


引き攣った顔で言う男達に、アレンはくすりとした。


「まさか」


笑顔のまま小首を傾げてみせる。


「それともパンツ一丁をお望みですか?お客様」


だったらまた相手になりますよ、と穏やかな顔のままで口にするものだから、男達は揃ってすくみあがる。
はその様子に冷や汗を浮かべた。


「アレン……、この人たちに何したの」
「話したことあるでしょう。いつだったか、汽車の中でクロウリーにカードゲームを仕掛けてきた人たちですよ」
「ああ……。確かクロちゃんがカモられちゃって、アレンが敵討ちしたんだっけ?イカサマ全開で」
「ええ、全開で」


アレンは満面の笑みで頷いた。
男達の顔色はますます悪くなる。
は彼らにちょっとだけ同情してしまった。


「思いがけない再会ってわけね……」
「あ、ああ……」
「本当に驚いたぜ……。この店で働いてたのか」
「なに?お嬢さんも少年と知り合い……?」


ビン底メガネに訊かれては口を開いた。
けれど何か言う前にアレンの声がする。


「それよりお客様。ウェイトレスを占領されては困ります」
「おいおい。オレはお嬢さんと話してんだけど」
「仕事を交代する時間なんですよ。申し訳ありませんが、これは返してもらいますね」
「もう少しいいだろ。今からゲームを始めようってところなんだ」
「どうぞ、抜きでお楽しみください」


食い下がるビン底メガネに、アレンはあくまで事務的に返した。
決して反論を受け付けない完璧な笑顔だ。
それでもイーズにだけは穏やかな目を向けた。
傍にかがみこんで視線を合わせる。


「すみません、ちょっと失礼しますね」


そう言ってイーズをの膝から下ろそうと、体に手をかけた。
ビン底メガネはそれを不満そうに眺めていたが、ふと思いついたように笑った。


「じゃあこうしようぜ、少年」
「はい?」


アレンが聞き返せば、彼はさらに口の端を吊り上げた。


「カードで勝負だ」


そしてそんなことを口走った。
妙なことを言い出したものだ。
アレンは怪訝そうに眉をひそめ、は目を瞬かせる。
仲間達は声をあげた。


「な……っ、やめとけって!」
「アイツが相当な手だれなのはわかってんだろ!?」
「ああ、でも負けたままってのも納まりが悪い」


ビン底メガネは配っていたカードを集めると、再び手早く切り出した。
瞳は真っ直ぐアレンを見つめている。


「あのときの続きだ。ど?乗るか?」
「…………何のための勝負ですか」
「そんなの決まってる」


言いながら、ビン底メガネは腕を持ち上げた。
指先で示す。
その先にはがいた。


「そこのお嬢さんを賭けてだよ」
「ええっ?」


驚きの声を漏らしたのは名指しされただった。
本気で意味がわからなくて、思わずビン底メガネを凝視する。
彼はカードを広げながら続けた。


「いいだろ?オレが勝ったら、お嬢さんにはもうしばらく付き合ってもらう。お前が勝ったら…………そうだな、デートでもしてもらえば?」
「冗談じゃない」


アレンは即座に返した。
が見てみれば、彼は心底呆れた表情をしていた。


「この人とは四六時中一緒にいるんです。これ以上引っ付いていたくありません」
「おぉう!何それ自慢?」
「もしそう聞こえるのなら、今すぐ耳鼻科に行かれることをお勧めしますよ」
「言うねぇ」


ビン底メガネはアレンのあまりの言い草に冷や汗を浮かべていたが、ふいにを見てにこりとした。


「じゃあオレとデートする?お嬢さん」
「それこそ冗談じゃない」


今度も即座に返したのはアレンだった。
返事をしようと口を開きかけていたは、変な顔のまま彼を見る。
何だかことごとくアレンに台詞を奪われている気がする。
てゆーか何でそんなに不機嫌なの、あまりにお腹が空いているからですかそうですか。
は思わず半眼になった。


「アレン、それくらい自分で言えるよ」
「つーか少年が答えることじゃないだろ」
「…………これ以上時間を取りたくないだけです。ほら、早く」


アレンは丁寧に、しかし素早くイーズを床に下ろした。
それからを引っ立てる。
肩を抱かれて方向転換をさせられた。


「まずは店長のところに行ってくださいね」
「な、なんで……!?」
「そんなの怒られるために決まってるでしょう。店の規則を破ってお客様と同席しただなんて……」


そこでふいにアレンは口をつぐんだ。
の背を押す手も止め、足元を見下ろす。
そのエプロンの裾を掴んでいるイーズがいた。
幼い少年はくいっとそれを引っ張った。


「……………」


けれど何も言わない。
アレンがきょとんとしてしまったので、はイーズの横にしゃがみこんだ。


「どうしたの?」
「………………」


イーズはと視線を合わせると、もう一度アレンを仰ぎ見た。


「…………、トイレ」


アレンが目を見張った。
しかしそれも数秒で、即座にイーズの言いたいことがわかったのだろう、妙に肩の力を抜いた。
苦笑と共に少年の手を取る。


「こっちです。案内しますね」


そうしてちらりとに一瞥を送ると、イーズと連れてテラスから店内へと入っていった。
は何だか頬を染めてそれを見送った。
わぁどうしよう。本当にときめく。


「イーズの奴、お嬢さんを庇うとはやるなぁ」


ビン底メガネが小さく呟いた。
つまりイーズはが怒られると聞いて、連行しようとするアレンを止めようとしたのだ。
けれどどう言っていいものかわからないから、「…………、トイレ」になったらしい。
アレンもそれに気付いているだろう。
だからこそ何も返さずにイーズの言に従ってあげたのだ。
彼が戻ってきても、もう店長の前に突き出そうとはしないと思う。


てゆーか、あの腹黒魔王の手から救ってくれるだなんてイーズ君はプリンス的な何かじゃないかな!


は高鳴る胸を押さえて立ち上がると、男たちに向って言った。


「完璧に惚れちゃいました……、イーズ君をお嫁さんにくださぁい!!」
「「「やれるかぁ!!!」」」


咄嗟に彼らは叫び返した。
握った拳でテーブルを叩く。
保護者らしい言葉ではあったが、顔は怒りよりも冷や汗が浮かんでいた。


「何でそうなるんだよ、お嬢ちゃん……」
「イーズ女じゃねぇし……。性別的には問題ないのに、どうしてそういう方向に話が飛ぶんだ?」
「本当に変なこと言い出すよなぁ……」


最後には感心したような口調になって、ビン底メガネは破顔した。


「変わってる、ってよく言われるだろ」
「う……。ええ、まぁ、不本意ながら」
「こっちは驚かされてばっかりだ」
「ま、面白いからいいけどな」
「中身はもちろん、見た目も珍しいよな」
「うんうん」


口々に言われてはわずかに首を傾けた。
最後の言葉を聞き、頭へと手をやる。
陽光に輝く己の金髪に触れた。


「髪の色のことですか?」
「あと顔な。びっくりするくらい綺麗だ」


そこではちょっとだけ微妙な表情になった。
実を言うとは、自分の顔があまり好きではなかった。
だからどれだけ誉められようと、素直に喜ぶことができないのだ。
けれどそれを表に出すほど子供ではない。
笑顔で返すべき言葉を選ぶ。


「ありがとうございます」
「いやいや、それより珍しいのは目の色だろ」


そう言ったのはビン底メガネだった。
顔を寄せてを眺める。
感嘆の声を漏らした。


「すっげぇ金色だもんな」


思わずといったように、ビン底メガネはの頬に触れてきた。
は一瞬どうしたものかと思ったが、振り払うのも失礼だろう。
大人しくそれを受け入れた。
そのせいか、ビン底メガネはさらに接近してきた。


「宝石みたいだな」
「普通の目ですよ」
「生まれつきこんなの?」
「途中で色が変わった覚えはないですね」
「遺伝か?両親も金眼だった?」
「…………………」


はそこでにこりとした。
ビン底メガネの手を取り、そっと自分の頬から下ろさせる。
彼の後ろからは仲間達の声がしていた。


「オレ達もけっこうあっちこっち行ってるんだけどな」
「なぁ、今までそんな目の色した人に会ったことねぇよ」
「ええ?そうだったっけ?」


ビン底メガネが怪訝そうな声を出した。
首をひねり、眉をひそめる。
片手で髪をかき回した。


「オレはどこかで一度見たような気が…………」


呟き声はそこで途切れた。
ビン底メガネは目を見張る。
何故なら視線の先で、の表情がわずかに強張ったからだ。
それはこれほどまでに近くにいなければ見逃してしまうような、かすかな変化だった。
は喘ぐように数回呼吸を繰り返した。
震える唇を噛んで、両の拳を握る。
それからビン底メガネを見つめて言った。


「どこで……」
「え?」
「どこで見かけたんですか」
「何を……、金眼の奴をか?」


はゆっくりと頷いた。
もう一度顔をあげれば今度こそ感情が出ているかと思ったが、そんなことはなかった。
けれど妙に作ったような表情をしていた。
そうすれば、彼女はどこまでも人形めいて見える。
ビン底メガネは何故だかそこで微笑んだ。
唇に浮かぶ、不敵な色。


「…………気になる?」
「…………………」
「何?お嬢さん、心あたりでもあるのか?」
「……、傷が」
「傷?」
「傷がありませんでしたか……」


は一度目をきつく閉じると、吐息をつくように言葉をこぼした。


「その人の左頬には、大きな傷跡がありませんでしたか」
「………………」


ビン底メガネは口を閉ざした。
笑みを消してを見つめる。
何かを探るようなその視線に、は耐え切れなくなったように指先を伸ばした。
男を掴む手は小さく震えていた。


「教えてください」


懇願の声は、必死さが滲んでいた。
けれどそれはを少なからず知る者にしか悟られない程度のものだ。
だから男は微笑んだ。


そのかすかなものを、感じ取ってしまったからだ。


の腰に腕をまわして一気に引き寄せる。
椅子に座ったビン底メガネに密着して、金髪の少女は立たされた。
決して逃げ出せない位置だ。
捕らえてくる腕が痛くて怖い。
体温が熱くて、逆にぞくりとした。
男の笑顔がすぐ目の前にある。


「そんなに知りたい?」


脳内で何かが警鐘を鳴らしている。
それ感じる自分に疑問を抱く。
私は何を恐れている?
相手はただの一般人。流れ者の男性だ。
今日が終れば、もう一度会うことがあるかすら怪しい。
は警戒する己の心を臆病だと決め付けて、頷いた。


「はい」
「…………そう。だったら、見返りをもらおうか」
「見返り……?」
「タダじゃあ、教えられないな」
「……………何をお望みですか?」
「じゃあ、キスを」


からかい混じりの声で男は言った。
唇に浮かぶ笑みが冗談だと告げている。
は真実を求める焦りを殺せず、男の頬を両手でとらえた。


「そんなものでいいなら、いくらでも差し上げます」
「…………へぇ。積極的だな」
「私はあなたの言葉が聞きたい。そのために、あなたは何を望んでいるんです?」
「なんだと思う?」


男はゆっくりと囁いた。
はまた悪寒を感じる。
全身を冷たい何かが駆け抜けていった。
分厚いレンズの向こうで、男の瞳の色が変わったように見えた。
腰をとらえた腕はそのままに、もう片手が背を這い上がり後頭部へとまわされる。
強く引き寄せられてよろけたが、必死に踏ん張った。
あのままいっていたら本当にキスをしていたかもしれない。
逃してしまったそれを求めるように、男の笑みが迫ってくる。


駄目だ。
頭の片隅でそう訴える声がしている。
けれどは逃げ出せなかった。
否、逃げなかった。
どうしても知りたかったのだ。
彼の言葉を聞きたくて仕方がなかったのだ。


「お願い。教えて」
「もっと可愛くおねだりしてみろよ」


男は指先での唇を撫でた。
熱が奪われ、また与えられる。
何かが確実に侵されてゆく。
吐息が、触れた。




「俺の望むものは、お前の…………」




!!」




ふいに名前を呼ばれてはハッとした。
同時に強く後ろに引かれる。
乱暴と言っていいくらいの勢いだったから、思わず転倒しそうになった。
すると今度は前に引かれて顔面を何かにぶつけた。
変な悲鳴をあげて見上げると、目の前にアレンが立っていた。
いつの間にトイレから帰ってきたのだろう。
ともかく彼がビン底メガネから自分を取り戻し、その背後に押しやったらしい。
握られた手首が痛い。
先刻の比ではないくらいだ。
すぐ傍で、アレンが抑えた声を出した。


「……………何をしてるんです」


口調は静かだったが、逆にそれが恐ろしかった。
彼はビン底メガネひたりと見据えた。


「彼女に絡むなと言ったはずですよ」


ビン底メガネはからになった自分の両腕を眺めて、それからアレン達の向こうに視線を投げた。
そこにじっとこちらを見つめるイーズを発見する。
振り返れば仲間たちも非難がましい目をしていた。
ビン底メガネはへらりと笑った。


「冗談だよ」
「冗談……?」


呟いたのはだ。
思わず前に出ようとして、アレンに止められる。
それでも進もうとすれば低く呼ばれた。



「ごめん、でも」
「お嬢さんがあんまり可愛いから、からかいたくなっただけだって」


ビン底メガネはというよりはイーズ達に向ってそう言った。
おかっぱ頭は首を振り、ニット帽はため息をつく。


「まったく……。お前セクハラだぞ」
「さすがにやりすぎだ。悪かったな、お嬢ちゃん」


イーズがビン底メガネに近づき、その膝を軽く叩いた。
男はごめんごめんと謝って少年の頭を撫でる。
一気に柔らかくなったその雰囲気に、は全身の力を抜いた。


「じゃあ、さっきのは嘘ですか……」
「いいや、金眼の奴を見たのは本当だ。でもよく覚えていない。お前らも知らないんだろ?」


知らないと返す仲間達を見やって、ビン底メガネは苦笑した。


「……というわけだ。お嬢さんがキスでもしてくれれば、思い出すかもしれないと思ったんだけどな」


それが本当だったらしても構わない、とは思った。
けれど言葉にする前に強い力を感じる。
アレンがを引き寄せたのだ。
腕を掴んでくる手が、さらにきつくなる。


「今度こそ失礼します。……どうぞ、ごゆっくり」


彼は最後にビン底メガネに強い視線をぶつけると、ふいと顔を逸らした。
ビン底メガネはますます苦笑した。
は何か言おうとしたが、アレンがそうはさせてくれなかった。
無理やり歩かされて、店の中に連れ込まれる。
「本当にごめんな、お嬢さん」という声を、は背中で聞いたのだった。








アレンはを店内に引きずり入れると、じろりとその顔を睨んだ。
けれど余計なことは何も言わなかった。
嫌味も怒声もなしだ。
それが逆に恐ろしくて、は緊張する。
どうすればいいのかわからない。
普段の私ならどうするだろう。
笑うかな。それか冗談を言うか。
でも今それをやらかしたら命がないかも。
そんなことを考えている内に、アレンがこちらに手を伸ばしてきた。
思わず肩を震わせる。
殴られるかと思ったが、指先はの頬に触れて、そのまま何度かそこをこすった。
意味がわからなくて瞬くと、アレンが小さく言った。


「……大丈夫?」
「え?」
「妙なことされた、とか」
「あ、ああ……。だいじょうぶ。平気だよ。てゆーか、あの人も別にそんなつもりじゃなくて」


そう答えた瞬間、横面をぺちりとやられた。
全然痛くなかったけれど衝撃に驚いて黙る。


「ばか」


それっきりアレンは何も言わずに、の横をすり抜けると、厨房の中に入っていった。
取り残されては胸を押さえる。
触れられた頬が麻痺したように感覚を失っていた。
手が冷たくて、指先が重い。
ぎゅっと握りこむ。
何だか猛烈な罪悪感がしていた。
よくわからない。
こんな気持ちになるなんて思ってもみなかった。
だからこう呟かずにはいられなかった。


「ごめんなさい……」


けれどきっと、同じことが起こったらまた繰り返してしまうであろう自分が、は情けなくて仕方がなかった。




















結局それからはビン底メガネと話をすることはなかった。
アレンが何か言ったのか、一行のテーブルはドリーが担当することになったのだ。
彼も彼で、普段より早く休憩を終えると仕事に戻ってきた。
相変わらず何も言ってこない。
怒っているのはわかっているのに、それを直接ぶつけてこないだなんて変な感じだ。
これだったらいつもの喧嘩のほうが数倍マシだと思う。雰囲気的に。
ともかくは店内でせっせと接客に励んだ。
客達と楽しい会話を交わし、大いに笑う。
心はどこか引っかかっているけれど、悟られてはいけなかった。
はいつも通りに振舞い続けた。


「駄目ですよそれ。早く仲直りしないと」
「ほら、さんもこう言ってますわ」
「意地張ってないで!とっとと謝ってこいよ、じぃさん」
「しかしあれは……、ばぁさんが悪いんじゃ……」
「この際どっちが悪いのかはどうでもいいんですよ!麗しく素敵な女性を泣かせたままでいいんですか、否いいわけがない!!」
「麗し……?いやあれはもう80歳を超えたババァじゃぞ……」
「うちのもそうやって誉めるもんだから、ちゃんにメロメロじゃ」
「俺のところもだ」
「母娘そろって骨抜きにされちゃってさー」
「愛しい人が笑ってない世界なんて真っ暗です!幸せなんかあるもんか!!」


は力強くそう言い放った。
客達はどやどやと騒ぎ、何故だか口笛が鳴ったり拍手がおきたりする。
別れ話をしていた隣のテーブルの恋人たちが「やっぱり、やりなおそうか」とか言い出したので、ますます店内は盛り上がった。
好き勝手に騒いではいるが、全員が笑顔だ。
いくつかの話がまとまったところで、は声を張った。


「それじゃあ、皆さまの明るい明日のために!」


壁際に飾ってあった花を一輪取って掲げれば、客達はそれぞれの飲み物を手にした。
先の言葉を復唱し、続きを待つ。
は期待に応えて言った。


「カンパーイ!」


店全体が声を揃えた。
全然関係ない人ともカップをぶつけ、グラスを合わせる。
笑い声が弾けて響く。
誰も酒を飲んでいないのにたいした騒ぎだ。
はその中心で微笑んだ。
そして指先で花をくるりと回すと、誰にもわからないようにため息をついた。


その時、ふと袖を引かれた。
驚いて見ると、足元に幼い少年。
は目をまばたかせる。


「イーズ君」
「…………帰る」


言われて視線をあげれば、店の出入り口のところにビン底メガネたちが立っていた。
はわずかに息を止めて、それからゆるゆると吐き出す。
アレンの顔が脳裏をかすめた。
一度唇を噛む。
それからイーズの手をとって握った。


「見送らせてくれる?」


イーズは少しだけ驚いた顔をしたが、すぐに頷いた。
は仄かに笑って歩き出す。
客でごった返した店内を進めば、あらゆる方向から声をかけられた。
それにひとつひとつ笑顔を返しながらは彼らのところまで足を運んだ。
先に立ったおかっぱ頭が扉に手をかけて開く。
光が差し込んで顔がよく見えなくなった。
それでもはビン底メガネを真っ直ぐに見上げた。


「変なことを聞いてごめんなさい」


ビン底メガネはどうやら笑ったようだった。


「いいや。お嬢さんにとっては大事なことだったんだろ?こっちこそからかって悪かったよ」
「……………」


もし、……。
は彼を見つめて考えた。
もし、何か。
少しでもいい。
何かを思い出したのなら。
思い出してくれるのならば。
私は――――――………。


急かすように脈打つ鼓動が、痛いほどに真実を求めていた。
けれどは首を振った。


「どうぞお気になさらないでください」


私はあの人を諦めるつもりはない。
決して逃がしはしない。
いつか必ずこの手で捕らえてみせる。
だから目の前の彼が何かを知っていても、それを教えろと強く迫る必要はないのだ。
そんなことをしてはいけない……、自分はそんな立場にはいないのだ。


はさまざまな感情を押し殺し、無理に微笑んだ。


「ご来店ありがとうございました。またのお越しをお待ちしておりますね」
「……ああ。お嬢さんと話せて楽しかったよ」
「道中、お気をつけて」
「さんきゅ」


ビン底メガネはそう言って、に触れようと指先を伸ばしてきた。
けれどそれは途中で止まる。
突き刺さる視線に振り返れば、そこにはアレンが立っていた。
一応は笑顔だが、何だか怖い。
ビン底メガネはぎくしゃくと手を引っ込めた。
もちょっとだけ冷や汗をかきながら半歩後ずさる。
アレンがそのまま近づいてきて言った。


「お支払い」
「は……?」
「お支払いがまだです。お願いできますか」


何とも事務的な内容だ。
もっとアレなことを口にすると思っていたから、ビン底メガネは脱力した。
も何となくホッとする。
けれどそんなにアレンは甘くはなかった。
彼は完璧な笑顔のまま、伝票での額を引っ叩いたのだ。


「いたっ」
「ぼんやりしないでください。君の仕事でしょう」
「だ、だからって叩かなくても……!」
が無能なのが悪い」


あっさり断言されて、は歯噛みした。
悔しくて涙が浮かぶ。
ビン底メガネが恐る恐る口を挟んできた。


「お、おいおい少年。美人の顔になんてことすんだよ……」


咄嗟にの額を撫でようとして、思い出したかのように止めた。
代わりにアレンに向かって言う。


「お嬢さんがお嫁に行けなくなったらどうする」
「嫁……?これを受け入れる豪胆な男性がこの世にいるとは思えませんね」


アレンはあくまで笑顔のままだ。


「僕なら、彼女が世界で最後の女性になったとしてもごめんですよ」
「な……っ」


は思わず言い返しそうになって、よく考えてから口を閉じた。
そりゃあそうだろうと思ったからだ。
何がどうなってもアレンは自分など願い下げだろう。
それに自身、そうは出来ない理由があった。
そこでひとつ首を振る。
ただの冗談にここまで考え込んでしまうなんて、やっぱり先のことをそうとう気にしているようだ。
はわざと明るく笑ってみせた。


「安心してよ、アレン!私は嫁にはいかない、むしろ貰うほうよ。イーズ君をねっ」
「はぁ?」
「だからやらねぇって!」


アレンは思い切り呆れたように言い、ビン底メガネは冷や汗の滲む声をあげた。
おかっぱ頭やニット帽も苦笑している。
ビン底メガネはと手を繋いでいたイーズを引き寄せると、背後の仲間たちのほうへと押しやった。
そして慌てたように告げる。


「金払っとくから先に出てて」
「ああっ、私の花嫁が!」
「早く!!」


は後を追おうとしたが、その目の前で勢いよく扉を閉められる。
ビン底メガネはほっと息をついていた。
はそれを金の瞳でねめつけた。


「人の恋路を邪魔する者は、馬に蹴られ何とやらですよ」
「どっちかっていうとお嬢さんに蹴られそうだな……」
「え、いいんですか?」
「ダメだって」


ビン底メガネはそう言うと、懐から財布を取り出した。
恨めしそうに見上げてくるに現金を押し付ける。


「ほら、お嬢さん」


彼は急かすように手を振った。


「お釣り」
「ああ、はい……」


は反射的に頷いてしまい、それから少し眉を下げた。
ちらりと隣のアレンを見る。
自分がお釣りを取りに行くと、もれなく白髪の少年とビン底メガネが二人きりになってしまうのだ。
先刻のことがあるから、何となくそれは気になった。
けれどアレンが言う。


。お客様を待たせない」
「は、はい!」


ぴしゃりと注意されて、は反射的に動きだした。
カウンターまで金を取りに戻る。
金髪の少女は小走りに駆けていった。


アレンはそれを見送り、完全にが遠のいてから、視線を前に戻した。
ビン底メガネを銀灰色の瞳で見据える。
息を吸って口を開いたが、何か言う前に男が答えた。


「オレが何をしたかは、お嬢さん本人に聞けよ」


ビン底メガネはあっさりとそう告げた。
台詞を奪われたアレンはわずかに頬を赤らめる。
それから悔しそうに顔をしかめた。
ビン底メガネは続けた。


「それとも本人には聞けない?」
「……………………」
「まぁ確かに嘘をつかれるか、誤魔化されるか……。どっちにしろ正直には答えないだろうな」


考えを見透かされたみたいになって、アレンはわずかに俯いた。
そんなこと、言われなくたってわかっている。
頭の上からビン底メガネの声が降ってくる。


「……………なぁ。少年ってお嬢さんの何?どういう関係?」


質問の意味が掴めずにアレンは眉をひそめた。
そうすれば、男が身を乗り出してこちらの顔を覗き込んできた。


「もしかして、深い仲とか」
「いいえ、むしろ不快な仲ですね」


アレンは咄嗟にそう言い切った。
いつものクセで冷ややかな声が自然と飛び出したのだ。
でもよく考えるとそうかもしれない。
現に今、とっても不愉快だ。


「あんな馬鹿、知りません。僕の言うことなんてひとつも聞いてくれないし、面倒なことばっかりやらかすし。本当に迷惑です」
「ふぅん……」


ビン底メガネは何だか唇を尖らせている。
アレンはまだまだ言い足りない。
そのまま続けようとして、しかしそれは唐突に遮られた。
気がついたときには男に頭を掴まれていたのだ。
アレンは心底驚いて目を見張る。
何だ今の。
まったく見えなかった。
そのままぐいっと引き寄せられて、視界が男の胸元でいっぱいになった。
耳元で声がする。


「ひとつだけ言っておくよ、少年」


低い音程。
鼓膜が震える。
支配力を感じる。
そこでアレンは自分が鳥肌を立てていることに気がついた。
何故かはわからなかった。
男が陰になって、目の前が暗い。
そして囁き声がアレンの耳朶を撫でていった。




「嫌いなフリがしたいなら、もっとうまくやるんだな」




次の瞬間にはもう開放されていた。
ビン底メガネはアレンから手を離し、にっこりと微笑んだ。
そこでようやく言葉の意味を悟ってアレンは顔を真っ赤にした。


「な……っ」
「お待たせしましたー……って、あれ?」


声を荒げる前に背後からそんな声がする。
どうやらがお釣りを持って戻ってきたらしい。
アレンは即座に口を閉じた。
さっきまでの会話の、何もかもを彼女に悟られたくなかったからだ。
場の雰囲気に首をかしげるに、ビン底メガネが笑顔を向けた。


「あぁ、ありがとう」
「いえ。それより、あの……」
「何でもないよ。ちょっと男同士の話をしてただけだ」
「え、猥談?」
「お嬢さぁぁあん!可愛い顔で普通にそんなこと言うなよ!!」


きょとんと目を見張るに、ビン底メガネは懇願の悲鳴をあげた。
けれどはあくまで平然としている。
だてにあの変態ウサギ、もといラビの親友をやってはいないのだ。


「隠さないでいいですよー。むしろちょっと感心です。アレンも男の子だったんだねぇ」


はそう言いながら笑顔でアレンを覗き込んだ。
そこで思わずひ……っ!と悲鳴をあげる。
今までにないくらいの殺意を込めて、銀灰色の瞳に睨みつけられたからだ。
そのまま目を合わせていたら射殺されそうだったので、は慌ててビン底メガネに向き直った。


「ははははははい、お釣りです!」


手を差し出した彼に、目線でアレンに何を言ったのかと問いかける。
けれど普通に流された。


「ん、確かに。じゃあな」


ビン底メガネは金を確かめると、あっさり踵を返した。
最後に笑んだ一瞥を送られてアレンは固く拳を握る。
が走り出て、扉の向こうに言った。


「ありがとうございました!」


そして手を振る一向に、それを返す。
イーズが笑っているのが見えたから、も口元を緩めた。
歩き出す3人の男と、幼い少年。
寄り添うその姿は家族に見えた。
は振る手を止めた。
眩しいと思うのは、逆光のせいだけだろうか。
目が痛くてどうしようもなくなったから、は後ろを振り返った。
そこにいたアレンは、じっと床を睨みつけていた。


「……………………」


は何か言おうとして、やっぱり止める。
無言でアレンの前まで歩んでいく。
何だか遠い。
だからは腕を伸ばした。
指先で頬に触れれば、アレンは吃驚したように顔をあげた。
視線がぶつかる。
見慣れた瞳の色。
けれどそこに見え隠れする感情は、今まで知らずにいたものだった。
見つめ合えばどちらにも言葉にできない表情していた。
はそのままアレンの頬をこすった。
先刻彼がそうしてくれたように、そっと撫でる。
それから精一杯の力で微笑んだ。


「大丈夫?」


これも先刻、彼がくれた言葉だ。
きっと同じだろう気持ちを込めて返すと、アレンも微笑んだ。
吐息をつくように笑顔を浮かべる。


大丈夫。
だいじょうぶ。
まだ笑えている。
ちゃんと笑うことができているから。


同じとは知らず、二人はそう思っていた。
心を寄せ、触れ合いながらも、沈黙を守っていた。
言えない苦しさと聞けない辛さが混合して、どちらからも声を奪ってゆく。
今はこれだけだった。
交わした笑みだけが、アレンとの言葉より確かな真実だった。


そんな二人の視線を、ふいに黒が遮った。
驚いて同時に目を見張る。
それは漆黒の蝶だった。
どこから入ってきたのだろう。
可憐な羽根がひらひらと舞い、見つめ合っていたいアレンとを引き裂いた。
見え隠れする表情が、またわからなくなる。
そして蝶はの口元にとまった。
一瞬だけ唇を撫でる。
触れるだけのキスだ。
そうすれば用は済んだとばかりに蝶は飛び立ち、開け放たれたままの扉から外へと羽ばたいていった。
それを目で追ってアレンが言う。


「珍しい蝶でしたね」
「うん。でも……」


は漆黒の蝶が消えた方角を見つめた。
鱗粉のように残された余韻に、ゆっくりと瞳を細める。


「どこかで見たような…………」


「あんた達、何やってるんだい。お客が呼んでるよ!」


の囁きは、店の奥から響いてきたドリーの声に掻き消された。
二人は一緒に言葉を返す。


「「はーい!」」


そして、日常へと戻っていった。




















「まさかこんなところで会うとはなぁ……」


男は小さく呟いた。
声には驚きと愉快さ、そして感嘆にも似た感情が含まれている。
吸い終えた煙草を地面に放り出す。
踵で踏み潰して火を消すのを忘れない。
こんな田舎の村で注意する者もいないが、何となくだ。


「イーズたちには悪いことしたかな」


ぽつりと一人ごちるが、たいして罪悪感は抱いていなかった。
自分が単独行動をするのはよくあることだし、それを仲間達も了解してくれている。
今回もちょっと用事ができたと言えば、笑顔で文句を返し、自分を残して旅立ってくれた。
イーズが少しだけ寂しそうだったから思わず言ってみただけだ。


「だって……、あのお嬢さんがいるんだぜ?そりゃあ、手を出さないわけにはいかないだろ」


ぶらぶらと村の細道を歩きながら笑う。
喉が震えて低く響く。
辺りは薄っすら暗くなってきていた。
赤みを帯びた空の下で、男は懐から煙草の箱を取り出すと一本咥えて引き出した。
ライターで火を点ける。
前髪をかきあげようとしたところで、指先がメガネに当たった。
邪魔だなと思って、男はそれを取ると道端に投げ捨てた。
そして煙を吐き出す。
その向こうに現れた顔は、一瞬前とは確実に違っていた。
白かった肌は褐色に染まり、緩んだ顔立ちは精悍なものへと一変している。
いくらビン底のようなメガネを外したからといっても、ここまで変化することはないだろう。


そう、彼は変わったのだ。
手癖の悪い流れ者の孤児から、“快楽のノア”へと。


否、本来の姿に戻ったというべきか。
アクマの創造主、千年伯爵と協力関係にあるノア。
その一族である彼は、ビン底メガネからティキ・ミックへと帰還し、軽快な足取りで歩み続けた。


「おかげでしばらく“こっち”のオレを楽しめそうだ」


笑いが止まらない。
思い出すのは金髪のウェイトレス。
彼女とは長い付き合いだった。
それこそ数年かがりだ。
あの少女は、何度も何度も殺そうとしているのに、いまだに生き残っている愉快な敵なのだ。


ティキは彼女に興味を抱いていた。
好感といっていいかもしれない。
だって気になって気になって仕方がないのだ。
あの強さ。
底知れない信念と決意。
そして、その消し去られた過去―――――――………。
だからこそ、こうして会ってしまえば何か仕掛けずにはいられない。
今までだって幾度となく自分からちょっかいをかけてきたものだ。
相変わらずあの瞳に会えば心が躍った。


その時、上空から一羽の蝶が舞い降りてきた。
ティキはそれに気付いて微笑む。
もとより機嫌は最高だから、とびっきりの笑顔となった。


「ティーズ」


愛しの食人ゴーレムを招くと、羽根を閃かせてやってくる。
そしてティキの唇にキスをした。
ティキは目を細めてそれを受け入れた。
一瞬の口づけの後、浮かんだ笑みはさらに深くなる。


「へぇ……」


伝わった感覚に背中を痺れのようなものが駆け抜けていった。
あぁ、本当に笑みが止められない。


「ゾクゾクするね」


ティキは片手で顔を覆って天を仰いだ。
いつの間にか漆黒の蝶は数を増やし、彼の周りを舞い踊る。
浮かぶは嗜虐の笑み。
指先から覗く瞳は、狂気にも似た光を宿していた。


「“黒葬こくそう戦姫せんき”…………、血と罪の匂いのする少女か」


そしてティキは、心から楽しそうに囁いた。




「さぁて。どうやって堕とそうかな」




天に輝くのは黄金の月。
その光は、真っ赤な夕焼けに染められ、確実に色を霞ませていった。










あれ?何かティキ書くのすごく楽なんですけど。(爆)
私的にラビ並みの書きやすさです。
そんな彼はアレンとヒロインを非常に面倒くさい感じにしてくれましたね!^^
おかげで次回はもっと面倒くさい感じです。
あの手の雰囲気は苦手なんですよ〜……。うああ、がんばります!

そんなわけで、次回はティキはお休み。アレンのターンです。
気になる女の子相手に精一杯がんばる青少年をお楽しみください。(笑)
若干グロイ表現がありますので、苦手な方はご注意を〜。