凍った眼。
唇から雪の結晶。
私の吐息はぬくもりを失った。
もう、あなたを暖めることはできないとしても。
● 追憶ユールタイド 3 ●
「あぁ、アレねぇ。改良したんだよ」
我らがエクソシスト総司令官、コムイ・リーはあっさりと言った。
そう、言いやがったのだ。
いつぞやの神田たちのように体が縮んでしまったアレンを、は大急ぎで科学班研究室に運び込んだのだけれど、事の元凶がこれでは話にならない。
否、話がおかしいではないか。
「なんで!改良!するんですか!!」
一言一言区切りながら問い詰めると、コムイはしばらく黙りこんだ。
ソファーの上に寝かされた、小さな小さなアレンを見やる。
意識を失ったままの彼を眺めながら、ずずっと音をたててコーヒーを啜った。
「だってね?この前ラビたちが縮んだじゃない?すごく可愛かったじゃない?だから」
「……だから?」
「リナリーにも被せてあげたら幸せだなぁ、って!」
「幸せなのはあなたの脳みそだけですよ、このおとぼけ室長がー!!」
予想通りの返答には頭を抱えてコムイのデスクに突っ伏した。
のんびりとコーヒーを飲んでいる彼とは対照的なまでに絶望してしまう。
壮絶なシスコンぶりに頭痛を覚えながらも、は呻くように言う。
「もう本当にがっかりですよ、何なんですかコム室長は。口を開けばリナリーリナリーリナリーってそればかり。たまには期待を裏切ってくれてもいいんですよ……?」
「え、じゃあちゃんも被ってみる?」
「なんで!」
「小さくなった君がリナリーと並べば完璧じゃないか!」
「完璧になに?完璧に変態?シスコンだけでも充分なのにロリコンまで追加する気ですか?大した倒錯者っぷりですね!」
力説するコムイに捨て鉢な笑顔を返して、は床へとへたりこんだ。
緩慢な動きでアレンを振り返る。
両脇に神田とラビが腰かけるソファーで、白髪の少年がぐっすりと眠り込んでいた。
本来ならば三人並ぶだけで窮屈なそこに、楽々と横になっている姿にため息がもれる。
がコムイに説明を求めている間に、ラビが手早く着替えさせてくれたらしく、アレンはブックマンの中華服に身を包んでいた。
さすがは一度縮んでいるだけはある。対応が素早い。
金の縁取りのある浅葱色の上着と、足首のしまった黒のズボンを履いた姿は、小ささも相まって見慣れないにもほどがあった。
「……つまり」
苦い顔をした神田が言う。
「そこのシスコン馬鹿が改良した薬を、リーバーとジョニーが没収した。それをうっかりクリスマスの飾りと一緒くたにしちまったってわけか」
「徹夜明けだからって、とんでもない間違いさね」
「ごめん!本当にごめんって!!」
「この通りだ、!許してくれ!!」
ラビが呆れた視線を投げかけると、ジョニーとリーバーが土下座の勢いで頭を下げてきた。
それも何故だかに向かってだ。
「いや、あの、私にも責任はありますし。謝るのなら本人に……」
「本人相手だったら謝罪の前に殺られちまうかもしれないだろ!頼む!お前から取り成してくれ!!」
そういうわけか。
横に振っていた手を止めて、は半眼でリーバーを見やった。
言いたいことはわからないでもないが、どうなんだろうそれ。
必死過ぎて何ともいえない気分になる。
まぁ確かに、目を覚ましたアレンが示す感情は、“怒り”以外にはないだろうけれど。
「う……」
そこで可愛らしい呻き声が聞こえてきた。
皆は揃ってアレンに注目する。
苦しげに眉が寄せられて、両目の瞼が震えた。
「アレン!」
リーバーたちに背を押されるまでもなく、は彼の傍まで飛んでいった。
ソファーの縁に手をかけて覗き込む。
見つめる先でゆっくりと、銀色の双眸が開いた。
「ああ、よかった。気が付いた」
改良されたせいなのか、前回とは違って被害者が意識不明になっていたので、さすがに気を揉んでしまった。
ラビも心配そうに身を乗り出す。
神田はちらりと視線を送っただけだった。
「おはようさー、アレン」
「ふん、あれくらい避けろよ。ノロモヤシ」
「本当にごめんね。大丈夫?」
も加わって口々に言ったけれど、アレンはぼんやりしたままで応えない。
ソファーに肘をついて身を起こす。
小さな手で、これまた小さな額を押さえた。
「……っつ、頭いたい」
「ええ?薬の影響かな?」
「くすり……?」
「若返りの薬をかぶったのよ、アレン」
「……………………………」
「見た目的に6歳くらいになっちゃってる」
「8歳だ」
「……?そうなの?」
「そうだ。見たらわかるだろ。どこに目ぇつけてんだ」
「ご、ごめん?」
イライラした口調で言われたので、は首を傾げながらも謝った。
とにかくアレンは具合が悪そうだ。
これは医療室に運んだほうがいいかなと思って、は彼の背中を撫でた。
「一応ラスティ班長に看てもらおう。立てる?」
「……おい」
「おんぶしてあげよっか?それともお姫さま抱っこ?」
「お前、何なんだよ」
「ほら、アレン。行こ……」
そこでは言葉の続きを失った。
手が痛い。
アレンの肩にかけたそれを、彼自身によって振り払われたのだ。
しかも、驚くほど乱暴に。
一瞬で真っ赤になった掌。
痛い。けれどもう片方の手で押さえることも思いつかずに、呆然とアレンを見つめる。
頬の傷と額のペンタクルはそのままに、幼い顔になった彼は、その満面に不快感を滲ませていた。
そして、を睨みつけて吐き捨てる。
「気安く触んなよ。このブス」
神田が目を見開いた。
ラビがぽかんと口を開けた。
ジョニーとリーバーが硬直し、その後ろでコムイが思い出したとばかりに手を打つ。
「ああ、そうそう」
科学者の無責任な発言が、の鼓膜に突き刺さる。
「その改良型若返り薬はね、外見だけじゃなく、記憶も巻き戻してしまうんだよ」
つまり、と前置きしてから続ける。
「今のアレンくんは、見た目も精神も幼児化してしまっているってわけさ」
どういうわけだ。
は胸中で叫んだけれど、口から出てきたのは吐息だけだった。
嘆息を禁じ得ない。
だって、こんな。
「アレンに!この英国紳士に!ブスって言われた!すごい新鮮なんだけど!!」
思わず感動して叫ぶと、その場にいる全員がずっこけた。
は胸の前で手を組み合わせて笑う。
アレンに微笑みかける。
返ってくるのが冷たい眼差しだけでも、決して笑顔を消さなかった。
痛さなんか忘れるくらいに両手を握りしめ続けた。
「つまり」
ソファーの上でふんぞり返った姿勢で、小さなアレンは呻くように言う。
具合のほうは良くなったようだが、心情的にはまだまだみたいだ。
ぐるりと黒の教団の面々を見渡すと、猜疑に満ちた眼差しを送る。
「俺は本当はもう15歳で、サーカスをとっくに辞めていて、代わりにエクソシストってやつをやっているって?」
「そうそう」
コムイが頷くけれど調子が軽すぎた。
コーヒーを飲みながらなのもいけない。
取り成すようにラビが口を挟んだ。
「ほら鏡見てみろさ!顔の傷と髪の色は、オマエの知ってる“アレン”じゃないはずだろ?」
「うわ、何だこれ……」
差し出された手鏡に映る自分を見て、アレンは嫌そうに表情を歪めた。
その白髪に神田が手を置く。
「とっとと納得しろ、モヤシ。お前は薬の影響で体と記憶が退化しちまっただけだ」
「はぁ?」
「そして今すぐ謝罪しろ」
神田はそのままぎりぎりと幼い少年を締め上げた。
銀灰色の瞳に涙が滲んでも決して力を緩めない。
何故ならしょせんは“アレン”相手だからだ。
「バカ女に“ブス”と言ったことを謝れ」
「……本人喜んでるけど?」
痛みを表に出さないように、アレンはふんっと鼻で笑った。
神田はその頭の向う側を見やる。
そこには小さなアレンを後ろから抱きかかえて、うっとりと目を閉じているが居た。
「アレンってよくそんなに思いつくなってくらい罵倒のレパートリーを揃えているけど、女子の外見に関しては絶対にけなしてこないんだよね……」
ほぅ……と吐き出されたため息は、奇妙なくらい悩ましげだった。
「それが!ブスだって!これたぶんもう一生聞けない台詞だよ……!」
「ほら、喜んでるじゃん!気持ち悪いくらい喜んでるじゃん!!」
「だから謝れっつてんだよ!さっきから俺の鳥肌がとまらねぇだろうが!!」
「ティム!ねぇ、今の録音した?永久保存版にしてね、毎晩寝る前に聞くから」
「ほ、本当に何なんだコイツ……!頭おかしいんじゃねぇの!?」
「おかしいんだよ!お前のせいでますますおかしくなってんだよ!!」
アレンを責めていたはずの神田だけれど、最後には二人で手を取り合って青くなっていた。
そのままそぅっと避難しようとする少年を、は背中からがっちりと抱きしめる。
「はぁ……本当にレアだったなぁ。アレン、もっと言ってもいいんだよ?」
「は、離せ!お前キモいんだよ!!」
「き、きも……!?新しいワードいただきましたー!」
「うわぁああ、怖い!この女マジで怖い!!」
「そんなアレンくんに絶望的なお知らせだよー」
そうして事の元凶であるコムイが、悪びれなく発した言葉に、アレンは完全硬直してしまう。
「その頭がおかしくて人格が恐ろしい女の子、君の“恋人”だからね」
沈黙。
果てしない沈黙。
「あーあ。言っちまった」とラビは顔を覆い、神田は明後日の方向に目を逸らした。
本人は聞いているのかいないのかわからない。
相変わらず陶酔したような表情でアレンを抱きしめている。
その腕の中で、幼い少年は蒼白になっていた。
「……………………………おい」
「ん?何だい、アレンくん」
「大人が嘘ついていいのかよ」
「うん、嘘じゃないからね」
「…………………………………………、じゃあ何だ。15歳の俺は、これが」
恐怖に満ちた顔で、を振り返る。
「こんなのが好きだってのか……?」
「いやもうぞっこんラブだったよ?」
コムイが笑顔で頷いた瞬間、アレンはの手に噛みついた。
腕は外れなかったけれど、咄嗟のことに緩んだそこから、懸命に抜け出して床に降り立つ。
アレンは驚いた様子のを睨みつけた。
「嘘だ!ぜーんぶ嘘だ!俺がもう15歳だってのも!サーカスを辞めたっていうのも!エクソシストだなんてわけのわからないことをやっているってのも!!」
よりも細くなった指先を、びしりとその鼻先に突き付ける。
「こんな異常な女が好きだっていうのも!何もかも嘘っぱちだ!!」
確信に満ちた声で言い放って、アレンはその場にいる全員を睥睨した。
「お前ら俺をどうする気だ。勝手に髪と顔をこんなにしやがって……!」
「アレン」
「その名前を呼ぶな!!」
が腰を浮かせると、叩き伏せるように遮られた。
向けられた瞳は怒りと恐怖に光っている。そして、混乱。
「お前らの思い通りになってたまるか!!」
アレンはそう言い捨てると、一目散に部屋から飛び出していった。
何となく後を追うのは躊躇われた。
ラビが脱力したように呟く。
「……そりゃあ、見ず知らずの大人に囲まれて、薬のせいで小さくなっちまったんだーとか言われてもな。8歳の頭じゃワケわかんないよな……」
「それにしても、モヤシがあそこまで反抗的とはな。口も悪いし、手も早い」
「まるで神田くんみたいだったねぇ」
コムイの相槌に神田は睨みをきかせたけれど、必死のジョニーになだめられた。
彼の舌打ちとリーバーの嘆息が重なる。
「まさか、にまで、あんな態度を取るとはな……」
弱り切った風に言われて、は少し微笑んだ。
誰も肩を落としたまま動き出そうとしないので、一足先に軽やかな動作で立ち上がる。
「体だけじゃなくて、記憶も戻ってしまったのなら、当然のことじゃないですか」
それから皆を振り返って、いつものように強気の笑顔を浮かべた。
「さぁて。かわいいアレンを捕まえてきます。滅多に聞けない言葉で罵ってもらうために!」
冗談めかしてそう言った。
扉に掛けた手。アレンの歯形が残っている。
早く消えないかなと思って、は廊下に駆け出した。
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