世界を構成するものは悲鳴と鮮血、そして贖いきれない過去だった。


此処は終りなき煉獄。
私の生きる場所。







● 蝶と口づけ  EPISODE 5 ●







視界は黒く染まっていた。
これは瞼の裏の色だ。
自分は眠っていたのだろうか……そう考えながら、はゆっくりと金の双眸を開いた。
そうして飛び込んできた光景は何とも奇妙なものだった。
何も聞こえない。
何も感じない。
音も温度もない世界だ。
瞳を開いたはずなのに、辺りは一面灰色を帯びていて、重く体に纏わりついてくる。
目線もおかしい。
あまりにそれが高くにあるから、不思議に思って顔を動かして、はようやく自分の状況を悟った。


左右を見てみる。
どちらの手足も縛られていた。
太い麻縄できつく拘束されている。


は木で作られた十字架に、磔にされていたのだ。


それを知って、けれど特には驚かない自分がいることに気がついた。
食い込んでくる縄は痛いけれど、それすらどうだっていい。
頭がぼんやりする。
顔をあげていられなくて視線を落せば、自分の足元、磔にされた十字架の根元に何かが大量に積まれているのが見えた。
黒と白。
何だろう。
考えたのは一瞬だけで、すぐにその正体を知る。
何故ならそれはひどく見慣れたもの…………『黒の教団』の団服だったからだ。
ローズクロスも共に棄てられていた。
嗚呼、とは思った。
今度こそ状況を完全に把握する。
団服とローズクロスが破棄されている。
それが意味することはひとつだった。


(戦争が終ったんだ……)


だから自分は磔にされているのだ。
戦争が終れば、団服はいらない。
ローズクロスは効力を失う。
今まで自分を守っていたそれらがなくなったとき、こうなることはわかっていた。


(殺されるんだ)


そう思った。
否、知っていた。
この命をはじめたときから約束されたことだった。
戦争が終ればエクソシストは不要となる。
それはつまり、“”の死を意味するのだ。


”はエクソシストだった。
たったそれだけのために生かされていた。
アクマを破壊し、千年伯爵と戦うことだけが、生存を許可された理由だった。
ならばそれが失われた瞬間、“”は死ななくてはならない。
世界から跡形もなく消え去らなければならないのだ。


(死ぬ……)


はゆっくりと、噛み締めるようにその事実を確かめた。
だんだん意識がはっきりしてくる。
そうすれば世界は灰色ではなかった。
自分の足元には人だかりができ、全員がこちらを見上げていた。
顔、顔、顔、顔、見知った顔ばかり。
それらが全て憎悪や畏怖、憤怒の表情で、を睨みつけていた。
音はないのに聞こえるようだ。
を罵る、さまざまな声が。
侮蔑と嫌悪の言葉を吐きかけられ、それでも哀しいとは感じなかった。


(これでいい)


偽りなくそう思う。
罵声をあびせて、蔑んで、心から嫌って欲しかった。
それが自分にはお似合いだった。


(罪人の末路は、これでいいんだ……)


“魔女め”と、誰かが音にならない声で叫んだ。
その呼び名も久しぶりだった。
は思わず微笑んだ。
ゆっくりと、それでいて泣きそうに、ようやく母に会えた子供のように、安堵の笑みを浮かべた。


(死ねる)


その真実に心が震えた。


(死ねる死ねる死ねる死ねる死ねる。ようやく死ねる……、私は)


この日をどれだけ待ち望んだだろう。
過去、魔女は死を求めた。
殺してくれと声の限りで懇願した。
けれどそれは許されなかった。
罪人はこの絶望の世界で、神の使徒を演じなければならなかったのだ。
自らの手で命を絶つことも叶わず、ただ終わりに向って走り続けるしかなかった。
“そこ”にいる理由はたくさんあった。
優しく温かな人々がそれを与えてくれた。
だからこそ魔女はエクソシストとして存在していられた。
それが“”だ。
けれど彼女が死んだのならば、自分はもう生きていられない。
生きていてはいけない。
何もかもに終焉を与えなければ。


(終わりにできる)


この、歪んだ生を。
の奥底でひたすらに燃え続けた、苦痛と罪悪を。
きっとそのために、“私”は生きてきた。


ふいに赤が翻った。
足元の団服に火がつけられたのだ。
火あぶりとは得心がいく。
咎人……“魔女”を裁くにはふさわしい方法だ。
炎は瞬く間に燃え上がり、十字架を這い上がってきた。
火炎に包まれた少女は、ゆっくりと金の双眸を閉じる。


(これで、ようやく“私”は…………)


開放される。


「ふざけるな」


ふいに耳元で声がした。
怒りを押し殺した声だ。
そうしてようやくその存在に、は気がついた。
反射的に目を開ける。
笑顔が消える。
あぁ、熱い。
全ての感覚が戻ってきた。
紅蓮の抱擁を受けながら、は目の前の人物を見つめた。


自分は燃えているというのに、どうして彼女は平気なのだろう。
長い銀髪も黒い服も赤く染まってはいなかった。
炎よりも高温の感情を、その胸に宿しているからだろうか。
美貌の顔が歪み、深紅の唇から罵り言葉が吐き出される。


「ふざけるなよ、このガキが」
「…………………」
「そんなに簡単に死を求めるな……!」


蒼い瞳に、射殺されそうだった。
呼吸ができなくなる。
心臓さえまともに動かない。
煙が器官を焼いて声が出ないから、は心の中で彼女の名を叫んだ。


(グローリア先生……っ)


彼女は憤怒の表情で、の胸倉を掴んだ。


「許されるものか……」


首を締め上げられる。
呼吸が乱れた。
それは喉を塞がれてしまったからだけではなかった。
目の前にいるグローリアの姿が、だんだんと崩れ出したからだ。
白い肌がどろりと溶解し、口や額から血が流れ出す。
落ちてくる鮮血がにゆっくりと降りかかる。
温かい。
いいや、冷たい。
あまりの恐ろしさには震え出した。
それでも目を背けなかった。
背ける資格など、持ってはいなかった。


「許すものか」


これは罪だ。
彼女を死なせた自分の罪の形なのだ。
あぁ、ほら、私の愛した銀髪も蒼の瞳も今や見る影もなくなってしまった。
溶けた肌の下からは白骨が覗き、からの眼窩は爛々と光る。
グローリアの面影を残す亡霊はを激しく糾弾した。




「お前の罪は、死で償えるほど軽くはない!!」




同時に、衝撃。
そこでは反射的にそれを見下ろした。
死に取り付かれ白骨化したグローリアから視線を滑らせ、見てしまった。


簡素な白い服を纏った自分の体。
その胸元が、一本の腕によって、完全に刺し貫かれていた。


鮮血が吹き出す。
口からも大量に吐き出し、グローリアの血と混ざった。
の心臓は、今度こそ本当に、十字架に磔にされた。


「は……ぁ、ぁう、っつ……」


あまりの激痛に悲鳴をあげそうになる。
それを何とか押し殺す。
グローリアは死など与えてはくれない。
だったら痛みも苦しみも受け入れなければ。


「せん……、せんせ……っ。せんせい…………!」


喘ぐように名前を呼ぶ。
このまま殺してと縋りつきたいけれど、両手は拘束されたままだ。
だからは顔をあげた。
痛みに朦朧としながらも、必死の懇願を込めて瞳を動かす。


そして、凍りついた。
目の前にいたのはグローリアではなかった。
亡霊はいつのまにか姿を消し、まったく別の人物がそこに存在していた。


「ふふ……」


その人物はを貫いたまま、優しく微笑んだ。
吐息が肌に触れて、全身を凄まじい恐怖が駆け抜けた。
絶望に目の前が暗くなる。
胸元に突き立てられた腕が、ぐるりと動いた。


「ぅ、あ……っ」
「ああ、目を逸らさないで。ちゃんと見てよ。……ちゃんと見せてよ。断罪されるお前の姿を。ねぇ……、俺に」


真正面から見据えられては粟立つ。
短い赤金色の髪が揺れる向こうに、慈しむような双眸がある。


その、金色の瞳。


と同じ色。
そして左頬に刻まれた、歪な傷跡。


「俺だけに、見せて」


そう囁くのは細身の青年だった。
白い肌に穏やかな顔立ちの、美しい男性である。
彼はに微笑みかけた。
その長い金髪を鷲掴み、乱暴に引き上げる。


「ぁ……、うっ」
「俺だけがその権利を持っているって、わかっているよね。誰より俺を求める、お前なら」
「は、ぁ、……っ、ああ……!」
「そんなお前だからこそ、こうしてあげるんだよ。…………ほら、感じるだろう?」


男は穏やかな口調のまま、さらに深く胸元をえぐる。
そうしてをかき抱いた。
いつの間にかの四肢は開放されていて、しかしそれは拘束が緩くなったからではなかった。
の体が時空を遡り、小さくなっていたからだ。
細い手足は縄をすり抜け、男の腕の中に落ちた。
幼い頃の姿に戻ったは、もう“”ではなかった。
その名を戴く前の、ただの無力な少女だった。


過去が蘇り、現在は葬られた。
悲劇の再来。
それはまるで、限りなく世界の終焉に近いあの日のように。


心臓を貫く男の手が踊る。
刃が遊ぶように、喜ぶように、少女の華奢な体内をまさぐる。
悲鳴すら喉の奥で絡まった。
吹き出す鮮血、それを浴びて男は恍惚の笑みを浮かべた。


「痛みも苦しみも、じっくりと教えてあげる。何もかもに絶望してよ」


金髪の少女は激痛に喘ぎながら男の頬に爪を立てた。
そこに刻まれた傷跡を撫でる。
男はそれを嬉しそうに受けた。
少女の小さな手を取って、引きちぎる。
根元からごっそり奪われて、次は足だ。
四肢を潰され、骨を砕かれ、抗えば首が弾け飛びそうなほど頬を殴りつけられた。
男はあらゆる手段を使って少女を痛めつけた。


「その瞳に映るのは俺だけでいい。お前に最期を与えるのは俺でなくっちゃあ。この世界で誰よりも、何よりも、強く想い合っているのだから。そうだろう?」


そうして彼は、少女の本当の名前を呼んだ。


「       」


男の手が優しく魂を引き裂く。




「  あ  い  し  て  い  る  よ  」

 


凄まじい恐怖と絶望と苦痛の嵐に、少女の全ては砕け散った。
声にならない悲鳴をあげる。
絶叫が世界を揺るがした。




















「……………………!!」


髪を振り乱して飛び起きた。
全身を冷たい汗がびっしょりと濡らし、夜着が肌に張り付いている。
そんな不快な感覚もわからないほど、は錯乱していた。
咄嗟に口元を覆う。
夢の中の絶叫を、今すぐ現実でもあげてしまいそうだったからだ。
激しい吐き気に襲われて背を丸めた。
けれど痛い咳が出るだけで、どうにもならない。
何もかもを吐しゃしてしまいたかった。
こんな自分、裏返して血も肉も全て流してしまいたかった。


「は、ぁ、……っ、う」


おかしなほど震えている自分の体を抱きしめて、恐る恐る辺りを見渡す。
そこは見慣れ始めた自室だった。
ドリーの店の二階。
その隅にある小さな部屋。
明るい色で統一された壁紙と絨毯。
カーテンからは薄っすらと陽の光が差し込んでいた。
朝を告げる鳥の声もしている。
はベッドの上で白いシーツを握り締めた。


(夢……。なんて夢。どうして)


悪夢の詳細が蘇ってきて、思わず全身をまさぐる。
どこも欠けてはいなかった。
血も出ていない。
当たり前のことを何度も確認せずにはいられなかった。


(どうしてあんな夢を見るの。あの人の話を聞いたから……?)


それだったら何て不様なことだろう。
金眼の人間を見たと聞いただけで、このざまか。
自分が心底くだらなく思えて、は冷笑を浮かべた。
両手で顔を覆う。
けれどそこでびくりと肩を震わせた。
信じられなくて硬直する。
まじまじと指先を見つめる。
もう一度、ゆっくりと自分の顔に触れてみた。


その両頬は濡れていた。
は泣いていたのだ。


(うそ……)


呆然と落ちてきた自分の涙を眺める。
透明な雫は幾度となく落下し、ベッドを濡らしていった。


(嘘)


止まらない。
涙が止まらない。
悪夢の中で金髪の少女が流した涙を、自分は現実にまで持ち帰ってしまったのか。
そう悟った瞬間、は力の限りで己の膝を殴りつけた。
鈍痛を感じた。
衝撃が骨を軋ませる。
それでもはおさまらない。


「ふざけるなよ……」


体を折り曲げて獣のように呻く。


「ふざけるな…………っ」


は感情の限りで自分自身を糾弾した。


「仲間が死んでも泣かないお前が、あんな夢ごときで涙を流すのか!“”!!」


違う。
ちがう。
”はこんなことでは泣かない。
泣いてはいけない。
そうだろう、と強く問い詰める。
こんなのは何かの間違いだ。


どこも痛くはない。
何も奪われてはいない。
グローリアのことだって、もう乗り越えた傷跡だ。
それなのに、どうして私は泣いている?


遠くであいつが笑っている気がした。
あの金眼の男が、悪夢の中でを痛めつけたときのように、きっと恍惚の笑みを浮かべている。
負けてたまるかと死にそうな激情で思った。


「止まれ」


は無感情に命令した。
吐き気がする、弱い己自身に告げる。


「止まれ……!」


顔を覆って繰り返す。
何度も何度も重ねられる言葉は、やがて懇願に近いものとなった。


「とまってよぉ……っ」


どれだけ頬を拭おうとも、涙は止んでくれなかった。
涙腺が決壊したのか。
それとも心がどうにかなってしまったのか。
意思の力ではどうしようもない、正体のわからないほどの恐怖がを責め立てた。
今こうやって泣いていることがひどい罪のような気がしてならなかった。
それ自体が責め苦だ。
自分のためだけに涙するなんて、“”はなんて浅ましい女なのだろう。
殺してやりたい。
この世で一番醜い存在を、破壊したくて仕方がなかった。


(誰か誰か誰か、…………)


助けて欲しいなんて思わない。
ただひたすらに求めている。
開放される日を待っている。




(“私”を)




壊して。




ガチャリ、という日常的な音は、には聞こえなかった。
続く声が室内に響いて、ようやく気がつく。


「あれ?もう起きてたんですか」


ノックもなしに開け放たれた扉から、そんな言葉を投げられた。
そう、彼は毎日こうなのだ。
どうせまだ目覚めてはいないだろうと、を起こしにくる時はいつも無断で部屋に入ってくる。
そして遠慮のない口調で言い放つのだ。


「君がひとりで目を覚ますだなんて。今日は槍でも降るんじゃ……」


けれど今回はその言葉も途切れた。
目が合ってしまったからだ。
銀灰色の瞳を、は見てしまった。




それは、つまり、アレンに。
彼の前に、涙を晒してしまったということだった。




アレンは動きを止めた。
ドアノブを握ったまま、硬直した。
息を止めて目を見開く。
はベッドにうずくまったまま、呆然と彼を見上げた。




あぁ、本当に“”はどうしてしまったんだろう。




涙がまた、白い頬を、静かに滑り落ちていった。




















を起こすのはこの頃のアレンの日課だった。
彼女は性格同様、睡眠も大らか方で…………はっきり言って寝穢かったのだ。
教団にいたころから寝起きが悪いのは知っていたけれど、まさかここまでとは思っていなかった。
職業上、毎日決まった時間に起きるのが難しいからか、それとも休めるときに休めという心構えからか、一度眠るとなかなか起きない。
仮に起きたとしても、目覚めから数分はまったく思考が働いていない様子だった。
そんなの目を覚まさせる方法として、アレンが考えたのがコレだ。


いわゆる、異常事態を引き起こすのである。


エクソシストとして訓練を積んでいるが飛び起きる唯一の条件。
アクマの襲撃等に即座に反応できる彼女だからこそ、応用できる方法だった。
アレンは毎日、殺意を持って眠っているに挑みかかった。
イノセンスを発動させるのなんてしょっちゅうのことだ。
朝一番に彼女の部屋に乗り込み、物を破壊しないように細心の注意を払って、世にも悲惨な目に合わせてやる。
はその不穏な事態に飛び起きる。
アレンは笑顔で「おはよう」と言う。
は「今日はこの手できたか腹黒魔王め……!」と泣き叫ぶ。
それが最近の朝のお決まりだった。


それなのに今日はどうしたことだろう。


アレンはあまりに思考が働かなくて困っていた。
体が動かない。
まるで自分のものではなくなってしまったみたいだ。
今朝も今朝で、さぁどんな目に合わせてやろうと鼻歌交じりでの部屋に乗り込んだのに。
扉を開けるとベッドの上に金髪の人物が起き上がっていて。
何だかうずくまっていたけれど、あぁまだ眠いのかな、それにしても一人で起きているなんて珍しいと思って。
いつものように笑顔で皮肉を言ったのに。
彼女があまりにいつもと違っていて、どうすればいいのかわからない。
本当にわからない。


どうして、は、泣いている?


見詰め合ったまま、二人は化石になろうと決意したみたいに身動きが取れなかった。
目が逸らせない。
白い頬を滑る透明な雫は、確かにアレンを魅了していた。
それはあまりに美しくて清らかで、光みたいだった。
いつか触れたいと思っていた、の温もりだった。


決して泣かない彼女が、涙を流している。
どうしてどうしてどうして。
そんな疑問と憧憬に応えるように、もう一雫、涙が頬を濡らしていった。


「ち……っ」


唐突にが口を開いた。
アレンは本当に吃驚して、大きく肩を揺らした。


「違う違う違う、ちがうのよ!!」


はぶんぶん両手を振りながら、必死にアレンに訴えた。
口元が震えている。
それは無理に笑おうとしているからだと気付くのに、少し時間がかかった。
は掌で乱暴に頬をこすった。


「これはね、そのっ」
「…………………」
「涙なんかじゃなくて!」
「…………………」
「目から出てきた青春の汗みたいなもので!」
「…………………」
「ただのウッカリさん属性な液体なのよ!!」


は何とかいつもの調子にしたいようだったが、声も体も震えていて、うまくいかないようだった。
涙も何度拭おうとも止まらない。
それは開きっぱなしの蛇口のように、とめどなく溢れてきていた。
アレンは何も言えなかった。
ただ、ズタボロに泣きながら、それでもが涙を認めようとしないことだけはわかった。
彼女の努力は完璧に無駄だった。
アレンはやはり食い入るようにを見つめ、また彼女も涙を誤魔化せない。


今朝に限って異常事態に陥れられたのは、アレンの方だった。


「…………い、で」


掠れた喉で呻く声がする。
白い手が顔を覆い、崩れ落ちるようにベッドの上にうずくまる。
止まらない震えを殺そうと自分を抱く腕。
けれどそれは守るためではなく、痛めつけるためだけに使われているようだった。


「おねがい、見ないで……!」


冗談じゃない。


必死の懇願の声に、ようやくアレンは硬直から解き放たれた。
彼女は僕を馬鹿にしているのかと思う。
アレンは何の躊躇いもなくの傍まで歩み寄った。
その気配に金髪がびくりと揺れ、逃げ出すように背を向けようとする。




だからアレンは無理矢理にを引き寄せた。




体に手をまわして抱きしめる。
後頭部を捕らえて、胸に押し付けた。
の震える全身が、何か恐ろしいものに触れたように強張った。
彼女の小さな手がアレンの肩を強く掴む。
こちらの体を遠ざけようと足掻く。
唇からは悲痛な声が漏れた。


「や、……っ、はなして」
「………………」
「離して!」
「駄目だよ」


力の限りで抵抗して逃れようとしたの両肩を、アレンはきつく掴んだ。
近くで見ると目眩がするほど綺麗だった。
丸い水晶のような雫が、彼女を濡らしていた。
喉が震える。
声が掠れる。
それでもアレンは必死に言った。


「だめだ。君は泣いてる」


それを言葉にしたことは、にとって凄まじい衝撃のようだった。
見開かれた瞳が凍り付いて、そのまま死んでしまうのではないかと思った。
そうなる前にアレンは続ける。


「言ったはずでしょう。いつか、君の泣き顔を見て、命懸けで笑ってあげるって」


真夜中の約束。
ずぶ濡れの二人。
教団の中庭、噴水の中で誓い合ったこと。
あの日の言葉を、アレンは今、守りたかった。


「でも、…………ごめん。僕にはできない。笑えそうもない」


一緒になって泣き出しそうな自分が、ひどく情けなかった。
の涙はそれだけの魔力があった。
何があっても泣かずに踏ん張ってきた彼女のそれだからこそ、とても尊いもののように感じられたのだ。


「だから、代わりにこうさせて」


あの日の約束の代わりに、アレンはを抱きしめた。
優しく引き寄せて、全身で包み込んだ。
わななく背をなだめるように撫でる。
金髪に頬を寄せて囁く。


「マナが……」


震える唇を一度だけ噛んだ。


「父が、よくこうしてくれたんです。子供のころ………悪い夢を見た時に」


あまりの恐怖に泣き叫ぶ自分を、父はそっと抱きしめてくれた。
ただただ、抱きしめてくれた。
そうしてこう教えてくれたのだ。


「大丈夫だよ」


鼓動と体温を伝えるために強く抱擁する。
二人の間に冷たさも哀しみも恐怖も絶望も、何もかも侵入させはしない。
アレンは愛する父がくれた大いなる優しさをに与えようと口を開いた。


「だいじょうぶ。怖くないよ。もう平気だ」
「………………」
「もう怯えなくていい。哀しいことも苦しいことも夢の中に置いてきたんだ。例えそれが君の心を追ってきたとしても、心配しないで」
「………………」
「…………、僕がいるから。ちゃんと、守るから」
「………………」
「わかるだろう?ひとりじゃないよ」


ぎゅっと力を込めて抱きしめた。
は何も言わない。
されるがままになっているだけで、触れるアレンの温もりに縋ろうとはしない。
頼ってくれたらいいのに。
寄りかかってくれればいいのに。
あぁ、本当に僕まで泣きそうだ。


は決して自分からアレンに触れようとはしなかった。
その涙を認めようとはしなかった。
それで何となくアレンは悟る。
涙を流しているのは“”じゃなくて、その心の底に眠るもうひとり彼女だ。
幼いころに存在を消された、淋しがり屋で泣き虫の、小さな女の子だ。
夢の中できっと“”は彼女に出会った。
だからこそ泣いてしまったのだろう。


やっぱりその泣き顔を見て笑えそうもなかった。
これは“”の涙ではない。
だから現実に帰還した彼女はアレンに縋らない。
自分自身を侮蔑し、断罪しながら、ただただ声もなく過去の己の涙を流すだけだ。
そう思うと死んでしまいそうなほど胸が切なくなった。


アレンはもう他の事はどうでもよくなって、の体を掻き抱いた。
本当の彼女に触れたかった。
その涙が、見たかった。


「君はもう、独りじゃないよ……」


だから、もっと、ちゃんと泣いてよ。
僕の全てを捕らえて離さない、君。




















それは唐突のように感じられた。
しばらくの沈黙の後。
決して自分からは触れようとしなかったが、掌でアレンの胸を押したのだ。
ともすればわからないほど、弱い力。
躊躇がちの手。
アレンは強い衝動に駆られた。
それでも引き止めたい気持ちを殺して、そっと体を離す。


「…………落ち着いた?」
「……………」


は俯いていて表情は見えなかった。
長い金髪が落ちかかって、全てが隠れてしまっている。
けれどほんのわずかに頷いたようだった。
アレンはの頭を撫でた。


「……、顔を洗って」
「………………」
「身支度ができたら……、できたらでいいから。降りてきて。朝食の準備をしておくよ」
「………………」


今度はもう少しわかるように首肯してくれた。
アレンはほんの一瞬だけ、最後に自分の心を貫いた。
髪を撫でていた手を後頭部にまわして引き寄せる。
の華奢な体はやすやすとアレンの胸に倒れこんだ。
強く、優しく、抱きしめる。
それを最後に、アレンは離れたがらない自分の手を無理やり引き剥がして、立ち上がった。
もう振り向きはしなかった。
ベッドを降りて床を歩み、の部屋から出て行った。


パタン、と静かにドアを閉める。
その瞬間、アレンは扉板に背を預けて、ずるずるとその場に座り込んでしまった。
何だか全身に力が入らなかったのだ。
目の前がくらりとする。
閉じた瞼の裏には、の涙が焼きついていた。


(なんで、あんな……)


彼女の泣き顔が頭から離れない。
片腕を強く目元に押し付けたけれど、それは決して消えてはくれなかった。


(泣いてた……。あの子、が)


妙な衝動がアレンの心を占領していた。
切ない。
苦しい。
でも、それだけじゃなくて。


(あんな涙を見たかったわけじゃないんだ……)


唇が震えたから、息を吐いて誤魔化した。
指先をぎゅっと握りこむ。
この手で触れて、見つめて、微笑んであげたいと思ったのは、あんな涙じゃなかった。
あれはの涙じゃない。
悪夢の中から持ち帰ってしまった、過去の彼女のものだ。
そうじゃなくて欲しかったのは……、本当の“”。
今在る心の全てだった。


を揺るがし、深淵から過去を引きずり出したのは誰だろう。
昨日のビン底メガネだろうか。
ちょっと目を離した隙に、彼はに何かを吹き込んでいた。
あの時の彼女の表情といったら、表面上は取り繕っていたけれど、確かに動揺していた。
ずっと一緒にいるアレンが見過ごすはずがない。
それでも真正面から確かめることができなかったのは、何となく不穏なものを感じ取ってしまったからだ。
それを訊けば、きっとは困ってしまう。
誤魔化しの笑顔を浮かべて、嘘をつかなくてはならなくなる。
彼女がそうすることを嫌っていることは知っていた。
だから聞くこともできずに、いつも通りを装うことしかできなくて……。


あの男の言に触発されて、は悪夢に堕ちてしまったのだろうか。


(僕は何て傲慢なんだろう)


アレンは呆然と考えた。
触れるな、と思ったのだ。
誰もの心に触れるな。
その傷をえぐり、暴いて、彼女を苦しめるな。
そう思う一方で、自分にだけは見せて欲しいと考えている。
本当の涙。
本当の彼女を……。


(子供じみてる……。どうしてこんなことを思うんだ)


確実に考えがおかしい。
思考がぶっ飛んでいる。
胸の中がぐちゃぐちゃで、感情についていけない。
強くを求める心だけが、衝動のようにアレンを責め立てた。
何故、僕はこんなことを考えている?




何故、こんなにものことを―――――――………。




「アレン?」


唐突に声をかけられて、アレンは飛び上がるほど驚いた。
慌てて見てみると、廊下の向こうにドリーが立っていた。
彼女は不審そうにアレンを眺めた。


「そんなところに座り込んで何をやってるんだい?」
「あ、……」
は?いつも通り起こしたんだろう?」
「いえ……、あの……」
「おや、あの子は目を覚まさなかったのかい。まったく、とんだ居候だよ………」


ドリーはぶちぶちと文句を言いながら、大股でこちらに近づいてきた。
目指しているのは明らかにの部屋だ。
アレンはバネ仕掛けのように立ち上がって、ドリーの前に出た。


「あの!店長……」
「アレン、あの馬鹿娘を叩き起こすよ。手を貸しておくれ」
「いや、それは……!」
「早くしないと朝食が冷めちまう」
「ちょっと待ってください!!」


思わず大声で言ってしまって、アレンは自分の口を塞いだ。
ドリーは吃驚した顔でこちらを見つめている。
廊下に朝の静けさが戻ってくるまで、二人はじっとしていた。
アレンは二、三度呼吸をすると、ドリーの腕に手をかけた。


「今は……、ちょっと…………」


うまく言えなくて困る。
けれどこのままドリーをの部屋に行かせるわけにはいかなかった。
どうにか引き止める方法を考えなくては。
ドリーの性格なら、このままアレンを振り切ってしまう可能性もあるのだ。
女性に乱暴な手段は使えないし、ここで説得するしか手はなかった。
とりあえず腕を掴んだまま、言ってみる。


「お、起きてはいるんです。ただ、あの、何て言うか……、今日のはそっとしておいた方が………」
「…………………」


ドリーは下から掬い上げるように見上げてきた。
身長は同じくらいなのに、目線がそんな感じだ。
アレンはますますしどろもどろになる。
冷や汗が止まらない。
本当に困ってしまって、それでも何か言おうとすれば、ドリーはするりとアレンの手からすり抜けた。
普通に踵を返して歩き出す。
ぽかんとするアレンに、背中越しに言った。


「あんたは……、いや、あんた達は」


それは何だか母みたいな声だった。


「もっと上手に大人に甘えてみたらどうだい。……ガキが」


最後だけ妙に吐き捨てるような調子である。
ドリーはそれ以上何も言わずに、すたすたと階段を下りていった。
取り残されたアレンは、それを呆然と見送るしかなかった。


階下からは、おいしそうな朝食の匂いがしている。




















要するには変人なのだ。
やることなすこと唐突で常識外れで、いつだって悪目立ちをしている。
騒ぎの元凶。
とびっきりの問題児。
一緒にいる自分はそれをどうにかしてやろうと思って、何かと彼女のことを気にかけてしまう。


(そう、それだけ)


アレンはコーヒー豆を挽きながら、ぼんやりとそんなことを考えた。
視線はカウンターの向こうに向けられている。
そこには元気に働く金髪のウェイトレスがいた。


は完璧にいつも通りだった。
朝食の席こそ一緒にはしなかったが、それらの後片付けをする頃には降りてきて、ドリーに寝坊を謝ったのだ。
アレンにも「ごめんごめん、お詫びにコレあげる」とか言いながら、自分の分のクロワッサンを無理やり口に突っ込んできた。
それまでアレンはの顔もまともに見れない感じだった。
なのに彼女といえば、普通に目を合わせてきて、しかもにこりと笑いかけてきたのだ。
あまりにいつも通りすぎて、アレンとしてはかなり腑に落ちない。
………………どうせまた意地を張って無理にがんばっているだけなのだろうけど。


相変わらず人でごった返した店内で、は接客に励んでいた。
客達と会話を交わしては楽しそうに笑っている。
アレンは緩慢に作業を続けながら、ぼんやり彼女を眺めていた。


(だって、今朝のことがあるから……。あんな風に僕を驚かせたんだ。気にならない方がおかしいだろう)


胸の中で自分への言い訳を繰り返す。


アレンは何だかが気になって気になって仕方なかった。
彼女が今、何をしているのか。
そんなのは目の前にいるのだからすぐにわかるけれど、それだけじゃなくて。
本当はどんな表情で、何を思っているのか。
心では、まだ泣いているんじゃないのか。
そんなことばかりを考えている。
頭の中をぐるぐるまわっている。


を気にかけていたのは教団にいた頃からで、けれどそれはあの珍しい生物を対する純粋な興味からだった。 
反応が面白いからからかって、予想外の行動が楽しいから傍にいる。
………………よく考えれば結構ひどい理由かもしれない。


いや、そんなことより今だ。
アレンは教団にいた頃よりもに意識を捕らわれていた。
任務で離れ離れなのはしょっちゅうだったし、本部にいても顔を合わせない日だってあった。
それなのに四六時中一緒にいる今の方が、彼女のことが気になるだなんて。


(おかしい。いいや、おかしくない。…………どっちだよ)


自分のことなのに、わけがわからないことだらけで困る。
アレンは悶々としながら挽いたコーヒー豆を専用の容器に移すと、今度はチョコレートを取り出してきた。
ドリーに、「お菓子を作るから湯煎しやすいように細かく砕いといとくれ」と言われていたのだ。
まな板の上に茶色の塊を置いて包丁を当てる。
妙に固い。
仕方なくアレンは力の強い左手に刃物を持ち替えた。


(何だか自分の胸倉を掴んで問い詰めたいほど不本意だ……。こんな、のことで、頭がいっぱいだなんて)


はぁ、とため息が漏れた。
そんな憂いを帯びた美少年の様子に、女性客の何人かは胸をときめかせたのだが、本人は知る由もなくを眺め続ける。
どうしてだろう。
目が逸らせない。
あの人は何を平然と男性客に手を握られているんだろう。
早く振り払って仕事に戻れ。
思わず包丁をガンガンとチョコレートに振り下ろす。
あぁ、気に食わない。
顔も髪も瞳だって、綺麗すぎて嫌になる。
あんなの惹かれるなというほうが無理だ。
いつだったか、は自分の髪が好きじゃないと言っていた。
落ち着いた色の真っ直ぐなのが欲しかったらしい。憧れは神田だそうだ。
何とも贅沢な話である。
あんなキラキラ輝く柔らかい髪、滅多にないだろうに。
師匠の借金なんかのために切らせなくて、本当によかったと思っている。
肌は白い。
今日はちょっと顔色が悪い。
そういえば食欲もなかったような。
眼は金色。
見たこともないくらい深い色。
光みたいだと何度も思った。
その美しい双眸で視界がいっぱいになって、薄紅の唇が、


「アレン!!」


僕の名前を呼んだ。


そこでアレンはハッとした。
本当に目の前にが立っていたのだ。
吃驚して包丁を取り落とす。
けれどは構わずに叫んだ。


「手!」
「…………て?」
「右手!血が出てるよっ」
「え…………、ああ」


言われて見てみれば確かに右手から血が出ていた。
を眺めながらぼんやり作業していたのが悪かったのだろう。
力の強い左手でチョコレートを砕いているうちに、自分の右手まで切っていたようだ。
自覚した途端、傷が痛みだした。
結構深く裂いてしまったらしい。
血が溢れてきて落ちそうになったから、ようやくアレンは慌てた。
食材に血液を混入させるわけにはいかないからだ。


「うわ、どうしよう」
「かして!」
「え」


アレンは驚いて目を見張る。
気がついたときには右手を奪われ、温もりを感じていた。


が傷口に唇をつけ、血を舐め取っていたのだ。


彼女の舌が皮膚を優しく撫でていった。
熱くて柔らかい。
背筋がぞくりとする。
言葉を失っていたアレンは、熱を持った悪寒のようなものを感じて全身を強張らせた。


「…………っ、ちょ、……」


傷口を這う舌から血がこぼれて、の唇を真っ赤に染めていた。
視覚的にも感覚的にも問題がある。
与えられる温もりに、アレンは肩を震わせた。


……ッ、やめ……!」
「あぁもう血が止まらない」


頬を紅潮させて右手を取り戻そうとするアレンを無視して、は眉を寄せた。
わずかに唇を離して傷口を見る。
またじわりと赤がにじみ出てきた。


「たいした怪我かも」
「いや、大丈夫だから……っ」
「痛そう」
「とりあえず離して……!」
「ダメ」


はそう言うと、またぺろりとアレンの血を舐め取った。
アレンは小さく悲鳴をあげたが、彼女には聞こえなかったようだ。
そのまま振り返ってドリーに言う。


「ちょっと奥で手当てしてきます。ここをお任せしても構いませんか?」


何だか客達はざわめいていたが、ドリーはいつもの顔で首肯した。
店主の了解を得ては身軽にカウンターの中に入ってくる。
そして掴んだ手を引っ張って、赤面したままのアレンを店の奥へと連れて行ったのだった。




















ああ、もう絶対今ごろホールでは自分達のことを好き勝手に言われている。
実際に手を舐められている最中も、どやどや騒がれていた気がするのだ。
きっとドリーは「あの二人はもしかして」的なことで質問攻めにあっていることだろう。
けれど当の本人はあくまで平然とアレンの前に座っていた。


「ちょっとしみるけど我慢してね」


どんな消毒液でもどんとこいだ。
どうせ傷口には痺れたみたいに感覚を失っている。
向かい合って座ったままアレンがそう思っていると、は言葉通り消毒液をかけてきた。
………………どうしよう、本当に何も感じない。
の唇と舌の感触だけが鮮明に残る傷口は、まったくと言っていいほど痛まなくなっていたのだ。
何でだとも思うし、ちょっと単純すぎないか自分とも思う。
とりあえずアレンは口を開いた。
何だかまたの目が見れないから、視線を落として。


「………………あ、ああいうこと普通にしないで」
「え?ああいうことって?」


はアレンの手にガーゼを当てて、手早く包帯を巻きながら聞き返していた。
アレンは言葉を詰めて、小さく続ける。


「だから……、傷口を」
「あー……、ごめん咄嗟に。嫌だったよね」
「い、嫌ってわけじゃ……」
「ちゃんと消毒したから大丈夫、だと思うけど……。ごめんね」
「……………………」


何だか通じない。
というか話がぎくしゃくしている。
自分が意識しすぎているだけなのはわかっていたが、それでも変な雰囲気だった。
しばらく沈黙がおりた。
は一生懸命アレンの怪我の手当てをしてくれている。
アレンはそれを眺めながら、言うべき言葉を探した。


「あ、……」
「ごめんなさい」


そこでに先を越された。
驚いて顔をあげてみると、彼女はせっせと包帯を巻いていた。
伏せられた瞼が、少しだけ震える。


「今朝……、驚かせて」
「…………………………………………、いいよ」


アレンはさんざんどう答えようか考えて、ようやくそれだけ返した。
まさかからこの話題をふってくるとは思ってもいなかったのだ。
鼓動が速くて胸が痛い。
またしばらく沈黙した。
は何かを躊躇っているような雰囲気だった。
数回瞬きをして、思い切ったように口を開く。


「どうして何も訊かないの」
「訊いてもいいの?」


反射的にアレンはそう返してしまった。
は手を止めてアレンを見上げた。
瞳が合った。
久しぶりに真正面から顔を見合わせた。
アレンは彼女に全ての意識を奪われながら囁く。





怪我に添えられた白い手を、左手で握った。
の指先から包帯が零れ落ちて転がる。
呼吸を忘れて見つめ合えば、他に何も聞こえなくなった。
ただ互いの鼓動だけを感じた。
アレンは無意識の内にに身を寄せた。
距離が近くなって、もう金色の瞳しか見えない。
けれどそこに自分の姿が映っているのに気がついて、ハッと息を呑んだ。


駄目だ、と思った。
このまま己の想いを口にすれば、きっと。


(傷つける)


「訊かないよ」


アレンは静かに目を細めて、言った。


「…………僕は、あのときの約束を守れる自分になりたいのだから」


君の泣き顔を見て、ちゃんと微笑んで、受け止めてあげられるように。
そんな自分を得られるまで、きっと口にしてはいけない。
問いかけてはいけないのだ。
今はまだ、心の中だけでしか。


(教えてよ……)


アレンは苦しみに胸を満たしながら、そっと瞳を閉じた。


(教えて、。どうすれば、その心を傷つけずに、本当の君に触れられるの……?)


は何も言わない。
その胸の内を見せてはくれない。
それは、彼女が己について何ひとつ口にすることはできない特殊な境遇にいるからだろうか。
きっとそれだけじゃなかった。
彼女は強がって、意地を張って、必死に踏ん張って生きてきたのだ。
いつだって、弱い己と全力で戦ってきた。
その孤独な戦闘に、他人が立ち入ることなどできはしない。


(それでも)


続きを無理に押し殺して、アレンは握っていたの手を離した。


「何も訊かない。でも、君の心が、もう泣いていなければいいと……思ってるよ」


今はこれだけ言うのが精一杯だった。
指先を伸ばせば届く距離なのに、そうする資格がなくて哀しくなる。
ひどく情けない。


はやはり何も言わなかった。
しばらくの後、膝に転がった包帯を取り上げて、手当てを再開する。
怪我よりも、彼女に触れられた部分の方が熱を孕んでいるようにアレンには感じられた。
痛い。
その時、ぎゅっと包帯を縛りながら、が口を開いた。


「なんか……すごいよね」
「え……?」
「“何も訊かない”って、私の心を読んだみたい」


やっぱり彼女は、その心を語る言葉を持たないようだ。
それは自身の意思で拒絶しているのか、ブックマンからの指示に従っているのか、アレンには判断がつかない。
どちらでもよかった。
が本当の自分を見せてくれないという一点において同じならば、他はどうでもよかった。
右手をきつく握りこむ。
触れたままだったそこから、はそっと指先を離した。


「アレンって、何だか付き合えば付き合うほど勘がよくなってる気がするなぁ」


それは妙に明るい声だった。
普段を意識しているのだろう。
はもうこの話を打ち切りたいのだと思って、アレンは思わず席を立った。


「なんだろう、野生帰り?そのまま魔界に帰ったら?」
「君を退治したらそうしますよ」


いつもの調子で言われたから、アレンも同じように返した。
それでも、どうしても彼女の方を見ることができなかった。
背を向けて、ほとんど逃げるように歩き出す。
けれど、一歩を踏み出す前に、儚い力を感じた。
服の後ろを引っ張られたのだ。
アレンは驚いて振り返ろうとしたけれど、それより先に彼女が動いた。
背後からだ。
がアレンの服を掴み、その背に額を押し付けてきたのだ。


「うそ。ごめん」


小さな声が聞こえる。
視線だけで振り返っていたアレンは、顔を前に戻した。
の肩がわずかに震えたのを見てしまったからだった。


「ごめんね」
「………………」
「本当は……うれしい」


はぎゅっとアレンの服を握った。




「傍にいてくれて、ありがとう」




そんな、ことで。
お礼を言われるとは思っていなかった。
アレンはかぁっと頬を染めて、咄嗟に言ってしまった。


「あ、あんなに」
「…………………」
「僕が一緒に働くのを嫌がっていたくせに」


口にしてから後悔したけれど、嘘ではなかった。
はクロスと自分の借金はひとりで返すと言い張って、アレンまでここに残るのを嫌がったのだ。
あれにはちょっと…………かなり傷ついたのでよく覚えている。
てっきりは自分と一緒にいたくないのだと思っていたのに。


は少しの間、黙っていた。
アレンは赤くなりながらも冷や汗を浮かべる。
猛烈に珍しいことに彼女が素直になったというのに、何てひねくれた言葉を返してしまったのだろう。
案の定、は怒ったような声を出した。


「だって仕方がないじゃない」


握られていた服が離され、温もりが遠ざかる。
アレンの横を金髪がすり抜けた。


「あのとき私が“力になりたい”って思ったのは、クロス元帥だけじゃないんだから!!」


それだけ言い残して、は部屋から飛び出していった。
アレンはしばらくぽかんとしていた。
ちょっと意味がわからなくて固まる。
傍を通りすぎた時、わずかに見えたの顔。
その両頬は、赤く染まっていた。
それに、何だって?
“力になりたい”と思ったのは、師匠だけじゃない?
じゃあ他に誰がいるって言うんだ。
そこまで考えてアレンはふと思い出した。


『好かれるより先に、力になりたい』


クロスの借金を自分が返すと言って聞かなかった、の言葉。


『大切な人の助けになりたいだけよ』


そう思った対象が、師匠だけじゃない…………?
アレンの脳内をいろいろなことが駆け巡った。
クロスの借金を「君には関係ない」と言ったときの、の強張った顔。
ひとりで全ての責任を負おうとしたときに、「だけの問題じゃない」と怒ったアレンに返した、彼女の言。
そしてようやく全てを納得すると、アレンは真っ赤になった。
頬に血が上がってきて朱に染める。
あまりに驚いたので、口元を手で覆って、後ろの椅子にふらりと座り込んだ。


ああ、つまり。




は、借金を背負わされた、僕の助けになりたかったんだ…………)




もちろん、憧れのクロスのためというのがあるのだろう。
けれど、それだけじゃなくて。
はアレンの力になりたかったのだ。


だからあんなに強情を張って、自分までこんな村に残って、一緒に借金を背負い込んでくれたんだ。


は意外なほどに照れ屋だから、それをアレン本人には知られたくなかったのだろう。
アレンが一緒に働くことを嫌がったのも、そのせいだ。
その金髪を売って、ドリーの店で働いて。
そうしてクロスの借金から、自分ひとりの力で、アレンを解放しようとしてくれていたのだ。


今さらそれを知ったアレンは、ただただ赤面するしかない。
嫌われていたわけではなかった。
それどころか力になろうとしてくれていたのだ。
今までのこと、全部ぜんぶ。


『大切な人』


の声でそう再生された。
自分はいつの間にそんなだいそれたものになっていたのだろう。
鼓動がうるさいほどに高鳴っていた。


(どうしよう)


相変わらずは、こちらの予想を裏切る達人だ。
死ぬほど驚かされてしまった。
けれど…………。


(それが、こんなに、嬉しいだなんて)


最近、僕はどうかしている。
アレンは胸を押さえてきつく目を閉じた。
湧き上がってくる感情を必死に否定する。


それでも戸惑うアレンを追い越して、鼓動はを追いかけていた。


違う。
そんなんじゃない。
そんなわけ、ないじゃないか。


胸を焦がす感情。
その激しさにたまらなくなる。


アレンはひとり、震えた吐息をつくしかなかった。










とっても青春でした、ありがとうございます。(笑顔)
ティキのせいで妙な感じになっていた二人ですが、案の定な展開です。
こういう雰囲気は書くのに本当に苦労します……。素養がないんで。^^
まぁアレンに気にするなというのも無理な話でしょうね〜。
今の今まで絶対に涙を見せてくれなかった子が、突然わけもわからず子供みたいに泣いていたら構いたくもなるかな……、と。
ちなみにヒロイン(というか過去の彼女)にとって、冒頭の夢はトラウマの塊です。心の闇の集大成です。
本当はもっとグロ描写を盛り込んでいたのですが、年齢制限のないサイトなので自重。
そのぶんこれからの展開で痛めつけますよ!(笑)
次回はティキのターン。引き続きがんばるアレンもよろしくどうぞ〜。