一通目。
ラズベリーソースのチーズケーキ。
酸っぱいお小言に隠された甘さ。
私は好きよ、あなたはどう?
● 追憶ユールタイド 5 ●
ぐーっ、と腹の虫が抗議の声をあげた。
ひたすら廊下を走り続けていたアレンは、自分の腹部を恨めしげに見下ろす。
お腹が空いたのだ。それはもう、本当に。
アレンは8歳という年齢のわりによく食べるほうだったし、此処で目が覚めるまでのことは記憶が曖昧だから、前にいつ食事を摂ったのかわからない。
だから空腹になるのも当然のことかもしれなかった。
けれど、この状況で。普段と同じように。腹の虫が鳴くとは。
緊張感のない自分に呆れながらも、アレンは敏感に食べ物の匂いを嗅ぎ取っていた。
くんくんと鼻を鳴らして、そちらへと足を向ける。
まるで釣られるようにやってきたそこは、どうやら食堂のようだった。
握りしめた手紙を見やる。
先刻会ったミランダという名の女性は、この手紙に書いてある“アレンの大好きな場所”は食堂だと言っていたっけ。
図らずもそこに辿り着いてしまったアレンは、より強い食べ物の匂いのするほうへふらふらと寄っていった。
カウンターに手をかけて、精一杯背伸びをする。
そうやって何とか厨房を覗き込もうとしていたら、不意に背後から抱き上げられた。
「見える?」
普通にそう訊いてきたのは、声からしてだった。
即座にアレンは暴れ出す。
足裏で何度か蹴飛ばしてやったけれど、彼女は痛そうな素振りすら見せなかった。
「降ろせ!抱き上げるな!!」
「ふふん、甘いよアレン。背後と私にはせいぜい気をつけることね!」
「何をやってるんですか、キミは」
ぎゃあぎゃあ言い合っていたら、カウンター越しに呆れの吐息を浴びせられた。
の金髪を引っ掴みながら振り返ると、三つ編みの青年が彼女を見ていた。
続けて彼は細い目を限界まで見開いてアレンを注視する。
「……ウォーカー?」
「リンク。これにはちょっとわけがあってね」
が眉を下げて微笑んだ。
片手を振って言う間にアレンは全力で暴れてカウンターの上に着地する。
するとすぐさま叱責が飛んできた。
「土足でそんなところにあがるものではありません!」
今度はリンクに抱き上げられる。
けれどアレンが抵抗する前に、あっさりと床に降ろされた。
厨房に侵入することに成功したアレンは、じぃっとリンクという名の青年を見上げる。
見覚えのない顔だ。
特徴的なのは額のホクロと二又にわかれた眉毛。
髪の色はおいしそうな蜂蜜色で、と並べば随分と淡く見えた。
「……あんたが、リンク?」
アレンが疑わしそうに問いかければ、その物言いに違和感があったのか、リンクはを見やった。
彼女はカウンターに頬杖をついて頷いてみせる。
リンクは深いため息をついた。
「まぁ、キミがいいのなら、私はいいんですよ」
アレンには理解不能な言葉を吐いて、リンクはその手から例の手紙を受け取った。
そこに書かれていた文面を見て眉をしかめる。
「誰が『おかん属性最強の、世話焼き監査官』ですか」
ぶつくさ言いながら箱を取り出してくると、手紙の代わりにというようにアレンへと押しつける。
そのとき彼の指先に白い粉がついていることに気が付いた。
恐らく砂糖だ。
どうやらリンクはこの厨房でお菓子を作っていたようだった。
「はい、どうぞ」
手渡されたのは両手に乗るくらいの白い箱だった。
首を傾げつつ開けてみる。
「うわぁ」
アレンは思わず感嘆の声を漏らした。
何故なら箱の中から出てきたのが、美味しそうなチーズケーキだったからだ。
「ほら」
横手からがフォークを渡してくれた。
それは持ち手のところに大きな穴が開いた、奇妙なデザインのものだったけれど、アレンは気にせず受け取って猛然とケーキを食べ始めた。
だってお腹が空いていたのだ。
しかもこのチーズケーキ、うまい。
スポンジはしっとりと口当たりがよく、チーズ特有のしつこさが皆無だ。
さらに上にかかっているラズベリーソースが絶品だった。
見た目も鮮やかな紅が、柔らかな黄色に映えている。
「おいしい……!」
「それはよかった」
感動しながら言うと、リンクが応えた。
けれど何故だか他人事のような口ぶりだった。
このケーキを作ったのは彼ではないのだろうか?
あっという間にチーズケーキを平らげたアレンは、続けてリンクに包みを手渡されたので瞬いた。
今度は何だろう。
薄緑のラッピングに赤いリボンが結ばれている。
「こちらは私からです。ケーキは取られてしまいましたからね」
そう言うのを頭上に聞きながら、アレンは包装を解いてみた。
出てきたのは可愛らしい茶色。
粉砂糖やアイシングで細かく飾り付けられた、クッキー生地のお菓子の家だった。
「わぁ、すごい!ジンジャーブレッドハウスだ!」
が弾んだ調子で言ったので、掌上の物の正体を知る。
ジンジャーブレッドハウス。
クリスマスの飾りにも使われる、ジンジャークッキーで作られた家型の洋菓子だ。
童話『ヘンゼルとグレーテル』にでてくるお菓子の家のモデルとされているものであって、もちろんアレンも話にしか聞いたことがない。
それが何故だか今、自分の掌に鎮座している。
まるで光り輝くようなお菓子に釘付けになったまま、アレンはリンクへと訊いてみた。
「な、何で俺にこんなものくれるんだよ?」
「誕生日なのでしょう?」
返答はあっさりしたものだった。
アレンは少しの間呆然として、それからゆっくりと視線をあげた。
リンクはやはり当たり前みたいな顔でそこに立っていて、アレンの表情を見ると少し苦笑してみせる。
「先ほどのケーキは、“渡してくれ”と頼まれた物ですが。これは私からのバースデープレゼントです」
そこで彼は膝を折ると、きちんと目を合わせてくれた。
「お誕生日おめでとうございます。ウォーカー」
生真面目に告げられた言葉に唖然とする。
どうして目の前の青年は、俺にそんなことを言うのだろう。
リンクはアレンの反応など気にしていないようで、その実顔を逸らせながらぶつぶつ呟いた。
「別に監査対象を祝ってはならないという規則はありませんからね。これは人としての礼儀です」
早口にそんなことを言うと、今度は胸のポケットから手紙を取り出してきた。
まただ。
同じ白い封筒。同じ銀縁飾り。同じ宛名。
“Dear Allen”。
お菓子の家を手に乗せているので受け取れなくて、どうしようものかともだもだしていたら、が代わりに掌を差し出してくれた。
ジンジャーブレッドハウスを彼女に預かってもらい、急いで手紙の封を切ってみる。
中から出てきた便箋には2の番号がふられていた。
「『二人目。斬った物は人知れず、こんにゃくが斬れないことは人知らず。教団きってのデンジャラス・サムライボーイ』……?」
これまた意味不明だ。
「『ヒント。たぶん鍛練中です。斬り殺されないように気を付けて。』……」
何だか物騒だ。内容的に近づきたくない人物な気がする。
アレンが顔をしかめていると、リンクも同じような表情になっていた。
「次は神田ユウですか。どうしてあんな危険人物まで巻き込むんだか……」
信じられないと首を振る彼とは対照的に、は輝かんばかりの笑顔でジンジャーブレッドハウスを見つめている。
「かわいい!こんなのが作れるなんて、さすがリンクよね」
「褒めたところでキミの分はありませんよ。それはウォーカーのです」
「ちぇ。……ねぇ、アレン。ちょっとだけ」
「だ・め・だ!!」
にこやかな要求を力強く拒否して、アレンはの手からそれを奪い返す。
夢みたいなプレゼント。夢にまで見たお菓子。
嬉しくて楽しくて自然と笑みが零れ落ちる。
一心不乱にお菓子の家を頬張るアレンを見下ろして、はそっと微笑んだ。
「そうやって、誰の前でも素直に笑ってくれればいいのに」
その穏やかな横顔を、リンクが見つめていたことに、何故だかアレンは気が付いてしまった。
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