黒い雫が心に落ちる。
白を汚して灰色に染まる。
まるで蹴散らされた雪のよう。
こんなんじゃもう、誰も見向きもしないね?


本当は“あなた”、笑ってなんかいなかったんだよね?






● 追憶ユールタイド 10 ●






どこに行けばいいのかわからなかった。
どこに居ればいいのかもわからなかった。
アレンはクリスマスの大通りを走りながらひたすらに願う。
今すぐ迎えに来てほしい。
俺はここにいるんだって、大声で叫べばいいんだろうか?
そうすれば見つけてくれるんだろうか?
なぁ、応えてくれよ……、


「マナ!?」


後ろから腕を掴まれたから、アレンは反射的にその名を呼んだ。
そうであってほしいという願望が口から飛び出した。
おかげで振り返った先に、凍りついた金色の瞳を見つけて、傷ついた気持ちになる。


「「…………………………」」


しばらく無言で見つめ合った。
アレンもも息を切らしていたから、二人の間に交わされるのは白い呼吸だけだった。
金色の氷が溶けないのを見て、アレンは自分の瞳こそ熱を失っているのだと知る。
が少しだけ唇を動かした。


「手」
「………………………」
「冷たくなってる」


彼女はそう呟いて屈み込むと、自分の手袋を取ってアレンにはめた。
サイズが大きくてすぐにでも脱げそうだ。
左手も同じようにされそうになったところで、その白い指先を乱暴に振り払ってやった。


「触るな」


低く呻いた。
そうしないと声が震えるだろうとわかっていた。
我慢して虚勢を張ってきたけれど、もう限界だ。
の顔を見たくなくて背中を向ける。独りで勝手に歩き出す。


二人のいる場所は公園だった。
そう広くもないから人も少ない。
通りを突っ切るのに便利ではあるが、この場所自体に用がある者は皆無だろう。
雪をかぶったベンチがひとつ、ぽつんと寂しげに存在しているだけだ。


「待って」


後ろからが言う。
そこに笑顔の気配がないのが救いだった。


「一人で行かないで」
「俺はお前といたくない」
「……、私は一緒にいたいのよ」
「知らねぇよ。じゃあな」
「アレン!」


名前を呼ばれて思わず足を止めた。
何か怒鳴ってやろうと思って勢いよく振り返ったけれど、がひどい顔をしていたので無理だった。
何だよ、今更。
どれだけ殴ったって蹴ったって、逃げ出したって、“大嫌い”だと言ったって、お前は笑っていたじゃないか。
平気な素振りを見せていたじゃないか。
俺が呼ぶなって言ったそのときから、「アレン」って口にしなくなったじゃないか。


「……俺の」


はぁっ、と息を吐き出してから続ける。


「俺を、“アレン”って呼んでいいのは、マナだけだ」
「……………………………」
「俺は、お前の、“アレン”じゃないよ」
「……あなたがそう言うのならそうかもしれない」


はアレンを見つめたまま、ぼんやりとそこに立っていた。
瞳だけに力があった。
視線に捕らえられる。


「あなたは私を知らない。私のことなんて、ちっとも好きじゃない。体が小さくなって、記憶が巻き戻って、“私”をひとつ残らず失ってしまったんでしょう。でも」


彼女の体の両側に力なく垂れ下がっていた拳が、強く強く握りしめられた。
あんなにきつく固めては爪が皮膚に食い込むだろうに。
それでもは震えを殺すように力を込め続けた。


「どれだけあなたを、“アレン”とは別に扱ってあげたくても、私は“私”のままだもの。全部覚えてる。ぜんぶよ」


不意にアレンは気が付いた。
ああ、何だ、お前。


「フォークを持つときの癖とか、怒ったときの眉の寄せかたとか、笑ってくれたときの顔とか、ぜんぶぜんぶ」


俺と同じだったんだな。


「私のすきなアレンのままだもの」


不安と恐怖に泣いてしまいたかったんだな。
アレンは思う。
涙の滲んだ美しい双眸を見て、ようやくに感じていた苛立ちの正体を知った。
無理をして笑っていたからだ。
彼女が自分の弱さを全部呑みこんで、他人のためだけに微笑んでいたからだ。
マナと、同じように。
そんなやつに好きだなんて言われてみろ。
吐き気がする。


「きらいとか、触るなとか」


泣けばいいのに。
はそれでも、瞳に溜めた涙を、決して流さなかった。


「言わないで」
「じゃあ、言ってみろよ!!」


自分よりも子供のような、傷ついた様子のを直視できなくて、アレンはきつく目を閉じながら怒鳴った。
お前が。
お前みたいな奴が、俺なんかを好きだって言うのなら。


「マナはどこだ」


言葉は氷片のようだった。
アレンの心を内側から切り裂いて、喉と舌と唇から血を流させ、へと突き刺さる。
その胸の上に、深々と。


「マナはどこにいる。どうして俺の傍にいないんだ。ピエロを辞めたんならそれでいいよ。エクソシストなんてわけがわからないものをやってるのも構わない。けれど」


駄目だ、涙が出る。
ここで泣いたりしたら認めてしまうことになるのに。
予想しているの応えを、受け入れてしまうことになるのに。


「マナがいないのは嫌だ」


アレンは黒い予感を殺して、純白の問いを口にした。


「マナは、どこ?」


返ってきたのは沈黙だった。
何も言わないのか。何も言えないのか。
すべての返答を凍りつかせてしまったのか。
アレンは強い恐怖と嘔吐感に堪え切れなくなって、顔を振り上げながら叫んだ。


「応えろよ!!」
「亡くなったわ」


静かな、声だった。
雪のようだと思った。
天から音もなく落ちてくる、清らかで柔らかい、立花のような囁きだった。


「マナ・ウォーカーは、すでに故人よ」


アレンはに氷を投げつけて、彼女は自分に雪を降らせる。
白い華は見惚れるほどに美しく、ゆっくりと下降して、皮膚に触れるまでその冷たさを悟らせない。
全ての感覚を奪うほど、慈悲深いそのぬくもりを。


「5年前のクリスマスの話だと」
「…………………………」
「そう、あなたに聞いた。私は」
「……っつ」


異様なほど遅々としたスピードで、胸の奥底まで突き刺さった刃が、呼吸の仕方を綺麗に忘れさせてくれた。
苦しい。酸素が足りない。
意識が朦朧として、まともに思考が働かない。
ぐにゃりと視界が歪んだから、もうその場に立っていることも出来なくて、アレンは雪を蹴りつけた。
が名前を呼ぶ。
「アレン」と呼ぶ。
マナの声と重なって聞こえたから、堪らなく恐ろしくなって、掴まれた手を咄嗟に振り抜いた。
視界の端に金髪が流れる。
雪が舞いあがって頬にかかる。
醜い血色の左手が、を突き倒した。
ああ、今度こそ、その綺麗な顔に俺への嫌悪が浮かび上がるだろう。
アレンはそれを見たくなくて、もう何もかも視界に入れたくなくて、をその場に残して公園から出て行った。


もう一度「アレン」と呼ばれた。
泣き出しそうな、声だった。