壊れそうな感情。
くだらない理性。
そんなもの全て捨て去ってしまえばよかったんだ。
あんな風に、彼女を奪われる前に。


そうして僕は後悔に顔を覆うことになる。







● 蝶と口づけ  EPISODE 6 ●







「ヒーマーさぁ!」


ラビは不機嫌極まる声で叫んだ。
黒の教団、談話室でのことだ。
そこのソファーの上で、ジタバタと転がりまわる。
抱きかかえていたクッションを放り投げて、もう一度声をあげた。


「ヒマすぎるー!!」
「うるせェよ!!」


唐突にそう怒鳴られて、ラビはちらりと視線をあげた。
予想通り、そこには肩をいからせた神田が立っていて、自分に睨みをきかせていた。
どうやら偶然ここを通りかかったらしい。
騒音公害と化していたラビに、神田は続けた。


「少しは静かにできねぇのか、馬鹿ウサギ」
「あー、ごめん。オレ今ユウと遊ぶ元気ないから。ホンットごめんなー」
「言葉が通じねぇ……!」
「うぁぁああヒマさー!もう死ぬー!つまんねー!!」


怒りに青筋を浮かべた神田を無視して、ラビはまたジタバタし始めた。
テーブルの上には食べ散らかした菓子の山と、年齢制限がかかりそうな雑誌が積まれている。
それらを全て放り出してラビは暴れていた。
必死の暇つぶしも万策尽きてしまったようだ。
神田が苛立たしげなため息を吐き出した。


「せっかくバカ女がいないのに、うるさくするんじゃねぇよ」
がいないから騒いでるんさ!」


ラビはソファーに突っ伏したまま、そう返した。
神田はわずかに黙り込んだ。
見下ろせば、ラビの赤毛の上に黒いゴーレムが乗っている。
そこからはツーツーという無常な音が響いていて、神田まで憂鬱にさせた。
ラビはゴーレムで何度も達に通信を試みていたようだった。


「全然通じないんさ」
「………………」
「もう何日だっけ」
「……、テメェなら嫌でも覚えてるだろ」
「数える気なんてないけどなぁ。こういうとき記録するクセが憎い」
「唯一の特技だっていうのにか?」
「唯一って、ひでぇさー」


ラビはわずかに顔をあげて、苦笑を浮かべた。
神田は横目でそれを見下ろす。
何となく二人は沈黙した。


アレンとから連絡が途絶えて、もう数週間が過ぎていた。
職業上よくあることだから、まだ誰も騒いではいない。
けれどそろそろ限界だ。


「なんで、帰ってこないんかなぁ……」


ぼそりとラビはひとりごちた。
彼らを信じていないわけではないけれど、気にかけるなと言うのも無理な話だ。
真面目なアレンも、親友のも、ここまで音通不信になったことはなかったのに。


「どうせ、すぐに戻ってくるだろう。いつも通り馬鹿みたいに笑って」


神田はひどく乱暴にそう言い捨てた。
どうやら相当ストレスがたまっているらしい。
自分だけでなく、彼も我慢が最高潮に達しているようだった。
ラビは眉を下げて微笑んだ。
どちらもそれを心から信じていた。


「ん。だよなぁ」


その時、談話室に小柄な影が入ってきた。
神田が振り返り、ラビに目線で合図をする。
見上げてみればパンダジジィ……もとい師匠のブックマンが立っていた。


「ラビ」
「何さ」


呼ばれてラビは素っ気ない返事をした。
ヒマすぎて元気がでないのだ。
けれど弟子のやる気のない声には構わず、ブックマンは問いかけてきた。


「あの二人と連絡は取れたか?」
「憂鬱の原因をアッサリ聞きやがったな、こんにゃろ……」


ラビは半眼になった。
思わずブックマンを睨みつける。


「ちっとも繋がんねぇさ。アイツらなら無事だって知ってるけど、オレは退屈すぎてもうマジ無理………」
「お前のことはどうでもいい」


ブックマンはラビの不満を一刀両断にした。
むくれる弟子など放り出して、ゴーレムを奪い取る。
もう一度無線を繋ごうとしたが、やはりその努力は無駄に終った。
ブックマンはため息をついた。


「やむをえんな……」


ゴーレムを返すと同時に、ラビに黒いメイクで覆われた瞳を向ける。
そして命令を下す。
その声は普段よりわずかに低かった。


「旅立つ準備をしておけ。ラビ」
「…………、こんなときに仕事かよ」


即座にそう判断したラビはつい愚痴をこぼしたが、続いた指示は予想外のものだった。


「ああ、そうだ。これ以上連絡がないようなら、我らは教団を離れて動くことになる」
「え……」
「小娘を捜すのだ。あれを野放しにはできん」


静かに告げられて、ラビは翡翠の瞳を見開いた。
咄嗟に言葉が出てこない。
代わりに神田が口を開く。


「どういうことだ。……バカ女を捜す?教団はまだそんな決定を下してはいない。その意向を無視して動くというのか」
「……すまんな。話すことはできない」


ブックマンは神田を見もせず言った。
ラビは呆然としたまま、師を見つめた。


「アレンは……?」
「………………」
「アレンは無視かよ」
「いいや。あの小僧も特殊な預言を受けた人間だ。一緒にいるようであれば保護しよう」
「………………、あくまで優先か」
「その通りだ」
「それが、ブックマンの仕事って?」
「当たり前のことだぞ。あの娘は我々が“庇護すべき者”なのだからな」
「だから勝手にいなくなられたら困るってことか」


喉の奥でそう呟いたけれど、ブックマンは答えなかった。
その沈黙が肯定を示している。
ラビは唇を噛んだ。
野放しにはできない?だから捜す?
アレンを後回しにして、そんな理由で。
切なさのような苛立ちのような感情が喉をせりあがってきて、ラビは吐き出すように言った。


「旅立ちの準備はしない」
「ラビ」


咎めるようにブックマンが呼んだが、ラビは首を振って続けた。


「そんなのは必要ない」


そうして神田に向けて無理に微笑んでみせた。


「な?ユウ」


神田は即座に頷いてくれた。


「ああ。わざわざ捜しに行くまでもねぇ」
「だって、アイツら帰ってくるもん」
「もうすぐな」
「絶対に」


ラビと神田は顔を見合わせて、不敵な笑みを浮かべた。
そうすることで信じる心を強く持った。
ラビは胸の痛みを押し殺して言う。


「ちゃんと、帰ってくるさ」


なぁ、そうだろ?
じゃないとオレ、友達としてじゃなくて、ただの義務でオマエらの無事を祈らなきゃいけなくなる。
そんなこと絶対だって知ってるのに、願わなきゃいけなくなる。
不様なことをさせないでくれ。


「帰ってくるさ……、ここに」


ラビは仲間たちを信じて、強くそう囁いた。




















「マズイよね……」


は唸るように言った。


「マズイですよ……」


アレンもまったく同じ調子で返す。
場所は店の奥。
厨房脇の小さなテーブルでのことだ。
向かい合って座った二人は、互いに視線を落としたまま、何度も頷きあった。


「うん……、やっぱりマズイよね」
「ええ……、やっぱりマズイですよ」


視界の隅で震える手が、相手も同じ気持ちなのだということを知らせている。
異様なまでに深刻な雰囲気で落ち込むアレンと
辺りに立ち込めた不穏な空気が、事の重大さを告げていた。


「……あぁ、マズイ」
「……マズイです」


囁き声は、今にも死にそうな感じである。
二人は一度きつく目を閉じると、椅子を蹴立てて立ち上がった。
眼前のテーブルをぶん殴って叫ぶ。


「ほんとマズイって、そろそろ本部に連絡入れないとー!!」
「本当に不味いですよ、相変わらず君の手料理はー!!」


あれ?話が噛み合ってなかった。
そう思って沈黙。
アレンとは蒼白な顔で、しばらく睨み合った。


「………………」
「………………」
「………………」
「いたっ」


は無言でアレンの頭にチョップを喰らわせた。
アレンは恨めしそうな目をしたが、自分のほうがずれたことを言った自覚があったので、仕返しはしなかった。
二人は同時に椅子に座りなおす。


「どっち先にする?」
「じゃあいつもの方から」
「わかった。お願い」
「はい」


短い言葉を交わすと、アレンは手にしたスプーンで眼前の皿を指した。
そこに盛られた何とも不気味な物体。
パッと見、これが食べ物だとはわからないようなシロモノだ。
アレンは低く語りだした。


「とにかく不味い」
「ハッキリ言いますね、アレンくん」
「不味いと言うか、凄い」
「何が」
「口に入れた時の衝撃とか、飲み下した時の威力とか、後から襲ってくる不快感とか、全体的に破壊力抜群。すごい」


アレンはもういっそ誉めるような口調になっていた。
皿に盛られたエグイような赤を覆う、黒コゲの何かをつつく。
は神妙に尋ねた。


「…………具体的には」
「材料に変なものを混ぜるな。ケチャップライスが何でこんなドスぐろい赤になるんだ」
「いや、調味料は多い方がおいしいかなと思って。厨房にあった赤系統のものを片っ端から入れてみました」


どうりでひどい味がしたわけだ。
アレンは妙に納得して次に行く。


「調理具は正しく使って。包丁が砕け散るとか、ハンドミキサーが大破するとかおかしいから。微妙に破片が混入してて、怖いから」
「だって食材はきちんと切って、きちんと混ぜなきゃ!全身全霊をかけてやらせていただきましたとも」


さすがはいつでも全力投球のだ。それはもう腹立たしいほどに。
アレンはそう思いながら、少し強く皿の上の物体をつついた。
墨と化していた部分が一気に崩れ落ちる。


「卵焦がしすぎ。よくここまで炭化させたね。厨房の火力ってこんなにあったっけ……?」
「それが何故だかラビの『火判』並みに燃え上がっちゃって。私の熱い料理人ソウルに応えてくれたんだね、きっと!」
「…………………」


うわぁ……とか思って黙り込むアレンを、は上目づかいに見つめた。


「そ、それで……、総合評価は?」
「0点」


アレンは容赦なくそう告げた。
金の瞳が驚きに見開かれる。
けれど次の瞬間には喜びに顔を輝かせていた。


「やったー!!」
「なに0点で喜んでるの」
「だって!今まで恐ろしいほどマイナスだったのに!ようやく0まで辿り着いたよっ」
「まぁ、かろうじてオムライスだってわかりますからね、コレ……」


アレンはため息を吐き出しながら、またそれをつんつんした。
事実としては、常人にはオムライスには見えないシロモノだ。
アレンがそれと認識できたのは、ただ単に、ここ数日の手料理を食べ続けていたからだった。
暇があるようなら、アルバイトの二人は交代で昼食を作ることになっていたのだ。
アレンは最初こそ死ぬほど嫌がっていたのだが、がんばって料理をするを見ているうちにどうにでもなれと思えてきた。
ちなみに今回も半分くらい食したあとから記憶が曖昧だ。
人間、生きていくのに都合が悪いことは忘れるようにできるらしい。素晴らしいことである。
それでも舌を刺激する感覚に、うえぇと思ってグラスに手を伸ばせば、向かいのが目に入った。
何だかウキウキしている。
すごく嬉しそうだ。
誉められた……いや別に誉めてはないのだが、アレンがいつもより優しい評価をしたので、純粋に喜んでいるらしい。
その様子に、アレンは肩の力を抜くようにして微笑んだ。
けれど、そこで自分の手料理を口にしたが一瞬で顔色を失ったから、手にしていた水を差し出す。
は死にそうにむせながら一気にグラスをあおった。
そしてテーブルに撃沈。


「ま、まずい……」
「自分で作ったものに殺られてたら世話ありませんね大丈夫?」
「いつも通りまずいよ!」
「だから力の限りでそう断言したでしょう」
「でも何か平然としてるからー!」
「毎食ごとに死ねって言うんですか。僕だっていいかげん抵抗力が……いや殺菌力がついてきたんですよ」
「……………それってかなりすごくない?」


は突っ伏したまま細く言う。


「もう私の料理が食べられるのって、アレンだけなんじゃないのかな」
「…………………」


その言に、アレンは当たり前だろうと思う。
の手料理なんて、口にするのは僕だけでいい。
そう考えて何となく頬を赤くする。
アレンは誤魔化すように言った。


「こ、恒例のダメ出しも終ったことですし、そっちの話をしてくださいよ」
「ああ……」


促せば、は蒼白の顔をあげた。
気持ち悪そうに口元を覆って、お礼と共にアレンにグラスを返す。
はぁと息を吐いて唇を開いた。


「だから、そろそろ本気でマズイと思うんだ」
「本部に連絡しないとって?」


アレンは食事を続けながらを見た。


「確かにみんな心配してるだろうけど……」


彼女の深刻な顔を眺めながら呟いた。
ドリーではないが、そこまで急くこともない気がする。
そう考える自分はやっぱりあのクロスの弟子なのだろうか。
それとも、数年間どこにも所属せずにアクマを狩ってきたからだろうか。
まだ組織というものに慣れていないのかもしれない。
けれどはわずかに俯いて小さく続けた。


「うん、まぁ……。それもあるんだけど……」
「え?」
「私が問題でね。そろそろブックマンのじーさんが動き出しちゃう」
「どういうこと?」


アレンは目を見張って聞き返したのだが、は答えなかった。
下を向いたまま独り言を呟く。


「中央庁が出てくる前に、…………」


最後の方はよく聞き取れなかった。
ただ“監視”や“拘束”といった単語を捕らえる。
の表情からして、あまり楽しくない話題のようだ。


(例の重要機密か……)


アレンはそう悟って思わず顔をしかめた。
自分には決して知ることの出来ない、の話。
考えただけで気分が重くなった。
ふいにが瞳をあげて微笑む。


「とにかく私は考えたわけよ」
「…………何を?」
「教団と連絡を取る方法を」


スプーンを振りながら言われて、アレンは首を傾ける。
さりげなくの皿を引き寄せながら尋ねた。


「どうするつもりです?ティムは相変わらず行方不明だし、君のゴーレムは」
「レムちゃん」
「誰が呼びますか。……は、故障中だし。この村からは国際電話はかけられませんよ」
「だから、隣町まで行こうと思って」


あっさり告げられてアレンはちょっとの間手を止めた。


「はい?」
「隣町まで行って、国際電話をかけてくるよ。とりあえず報告を入れておけば大丈夫だから」
「…………仕事は?」
「そこでアレンにお願いなわけ!」


は神妙に頷くと、顔のまでぱんっと手を合わせた。
アレンを拝むように頭を下げる。


「半日だけお休みをちょうだい!今から出れば、夜には隣町につけるから」
「………………」
「超特急で済ませてくるって、約束する」
「……………………帰りはどうするんです」
「夜通し森を歩けば、明朝には帰って来られる。すぐに仕事に戻るよ。だからお願い……」
「冗談じゃない」


アレンは強く言って、の喉元にスプーンを突きつけた。
は小さく悲鳴をあげたが構わない。
ずいっと顔を寄せて低く告げる。


「夜の森に入るだって?そんな危ないこと許しませんよ」
「え……?ええ?」
「今から出て、明日の昼に戻ってきてください。一日ぐらい僕だけで何とかします」
「………………」
「店長の許可は?もう取ってるんでしょう」
「…………う、うん」
「じゃあ、さっさと食べて。とっとと行ってきて」
「い、いいの?」


そこでが窺うように聞いてきたから、アレンは眉を吊り上げた。
スプーンの柄でバチンッと額を弾く。
イイ音がして金の瞳に涙が浮かんだ。


「君が厄介な事情持ちだってことは、僕だってとっくに承知しています」
「でも、そんなのアレンには関係……」
「ないとか言ったら怒りますよ」
「………………」


最高に低く言ってやると、は口をつぐんだ。
もうアレンにだってわかっていた。
だって今、こう思っている。
の問題を、自分の問題にもしてほしいって。
そう考えたのはきっと彼女の方が先だ。
こうやって一緒にこの村に残って、借金を返そうとしてくれているのが、その証拠だった。


「だから」


アレンはスプーンを引っ込めて、金の前髪がかかるの額をさらりと撫でた。


「一人でがんばらなくてもいいよ」


そう言うことで、の気持ちが少しでも軽くなればいいと思った。
どうせこの人のことだ。
半日だろうが、仕事を抜けることを心底申し訳ないと思っているはずだった。
けれど報告を入れなければ厄介なことになってしまう。
自分の都合で、アレンやドリーに迷惑をかけてしまう……。
そんなことを考えて、見た目では想像できないが、絶対に落ち込んでいるのだとアレンは知っていた。
だから目を見張る彼女に言う。


「教団に連絡を入れて、皆に心配をかけたことをせいぜい怒られてきてください」


そして今度は指先での額を弾いた。


「僕の分までね」


アレンがにやりと笑うと、は痛むおでこを押さえて少し顔を赤くした。
それを見て何か文句を言われるだろうとアレンは予想したが、彼女は黙ったままだった。
そのまま視線を落としてしまう。
あれ?珍しい……と思って首を傾けて、けれど次の瞬間にはやっぱり声をあげられていた。


「ああっ!アレン、私の分まで食べちゃったの!?」


は慌てた動作でアレンの手元を指差した。
そこにはこっそり奪った彼女の皿があり、綺麗にからになっている。
不味いけれど食べたい。
食べたいけれど不味い。
そんな最強最悪のジレンマを、アレンは見事乗り越えたのだ。
大好きな食のために命懸けの成長を成し遂げたわけである。
それを手早く伝えたアレンは、不味さに蒼白になった顔で、それでも穏やかな頬笑みを浮かべてみせた。


「ごちそうさまです」


手を合わせてそう言ってやった途端。
怒りの鉄拳が飛んできた。
アレンは笑い声をあげながら、それを回避した。








それから間もなく、着替えをすませたが階下に降りてきた。
すでに仕事に戻っていたアレンは何となく目を見張る。
思わず手を止めて凝視していると、は小首をかしげた。


「なに?」
「いや……、久しぶりにだなと思って。その格好」


呟きながらを眺める。
彼女が纏っているのは漆黒の上下。
カッチリした上着に、ミニのプリーツスカート。
しなやかに伸びた脚にはニーハイソックスが着けられていた。
いわゆる『黒の教団』の団服。
エクソシストの制服みたいなものだ。
はアレンの言葉を聞いて、団服の裾を引っ張った。


「いつもコレだったじゃない」


彼女の言うとおりだった。
出逢った当初からはこの姿だったし、知り合ってからもずっとコレだ。


「…………最近はずっとウェイトレスの服装だったから」


そう言ってみるけれど、そんなのは理由にならないと知っている。
じゃあ何でこんな久しぶりに感じるのだろう。
アレンはを見つめるのを止めて、皿洗いに戻った。
手を泡まみれにしながら考える。


(つまり……、ここ数週間のは、“エクソシスト”に見えなかったんだ…………)


シンプルな紺のワンピースに純白のドレスエプロンという衣装。
レースの髪留めを頭に飾って、髪形もいつもと違った。
格好が変われば、見る目も変わる。
けれどそれだけじゃなくて、意識の上でもそうだった。
店内でくるくるとよく働くは、問題こそ起こしはするものの、魅力的なウェイトレスだったのだ。
もとより人と接するのが上手いし、客相手の対応も完璧。
おまけに臨機応変に振舞える度胸と頭を持っている。
掃除や雑用もテキパキこなすし、料理が壊滅的に下手だから厨房には立つなとドリーに厳命されていたけれど、何とか手伝えるようがんばっていた。
そんなだから彼女目当ての客は老若男女問わずで、皆から慕われている。
たった数週間で彼女は完璧に『カフェ・イグナーツ』の看板娘となっていたのだ。


(普通……、の女の子にはやっぱり見えないけれど)


あの強烈過ぎる見た目と中身では、それは無理な話だ。
けれど、


(生きていけるんじゃないかな……。こうやって、どこかで働いて、ひとつの場所に住んで。なら、絶対にどこでもやっていける)


アレンはぼんやりと考えた。


(“エクソシスト”じゃなくても、きっと…………)


そこで手にしていた皿をひょいと奪われて、アレンは目を瞬かせた。
隣を見てみると、当たり前のようにがそれを拭いている。
どうやら汽車の時間まで少し暇があるようだ。
けれど考え事の最中だったので咄嗟に反応できない。
ただ、その横顔を眺めて思い直した。


には決して平凡な幸せは訪れない。
それは彼女が生粋のエクソシストだからだ。
戦うことから逃げることはできず、また自らの意思でそうしないだろう。
彼女は“”になった瞬間から、責務に拘束され、信念で命を繋いだ。
アレンと同じように、死ぬまでこの道を歩むと決めたのだ。
だからきっと今だけなのだ。
こんな穏やかな日々に生きるを見られるのは。


それに気付いてしまえば、その身に纏う黒の衣装が哀しく思えた。
団服はを戦場に引き戻す。
そんなもの、脱いで欲しい。
ここは本当は自分達の居場所ではないと知っているけど。
アレンもも失った、二度と手には入らないこの日常に、どうか。
どうか、今だけはもう少しだけ、当たり前の幸せの中に居て欲しい。


「…………はやく、帰ってきて」


自分がそう思っていることを知ったのは、無意識の内に呟いてしまった後だった。
がアレンを見上げてきた。
その見開かれた瞳に驚きの色を見て取って、ようやくアレンは赤面する。
ガシャンッと食器が騒々しい音を立てた。


「そ、そうじゃないと、僕が困るんです。仕事は何より、君目当てのお客さんをガッカリさせてしまうでしょう。子供達も淋しがるし、それに……っ」


何だかいろいろ言って誤魔化そうとしたけれど、が黙っているから、アレンは彼女から皿をひったくった。


「手伝わなくていいです。団服が濡れてしまう」
「アレンじゃあるまいし。作業用のエプロンしてるよ」
「いいから!君はゴミでも出してきて」


アレンはとにかくと離れたかったので、ぶっきらぼうな口調でそう促す。
指差した先にはの料理の失敗作やら、破壊した調理具やらの残骸が大量に詰め込まれたゴミ箱があった。
あまりに不穏なオーラを放っているから、一般人は近づかないのが身のためだろう。
はそちらに視線をやって、何だか独り言みたいに呟いた。


「…………やっぱり夜通し歩いて帰ってこようかな」
!」
「わかってるよ」


ぴしゃりと叱られて、は吐息のように微笑んだ。


「でも、がんばることは許して。私だって……早く帰ってきたいもの」
「…………………」
「用事を済ませたら、お土産買い占めてすぐさまリターンよ!」
「お土産……?」


アレンがきょとんと聞き返すと、が鼻先に指を突きつけてきた。
不敵な笑顔が“覚悟しろ”と語っている。
彼女は喧嘩を売るように言い放った。


「隣町の名産品をたーんと買ってきて、アレンを満腹死させてやるんだから!」


アレンは驚いて目を見張った。
は踵を返しながら続ける。


「あんたなんて、せいぜい嬉しさに悶え苦しめばいいわ!!」


そうしてゴミ袋を両手に持つと、颯爽と裏口から出て行く。
アレンは呆然と金髪の後ろ姿を見送った。
投げられた言葉はまるで捨て台詞のようで。
その内容に思わず呆れの吐息が漏れた。


「ばか。そんなお金どこにあるんですか……」


けれど呟く唇は、確かに微笑みが刻まれていた。
そしてこう思う。




お土産なんかいらないよ。
だってもう、何だか胸がいっぱいなんだ。

























黒衣の少女は扉を開けて店の裏側へと出た。
両手にいくつゴミ袋を持っているから、結構な手間になりそうだ。
とにかく全部外に出そうと一つ一つ運んでゆく。
面倒な作業ではあるが、の口元は笑みの形に緩んでいた。


ここ最近、アレンの自分への態度が変わった気がする。
気遣いとは少し違う。
けれど、何だか……。


アレンが優しい人間だということはだってとっくに了解していた。
しかし何故だか自分に対してだけは、それを隠したがっている様子だったのだ。
おかげでどうにも嫌われている気がしてならなかった。
親切なのが本分ではあるけれど、無理にそうしてくれているのではないかと思っていたのだ。
別に今だって開けっぴろげに優しくなったわけではない。
それでも確実に、何かが、少しずつ変わっている気がする。


そうして気がつけば、は彼に撫でられた自分の前髪に触れていた。
ハッと我に返ってそのまま額をひっぱたく。
かなりイイ音がして痛みに涙が滲んだ。


(ダメダメ!甘えるなっ)


もっと己を律しなければ。
泣いてしまったことで、全てがなし崩しに弱くなっていくようだ。
そんなことは許されない。
もう二度と、泣くものか。
もう二度と、誰にも涙を見せるものか。
はそう思って胸に拳を当てた。


(強くなるって誓ったんだから。クロス元帥に……、グローリア先生に)


それを叶えることこそ“”の存在意義だ。
甘えを殺すように首を振る。
は口元を引き締めると、素早く作業に戻った。
ゴミ袋を全部外に運び出し、バケツに放り込もうと蓋に手をかける。
その時、背後に人が立った気配がした。


「あれ?もしかしてナイスタイミング?」


どこかで聞いたことのある声だった。
誰だったろうと思っては振り返る。
そして、


「………………」


絶句した。
まじまじとその人物を凝視する。
ちょっと信じられなくて固まる。
の見つめる先で、その人物はにやりとした。


「ちょうど外に出ているなんてな。これで呼び出す手間が省けた」


それからに微笑みかける。


「久しぶり、お嬢さん」


そう告げる唇には煙草が咥えられている。
相変わらずヨレヨレの服。
クセの強い黒髪をかきあげる手まで汚れている。
無精ヒゲが散った人相はほとんど見えない。




その、ビン底メガネのせいで。




以前とまったく同じいでたちで、彼はそこにいた。
ただひとつ違っていたのは小脇に抱えられた華やかさ。
彼は何故だか白い薔薇の花束を手にしていたのだ。
ビン底メガネは驚くに明るく言った。


「今日はデートに誘いに来たんだ。プレゼントを持ってな」


そうして薔薇の花束を振ってみせる。
なるほど、客として来たわけではないから、わざわざ裏に回ってきたらしい。
そう悟ったところで、ようやくは硬直から解き放たれた。
目の前の事態を受けて、震える片手で口元を覆う。
頬を薄紅に染め、瞳には涙が浮かんだ。


「うそ……」


感動した調子で呟けば、ビン底メガネは目をぱちくりさせた。


「お嬢さん?」
「そんな……、信じられない」
「いやいやオレの方が吃驚だって……」


ビン底メガネは思わずを眺め回した。
顔を紅潮させ、胸を押さえているその様子は、恥らう乙女そのものだ。
そのあまりに予想外の反応に戸惑いを隠せない。
そして正直な口元のにやけも隠せない。


「そんなに喜んでもらえるなんてな」
「ええ、感動です。まさかと思いましたよ……」


は潤んだ瞳で、ぐっと両拳を握った。
そして、


「薔薇の花束抱えてデートのお誘い……、そんなお約束なことをしてくれちゃう男性がまだこの世に存在していただなんて!!」


興奮した調子でそんなことを言い放った。
表情も声の調子も感極まっているようだ。
けれどその内容はいただけない。
ビン底メガネはニヤニヤ笑いを凍らせた。


「え……?なに?そんなところに感動?」
「もう大感激ですよ!超レトロー!」
「レトロとか言われた!!」
「うわー、すごいなぁ。絶滅危惧種じゃないですかっ」
「そう思うならもう少し優しくしてくれ!!」


珍しそうに、嬉しそうに見つめられて、ビン底メガネは情けない声をあげる。
はきょとんとした。
小首を傾げて訊く。


「やさしく?」
「そう。優しく」
「保護するんですか?」
「いいな。それ」


ビン底メガネは何とか笑みを取り戻すと、身軽にの前まで歩み寄った。
あまりに無遠慮に近づいてくるから金の瞳を瞬かせる。
男が影になるから少し後退しようとして、ふいに手首を掴まれた。
そのまま掌を掬い取られる。


「どうか、傷つけずに保護してもらいたいものだな。オレの心を」


気を取り直すかのようにビン底メガネが言った。
二人の指先が絡む。
男のそれは大きく、を捕らえて離さない。
そして彼は身をかがめると、の手の甲にキスをした。
添えられた唇が、低く、甘く囁く。


「誘いを受けてくれる?お嬢さん」


温かな吐息が皮膚を撫でていった。
はしばらく黙ってビン底メガネを見上げていた。
けれど男が調子に乗って「嬉しくて声も出ない?」とか言ったところで、口を開いた。


「その手」
「ん?」
「私の手。ゴミを触ったまま、洗ってないんですけど」


普通に告げた途端、ビン底メガネはぽろりとの手を取り落とした。
はそれを取り戻して、キスをされた甲を見えないように服の後ろで拭う。
顔には冗談めかした笑みを浮かべた。


「嘘ですよ。直接は触っていませんし、ゴミ袋は清潔ですから」
「…………お嬢さん」


ビン底メガネは眉を下げて唸った。
非難の視線を受けて、はもう一度にこりとする。
それから彼に背を向けてゴミ捨ての作業に戻った。


「イーズ君たちはどうしたんです?」
「………先に行ってもらった」
「ええ?何でまた」
「女を口説くのに子連れはないだろ」
「………………」
「少しは本気だって信じてもらえた?」
「私も本気だったんですけどね。あの子をお嫁さんにしたいって」
「誤魔化すなよ、お嬢さん」


からかうように呼ばれて、は肩を落とした。
ゴミバケツに三つ目の袋を詰め込みながら言う。


「ごめんなさい。……お誘いはお断りさせていただきます」
「理由を聞こうか」
「私、今から隣町に行くんです」
「へぇ?何をしに?」


楽しそうに問われて、は背を向けたまま答える。


「ちょっと、国際電話をかけに」
「誰に?」
「……家族に、です」
「お嬢さん、まさか家出人?」
「いえ。ただ、ここで働いていることを伝えてないので。今、どこで、何をしているか……、きちんと知らせないといけないんですよ」
「………………“知らせないといけない”、ねぇ」


そこでふいに男が言葉の調子を変えた。
含みのある囁きに、は違和感を覚える。
彼の声は、こんなのだっただろうか。
けれどよく考える間もなく、ビン底メガネが疑問を投げてきた。


「それは義務?」
「え……?」
「お嬢さんの言い方は、そう聞こえるよ」


は手の動きを止めた。
バケツの上に屈めていた身を起こし、ゆっくりと背後を振り返る。
風が吹いて団服の裾を揺らした。
散った金髪の向こうに、男を見る。
彼は肩をすくめて続けた。


「“家族”と呼ぶには少し変な感じだな」
「…………、どこかでしょう」
「お嬢さんの口調も表情もさ。妙に固い。まるで少しの遅れも甘えも許されないみたいだ。どうにも“家族”への報告に義務感を持っているように見える」
「………………」


何だろう、この人。
当てずっぽうな口調のくせに、その内容は鋭い。
男を見つめてそう思った。
が教団への連絡を急いているのは、ブックマンのためだった。
あの老人はきっともうすぐ動き出してしまう。
行方のわからない自分を捜し出し、そして、


中央庁から保護するために。


は常に中央庁から監視されていた。
特製のゴーレムを持たされ、四六時中見張られているのだ。
そこにはやはり、己の過去を全て隠蔽したという特殊な境遇が絡んでいる。
ラビなどはそれをひどく嫌がっているが、は何て良心的な対応だろうと思っていた。
本来ならば監査官を貼り付けられてもおかしくない。
それを免れたのは、エクソシストという職業上、イノセンスを持たない者を傍に置くわけにはいかないからだ。
アクマに襲われたときに足手まといになる可能性が高いと、あのルベリエ長官にコムイが強く訴え、グローリアが無理矢理その意見を押し通した。
ただし交換条件があった。
監視がゴーレムだけでは心もとない。
そこでもしが姿をくらました場合、全国家機関を使って徹底的に探し出し、問答無用で拘束。
二度と逃げられないよう拷問を加え、場合によっては監禁・幽閉する。
そう厳しく言い渡された。
はそれを当たり前のように承諾した。
おかげでコムイに苦渋の表情をされ、グローリアの機嫌を大いに損ねた。
彼女には後で思い切り殴られた覚えがある。
何を怒られているのかわからなくて、とりあえずルベリエ長官絡みということで「リナリーには絶対に言わないで下さい」と頼むと、ますますボカスカやられた。
そこで名乗り出たのがブックマンだ。
”の保護兼監視を行っているのは教団だけではなく、“ブックマン”もである。
その行方が知れなくなったとき、中央庁より早く動くと約束してくれた。
は“庇護される者”として、彼に深々と頭を下げたのだった。


そういったわけで、ビン底メガネが指摘した通り、にとって今回の報告は一切の遅れも甘えも許されないものだった。
“家族”に連絡を取るというよりは、中央庁に「教団から逃げ出すつもりはない」という意思表明をするのである。
”はエクソシストであり、それ以外では生きられない。
教団から離れることは許されない。
もしそうしようとするならば、ルベリエが明言した通り、容赦なく拘束・監禁されるだろう。
いや、果たしてそれだけですむものか……。
暗い予想が脳裏をかすめて、は思わず瞳を伏せた。
するとふいにこう問われた。




「そこは本当に、お前の居場所なのか?」




胸を掴まれたみたいになって、顔を振り上げる。
男の瞳が見えた。
陽の加減のせいだろうか。
わずかに紫がかって見える双眸が、じっとを捉えていた。


「そこに居ると、自分の意思で選んだのか?」
「………………」
「例えば誰かに強制されたり、他の選択肢を根こそぎ奪い取られたり」
「…………、なにを……」
「そうやって今の立ち居地に無理やり追いやられただけなんじゃないのか?」
「どうしてそんなことを言うんです」


は男の問いに違和感を強くして低く返した。
彼の言は妙に自分の心の内を突いてくる。
警戒を覚える。
けれどビン底メガネは構わなかった。


「思いつめたような顔で俯くのは、お嬢さんには似合わないよ」


それだけなのかと、は瞬いた。
見つめ返す視線は緩めなかったが、伸びてきた男の手を邪険にすることもなかった。
ビン底メガネの指先がの頬に触れる。


「そんな顔でいるようじゃ、そこはお前の本当の居場所じゃねぇよ」
「いいえ。私の居場所です」
「そうかな?それじゃあお嬢さんは、“家族”とやらの勝手な都合に縛られて、言い分を聞くだけの操り人形だ」
「そんなこと」


ない、と言い切ることはできなかった。
男の言葉はどれも客観的事実から遠くない。
確実にを揺さぶってくる。
さらに追い詰めるように告げられた。


「お前に、そんな生き方は似合わないよ」


じゃあ、どう生きろというのだろう。
は思わず苦笑を浮かべた。
男を馬鹿にしたわけではなかった。
ただ自分を嘲笑したのだ。
こんな、出逢ったばかりの人間にすら似合わないと言われる生き方しかできない、己自身を。
男はその笑みを見て目を細めた。
もう一度、の頬をさらりと撫でる。
そうして少し手を引くと、その掌を改めて差し出した。


「なぁ、お嬢さん」
「はい。何でしょう」
「………………オレの手を取らないか?」


は目を見張った。
しばらく無言で男を見返し、わずかに顔を動かして、それに視線を下ろす。
大きな掌。
差し出された、その意味は。


「オレが、お前を縛るあらゆるしがらみを断ち切ってやる」
「………………」
「お前を捕らえるすべての枷をぶっ壊してやる」
「…………、そんなことが」
「できるさ。“オレ”ならな」


男の声は、まるで降り積もるようだった。
それはの心に触れて溶けてゆく。
ゆっくりと染み込んで何かを溶解させてゆく。


「だから……自由に生きてみろよ。もっと、お前らしく」


男の手が確かにを求めていた。
彼は待ちきれないかのように、の掌を奪い取り、強く握る。
低く囁く声。


「……………あんな浮かない顔より、そんなお前が見てみたくなった」


それはどうやら独り言のようだった。
わずかな興奮と期待を込めて男は微笑む。
ゆっくりと、艶やかに。
その指先がを絡め取った。




「オレが、お前をさらってやるよ。お嬢さん」




そして彼は目を閉じた。
近づいてくる唇。
それは契約のキス。
まるで奪い去る楽しみを込めて、男はの手に口づけをする。




その直前で、は自分のそれを取り戻した。




「ごめんなさい」


はにっこりと、けれど決して無理にではなく微笑んだ。
驚きに目を開いた男に告げる。
その瞳を真っ直ぐに見つめて。


「さらわれるのは趣味じゃないの」


もう二度と奪われないように、は体の後ろで手を組んだ。


「お姫さま役は性に合いません。そんなのは世の中の可愛い女性達に任せちゃいます」
「……お嬢さん、鏡見たことある?」


男は冗談だと笑い飛ばそうとしたが、はさせなかった。
表情は変えずに瞳を強める。
そうすれば男の動きが止まった。


「今の立ち位置に不満があるのなら、自分で何とかするのが筋でしょう?」
「………………」
「私は、自分の居場所は自分で決めます。…………自分で決めたんです。誰にも操作されない、私だけの意思で」


そう決めたのは8年前。
殺してくれという懇願が受け入れられなかった日。
ただひたすらに苦しいこの世界から逃げようとした“私”が誓ったこと。
まだ、死ねない。
果たさなければならないことが残っている。
けれどこんな醜い自分では生きていけない。
死ねない。生きられない。死ぬわけにはいかない。生きなければ。
だったら私は、“私”を殺して別の人間になろう。
そうして生まれたのが“”だった。
生きることを決め、“”になった瞬間には、もうそれを選び取っていたのだ。
エクソシストとして戦うことを。


それは確固たる“私”の意思。――――――――“”の意思だ。


「私は今まで一度だって、“家族”に何かを強制されたことはありません」


はっきりとそう言い切る。
教団がに下した決断、命令、その何もかもが真っ当な理由からだった。
自分が生きていくにはそれだけの制約が必要だったのだ。
向こうがどういう考えでいるのかは知らない。
事情を知る者に「上層部はお前を飼い殺しにするつもりだ」と忠告されたこともある。
けれどそれが何だというのだろう。
生存を許された。
使命を果たす時間をもらえた。
それだけでもう充分だった。


操り人形だなんて、冗談じゃない。
もしそうだとしても、糸を望んだのは自分だ。
ならばそれを操ることができるのも自分だけだ。
私は踊る。
この世界で、ただひたすらに破壊を舞い続ける。


”という最後の命を終える日まで。


そうして金髪の少女は微笑んだ。
今度こそ本当に心からの笑みを浮かべた。


「それに、…………私は“家族”が大好きなんですよ」


告げる唇、そこから溢れ出すのは、戦うためだけに生きていくつもりだったあの場所で見つけた大切な想い。


優しいリナリー。
親友のラビ。
神田は最高の戦友。
ブックマン、ミランダ、クロウリー、マリ、デイシャ、スーマンたちはエクソシストとしての仲間だ。
コムイやリーバー、時には仕事を押し付けてくる科学班のみんな。
教団での生活を支えてくれるジェリーたち総合管理班。
文句を言いながらも怪我を治してくれるラスティを筆頭とする、医療班。
可愛い女の子もたくさんいる探索隊ファインダー
いろいろとお世話になった元帥達。


そして憧れのクロス。
尊敬するグローリア。


皆みんな、“”の家族だった。
心から愛する、大切な人々だった。


「“家族”のいるホームが、私の居場所です」


”になって手に入れたもの。
失ったものもたくさんあるけれど、それでも得たものの素晴らしさは変わりはしない。
いつだって弱い私を強くしてくれた。
絶望に殺されてしまいそうになる私の、たったひとつの希望だった。
一度失くした“家族”。
また手に入れた“家族”。
守るよ。
今度こそ、絶対に。


それが“私”の生きる理由。
この命を形造る、確かな光なのだから。


「お誘いはお断りします」


は胸の内を温かくしたまま告げた。
どうやら自分はらしくもなく不安に急いていたようだ。
早く報告をしなければいけないと、そればかりに焦っていたようだ。
けれど男の言葉が心に降り積もり、浸透して、忘れていたことを思い出した。
いや、忘れていたわけではない。
あまりに当たり前すぎて思い出すこともできなかったのだ。


私は“”。
今までも、これからも、ずっとエクソシストとして生きてゆく。
そしてその道は、決して孤独ではなかった。


変な義務感など捨て、ただ自分の言葉を伝えに行こう。
心配をかけたことを謝ろう。




愛する“家族”たちに。




それを心に浮かび上がらせてくれた男に、は暖かな笑顔を向けた。


「ごめんなさい。……ありがとう」


男はそれを見て完全に硬直した。
ビン底メガネの奥で限界まで目を見張り、の表情を見つめる。
全身に感じる感情は何だろう。
それは全てを納得させてしまうような、純粋な温もり満ちていた。
けれど頭では理解できないと眉を寄せる。


はとびっきりの笑顔のまま、男に背を向けて作業に戻った。
この男に揺さぶられた臆病な自分はもういなかった。
二度とあんな悪夢は見ないだろう。
涙を流すなんて不様な姿も晒さない。
ようやく本当の“”を取り戻せた気がした。
は笑顔のままゴミ捨てを続けた。
心が弾むようだ。
あぁ、早くこれを終らせて隣町に行きたい。
今すぐみんなの声が聞きたかった。


「…………っ、はは」


しばらくの後、ふいに背後で低い笑い声がした。
は作業中だったので、それを振り返ることはできなかった。
頭の後ろで男が言う。


「なるほど……。やっぱり簡単にはいかないわけか」


大きな愉快さと少しの悔しさを交えた、その口調。
吐息のように続けられる。


「だったら最初の予定通り、無理矢理さらっていくしかないな」
「………………」


は思わず手を止めて、視線だけで男を返り見た。
その表情は不敵に笑んでいる。
どうやら彼はまだデートを諦めていないらしい。
は困ったなぁと、バレないように小さく舌を出す。
さて、どうやってかわそうか。
少し考えようと思ってまた前を向いた。
もうひとつゴミ袋を掴み取り、間を繋ぐように訊く。


「……そういえば、どうして花束は白い薔薇なんですか?」


バケツにぐいぐい突っ込みながら首を傾けた。


「お約束なら、赤い薔薇ですよ」
「ああ、それな。もちろんわかってるさ。だから白を選んだんだ」
「はい?」


わけのわからない言葉を受けては眉をひそめた。
それにしてもこのゴミ袋、上手く入らない。
ますます眉を寄せる。
えいやっとばかりに上からぶん殴った。


「そう……」


続く男の声はとても楽しそうだ。
それはまるで、歌でも歌うように。




「今からお前の血で、真っ赤に染めようと思って」




何の予感もなく。
何の前触れもなく。
それは唐突に始まった。




その瞬間、の背後で凄まじい殺気が迸った。




渦巻き爆発し、一気に全感覚を突き破る。
体が粟立つより早くは振り返った。
それは完璧に反射的な行動だった。
ロザリオを発動させ、イノセンスを展開。
高速の刃を撃ち放つ。
黒く煌めく光刃は大気を引き千切り分解させながら、世界に破壊を突き立てる。
それからようやく視界に男を捉えた。
二人の間に撒き散らされる鮮やかな色彩。
その嗅ぎ慣れた酸臭に、は戦慄した。


(人間……!?)


空中を染める鮮血に思考が止まり、体が硬直する。
咄嗟の判断で攻撃してしまった。
あれだけの殺気を放たれたのだ。
自分に襲い掛かるそれは、アクマしかいないと思っていたのに。


けれど男は平然とそこに立っていた。
むしろにやりと唇を吊り上げる。
一瞬の隙、瞬きにも満たない刹那、男はの途切れた警戒をうまく掴み取ったのだ。


己の血を目くらましに、手にしていた花束での左側面を打った。
柔らかい花弁は凶器にはならないが、確実に意識はそちらに向く。
は持ち前の反射神経で防御。
けれど人間を傷つけたという衝撃が邪魔をして、続いた右からの攻撃が避けられない。
何とか飛びずさったけれど、わずかに距離が足りなかったようだ。
バケツが蹴倒され、ゴミ袋が転がり出た。
男と少女の間を埋める白の破片。
薔薇の花びらが舞う。
男は抗うを力任せに引き寄せた。
そして片手を振り上げ鋭く打ち下ろす。
狙うは首筋。
少女の細いそこに凶器となった手が容赦なく叩き込まれた。
途端には息を詰める。
視界が黒く塗りつぶされてゆく。
体が命令を受けなくなった。
無理にイノセンスを操ったが、放った刃はどこに飛んでいったのだろう。
見えなかった。
もう、何も見えなかった。


そうしては完全に意識を失った。


がくりと崩れ落ちた少女を優しく受け止める男の腕。


最後に彼女が放った刃が背後の木に突き刺さり、その幹を見るも無惨にえぐり飛ばした。
響く音を立てて大木が倒れる。
男はの華奢な体を抱いて、冷や汗の滲んだ笑顔を浮かべた。


「……おっかないお嬢さんだな」


それから眼前の光景より恐ろしい事態になっている、自分の首筋をちょっと撫でる。
本当の感嘆交じりに呟いた。


「殺気を放った途端、攻撃してくるところが頚動脈かよ」


それは確実に急所だった。
人間どころかアクマでも即死を余儀なくされる、致命傷だ。
けれど男はたいして痛そうな素振りもせず、切り裂かれて滝のように血を流す自分のそこをもうひと撫でする。
指先が通った後に、傷口はなかった。
深く裂かれた形跡は綺麗に消え去り、皮膚からも服からも血の色が消える。
まるで何事もなかったかのように全てが元通りとなった。


「さすがは“黒葬こくそう戦姫せんき”。けれど、相手が悪い」


言葉と同時に男は姿を変えた。
その容貌が一変する。
後ろに流した癖のある黒髪に、褐色の肌。
仕立てのいい上着とズボンで身を飾り、足元には磨き上げられた靴。
シルクハットを指先でちょいと押し上げる。
ビン底メガネは華麗に変身を遂げると、両手で抱いたに囁いた。


「超人のノアには効かないぜ」


けれど本来の姿に戻ったティキ・ミックは苦く笑う。
さすがにあそこまで的確な攻撃してくるとは思っていなかったのだ。
もし彼女が自分を“普通の人間”だと勘違いをし、殺すことを躊躇してくれなかったら、かなり危なかった気がする。
まぁ、それはどっちもどっちだ。
ティキだって殺そうと思えば殺せた。
今もは無防備に自分の胸へと寄りかかっている。
ティキは腕を返して彼女の体の向きを変えた。
仰向けになった顔はわずかに歪んでいる。
寄せられた眉は己の失態を死ぬほど悔いているからだろうか。
何だかそれがまざまざと想像できて、ティキは愉快な気持ちになった。
喉の奥でくつくつ笑う。


それから散らしてしまった花束の代わりに、胸元から白い薔薇取り出した。
とっておきの一輪だ。
それをの耳上に差し入れる。
金髪に純白の花が咲き、互いの美しさを際立てた。


ティキはそのままの頭を撫でていたが、ふと思いついて、そのサイドテールに手をかける。
優しく引っ張って髪をほどいた。
ぱさりと光のように広がる金糸。
長くすべらかに指を辿る。


「へぇ……」


呟いて、ティキは思わずを引き寄せた。


「下ろしてたほうが好みだな」


もっとよく眺めようと、彼女の体を横抱きに抱え上げた。
ちょうどその時だった。


突然、傍にあった扉が内側から開け放たれた。


「さっきからうるさいですよ、


聞こえてきたのは少年の声。
ティキは吃驚して少し固まる。
呆れた調子で言葉は続く。


「何を一人で暴れて………」


そこで目が合った。
ティキは数回まばたきをした。
対する白髪の少年は、瞳を限界まで見開いた。
刹那の硬直。
奇妙な沈黙が、アレンとティキ、そして彼に抱きかかえられたの間をゆっくりと通過していった。


「お前ッ!!」


先に反応したのはアレンのほうだった。
疾風のように飛び出してくる。
その左手のイノセンスは当然のように発動されていた。


「おっかないのがもう一人か」


ティキは肩をすくめつつ呟く。
そして跳躍。
大きく後方飛翔して、隣家の屋根に飛び乗った。
一瞬前まで立っていた場所にアレンの左手が突き刺さる。
爆砕した地面、土埃を振り払って、彼は素早くティキを仰ぎ見た。


「……っ、ノア!!」
「ああ、久しぶりだな。少年」


敵意を込めて唸るアレンに、ティキは満面の笑みを向けた。
再会を祝して手を振ってやりたいが両方とも塞がっているから無理だ。
その理由がアレンは大変気に食わなかったらしい。
同時にそれはティキの優越だった。


アレンはティキに横抱きにされているを見て、顔色を失った。
肩を震わせて浅い呼吸を繰り返す。
何か怒鳴るかと思ったが、強く噛み締められた唇から出てくる声はない。
だからティキはの体にまわした腕に力を込めて、彼女を抱きしめた。
意識を失ったその体は抵抗もなく引き寄せられる。
のけぞり晒された優美な首筋、白い顎裏に横目で視線を落とす。
揺れる長い金髪を心底綺麗だと思った。
ティキはに目を奪われたまま、アレンに言う。


「わざわざ悪いな」
「何を……っ」
「オレとお嬢さんのデートを見送りにきてくれたんだろ?」
「……ふざけるな」


怒声を無理に押さえつけたかのような口調だった。
ティキがちらりと見てみると、強い銀灰色の瞳と出会う。
視線に力があれば殺されていたかもしれない。
それほどまでにティキを鋭く見据えて、アレンは言い放った。


を離せ」


ティキはその様子にきょとんとして、小さく呟く。


「何だ。嫌いなフリはやめたのか」


そう認識すればますます愉快になってきた。
口の端を吊り上げて微笑む。
満面の笑みでティキは片腕での体を引き上げ、小さな頭を自分の肩にもたせかけた。
指先でちょっと仰向かせる。
そのまま滑らかな首筋を辿った。


「だったら少年も招待してやるよ。観客がいるのも悪くない。むしろ見られているほうが燃えるかもな」


ティキはちらりとアレンに視線を落とすと、に顔を近付けた。
頭に頬を寄せ前髪に触れる。
それから彼女の額にキスをした。
きつく拳を握りこむアレンに告げる。


「さぁ、暗黒の儀式の始まりだ」


それは、開幕の宣言。


「神に見捨てられた教会で、金の少女は全てをさらけ出す。…………オレは彼女の秘密を暴くよ」


放たれた言葉に衝撃と憤りを覚えて、アレンは咄嗟に何も返せない様子だった。
ティキは喉を震わせて笑う。


「誰にも見せたことのない表情をさせて、誰にも聞かせたことのない声をあげさせる。追い詰めて追い詰めて、その胸の内を晒させてやる。来ればお前も、お嬢さんの真っ白な素肌を知れるよ。少年」
「………………」
「まぁ見ているだけは辛いかもしれないけどな」
「お前……っ」


見下ろす先の少年の怒り、その純粋さに笑いが止まらない。
ティキは屋根の上で足を踏みかえて続けた。


「悪いがこのお嬢さん相手に遊ぶつもりはない。本気でやらせてもらうぜ」


吐息だけで長年の執着を囁いた。
戦うばかりでは好奇が疼く。
あの千年公ですら追い求めた、彼女の真実を暴こう。
今度こそ。
そして、そうできることが震えるほどの歓喜でもあった。


「オレの底の底まで突き堕とす。二度と這い上がれないくらい深く……」


もう一度額に唇を押し付け、そのまま瞼まで滑らせる。
閉じられた瞳が再び開くことはないだろう。
あの美しい金色を思い出して、ティキは囁いた。
長年募らせてきた、彼女へのありったけの感情を込めて。




「お前の全てを壊してやるよ。…………オレの、お嬢さん」




愛おしさに細められた瞳。
触れた唇がわずかに震えた。
嗚呼、逸る心が止められない。


青空を背景に、美貌の少女を抱きかかえたティキは、屋根の上から地上を見下ろした。
そこには自分の激情を目の当たりにして、瞳を凍らせた少年が立ち尽くしている。
ティキはにっこりと微笑んだ。


「じゃあな、少年。できたらまた会おうぜ」
「………っつ!?」
「オレがお嬢さんを殺り終る前に……な」
「待て……ッ!!」


アレンは咄嗟に反応したが、ティキの元に行くことはできなかった。
跳躍する寸前で、唐突に出現した黒に全身を襲われたのだ。
それは漆黒の蝶……食人ゴーレムの大群だった。
アレンは即座に発動した左手でティーズたちを引き裂き、振り捨てる。
纏わりつく暗黒を打ち払えば、視界が晴れた。
澄み切った青い空が見えた。



先刻までティキとがいた屋根の上にはただ風が吹いていた。



二人の姿はどこにもない。
いない。
もう、どこにも。


(いない……っ)


アレンは暗黒の真ん中で、闇に連れ去られた少女の名を叫んだ。




……!」










ティキ始動です。
彼はヒロインの過去(秘密)に興味津々の様子。おかげで妙に迫ってくれています。
言動がいちいちエロっぽくなるのは、私の彼に対する先入観のせいです。ご了承ください。(爆)
今回ヒロインはお姫さまポジションなんですけど、どうにも攫われてくれなさそうで困りました。
なので強制的に意識不明に。
彼女は人間を傷つけるという行為にトラウマがあるので、隙ができてしまったんですね〜。

次回はティキがS全開です。彼のファンの方々に怒られるんじゃないかとビクビクしています。(汗)
流血や痛い表現を含みますのでご注意ください。