二通目。
ビターチョコレートケーキ。
あなたは苦い顔をするだろうけれど、本当はわかっているでしょう?
苦味の奥に隠された、優しさを知っているんでしょう?
● 追憶ユールタイド 6 ●
「なぁ、あのリンクってやつ。お前のことが好きなのか?」
食堂から出て次の目的地に向かう途中、アレンはに訊いてみた。
フォークを指先で回しながら隣を見上げる。
そこにきょとんとした顔を発見したから、どうにもアレンはリンクに同情してしまった。
「うん?そりゃあ友達だからね」
「……そうじゃなくてさ」
「好きでいてくれたら嬉しいけどねー」
「鈍い女」
アレンは本人に聞こえないように小さく呟いた。
何だコイツ。頭悪いんじゃないのか。
……いいや、そうじゃない。
ついを責めてしまったけれど、本当ならば悟ってしまったアレンがおかしいのだ。
しかもそれを本人に確認するだなんて。
どうかしている。
「お前のことなんてどうでもいいや」
アレンは一人で首を振ると、一目散に駆け出した。
後ろでが「油断したぁ!」とか叫んでいるけど無視だ。
そもそも自分は彼女から逃げていたのであって、肩を並べて歩いているほうが変なのだから、これは当然の行動だといえる。
握りしめた手には2通目の手紙。
1通目で起こった出来事から考えて、次はここに書かれている人物に会いに行けということなのだろう。
従うべきか。放り出して、逃走するべきか。
返事のようにぐぅとお腹が鳴った。
美味しいチーズケーキも、夢のジンジャーブレッドハウスも、アレンの満足する量ではなかったのである。
アレンは自分にため息をついて、なるようになれと思った。
手紙の通りにしようにも、逃げ出そうにも、道がわからないのだから、とにかく前に進むしかない。
と、そのとき窓の外を何かが横切った。
黒い影だ。
あまりに一瞬だったので、誰だか判別できなかったけれど、アレンはまさかと思って窓辺に駆け寄る。
動きが早い。よく見えない。
探している人ではないかと逸る心が、アレンにガラス戸を開けさせ、窓枠へとよじ登らせた。
身を乗り出して確認してみる。
「うわっ」
そこで手を滑らせた。
体の支えを失って、アレンは前転をしながら転がり落ちる。
地面にしたたか頭を打ち付けてしまった。
「……っつ、くそ!」
悪態をついたのは左手のせいだった。
記憶にある分にはまったく動かなかったそれが、どうしてだか今は普通に機能しているのである。
8歳のアレンとしては、使えないものと思い込んでいる左手を、どう扱ったものかさっぱりわからない。
おかげで窓辺から転落してしまったというわけだ。
それよりさっきの人はどこに!?
アレンはがばりと身を起こすと、急いで辺りを見渡した。
その視界の端を黒髪がかすめる。
あれは……。
そう思ったときにはアレンの上に影がかかり、見上げた先に刃が冷たく光っていた。
(斬られる……!)
避けることなど不可能な鋭い斬撃が、アレンに向かって容赦なく振り下ろされた。
目を閉じることすらできない。
限界まで見開いたそこに、今度は金髪が翻る。
ガキィン……!と腹の底まで響くような剣戟の音。
アレンと刃の間に身を滑り込ませたが、どうやったのかその凶器を弾き返したのだ。
続いた攻撃すら全て防いでみせる。
それでも背後が気になるらしく、強く刀を押し返すと、アレンを抱きかかえて跳躍した。
回避のためとはいえ、そのまま空中側転をされたものだから、こちらとしてはたまったものではない。
振り回されて悲鳴をあげる。
「我慢よ、アレン!」
「できるかぁ!!」
「こらこら、美少年はバク転するのがお仕事でしょうが」
「俺はどこぞのアイドルか!?」
「あはは、歌も歌ってみる?」
「その減らず口、閉じておいたが身のためだぞ」
割って入る声は背後から。
唐突に移動した殺気へと、は振り向きざまに腕を振る。
瞬時に放たれる黒い光。
目がチカチカする。眩しすぎてしっかり見られない。
あまりに美しいから、現実のものかと疑ってしまう。
それは流星のように宙を駆け、一気に襲撃者へと殺到した。
刀がそれを迎撃する。
あらゆる方向に刃を振るわれて、は素早く足を動かした。
体をひねって跳び上がったけれど、図ったかのようにそこを狙われたから、即座に黒光を爆発させて空中で無理やり方向転換。
近くの木の幹を蹴りつける。
後方回転をしながら、地面へと降り立った。
そして口元を覆った。
アレンも同じだ。
つまり、二人そろって舌を噛んでしまったのだ。
「だから口を閉じろっつただろ」
「わ、わざと振り回して噛ませたんでしょ……!」
執拗な攻撃を仕掛けてきた人物へと、は涙の滲んだ瞳を向けた。
アレンも痛みを堪えながら見上げる。
刀を片手にそこに立っていたのは、黒髪の青年だった。
確か一度顔を合わせている。
此処で目を覚ましたときに、同じ部屋に居た人物だ。
「こぶ付きのお前が悪い。そんなガキ、放っておけよ」
冷たく見下ろされてアレンは恐怖と不快感を抱く。
何だよ、こいつ。俺たちを殺そうとした?
「はいはーい。8歳児に本気で斬りかかる、ユウちゃんのほうがガキだと思いまーす」
「お前が相手なら何歳だろうが構わねぇぞ。いつでも殺ってやる」
「何だとありがとう!一生付き合ってもらうからね」
「当たり前だろうが。息の根を止めるまで逃がさねぇよ」
二人は物騒な会話を交わしているけれど、その口元は笑みの形に近かった。
に至っては完璧に笑顔だ。
おかげでアレンは不審げに彼女を見上げざるを得ない。
「……おい」
「ん?なに、アレン」
「なに?じゃねぇだろ!殺人未遂犯と仲良く話している場合かよ!」
「何を今更」
は首を傾けた。
「私を殺そうとしてきた回数でいえば、アレンのほうが多いと思うけど」
その顔がやけに素直で嘘をついているように見えなかったから、アレンとしては口を閉じるしかない。
こちらには構わず休憩に入った神田へと、ゆっくり視線を戻す。
「なぁ」
「何だよ、チビモヤシ」
「この女、マゾなのか?」
「アウトー!それ子供の発言としてアウトー!」
神妙な顔で疑問を口にすれば、が全力で嘆き出したが、そんなのは無視だ。
多少イラついたので蹴りは入れつつ、アレンは神田へと質問を重ねる。
「マゾなんだろ?マゾなんだよな?そうじゃなかったら友達に斬られそうになったってのに、へらへら笑っていられるはずがない」
「そいつが馬鹿笑いしているのは、今に限ったことじゃないがな」
「しかもお前らの言い分を正しいとすると、俺はこいつの恋人なんだろ?日常的に殺しにかかってくる相手と付き合ってるとか、どう考えてもドMの変態女じゃねぇかよ」
「……の肩を持つ気はないが。テメェが言うな、テメェが」
神田が同情の眼差しをに注ぎ、アレンを非難してきたので、ますます腑に落ちない気分になった。
ちなみにはというと、無駄に照れたような顔でわたわたしていた。
「いやあの殺しにかかってくる相手と付き合ってるんじゃなくて、付き合ってる相手が殺しにかかってくるだけなんだよ?」
「……同じだろ、それ」
「順番が逆でしょうが!いじめてくる人が好きなんじゃなくて、好きになった人にいじめられてるの!」
「……………………………」
「つまり、“アレン”だったら何だっていいってことよ!」
「………………………………、マゾのうえにショタコンかよ。マジでキモい」
吐き捨てるように言ってやると、は「また罵られた!」とでれでれし始めたが、アレンとしては顔を逸らすのに必死だった。
言っている内容はちょっと難だったが、それでも真っ直ぐ好意を告げられて、平気なわけではない。
が抱きついてくるから思い切り殴ってやった。
「ショタコンじゃないよ!同じ年頃じゃない」
「どう見たって俺の倍くらいは上だろうが!」
「おしい。表向きは15歳ってことにしてるから私」
「意味わかんねぇよ!とにかく離せ!……っつ、うわ!?」
の頭をべしべし叩いていたら、後ろから乱暴に襟首を掴まれた。
そのまま引きずりあげられる。
気が付けば鋭い瞳が目の前だ。
「テメェ、いい加減にしろよ」
「な……っ、何がだよ……!」
神田の感情が直に伝わってくる。
強い苛立ちだ。
彼は斬りつけるようにアレンを睨みつけた。
「に幼稚な真似してんじゃねぇ」
「だから、俺は子供なんだって……」
「よりにもよって、今日って日に、馬鹿かテメェは」
「……………………はぁ?」
意味がわからなくて眉を寄せると、神田はアレンの体を投げ捨てた。
背中から思い切り地面にぶつかる。
痛い。それを訴える前に、真上から何かを落とされた。
刃か拳か蹴りか、そのどれかだと思ったアレンは身を固くしたけれど、実際に降ってきたのは白い箱だった。
お腹の上で跳ねたそれを、慌てて両手で支える。
「やるよ」
神田が言葉を投げつけてくる。
「どこかの馬鹿が俺に預けていったものだ。甘い匂いが迷惑だから、とっとと引き取れ」
そっと黒髪の青年を見上げた。
神田はアレンの表情を見て、不愉快そうに鼻を鳴らす。
唇には冷笑が滲んでいた。
「今のお前に、食う権利があるとは思えないけどな」
それだけ言い置くと、神田はタオルを肩にかけ、くるりと踵を返した。
背中越しにに告げる。
「そのガキは目障りだ。俺の視界に入らないよう捕まえておけよ」
「言われなくても」
「今度俺の目の届くところに居たら、二人まとめてぶった斬ってやる」
冷たい調子でそこまで言って、不意に神田はこちらを振り返った。
片手に持っていたものを放り投げる。
アレンは咄嗟にキャッチしたけれど、これをどうしろというのだろう。
「あとで捨てておけ」
「……は?」
アレンが疑問の声を漏らしたときには、続けてもうひとつ投げつけられたので、それを受け取ろうと腕を伸ばす。
精いっぱい身を乗り出したいところだが、膝の上には白い箱が乗っているのだ。
体勢は崩せない。
駄目だ、届かない……!
「はい」
アレンの指先のもう少し向こうで、の手がそれを掴んだ。
眼前へと差し出してくれる。
手紙だ。
やはり同じ封筒と宛名。自分の名前が綴られている。
アレンは無言で腕を引っ込めた。
視線をやった先に、もう神田はいなかった。
彼がアレンに投げて寄越したのは、が捕まえてくれた手紙と、蓋付きの紙コップだった。
すでにストローが突き刺さっている。恐らく飲みかけなのだろう。
神田は「捨てておけ」と言っていたから、きっと鍛練後の水分補給に使った余りだ。
「何だよ……、こんなもの」
「中身はなに?」
が訊いてくるけれど、どうでもいいから無視した。
すると彼女はアレンの手からそれを受け取り、蓋を外して紙コップを満たす液体を確認。
それから元の状態に戻すと、笑んだ吐息を漏らした。
「素直じゃないなぁ」
「……?何が」
「いや、素直なのかな。神田にしては」
「だから何がだよ」
アレンがちょっと苛立った声を出すと、が口にストローを突っ込んできた。
あまりに唐突だったので思わず息を吸い込んでしまう。
ついでに紙コップの中身を飲み込んでしまう。
アレンは口元を押さえた。
「……甘い」
予想外に美味しかったので、何度か目を瞬かせる。
がアレンの手を取って紙コップを持たせてくれた。
「マンゴージュースよ。アレンの好きな」
「俺の……?」
「甘くておいしいでしょう?」
そんなものを好物とした覚えはなかったけれど、問いかけには素直に頷いた。
確かに好きな味だったからだ。
「神田は甘いものが嫌いなの。特に体を動かしたあとに、余計に喉が渇いてしまう、果物ジュースは絶対に飲まない」
アレンはが何を言いたいのか悟って、それでも信じることができなくて、沈黙のまま彼女を見上げた。
は自分の膝に頬杖をついて微笑んでいた。
「なにが“捨てておけ”よね?アレンへのプレゼントのくせに」
美しい金色の瞳には、言いようのない感情が溢れていた。
違う。嘘だ。俺はそれを知っている。
何だか見つめていられなくて俯いた。
神田の冷ややかな言動を思えば、どうしてこんなものをくれるのか、アレンにはさっぱり理解できなかった。
それを納得させようとしてくるの笑みが気に喰わない。
アレンは膝の上の白い箱を開けた。
中から出てきたのはチョコレートケーキだった。
色の違う三種類のクリームで飾られた、可愛くて美味しそうな洋菓子。
“今のお前に、食う権利があるとは思えないけどな”
神田に吐きかけられた言葉の意味がわからない。
わからないからこそ、このチョコレートケーキの扱いに困ってしまう。
お腹が空いた。俺は空腹だ。そう、いつだって。
けれど、これは……。
「!?」
またもや唐突に、口の中に突っ込まれた。
がちりとフォークを噛んでしまう。
同時に口内に広がる複雑な味の重なり。チョコレートの香り。
隣に視線を投げると、相変わらずが微笑んでいた。
「子供に戻っても真面目な人ね」
彼女は少しだけ呆れたように、心の底から愛おしそうに、優しい笑顔を浮かべてみせた。
「あなたへの贈り物でしょう。食べる権利なら、それだけで充分なのよ。“アレン”」
呼ばれた名前が。そこに込められた想いが。
アレンの舌を撫でて喉へとなだれ込んできた。
苦くて甘い、チョコレートと共に。
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