波紋と波紋のわずかな隙間。
そこに左手を突っ込んだ。爪を立てて掻き乱した。
黒白の狭間に浮かんだ、貌。
“大嫌いだ”
● 追憶ユールタイド 8 ●
ようやくたどり着いた先は、冷たい水の気配に満ちていた。
何だろう、此処。
ひんやりとした空気が頬を撫でる。
走り続けて上気した肌が一気に落ち着く。
「地下水路……か」
アレンは自分が居る場所にそう検討をつけて、長く続く階段を下っていった。
どろりと深い闇が満ちた空間。それをわずかな照明が、申し訳程度に照らしている。
人の気配はない。
幽霊でも出そうな場所だったけれど、尻込みしている余裕はなかった。
アレンは一番下まで下りていくと、水面に浮ぶ小舟に手をかける。
使い込まれた感はあるが、古くもなく手入れも行き届いていた。
これなら此処から脱出できるだろう。
「よし」
アレンはひとりで頷いて、小舟を使うことに決めた。
乗り込もうと縁に足をかける。
水の上にあるそれはぐらぐらと揺れて、しかもアレンの小さな体では支えきれないから、うまく身を移動させることができない。
悔しい。けれど、負けるもんか!
しばらく必死になっていたら、ふとした弾みに小舟が水面を移動した。
このままでは水に落ちる。
アレンは咄嗟に石段を蹴りつけて、前転をしながら船内へと転がり込んだ。
背面を打ちつけたけれど乗船には成功だ。
痛みに悶えながらも体を起こし、漕ぎ出そうと櫂に手を伸ばす。
その一瞬前、白い指先がそれを掴んだ。
「今の体型じゃ難しいと思うよ」
頭の上から言われる。
アレンは驚きのあまり絶句して、愕然と彼女を見上げた。
薄暗い地下水路でも金色の髪は光源のようだ。
は櫂を構えると、至って普通に小舟を漕ぎ出した。
「力もいるしね。さすがに8歳児には無理かな」
「……………………………」
「さぁて、お客さん!どこに向かいます?水上タクシーが、お望みのところまでお連れしますよー」
「……………………………」
「初乗り1ギニー、といきたいところだけど。お客さん可愛いから出世払いにしてあげる」
「……………………………、おい」
「英国紳士に成長したら薔薇の花束でも持って来て……って、やっぱいいや。私にそんなことするアレン気持ち悪い」
「おい、お前!追ってくるなって言っただろう!!」
何だか勝手にはしゃいで勝手に落ち込むを、アレンは全力で怒鳴りつけた。
けれど彼女は臆することなく平然と返す。
「誰もガキんちょの青いお尻なんか追ってきてませーん」
「はぁ!?」
「だからつまり、あなたは後をついて来られるのが嫌なんでしょ?」
「はぁ……」
「だったら一緒に行こうじゃない!」
「…………………はぁ?」
本気で意味がわからなくて、アレンは調子を変えつつもそれしか返せない。
はせっせと船を漕いでゆく。
あぁ、もう船着き場があんなに遠くになってしまった。
これでは自分が逃げることも、彼女を追い返すこともできない。
アレンが現状に肩を落としていると、が不意に口調を変えた。
「ごめんね。追いかけまわしたりして」
少しだけ、苦笑が浮かぶ。
「そりゃあ、見ず知らずの女に後ろをついてこられたら怖いよね」
「……、今更だな」
「うん。だから、今からは並んで歩こう」
そこで真っ直ぐに見つめられた。
アレンは脱力していた体を強張らせた。
この眼。この眼が神経を騒がせる。
リンクみたいに生真面目でもなく、神田みたいに冷ややかでもなく、ラビみたいに観察するでもない。
ただ強く、胸の奥を突くような。
「“あなた”の行きたいところに行こう」
そうして、その眼のまま、微笑みかけられた。
「それが、“私”の意思よ。……さぁ、あなたの考えを聞かせて。あなたはどこに行きたい?何をしたいの?」
「…………………………、とにかくお前のいないところに行きたい」
アレンはしばらくを睨みつけた後、すげなく言い捨ててやった。
彼女は笑顔のまま返す。
「却下」
「なんで!」
「現実的にものを言おうね、ボク。あなた独りじゃ、教団から出ることもできないでしょ」
「この船を見つけたのは俺だ!」
「でも、漕げない。がんばったとしても最後までは無理かな。この地下水路かなり長いから」
「そ、そんなのやってみなきゃ……!」
「しかも複雑に入り組んでる。迷子になって途中で力尽きても、誰も見つけてくれないよ?船の上で白骨化するのがオチね」
「……………………………」
「ちなみに地上から外に出ようにも、教団は断崖絶壁に建っているから。ノーロープバンジーする覚悟でどうぞ」
「なんってところに住んでるんだよ、お前らは……!」
の発言にだんだんうなだれていっていたアレンは、そこでついに船底へと額を押し付けた。
顔面を覆って呻く。
「頭おかしいだろ、おかしいんだよな、おかしすぎる」
「とにかく、あなたは単独では教団から出られない」
「…………………………」
「つまり、私がいないと、絶対に無理ってことね」
「……最悪の事実を思い知らせてくれてどうもな」
「最悪は“孤立無援”でしょ。ほらほら、ここに完全な味方がいますよー」
「嫌だ。お前だけは嫌だ。なんっか嫌だ」
アレンはうずくまったまま強く首を振った。
しばらくそれを続けていたけれど、が何も言ってこないから、不思議に思って視線をあげる。
彼女はこちらを見ていた。
何だか寂しそうな表情で、アレンを見下ろしていた。
「……なんでかな。“私”はどうやっても、初対面の“アレン”に嫌われてしまうのね」
見たことのない、顔だった。
彼女がそんな風になるとは、何故だか思っていなかった。
今度は胸を掴まれたみたいになる。
どうしたらいいのかわからない。
アレンがを前にすると苛立つのは、度々こんな気持ちに陥れてくるからだ。
「嫌いだよ」
お前の、そういうところが。
「大嫌いだ」
心が締め付けられて苦しいから、顔を歪めて吐き捨てる。
は眉を下げて微笑んだ。
「ごめんね」
どうして謝るんだよ、と怒鳴ってやりたかった。
けれど喉が詰まって声が出ない。
アレンは目を逸らした。それでも微笑の気配は残った。
二人はしばらく無言のまま、静かに船に揺られていた。
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